中学 - みる会図書館


検索対象: 齋藤塾
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1. 齋藤塾

中学砂漠の塾がオアシス 大正十四年一月中学一年三学期に入塾しました。すぐにその班はつぶれ、その後は上の班や 下の班にくつついては続け、級友もつぎつぎと変わり、昭和四年三月中学五年卒業まで続けま に同行してビルマに入り、ウーヌー首相と単独会見したことがある。当時は東西の冷戦が激化 し、インドシナ半島の不安情勢に対し、世界の眼がこの地に集中したので、特に慌しい毎日で あった。 帰国した私は、編集委員に任命され、次いで英字新聞、朝日イ。フニング・ニュース社に出向 し、企画編集長となる。 戦中、戦後の慌しい時期を、微力ながら朝日新聞で報道の任務を務めえたことに、喜びとと もに、ささやかな誇りのようなものを感じている。塾で叩き込まれた " 負けじ魂。とおぼっか ないながらも、多少の英語を身に付けていたためではないかと、塾の生活を懐しく思い返して ( 青山学院大・文ー朝日新聞・編集委員イプニングニュース・企画編集長ー退 ) 根岸 孝 ー 171 ー

2. 齋藤塾

達郎さん ( 故人 ) 、吉林幸男さん、渡辺登さんたちでした。 私は隣りの小部屋に席をあたえられ、拝聴しながら自分の勉強をしていました。 これが藤田敦男先生との出会いでした。 先生は明治四十二年に浜松で生まれ、西小学校を卒業されたのですが、足がお悪くて、軍事 教練や体操がはばをきかす市内の中学校に人学することができず、おじいさんのご尽力で掛川 中学に人学されたそうです。 先生は中学時代を次のように述懐されておいでです。 「掛川中学卒業のとき、恩師の鴇田先生に将来数学をつゞけたいと相談したところ、『これ は私が最も感銘して何度もよみ返した本である。この本を繰り返し読んで数字の真髄にふれな いって高木貞治著新式算術講義をくださった。それを何度も読み返して、今でも宝にし ている」。 余談ですが、書名が算術講義なので小学校の先生たちが競って買われ、内容が連続とか極限 についての証明でとても読み切れるものではなく、神田の古書店にはこの本が堆高く積まれて いたそうです。 もう一つ余談を申しあげます。戦後、密接な交流のあ「た東京工大の名誉教授で理学博士の

3. 齋藤塾

私が中学へ進学するのと父の職場が決まるのが同年になったため、とりあえず祖父母の家で 待機することになり、昭和四年に群馬県立藤岡中学に入学しました。 祖父の家は養蚕農家でした。回顧すると当時は世界的な大恐慌で米の値段も生糸の値段も大 暴落していたのですが、そんなことは露知らず甘い祖父母のもとで遊び暮らしていました。 その間に父の職場が浜松市立高女に決まり私は二学期から浜松に移ることになりました。 何しろ勉強もせずに遊び暮らしていたため、英語が全くわからず、父は驚いて、夏休み中、 齋藤先生に特訓をお願いしたのが塾に入る動機でした。 市立ぎらいの齋藤先生がよく引受けて下さったと今でも有難く思っています。 先生の学問に対する執念が怠けぐせのついた私の目をさましたのか、勉強に身を入れるよう になって、おかげで浜一中の編人試験に合格しました。 しかし、学校の勉強はあまりせず、もつばら大きな英和辞典をひいて塾の英語の勉強に励み ました。 中学一一年になったとき齋藤先生から「藤田先生が数学をみてくださることになったから君も 一緒に聞きなさい」といわれ二階に上がって行きました。 上級生数名が藤田先生の講義をうけていました。一年上の河合広さん、小林進一さん、佐藤

4. 齋藤塾

俣鈴子氏は岩波氏が死ぬまでその秘書役をつとめ、以後編集の責任者となっていた。その岩波 氏が敗戦近い昭和十九年の夜ひそかに齋藤先生を訪ね財政的援助をした。木俣鈴子氏が当時非 合法とされていた共産党と関係があったため、岩波氏も齋藤先生も当局から「アカ」と見られ ていたから夜ひそかに来たのであろう。岩波氏は先生にとって時局を正確に把握するための重 要な情報源であったに違いない。 ここで塾のもう一つの柱である数学の先生についてふれなければならない。私の入塾時 ( 昭 和三年 ) の数学は丸顔のお爺さんの山田先生が教えていた。この先生の教え方は懇切丁寧で定 評があった。ところが私が二年生 ( 昭和四年 ) のある日前触れもなく藤田先生に変わった。 私は一年生の時片山という数学の成績の良い級友から彼の知人で数学の凄くできる人がいる一 からと誘われ、一緒に遊びに鴨江町の自宅を訪ねることになった。その人が「藤田さんーで部 屋には中学で聞いたこともない名前の数学の本や共立社 ( 後の共立出版 ) の高等数学講座が揃 っており、中学の数学にはない高級で新鮮な雰囲気の数学の世界を垣間見る思いがした。当時 中学では初等数学すなわち代数、初等幾何しか教えていなかったので ( ただし五年生では平面 三角法が加わったが人試課目ではなかった ) 「藤田さん」の所で見た「高等数学」が非常に魅 力的であった。以来独りでときどき「藤田さん」を訪ねて数学の話をきき、ときには本を借り 350 ー

5. 齋藤塾

紙にも書き、堅く志を立てました。しかし私の性格から、忽ち破局を迎えそうになりました。 外地のこととて知人もなく、頼るのは自分しかないと決心し、懸命に努力しました。先生に教 えられた勉強法を、塾、中学では実践しなかったのに、中国語に実践しました。そのかいあっ て、数ヶ月にして中国人から「天才だ」とお世辞をいわれるようになり、漢文は最も不得手で したのに、後に中国語で文部省の中等教員資格検定試験に合格しました。 終戦後は資格が中国語ですから、陸に上がった河童同然で、苦労しました。たまたま新制中 学となり、教師が不足しましたから、便法で免許状さえあれば、他教科でも教えられることと なり、中学教師にな「てきたわけです。これとても先生の紹介と友人の協力によ「て就職でき たのです。 塾の怠け者劣等生でありながら、塾の頃からその後ずっと、身内同様に親しくして頂いたの は不思議な縁と感謝しています。現在余生を気楽に読書三昧に暮らせるのも、一重に先生の賜 物と感謝しています。 ( 中学校教諭ー塾経営 )

6. 齋藤塾

故遠山啓先生の回想記に次のような文があります。 「東京府立一中に入学。関東大震災にあい、あぶないところで命びろいをした。三年になっ て幾何の魅力にすっかりとりつかれた。 中学四年で福岡高校理甲に合格。中学の成績が上から四分の三ぐらいで入れたのは今のよう に内申書が無かったためである。 その頃の高校は授業日数の三分の一まで休んでもよかったので、図書館にいり浸ったり、古 本あさりをして手あたり次第本をよんだ。 三年のとき図書館でカジョリの「方程式論」をみつけ、その中の「群の理論」にすっかりと りこにされてしまった。 この群の魅力にとりつかれて大学で数学をやることに決めた。 もし魔女の薬をのんで若がえることができたら、三年間の高校生活をもう一度くり返してみ たいと思う。昆虫が変態するときは、全組織がいちど液体のようになる瞬間があるそうだが、 人間の成長過程にもそういう時があるのではない、。 それがちょうど高校時代にあたるらしい」。 藤田先生の変態期 ? も同じ位いの年令だったと思われます。

7. 齋藤塾

入塾 齋藤塾での勉学生活は、私にと「て青春譜の一齣でもある。時あたかも、戦雲急を告げる時 代であ「た。私が齋藤塾に入「たのは、昭和十一一年。小学校の同級生で仲の良か「た瀬口隼男一 君 ( 彼は中学も同級で、海軍第四期甲種飛行予科練習生出身の特攻隊員、現在鹿児島の田舎に 元気で在住 ) が領家町の平山「ツサージ師のところ〈治療で通「ていた頃、齋藤先生を紹介し てもらったということで、誘われて二人で出掛けた。 田町の塾で一一階の勉強室に通され、齋藤先生から直接面接、入塾のためのテストを受けた。 中学で英語は現在、誰から教わ「ているか ? また、この英文が読めるか ? 読んで見なさ 。どうして塾へ入りたいのか ? 等々矢継ぎ早やに質問されて面喰「た。 その結果は散々で、読み方がまる「きりな「ていない、発音が全然駄目だと酷評であ「た。 また、この一行の文章を書いて見なさいと、本と鉛筆を渡された。その鉛筆たるや、なんと 齋藤塾ありて 藤幸男 ー 211

8. 齋藤塾

間邦子 真の教育 齋藤塾の精神は、物質的な豊かさに溺れることなく、物事の本質をどこまでも追求するとこ ろにあり、厳格な中にも温情を秘めていました。私の身近な人々の内、伯父や叔母、兄弟、 とこなど九人が齋藤塾で学びました。今になって考えてみると両親の、ひいては母の生家の教 育方針は、この齋藤塾の精神に基づいていたように思います。一方、中学や高校でうけた教育 は基礎であったのですが、齋藤塾ではそれを越えて、学問は深く相互に関りあっていることに 目を開かれ、思索の重要性をおぼろげながら知ったのでした。後に大学に進学してから、齋藤 先生のいわんとしていたことがよくわかるようになりましたが、中学、高校生という、若くて 精神がまだ柔軟な時に、齋藤先生に巡り合えたことは、幸連だったと思います。 物が世の中にあふれ、とかく栄達をめざし、権力を手にしたがる風潮の中で、齋藤塾の精神 は、それだけでは摩擦もおこりえるでしようが、やはりあくまで教育、研究の基本であり、と ても貴重なものに思えるのです。 ( お茶水大・理ー東大大学院ー千葉大理学部助手 ) 赤 ー 316 ー

9. 齋藤塾

flenry Ryecroft 3 . H. G. WeIIs, Short 導 s ( 00 of the を or ミ 4 . Hearn, Kwa ミ 0 5 . B. RusseII, The ProbIems of P 一 0S0 で h 6. Emerson, SeIf-reIiance 7. CarIeyIe, 0 Heroes 8. Tennyson, Enoch Arden 9. Tennyson, mor ミ → 0 . Onion, Advanced EngIish Syntax ニ . NesfieId, EngIish Grammar 一 2 . H. Saito, Pre で 0 0 ド などであった。 これらの教材は現在なら大学教養学部程度のものばかりで中学三年や四年の生徒にどれだけ 身についたかは疑問であるが、生徒は必死であった。 今ふりかえってみると、先生はこれらテキストの一つ一つに自身の共鳴と感動と愛情とを懐 いていて、テキストを通して自分の考えと感想とを私たちにぶつけていたのである。それはう っ憤晴らしであり、はけロであり、願望、夢であった。自分が現実の世の中で正当に容れられ ず卑俗と学閥と金、名誉に支配される世間への怒り、闘し 、であり、逆に逃避の安らかな小世界 であったかも知れない。 ・一フィクロット ギッシングの『ヘンリ の手記』は当時中学三年生の私にさえ、この主人公 の「世界ーは先生の一種のあこがれの生活ではないかと感じられた。

10. 齋藤塾

冷たい水で雑布をしぼり、整然と十して本日の清掃は終了。 「バスに乗り遅れるから早く帰りなさい コートは教室で着なさい」。 広く一般教養、そして英語で追求しながらの専門的な分野まで、「学問とは、何ぞや」と問 い直すよい授業でした。一面から見れば、大学の講義より質の高いものでした。私にとっては、 講義よりももっと思いやりをもった先生の人柄がしのばれます。 母に連れられ初めて塾の門をくぐったのは、一年遅れの中学一一年生でした。ト、 / 学校一年生で 母子家庭になった私に、母は、父親でなくては育てられない心のはり金 ( 人間の強さ ) を先生 に求めていたのでしよう。 塾生という面では、いつも立派な人達に囲まれ、自分のカのなさに悩んだときもありました が、英語の語源の勉強は、中学、高校、大学を通してずい分役立ちました。一回、しやもじで たたかれましたが、私個人のことを思ってのお叱りでした。 今、英語とはかけ離れた小学校教員をしていますが、齋藤先生の考え方は、教職の中の随所 に生かされています。雑用に追われ、それを臨機応変に処理して、 しく能力が要求される現在、 てきばきと仕事をしていかなければなりません。私は、いつの間にか、齋藤先生から処理の仕 方を学ぶことができ、感謝の念でいつばいです。 一 293 ー