出来 - みる会図書館


検索対象: 齋藤塾
112件見つかりました。

1. 齋藤塾

つよ ち主で、眼の光りの勁い、恐ろしげな人だ、という印象がある。 あるときは何枚かの錦絵 ( 写楽の大首絵 ) の複製を持参され、「どれでも一枚、お好きなの をお取りなさい」と父礼三の前にさし出された。しばらく迷っていた礼三が、大谷鬼次を所望 すると、「フム、やつばりね」と、莞爾とうなづかれ、これは複製でもかなり出来の良いもの で、このバックの色彩もよく出ています・ : ・ : などと、しばらく雑談して帰られたこともあった。 その″大谷鬼次〃の絵は、礼三の書齋に額装されて掲げられた。後年、筆者はその複製が高見 沢版ではなかったろうかと推測し、先生と浮世絵とのとりあわせが、まことに奇異に想い出さ れるのだが。 それは戦時下での、先生と礼三との、わずかな平穏のひとときだったのであろうか。 齋藤家と小池の家の確執は、古く大正年間にまで遡源する。この件は筆者の関知せぬ事柄で あり、またすべては伝聞に拠るため、それら数々の話は避け、この稿には触れない。 あの、凄じいとしか表現できぬ両家の確執が、先生の屈折した性格をさらに助長し、また礼 三を、世の中三分五厘と見くびってゆく人生へと逐いやった事実だけを書き留めておけば充分 である。晩年の先生の来書にも「過去は過去をして葬らしめよ」と、哀しい祈りに似た文言が あり、そこにすべてが籠められているではないか。

2. 齋藤塾

にぶら下「て、「私の健康法は、昔からこのぶら下がりで、この頃ぶら下がり健康法が流行「 ているようだ。私は自分の肩胛痛を、これで治しました、と言われたりして、仲々帰して頂け 、よゝっこ 0 妹 ( 昭和薬大卒、薬剤師、四十二才 ) や、子供達が塾生であ「た時には、偶に、頌和会に出 席させて頂いた。先生のご訓話は、いつも感銘を受けたことは勿論のことでしたが、ゲスト・ スビーカーによる講演があり、色々と勉強させて頂いた。 二女 ( 浜松医大五年生 ) と長男 ( 昭和大学医学部三年生 ) が塾でお世話になり、おかげ様で 何んとか二人共、浪人もせず医学の道に進むことが出来ました。長男は先生によく叱られて 「お前も出来が悪いが、お前の親父は、もっと出来が悪かった」と云われ、「自分のことより、 お父さんのことを云われるのが恥ずかしか「た」と家に帰「て、こぼすことがありました。先 生と私の父とは、お互いに頑固者同志の由か、何んとなくウマが合「たようで、親しくして頂 妹が塾に入れて頂くため、先生に初めてお会いした時「貴女のお父さんも相当頑固です が、それ以上に私は頑固です」が先生の第一声であ「たそうです。二人が議論し始めると、お 互いにどこまでも譲らず、侃侃諤諤、額に青筋を立てて、喧嘩ではないかと思わせる程の大激 論が普通でありました。その父も、先生の思想に心酔し、尊敬していて、私共に「あんな鴻学 ー 264 ー

3. 齋藤塾

当時の東縛された世相の中で帰郷した兵士を原隊まで送「て行く事は、両親には思いも寄ら なか「たと思います。咄嗟にお答え出来なか「た私に、先生は凡てを呑み込んで居られた様子 でありました。 後日未帰還とな「た他の兄弟と共に、十九年戦病死して了「た長兄にこの日の残された貴重 な時間への温いお心遣いに、深く感謝すると共に此の日の先生のお声が耳に残「て居ります。 ( 浜松市立高ー主婦 ) あれは、たしか敗戦の日から間もない頃であ「たと思います。先生が舞阪の役場に来られ何 やら事務的な手続きを終えてから、私の父に弁天で英語を教えたいと思うが机がなくて困「て いることを話されたそうです。父は何んとか先生に机を作「てやりたいと言い出しました。し かし敗戦当時のことで材料がなかなか手に入りません。たまたま防空壕を作「た時の杉板が多 少残「ていたのでそれを使「たり、表具板を利用したりして、や「と使える程度のものを作り 渡辺 坦 ー 224 ー

4. 齋藤塾

齋藤謙三先生の注射 トの屋上より飛び下り自殺をすると、コンクリートに叩きつけられて死ぬ迄の三秒間 に、人は自己の一生を走馬灯の如く回顧するものであると、曽て聞いたことがある。私の場合 この三秒間に六十四年を顧みる訳であるが、その間に特に一瞬の閃光がひらめき、私の脳裡に 浮かんでくる人物、それは齋藤先生であろう。 私が齋藤英学塾に籍をおいたのは、十四才から三年間であったが、思想的揺籃期に御指導を 受けたということが、特に強い影響を受けることになったと思う。 塾生としては余り出来の良い方ではなく時に内腿に注射の罰を受けた。痣ができて痛かった が、痛さよりも屈辱感の方が辛かった。これも先生の狙いであったろう。元来、怠け者の私は、 「喉元過ぎれば熱さ忘れる」譬え通り、ちよくちよく、「大か、小 か」と先生に言われたもの である。御蔭様で、先生に鍛えられた英語には一生御世話になった次第である。第一外国語の ドイツ語が不得手で、英語で大学を受験した時とか、米国留学、研究生活等の時には、心から 影山芳郎 ー 204 ー

5. 齋藤塾

「ジョージ」というように聞こえましたので、最初はほんとうに「ジョージ」というお名前な のかなと思ったほどでした。 書店で何気なく『東海道の宿水口屋ものがたり』を手にとったのですが、訳者名を見たとき これは、その「ジョージさん」にちがいないと直感し求めたのです。齋藤先生にこのことを申 し上げたときの先生のお顔の動きが実に印象深く思い出されます。先生と襄治さんとは、ちょ っと普通の日本式の親子関係とはちがうなという感じを持っていましたが、このことで、私は やはり齋藤先生も「人の子、人の親」で、襄治さんへの深い愛情を感じました。 そのとき、いろいろな話しが出ましたが、私がものした若干の書物のことなども申し上げ、 すぐにお送りすることをお約東したのですが、丁度改訂にとりかかっていましたので、改訂版 が出来次第お届けしようと勝手にきめていましたところ、それをお届けする前に先生は亡くな られました ( 実は改訂版をお送りして、先生の亡くなられたことを知ったわけでした ) 。まこ とに申し訳のないことでした。 私は、他の方々とはちがい 、終戦後一一十才をこえてから先生のご指導を受けた者です。非常 に個性の強い方で、ときに納得しかねる、承服し難い一面もありましたが、ご自分の信念に忠 実に生きられた一生を送られ、ご満足ではなかったかと思われます。先生の信念のいくぶんな ー 222 ー

6. 齋藤塾

ました。 早速リャカーに積んで先生の宅に持って行きました。その時の先生の笑顔が今も思い出され ます。そんな関係もあって塾に入れていたゞくことが出来ました。それから約一年程教えを受 ける栄に浴することが出来た次第です。 ところが私の場合は既に社会に出ていたこともあって本来の英語の勉強よりも、先生の素晴 らしい豊富な知識と魅力溢れるお話に強い関心を持っ様になってしまいました。 その頃創刊された雑誌『展望』に田辺元の論文が出ていたことがありました。先生もそれを一 読みたいと言われたので持って行きました。数日后先生にお会いしたところ「君、よいところ ( / か引いてあるよ」と笑っておられた。本当に冷汗の出る思いでした。同じ論文を読んで も立場の違いにより、その解釈、それに対する意見が、あまりにも異なることを教えられたの もこの時でした。乂一人で先生のところへ遊びに行くと必ず何か本を出して「これを読みたま え」と言われたものです。質問でもされては大変とばかり一生懸命読みました。なっかしい思 い出です。 先生の部屋には、ところせましと本が積まれており知識欲旺盛な当時の私にとっては圧倒さ れる思いがしたものです。ある時先生から、こんな本を読んでみたまえと言われ中に『賃労働

7. 齋藤塾

: 先生のお デカルト、カント : 之介 : : : 哲学者の話も出た。ソクラテス、ショベンハウエル、 した。くだらない小 かげで僕は読書家になって大学を卒業する迄に蔵書は五千冊以上になって、 説等はなかった。 絵の方の話しも時々出たが、ミケランジロやダビンチ以上の絵描きは此の世に未だ出て来 ないと昔はいわれていたから、今の僕の仕事等見たら、此れは絵ではないと驚かれるであろう。 賢者の先生は、或いはあの世で真の自由の芸術を理解されて、ほゝえんで見守っていてくれる のかも知れないなどと思っている。 いずれにしても僕は大学を卒業以来絵描きになって合計七年間程外国生活をし、日本に帰っ てからも、いつまでも自己の真の画道探求に明け暮れし、先生にはご無沙汰の連続で、おなく なりになるまでお会い出来なかった事を、いつもお詫びしている。 先生は大変きびしく近より難い人の様に多くの人々から思われているようだが、とても心や さしい所があった。 浜一中の四年の頃、大学受験も近づくと、齋藤塾の僕のクラスも一人減り二人去りで次第に 淋しくなった。僕は最後まで居た方だったが、それでも慶応受験は当時で十八人に一人という 激戦だったので受験勉強の総まとめをやるべく、先生の所にお別れのあいさつに行った。その ー 209 ー

8. 齋藤塾

それから十五年ほど後 ( 汚名をそそぐために記すと、すでに私の台所での腕前はたいしたも のになっていた。菓子も焼けば。ハン種も捏ねる。らっきよう、梅干し、各種果実酒も作る。甘 味料を使わずに自然味で甘く漬ける沢庵ときたら皆がもらいたがってくれる、等々 ) 、私は福 島で竹藪のある官舎に住むことになった。四月末になると、孟宗竹がニョキニョキ頭をもたげ 一日に五 てくる。地上に出たての十センチから十五センチの竹の子は柔かくてお吸物にいい。 本も十本も採れるものだから、掘るのに忙しくて、私は腰を痛めたくらいだ。官舎の庭に出て くる筍であるからして、国税を納めている人はだれでも食べる権利がある。私は自ら政府の出一 先機関となって、友人、知人、近隣の納税者達に税金のお返しをして歩いた。そして自然、筍田 好きの先生にも : : : と思ったのである。郵便局に運び込んで速達で出すと、先生は丁寧な着状 を下さった。先生は目下の者にでも必ずすぐお返事を下さる方である。「 : : : しかし、筍とい うのは掘った直後に食べないとおいしくなくてだめなのです : : : 」私はこの時になって初めて、 十五年前、なぜあんなに遅くからでも筍を食べようとおっしやったのか得心したのであった。 先生は自然を愛すると同時に、自然物本来の味を目と舌で感じ味わう方であった。菜の花のお したしを勧められて私がしりごみした時、先生は、「貴女にはまだむりだろうね。春の香りが してとてもおいしいんだよ」と召し上がって満足気であった。おしたしというと思い出すこと

9. 齋藤塾

末っ子だからお姉さんに比べると我がままで意地の悪いところがある。気取り屋で見栄坊で目 から鼻へ抜ける」と弱点をきびしく指摘された。 co さんは、終にハラハラと泣き出した。鳴咽 かしはらく霍し し、こ。ー沈黙があった。ー私はなすこともなく黙していた。「キミ、気嫌をなお して、このハンケチで涙をぬぐい給えー先生は真白いハンカチーフを出されて co さんに渡した。 友は素直にハンカチーフを受け取った。「キミがすましていたからちょっとからかってみたん だ」と先生は微笑して仲直りしようと言われた。そして私に向かって「ボクはこういう人間で す。あなたがどう思われようとも自由です。それでよかったらいらっしゃい」と宣言された。 ショッキングな初対面の一コマであった。 ・ : 先生は私をためされたのかもしれない 理想の女性として謙三先生の最大級の賛辞を受けた竹田房子さんは私にとっては、いつも良 きリーダーで津田英学塾を出て外交官夫人として活躍するのが夢であった。関西曳馬野会が発 足して旧交をあたため、仁名寺に近い御自宅にも伺ったりして、家族ぐるみの交際をした少女 期の思い出話に花を咲かせたが、 階しくも十年程前他界された。 謙三先生にとってもう一人のべアトリイチェは大島秀子さんであった。私はいつも秀子さん のあとを駆けていたが齋藤塾への入学だけは一足早くて、先生に紹介をしたのは私である。先 生はたちまち秀子さんに魅せられて「教養の美」と絶賛された。秀子さんとは市立高女時代三 ー 178 ー

10. 齋藤塾

「それじゃあ辞書で引け、ピー その頃の私には、アルファベットすらよくわからなかったので辞書がひけなくて困った。 そのたびに先生は、「齋藤塾の生徒はみんな出来たんだよー。といやみばかりおっしやってい た。発音の練習のときは、との区別をしろといわれ「エル、アール、エル、アール・ 先生が手本を見せて「わかるだろ ? ちがいがー そんな言葉に私は思った。 ぜんぜん、わからない : 立たされて、質問にこたえるたびに、 「ハ力だな、これもわからんのか、よし、こっちにこい、 うだ、痛いだろ」。 右腕をつねられて本当にこわかった。 おまえはできないからねえ : ときには、先生が顔をしかめ、「こっちに来い、 : こんな出来 ない生徒は、はじめてだ : : : 家の人に九時ごろ私に電話をするように言いなさい」。といわれ、 やめさせられるかと思い、あまりの情けなさにやっとの思いで母に電話をするように頼んだ。 先生は、母に、「勉強をしつかりやるように励ましてあげて下さいーとおっしやったそうだ。 これは齋藤塾で注射というんだ。ど ー 330 ー