黄葉 - みる会図書館


検索対象: 萬葉秀歌 下巻
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1. 萬葉秀歌 下巻

しをしを れを聞くとわが心萎々とする、といふのである。後世の歌なら、助詞などが多くて弛むと ころであらうが、そこを緊張せしめつつ、句と句とのあひだに、間隔を置いたりして、端正 で且っ感の深い歌調を全うしてゐる。『心も萎に』は、直ぐ、『白露の置く』に績くのではな く、寧ろ、『蟋蟀鳴く』に關聯してゐるのだが、そこが微妙な手法になってゐる。いづれにし ても、分かりよくて、平凡にならなかった歌である。 もみぢはこよひ やま うか あしひ会の山の黄葉今夜もか浮びゆくらむ山 大件書持 の瀨に〔卷八・一五八七〕 ふみもち 大津書持の歌である。書持は旅人の子で家持の弟に當る。天平十八年に家持が書持の死を 痛んだ歌を作ってゐるから大體その年に死去したのであらう。此一首は天平十年冬、橘宿禰 奈良麿の邸で宴をした時諸人が競うて歌を詠んだ。皆黄葉を内容としてゐるが書持の歌ひ方 が稍趣を異にし、夜なかに川瀬に黄葉の流れてゆく寫象を心に汀べて、『今夜もか汀びゆく らむ』と詠歎してゐる。ほかの人々の歌に比して、技巧の足りない穉拙のやうなところがあ って、何時か私の心を牽いたものだが、今讀んで見ても幾分象徴詩的なところがあっておも やま

2. 萬葉秀歌 下巻

あり、いつのまにか秋になった感じもあり、都の月光と相愛の妻との關係などもあって、さ ういふ哀黻を伴ふのであらうか。此歌とても特に秀歌といふものではないが、不思議に心を ひくのは、寳地の作だからであらう。人麿の歌に、『去年見てし秋の月夜は照らせども相見 し妹はいや年さかる』 ( 卷二・二一一 ) がある。 たかしき やまくれなゐやしほ いろ 竹敷のうへかた山は紅の八入の色になうにけ るかも〔卷十五・三七〇三〕 新羅使 ( 大藏属 ) たかしき いみき 一行が竹敷浦 C 今の竹敷港 ) に碇泊した時の歌が十八首あるその一つで、 判官大藏忌 , 当 まろ 麿の作である。『う、かた山』は上方山で今の城山であらう。『八入の色』は幾度も染めた眞 赤な色といふのである。單純だが、『くれなゐの八人の色』で統一せしめたから、印象鮮明 になって佳作となった。『くれなゐの八の衣朝な朝な穢るとはすれどいや珍しも』 ( 巻十一・ 二六二三 ) がある。この時の十八首の中には、大使阿倍繼麿が、『あしひきの山下ひかる黄葉 まがひ の散りの亂は今日にもあるかも』 ( 三士〇〇 ) 、副使大伴三中が、『竹敷の黄葉を見れば吾妹子 が待たむといひし時ぞ來にける』 ( 三士 0 1) 、大判官壬生字太麻呂が、『竹敷の浦廻の黄葉わ 、 ) へかた 145

3. 萬葉秀歌 下巻

たまつま れ行きて歸り來るまで散りこすなゅめ』 ( 三士 OII) といふ歌を作って居り、對馬娘子、玉槻 やまべ といふ者が、『もみぢ葉の散らふ山邊ゅ榜ぐ船のにほひに愛でて出でて來にけり』 ( 三七〇四 ) といふ歌を作ったりしてゐる。天平八年夏六月、武庫浦を出帆したのが、對馬に來るともう 黄葉が眞赤に見える頃になってゐる。彼等が月光を詠じ黄葉を詠じてゐるのは、單に歌の上 の詩的表現のみでなかったことが分かる。對馬でこの玉槻といふ遊行女婦などは唯一の慰め であったのかも知れない。この一行のある者は歸途に病み、大使秘麿のごときは病歿してゐ る。また新羅との政治的關係も好ましくない切迫した背景もあって注意すべき一聯の歌であ ながっきもみぢ る。歸途に ) 『天雲のたゆたひ來れば九月の黄葉の山もうつろひにけり』 ( 三士一六 ) 。『大件 の御津の泊に船泊てて立田の山を何時か越え往かむ』 ( 三七二一 I) などといふ歌を作って居る・ やまぢこ あしひきの山路越えむとする君を心に持ちて やす 安けくもなし〔卷十五・三七二三〕狹野茅上娘子 なかとみのあそみやかもり さぬのちがみのをとめ 中臣朝臣宅守が、罪を得て越前國に配流された時に、狹野茅上娘子の詠んだ歌である。娘 子の博は審かでないが、宅と深く親んだことは是等一聯の歌を讀めば分かる。目録に藏部 とまり きみこころ

4. 萬葉秀歌 下巻

『二上に』と云って、『二上山に』と云はぬのもこの歌の一特色をなしてゐる。 あさぢいろ よなはり なみしは 吾が門の淺茅色づく吉隱の浪柴の野のもみぢ 作者不詳 散るらし〔卷十・二一九 0 〕 よなはり なみー一はぬ なみしはぬ 『吉隱の浪柴の野』は、大和磯城郡、初瀬町の東方一里にあり、持統天皇もこの浪芝野の あたりに行幸あらせられたことがある。自分の家の門前の淺茅が色づくを見ると、もう浪柴 の野の黄葉が散るだらうと推量するので、かういふ心理の歌が集中なかなか多いが、浪柴の 野は黄葉の美しいので名高かったものの如く、また人の遊樂するところでもあったのであら う。そこでこの聯想も室漠でないのだが、私は、『浪柴の野のもみち散るらし』といふ歌調に 感心したのであった。そして、『もみぢ散るらし』といふ結句の歌は幾つかあるやうな氣が してゐたが、實際當って見ると、この歌一首だけのやうである。 かさ

5. 萬葉秀歌 下巻

もみち 『君が家の黄葉の早く落りにしは時雨の雨に沽れにけらしも』 ( 卷十・二二一七 ) といふ歌があ るが平板でこの歌のやうに直接的なずばりとしたところがない。また『霍公鳥しぬぬに沽れ て』 ( 卷十・一九七士 ) 等の例もあり人間以外の沽れた用例の一つである。結句の『色づきにけ り』といふのは集中になかなか例も多く、『時雨の雨間なくし零れば眞木の葉もあらそひか ねて色づきにけり』 ( 一一一九六 ) もその一例である。 おほさか しぐ 大坂を吾が越え來れば二上にもみぢ流る時 れふ 作者不詳 雨零りつつ〔卷十・二一八五〕 大坂は大和北葛城郡下田村で、大和から河内へ越える坂になってゐる。二上山が南にある から、この坂を越えてゆくと、二上山邊の黄葉が時雨に散ってゐる光景が見えたのである。 『もみぢ葉ながる』の『ながる』は水の流ると同じ語原で、流動することだから、水のほか に、『沫雪ながる』といふやうに雪の降るのにも使ってゐる。併し、水の流るるやうに、幾ら か横ざまに斜に降る意があるのであらう。『天の時雨の流らふ見れば』 ( 卷一・八一 l) 、『ながら ふるつま吹く風の』 ( 卷一・五九 ) を見ても、雨・風にナガルの語を使ってゐることが分かる。 たがみ

6. 萬葉秀歌 下巻

さあ小床に行かう、といふのである。『いざせ』の『いざ』は呼びかける語、『せ』は『爲』 で、この場合は行かうといふことになる。『明日きせざめや』を契沖は、『明日著セザラメャ』 と解いたが、それよりも『明日來せざらめや也。明日來といふは、凡て月日の事を來歴ゆく と言ひて、明日の日の來る事也』といふ略解宣長説 ) の穩常を取るべきであらう。これも 田園民謠で、直接法をしきりに用ゐてゐるのがおもしろく、特に結句の『いざ・せ , 小床に』 といふのはただの七音の中にこれだけ詰めこんで、調子を破らないのは、なかなか旨いもの である。 0 兒もち山若かへるでの黄葉まで寢もと吾は思 ス汝は何どか思ス〔巻十四・三四九四〕東歌 『兄持山』は伊香保温泉からも見える山で、澁川町の北方に聳えてゐる。一首は、あの子 かへで もみぢ 持山の春の楓の若葉が、秋になって黄葉するまでも、お前と一しょに寢ようと思ふが、お前 はどうおもふ、といふので、誇張するといふのは既に親しんでゐる證據でもあり、その親し みが露骨でもあるから、一般化し得る特色を有つのである。『汝は何どか思ふ』と促すところ やまいか もみづ

7. 萬葉秀歌 下巻

けさ かり かすがやま 今朝の朝け雁がね聞きっ春日山もみぢにけら いた し吾がこころ痛し〔卷八・一五一三〕穗積皇子 ほづみのみこ 穗積皇子の御歌二首中の一つで、一首の意は、今日の朝に雁の聲を聞いた、もう春日山は もみち 黄葉したであらうか。身に沁みて心悲しい、といふので、作者の心が雁の聲を聞き黄葉を聯 想しただけでも、心痛むといふ御境涯にあったものと見える。そしてなほ推測すれば但馬皇 女との御關係があったのだから、それを參考するとおのづから解釋出來る點があるのである。 何れにしても、第二句で『雁がね聞きっ』と切り、第四句で『もみちにけらし』と切り、結 句で『吾が心痛し』と切って、ぼつりぼつりとしてゐる歌調はおのづから痛切な心境を暗指 するものである。前の志貴皇子の『石激る垂水の上の』の御歌などと比較すると、その心境 と聲調の差別を明らかに知ることが出來るのである。もう一つの皇子の御歌は、『秋萩は尖 きぬべからし吾が屋戸の淺茅が花の散りぬる見れば』 ( 一五一四 ) といふのである。なほ、近 くにある、但馬皇女の、『言しげき里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを』 ( 一五一五 ) といふ御歌がある。皇女のこの御歌も、穗積皇子のこの御歌と共に讀味ふことが あさ

8. 萬葉秀歌 下巻

が無く不安 : カ無く、子をおもふための願望を、ただその儘に云びあらはし得たのである。併 し、歌調は大平に入ってからの他の歌とも共通し、概して分かりよくなってゐる。 しはけ ありそ みづす 潮氣たっ荒磯にはあれど行く水の過ぎにし妹 かたみ が形見とぞ來し総九・一七九七〕柿本人歌集 『紀伊国にて作れる歌四首』といふ、人麿歌集出の歌があるが、その中の一首である。『行 く水の』は、『過ぎ』に績く枕詞。『過ぐ』は死ぬる事である。一首の意は、潮煙の立っ荒寥 たるこの磯に、亡くなった妻の形見と思って來た、といふのだが、句々緊張して然かも情景 ともに哀感の切なるものがある。この歌は、卷一 ( 四士 ) の人麿作、『眞草苅る荒野にはあれ かたみ ど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ來し』といふのと類似してゐるから、その手法傾向の類似に しほけ よって、此歌も亦人麿作だらうと想像することが出來るであらう。卷二 ( 一六 (l) に、『鹽氣 かを のみ香れる國に』の例がある。 もみちは 他の三首は、『黄葉の過ぎにし子等と携はり遊びし磯を見れば悲しも』 ( 一七九六 ) 、『古に くろうしがた たまっしま 、 ) らみまなご 妹と吾が見しぬばたまの黒牛潟を見ればさぶしも』 ( 一七九八 ) 、『玉津島磯の浦囘の眞砂にも もみちは

9. 萬葉秀歌 下巻

て みちい その 春の苑くれなゐにほふ桃の花した照る道に出 をとめ 大件家持 で立っ槭嬬〔卷十九・四一三九〕 大件家持が、天平勝寶二年三月一日の暮に、春苑の桃李花を見て此歌を作った。『くれなゐ にほふ』は赤い色にき映えてゐること、『した照る道』は美しくいてゐる桃花で、桃樹の 下かげ迄照りかがやくやうに見える、その下かげの道をいふ。『橘のした照る庭に殿立てて やました 、、一かみづき 酒宴いますわが大君かも』 ( 卷十八・四〇五九 ) 、『あしひきの山下ひかる黄葉の散りのまがひは 今日にもあるかも』 ( 卷十五・三七〇〇 ) の例がある。春園に赤い桃花が滿開になってゐて、共 をとめ ニ = ロ・日 處に一人の嬉嬬の立ってゐる趣の歌で、大陸渡來の桃花に應じて、また何となく支那の寺勺 感覺があり、美麗にして濃厚な感じのする歌である。かういふ一の構成があるのだから、 『いで立つをとめ』と名詞止にして、堅く据ゑたのも一つの新エ夫であっただらう。そして かういふ歌風は時代的に漸時に發逹したと考へられるが、家持あたりを中心とした一團の作 卷第十 ' 九、 はる 0 ・義一・も

10. 萬葉秀歌 下巻

鹿待っ君が』 ( 卷七・一二六二 ) 、『八峰には霞たなびき谿べには椿花さき』 ( 卷十九・四一七七 ) 等 よしぬ みくまり の如く、疊まる山のことである。なほ集中、『棘さぶる磐根こごしきみ芳野の水分山を見れ たづさ ばかなしも』 ( 卷七・一一三〇 ) 、『黄葉の過ぎにし子等と携はり遊びし磯を見れば悲しも』 ( 卷 すがた 九・一七九六 ) 、『朝鴉はやくな鳴きそ吾背子が朝けの容儀見れば悲しも』 ( 卷十二・三〇九五 ) 等 の例があるが、家持のには家持の領域があっていい。 うた この歌の近くに、『朝床に聞けば遙けし射水河朝漕ぎしつつ唱ふ船人』 ( 四一五〇 ) といふ歌 がある。この歌はあっさりとしてゐるやうで唯のあっさりでは無い。そして輕浮の氣の無し のは獨り沈嶝の結果に相違ない。 ますらをな ひと 丈夫は名をし立つべし後の代に聞きぐ人も かた 大件家持 語 , りぐがね〔卷十九・四一六五〕 大伴家持作、慕」振一功士之名一歌一首で、山上憶良の歌に追和したと左注のある長歌の反歌 をのこ むな である。憶良の歌といふのは、卷六 ( 九七八 ) の、『士やも室しかるべき萬代に語り繼ぐべき 名は立てすして』といふのであった。憶良の歌は病牀にあって歎いたものだが、家持のは、 のち 172