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検索対象: 齋藤塾
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1. 齋藤塾

齋藤先生と医学 私は昭和三十四年から昭和四十年頃まで齋藤塾に学んだ。当時の齋藤先生は七十才前後の年 齢であったわけであるが、元気漫刺、迫力満点であった。昭和五十九年の正月に最後にお会い した時にも、私には昔と比べて、気迫的にはさほど衰えていない様に思われた。 先生は従来、御自身の健康には非常に気を使われていた。これが長寿を全うされた所以に違 いよい。医学は彼にとって読書の一大分野であったと思う。学問的興味は当然の事であるが、 御自身の健康維持のための知識という意味もあった。私が昭和四十年名古屋大学医学部に入学 して以来、先生をお訪ねすればいつも御自身の医学的知識を得意げに話されていたのである。 塾生にも医学を志した人は多く、特に京都府立医科大学の藤田教授、順天堂大学の山内教授等 の話をよく聞かされた。私は昭和四十六年に名古屋大学を卒業し、研究者の道を選んだのであ るが、大学院は基礎医学系生化学を学んだ。その当時正月に先生をお訪ねすれば、すぐに生化 学の話が始まるといった具合いであった。昭和五十一一年に生化学から法医学に転向し、二年間 ー 298 ー

2. 齋藤塾

齋藤先生の講義内容は、中学初年級程度から大学程度にまで及ぶ。しかも英語だけではない。 哲学、倫理学、経済学、社会学など、あらゆる分野に及び、何が飛び出してくるのか、予想も できないほどだった。 カント、ヘーゲルの話から、西田、田辺哲学にまで及ぶ。かと思うと次には文学、音楽、絵 画芸術の分野にも言及する。生まれて初めて耳にするアカデミックな講義に、私の幼い頭 ~ 凶は、 一面強烈な刺激を受けると同時に、他面では混乱を招き兼ねないショックにさらされることに , もなる。 私はとうとう「人生とは何か、という深刻な問題に追い込まれることになる。重症か軽症か は別として、若者が一度は通らねばならない関門である。これはおそらく読書や思索だけでは 解けない迷いなのかも知れない。 私は突然齋藤塾をやめて、当時浜松で起こりかけていた消費組合運動に身を投ずることにな る。これでも私は、いろいろのことを学ぶことができたが、そのころ私は、遠商紛争問題にも 卒業生として関係させられていた。遠商が興誠商業に変わる前後、私は乞われて同校の英語科 講師として招かれる。一旦は就職したものの、もともと教師になることが私の目的ではなかっ た。ここで一年余を過ごしたのち、興誠商を辞して上京、青山学院文学部へ入学した。 ー 166 ー

3. 齋藤塾

学 ( 私の場合は浜松一中 ) では絶対に教えられない高度のものを与えられたし、齋藤先生には 何よりも思想があ「た。中学での英語の授業は、あくまでも語学の授業であ「たが、齋藤塾で の英語の授業には思想があり、旧制高等学校や大学の授業に通ずるものがあ「た。この思想に ついては、本書のなかで、私の兄が「齋藤塾の思想」を書いている。単に英語の思想書を読む というだけでなく、日本語の哲学書や文学書を読むことを強く要請され、特に岩波文庫を読む ことを推奨された。公共教育の中学の方では、決してこういうことはなか「た。齋藤塾でのこ うした教養主義は、いわば旧制高校に通ずるものがあり、旧制高校を先取りするものでさえあ 「た。このように、旧制高校やときには大学など、いわば一段上ないし一一段上のレベルのもの を、当時の中学生に与えることによ「て、英語や数学の成績の向上をはか「たもので、単なる 受験術の伝授ではなか「た。同じように受験の成功をめざしたという点で、河合塾とも共通し た一面をも「てはいるが、おそらくその方法は根本的に違「ていただろうと思われる。 齋藤塾は浜松にしかなか「た。しかし齋藤塾の中身は、特に浜松との関連がでてくるという ものではなか「た。その意味では、ローカルでありながら、ローカルではなか「た。しかし全 国広しといえども、小規模な一私塾から、これほど多士済々の人物が輩出した塾というのも珍 ー 114 ー

4. 齋藤塾

そういう実力と指導性を持った稀有の教師が、実は私にとっては、齋藤謙三先生だったので ある。 私の中学生時代は、戦争と病弱のために惨めなものだった。東京の旧制府立中学に入学した 年が、太平洋戦争突人の年で、軍事教練と勤労奉仕に苦しんだ。三年のときに長期病欠し、立 ち直り切れないまま、戦争激化のために、母の実家がある浜松へ疎開した。 浜松一中 ( 現・北高 ) の四年に転人すると、間もなくエ場動員で、これが敗戦の年の繰り上 げ卒業まで続く。その間「なぜ軍隊に志願しないのか」と私たちはよく学校から責められた。 戦後、浜松の焼け跡に立ったとき、私の心も頭の中も空らっぽだった。当然進学には失敗し、 失業した父と同様、浪人した。一生を通じて、あれが私のドン底だったと思う。 そういう暗黒の状態で、私は父の友人の故堀江要平氏に連れられ、齋藤塾の門を叩いたので ある。先生は、私の勉強ぶりについて、二、三質問され急にキッとなって言われた。 「キミ、大学になんか行かなくたっていいんだよ。大学を自分の中に通してしまうんだ」 遠くを見据えるような目で両手を顔の前から下へ、まるで大学を飲み込んでしまうような仕 草をされた。世俗的な権威を排し、一人わが道を行く、自由人の気迫のすさまじさに私は驚い た。そして、自分の眼前に道が明るく開けて行くのを感じたのである。 ー 235 ー

5. 齋藤塾

岩崎鐵志 ンズ・デイケンズ 中学生の子が英語教科書を音読している。これを聞いていると心が疼く。それはわが学習の 拙なさから起こることは知っている。それにもかかわらず、英語への親近感は衰えていない。 なにしろ、大学で文学部教養過程から専門過程へ進む時、国史学科へは外国語不得意者が、 しかも古代史は明晳、近世史は魯鈍の者が専攻すると、揶掵が飛び交っていたくらいである。 この半分はわが気象に適中しているにもかかわらず、英語への苦手意識は薄い。大学では近世 蘭学と藩政史との関係を佐藤昌介教授に就いて勉学した。佐藤教授は三河田原藩家老渡辺崋山 の西洋事情研究について仕事をされていた。 渡辺崋山の誘掖によって藩士村上定平は長崎で高島秋帆に就き、西洋の火器を採用した演練 と兵学を習得し、佐久間象山の注目をあびていた。私は村上定平に焦点を定め、その知見の伝 めてこの先も先生が日頃軽蔑なさっていたような生き方だけはしないことで、先生の弟子でい ( 東京女子大・社会学ー自営業 ) つづけたいと思っております。 ウ ,. ィット・ ヾ、 ー 275 ー

6. 齋藤塾

故遠山啓先生の回想記に次のような文があります。 「東京府立一中に入学。関東大震災にあい、あぶないところで命びろいをした。三年になっ て幾何の魅力にすっかりとりつかれた。 中学四年で福岡高校理甲に合格。中学の成績が上から四分の三ぐらいで入れたのは今のよう に内申書が無かったためである。 その頃の高校は授業日数の三分の一まで休んでもよかったので、図書館にいり浸ったり、古 本あさりをして手あたり次第本をよんだ。 三年のとき図書館でカジョリの「方程式論」をみつけ、その中の「群の理論」にすっかりと りこにされてしまった。 この群の魅力にとりつかれて大学で数学をやることに決めた。 もし魔女の薬をのんで若がえることができたら、三年間の高校生活をもう一度くり返してみ たいと思う。昆虫が変態するときは、全組織がいちど液体のようになる瞬間があるそうだが、 人間の成長過程にもそういう時があるのではない、。 それがちょうど高校時代にあたるらしい」。 藤田先生の変態期 ? も同じ位いの年令だったと思われます。

7. 齋藤塾

の授業より疲れた。こうして中学校で習う英語と全く質の違うもう一つの英語を習った。ここ で使われた教材は主として外国で出版された辞書、小説、歴史、詩などであり、中学校で使う 、こ。現在最も印象強く残っ 日本人編集の短文集である教科書と比べ別世界の雰囲気を作ってしオ王 ているのは中学三年時習ったテニソンの詩集である。ここで教えていたことは英語を教えると いうより、英語で書かれた内容を味わせるという点に重点がおかれており、それが語学教育の 本来のあり方であると思う。 現在高校以下の学校で教えているのは受験用英語、数学、国語などであり、予備校や塾と共 にその成果は進学率で評価され、本当の学問を学ぶ場である筈の大学へ人れば、クラブ活動に 精力の大半を費す学生が多い。ここではもはや人試はないからである。このような教育の偏っ た時代に最も必要とされるのは齋藤塾のような先生と先徒のコンタクトの強い学校であるが、 今は主なき広い教室が淋しく残っており、このような師は今後も期待できないであろう。 齋藤先生は英語と無関係な本を含めて非常に多くの書籍を購人し、しかも大抵目を通された。 私達大学教員とちがい図書館の利用ができないためであるが、それにしても大変な努力家であ った。しかしいくら本を読んでも私のような凡人では必ずしも最も新しい適切な情報が得られ るものではない。そのためにはたえず同僚と内外の同学の人々との交流が必要である。齋藤先 ー 348 ー

8. 齋藤塾

齋藤先生の思い出 僕が齋藤先生にお世話になったのは、昭和七年浜松一中の中学一年生から四年生で慶応義塾 大学の予科に入学する迄の四年間であった。 思えば十三才から十七才迄の子供の時代ではあったが、若い多感な少年時代に受けた強烈な て見せて戴いた 。五十年前と全く同じ姿勢で周囲に本を積み上げて、本立の前に座って見せて 一生懸命、死ぬまで、「時間が足りない」と言って頑張っておられた先生の姿こそ、 下さった。 不勉強者の私にとって、最後の大注射であった。葬儀の時黒板に書かれた『ダイ・イン・ ( 一九八六 ) ネス』は永遠に語り継がれることであろう。 追記 注射とは塾生には周知のことで説明を要しないが、齋藤先生の考案された体罰の一つで、内 腿をつねることである。先生によると、一番痛く感ずる所だそうである。 ( 名古屋大・エーメリーランド大大学院ー石川島播磨重工ー山口大教授 ) ー 206 ー

9. 齋藤塾

日練を受けたあと、昭和五十四年に講師として浜松医科大学に招かれ、郷里に帰る 法医実務の司、 , 事となった。その挨拶に伺ったところ、当時私は弱冠三十二才であったはずであるが、教授と して着任したものと誤解され閉ロした。浜松医科大学は新設医科大学であるためか、医大の教 官には塾生が少なく、彼にとって医大と言えばすぐ私の名前が上がる事となった。長い間御無 沙汰すると、先生の方から私に電話があり、慌てて伺う事もあった。私としてはもっと学問的 な話をしたかったのであるが、専門が法医学であるため、解剖、死体等いつもその様な話にな ってしまったが、先生はそれでも結構楽しんでおられたと思う。先生の亡くなられる二、三ケ 月前に先生から自宅に電話があったが、私は丁度不在であった。家内から聞いて早速こちらか ら電話をさし上げると、用件を忘れたとおっしやるのである。これはいけないと思っていたと ころ、間接的に先生の他界を知ったのであった。思えば最後まで先生の医学に対する興味と憧 は大変なものであった。 齋藤先生から受けた教育、思想が私自身にどれだけ影響したのかよく分からないが、医学部学 ループは基一 生時代、大学の講義が終わると、他の級友は遊んでいるのにわれわれ数人変わり者グ 礎医学研究室に出掛け、夜遅くまで実験したのを思い出す。そんな生活も多少とも齋藤塾の学問 ーリタニズムに影響された結果とも思われる。 ( 名大・医ー浜松医大助教授 ) 至上主義的ビュ ー 299 ー

10. 齋藤塾

ということです。時々の文部省の方針とは全く別個の世界で、若者に世界を教え、自分の考え を持っことの重要さを認識させた信念の教育でした。想い出はすべてを美化するものですが、 私は先生はそんなことでは決して修飾されることのないものを持っておられたと思います。今 の日本にこそ、多くの齋藤先生が生まれ、かっ受け入れられることを心から希っております。 ( 東大・医ーミシガン大学留学ー東大医学部講師ー順天堂大学医学部教授 ) 題 窓越しに隣の図書館の桜が見事に咲き誇っている季節でした。「私もかって、医者になろう とした事がありました。今でも医学書も沢山あるし、勉強もしています。私が、医者になった ら、どんな医者になっていただろうか」。私が奥様の往診をしたときの、先生のお話しです。 先生は、その厳格さの故に、周囲の者から兎に角敬遠され勝ちであったため、孤独な一面も持 って居られた。偶々、訪れた私を話し相手に、色々と医学書を見せて下さり、丸善からステッ ドマンの医学辞典を購人するよう薦めて下さった上に、その手配までして下さいました。鴨居 平山木一 ー 263 一