許可されず、塾に通っている人は今でいうエリート意識 ? まわりは羨望の思いでこれを眺め ていたような気がする。母の姉が結核のため、東京女子医専を学業半ばで倒れ、何時も無念さ を病の床で語っていたことから、私はその志をついで医者になろうと早くから決めていたので、 是非とも齋藤先生のところで学びたいと思うようになった。昔から一旦やりたいと思ったこと はやりとげてきたので、その思いはつのるばかり、ある日母を説得して先生の御都合もうかゞ わず ? 恐る恐る先生をお訪ねしたところ、こゝろよく会って下さり人塾を許された時の気持ち は、人学試験に受かった時、又はそれ以上の喜びであった。早速翌日から通塾が許されたが、 『ョブ記』、『共産党宣一一一一〕』、ウォールデン等、初めは歯のたっしろものではなかった。その上 優等生で学校では先生方から大事にされていたのに、最初のうちは完全無視、先生の強烈な個 ↑にぶつかりたじたじした。しかし先生のあくことない学究の姿勢と知識の宝庫、芸術への深 い造詣、豊かな感性、砂地に水の如く私の心にしみこんでくるものを感ずる日々であった。所 謂受験塾とちがった人間修練の場、張りつめた空気、学問に対する先生の真摯な態度、中学か ら高校へかけての人格形成にあずかったこと計り知れぬものがあった。初志を貫き耳鼻科医と して地域医療のため多忙な日々を送っている私は、折にふれ先生のお言葉を思い出し、実践し ていることに気づき、今更ながら感謝の念で一杯である。 ( 東京慈恵医科大ー病院経営 ) ー 266 ー
生は必ずこのを持ったものと思う。初学年の頃からローマ字読本を始めとして幾種類か の教科書が使われた記憶であるが、その全てを戦災で焼失してしまったなかでこの辞書だけが 唯一冊残ったのは、常に身辺に置いて大切に保管し愛用していたためである。 今にして思えば私にとって塾生としての証として、また先生のこと、塾の思い出のよき記念 となったわけである。 人塾当時、私は家庭の事情で高等教育への進路を具体的に考えられなかった関係で、小学校 を卒業すると早く技術を身につけ働くことが出来るようにと工業学校 ( 現浜松工高 ) に人学し が、私の両親が若い頃から先生の厚い親交をいただいたことから、先生の強い奨めもあり教え を受けることになった。初めから積極的に進学という動機もなかった私にとって、先生のあの きびしくも、また親身になっての教育は学校での学習の上に更に高いレベルの内容でもあった ため、大きなギャップを感じながら懸命におくれをとってはならない努力の日々であったよう に田 5 一つ。 昭和十六年は大東亜戦争の始まった年である。戦時体制下で学校は繰り上げ卒業となり、大 半の生徒は就職という事態で私達は丁度その真只中におかれていた。そんな中で曲りなりに も、高等教育へと進学が叶えられると勉学に対する意慾も湧き、そして学問の尊さが理解でき
人間像とは程遠い、俗な人間ではありますが、短い期間ではあったにせよ、齋藤塾での全人的 な指導がなかったら、もっと別の生きかたをしていたことと思います。齋藤先生の英語、藤田 先生の数学の極めて高踏的なご教育に何とかついていったために、その後の入試に大変得をし たことも事実ですが、国際的に物を見るということの重要性を学び、それが今日の私の大きな 財産になりました。こゝで少し学問の国際化ということに触れてみましよう。あくまでも医学 の立場からですが。 皆さんは日本の医学は国際的レベルにあり、他国からも高い評価が得られているとお考えで しようか。私の答えははなはだ曖昧であります。確かに一部には世界的な業績はあり、指導的 なものがあることは事実ではありますが、余り国際的に発表される機会が少いためもあ「て埋一 れてしまっているのも多いのは残念です。一方毎年いくつかの国際学会が日本で開催されても います。これとても日本の業績が大し ( 言 、こ忍められて、というよりも順番でといった意味の方が 大きいようです。海外での国際学会にも近年日本から大挙して参加するようになり、主催者側 を経済的には喜ばしてはいますが、日本人の発表が余り多くては困る、いざ討論になると全く 意が通じない、という陰の声もあります。 これにはいくつかの原因があり、徐々に改善していかないと、日本は「開かれた鎖国」にな 261 ー
の授業より疲れた。こうして中学校で習う英語と全く質の違うもう一つの英語を習った。ここ で使われた教材は主として外国で出版された辞書、小説、歴史、詩などであり、中学校で使う 、こ。現在最も印象強く残っ 日本人編集の短文集である教科書と比べ別世界の雰囲気を作ってしオ王 ているのは中学三年時習ったテニソンの詩集である。ここで教えていたことは英語を教えると いうより、英語で書かれた内容を味わせるという点に重点がおかれており、それが語学教育の 本来のあり方であると思う。 現在高校以下の学校で教えているのは受験用英語、数学、国語などであり、予備校や塾と共 にその成果は進学率で評価され、本当の学問を学ぶ場である筈の大学へ人れば、クラブ活動に 精力の大半を費す学生が多い。ここではもはや人試はないからである。このような教育の偏っ た時代に最も必要とされるのは齋藤塾のような先生と先徒のコンタクトの強い学校であるが、 今は主なき広い教室が淋しく残っており、このような師は今後も期待できないであろう。 齋藤先生は英語と無関係な本を含めて非常に多くの書籍を購人し、しかも大抵目を通された。 私達大学教員とちがい図書館の利用ができないためであるが、それにしても大変な努力家であ った。しかしいくら本を読んでも私のような凡人では必ずしも最も新しい適切な情報が得られ るものではない。そのためにはたえず同僚と内外の同学の人々との交流が必要である。齋藤先 ー 348 ー
冷たい水で雑布をしぼり、整然と十して本日の清掃は終了。 「バスに乗り遅れるから早く帰りなさい コートは教室で着なさい」。 広く一般教養、そして英語で追求しながらの専門的な分野まで、「学問とは、何ぞや」と問 い直すよい授業でした。一面から見れば、大学の講義より質の高いものでした。私にとっては、 講義よりももっと思いやりをもった先生の人柄がしのばれます。 母に連れられ初めて塾の門をくぐったのは、一年遅れの中学一一年生でした。ト、 / 学校一年生で 母子家庭になった私に、母は、父親でなくては育てられない心のはり金 ( 人間の強さ ) を先生 に求めていたのでしよう。 塾生という面では、いつも立派な人達に囲まれ、自分のカのなさに悩んだときもありました が、英語の語源の勉強は、中学、高校、大学を通してずい分役立ちました。一回、しやもじで たたかれましたが、私個人のことを思ってのお叱りでした。 今、英語とはかけ離れた小学校教員をしていますが、齋藤先生の考え方は、教職の中の随所 に生かされています。雑用に追われ、それを臨機応変に処理して、 しく能力が要求される現在、 てきばきと仕事をしていかなければなりません。私は、いつの間にか、齋藤先生から処理の仕 方を学ぶことができ、感謝の念でいつばいです。 一 293 ー
私が中学へ進学するのと父の職場が決まるのが同年になったため、とりあえず祖父母の家で 待機することになり、昭和四年に群馬県立藤岡中学に入学しました。 祖父の家は養蚕農家でした。回顧すると当時は世界的な大恐慌で米の値段も生糸の値段も大 暴落していたのですが、そんなことは露知らず甘い祖父母のもとで遊び暮らしていました。 その間に父の職場が浜松市立高女に決まり私は二学期から浜松に移ることになりました。 何しろ勉強もせずに遊び暮らしていたため、英語が全くわからず、父は驚いて、夏休み中、 齋藤先生に特訓をお願いしたのが塾に入る動機でした。 市立ぎらいの齋藤先生がよく引受けて下さったと今でも有難く思っています。 先生の学問に対する執念が怠けぐせのついた私の目をさましたのか、勉強に身を入れるよう になって、おかげで浜一中の編人試験に合格しました。 しかし、学校の勉強はあまりせず、もつばら大きな英和辞典をひいて塾の英語の勉強に励み ました。 中学一一年になったとき齋藤先生から「藤田先生が数学をみてくださることになったから君も 一緒に聞きなさい」といわれ二階に上がって行きました。 上級生数名が藤田先生の講義をうけていました。一年上の河合広さん、小林進一さん、佐藤
るようになるにつれ、塾で学んだことの意義や「齋藤先生における学問」について考えるよう こよっこ 0 学 / ュ / そんな一端ともいえようか昭和四十八年頃先生の招きがあり頌和会で「浜松の都市計画ー都 市論」について講話をする機会があった。その頃岩波書店から「現代都市政策」講座が出版さ れその中の一冊に名古屋大学教授横越英一氏の「自治体の都市政策」に関する論文があり同教 授が私の拙稿 ( 当時或る専門誌に寄稿していたもの ) を紹介された部分があった。齋藤先生は それを目に止めておられたことが講話のきっかけとなったのである。汗顔の思いでその責をふ さいだのであったが、折に触れてお邪魔をすると、 k-a ・マンフォードの著作、ル・コンビジェ のこと、日本社会の都市形成のこと、更に「都市の科学」に及ぶと気候・地質・歴史のことな ど先生の都市論を尽きることなく傾聴したものであった。まさに先生の学問の方法といおうか 読書の深さを学ぶと同時に私自身の都市研究と実践に大きくまた数多くの示唆をいただいたの であった。 という小辞典であるが愛蔵してやがて五十年の歳月が流れた。この辞書をひもときな がらありし日の生きた教育者としての先生を偲び感慨深いものがある。私にとって生涯の記念 ( 東京工大ー浜松市長 ) 碑となろう。 - 333 ー
ことを覚えている。 私の齋藤塾での勉強は二年ほどで終わった。それは昭和三年四月から、前記の蚕業取締所へ 再度勤務することが決まったためである。その後、昭和五年四月、私は農業教員養成所に人所 し、卒業後は教員として小学校十年、青年学校六年、中学校三年、高等学校二十一年、計四十 年の教員生活を送り、昭和四十六年三月末で完全に教職を去った。 私は教員生活の四十年間も、退職後の十三年間も、年に三 ~ 四回は先生をお訪ねした。私の 若いころには先生は開口一番「読んでいるか、勉強しているか」と言われた。先生は良い本を一 推せんしてくださり、本をくださることも度々あった。お伺いするたびに教えられたことが多 く、刺激を受けて帰るのが常だった。 先生は講義の時間よりご自分の研究のために多くの時間をさいておられた。先生は哲学の難 しいお話をされることもあったが、ある時は植物の話であったり、富士山の研究の話であった り、中国の地質のことであったり、日本の民主々義の遅れた面の話であったりした。このよう に先生の学問は広汎に一旦っていた。戦後、私の勤務して、 した引佐高校へ先生をお招きして、講 堂で職員、生徒を対象に講演をお願いした。先生の博学に一同驚嘆すると共に、とかく学問よ り勤労重視に陥りやすい農業教育に、先生の講演は大きな警鐘となった。 ー 158
して文字通り実行していました。 昔の教育と現在の教育との優劣は時代が違うから僕にはよくわかりませんが、戦前の僕は数 学を学問として教えていたように思うし、生徒の皆さんも学問としての数学を勉強していたよ うに思います。現在の学校教育での数学は受験のための数学で、あれで数学といえるのでしょ うか。ある程度のパターンを覚えて練習を積めばできるような問題ばかりでまったく驚きです。 齋藤先生と御一緒にやらせていただいた関係で、門前の小僧のたとえで英書にも関心をもち ました。今から五十年程前に手に入れたハーディのゝ Course ofPure Mathematics は僕 の宝です」。 お手紙を披露したところで、私の中学生から青春の時代を振り返ってみようと思います。 私は藤田先生に直接講義をうけた思い出はありません。しばらく上級生の講義を聞いていま したが、 そのうち鴨江の裁判所の前にある先生のお宅へ伺うようになりました。先生は机に向 かって勉強されている。私は横で本を読んでいる。何か質問すると、指で軽く本をおさえなが ら問題をのぞくようにしてお読みになって、「君、この定理を知っているかい」といわれ、定 理の証明から問題の解き方までを説明してくださいました。 勉強が終わると友人宅や塾へ行かれる先生のお供をして街をあるいたことを覚えています。
学校などとは違った親密なつながりがあったと思います。 卒業してからも、思い出したように勝手にお邪魔することもしばしばでしたが、いつも「老 人の貴重な時間を奪うんだね」とロではおっしやりながらも暖かく迎えて下さり、真剣にまじ めにお話を聞かせて下さいました。塾の奥のお部屋で先生と奥様とご一緒にすごすひととき は、他のどこでも得られない豊かさに満ちていたと思っています。 ーマンをやめた夫と共に、新しく商売を始めてからは また、殊に五年前浜松へ戻り、サラリ 何かとご心配を頂きました。店の売り上げから扱う商品のこと、また店のイメージをはっきり させる方法など、次々と新しい事を先生自ら考えては忠告して下さり、お電話も何度も頂きま した。亡くなられる三日前に伺った時もーーーその日はとてもお元気で、ご病床のまわりも明か るい雰囲気でしたがーーー「昨日はいくら売れたね」と聞いて下さいまして、たまたまいい数字 でしたので申し上げると「それは良かった」とまじめなお顔でうなずいて下さったのが忘れら れません。 塾生として、先生のご期待に応えて真剣に学問にとりくみ名を成した方々と違い、頂い 数々のご忠告も聞かず学問から遠去かり、平凡な一主婦となってしまった私のような者をも、 先生は一度も責めず、弟子として最後迄お心にかけて下さいました。その事を思います時、せ ー 274 ー