ルタ教育によって、英語や数学の成績はみるみるうちに向上していったが、英語や数学の授業 を通して、また塾内での立居振舞いを通して、人格の陶冶や躾の訓練も厳しくおこなわれた。 私が今でもよく覚えている二つのことを紹介しておこう。 一つは教室に入るとき、先生が机に向かって坐っておられるときには、生徒も人口のところ で坐って挨拶をすることを強く求められた。立ったまま挨拶するのは、先生に対して非常に失 礼なのである。先生が立っておられるときは、生徒も立ったままで礼をすることを許された。 私が齋藤塾に通ったのは旧制中学の一年から五年まで、つまり昭和十四年から十九年までで、 場所は田町にあり、一階が藤田先生による数学の教室、二階が齋藤先生による英語の教室であ った。その英語の教室に人るときの挨拶の仕方が問題にされたのである。 もう一つは、授業が終わったあとでの教室の掃除のことである。まず最初に障子や書棚をは たいたあと、床を箒ではくわけであるが、障子のはたき方を厳しく躾られた。障子をはたく場 合、最初に外側の障子をはたき、ついで内側の障子を外側の障子のうえに重ねてから、内側の 障子をはたくように教えられた。今と違って、クリーナーなどのない時代であったから、障子 をはたけば、ほこりは空中に飛散する。したがって、外側の障子を最初にはたき、そのうえに 内側の障子を重ねるということは、内側の障子のほこりが、既にはたいてきれいになっている ー 112 一
催した。数学ぎらいの子供たちをなくすためには、まずお母さんたちに数学の楽しさを知って もらおうというのが狙い。音楽が楽ならば、数学も楽だという発想から名前を「数楽教室」に した。会場には五十人位のお母さんたちが集まった。選挙の投票日と重なった上、雨にもたた られ「せいぜい二十人止まり」と考えていた主催者側は大あわて、急いで椅子を補充したり、 だ / 参加者の中にはお父さんや子供連れの姿も見え、 教材のハサミを増やすなど大にし、こっこ、 気あいあいとしたムードだった。 三年目を迎えたとき、朝日新聞に次のような記事が写真人りで紹介されました。教室を開い ているのは、浜松市内の小中学校、高校、大学で算数や数学を教えている教師たち約一一十人で 作る浜松数学研究会 ( 藤田敦男会長 ) 。ほば全員が戦後、「すべての子供にわか「て、しかも質一 の高い数学」を目指し結成された全国組織の数学教育協議会のメンバーだ。教室を開くきっか けは、全国各地の小中学校で、算数や数学嫌いから、落ちこばれ、非行に走る子供たちの増加 だった。「知識の詰め込みだけの学校教育では、算数嫌いは増えるばかり。母子で一緒に楽し く数について学んでいくうちに、子供も算数好きになるはず」と、五十八年四月に「数楽教室」 を始めた。以来、毎月一回教室を開いている。 母親たちの側でも、「昔学校で習った公式や計算ではなく、日常的な遊びの中で、自然に数 103 ー
先生は、これもさっそく読んで塾生にも紹介し、一度塾にきて生徒に講演してくれないかとた のまれた。明るい大きな教室だが、私たちが学んだ八畳ほどの塾の教室は、教室という名前に はそぐわない日本間で廊下の先に植え込みがあって、いつもうすぐらかったような気がしてい る。机は張り板のような細長い板たった。 一しょに勉強した仲間は十五名程だから、ぼんやり と気を抜いているわけこま、ゝ、ゝ ー ( し力なカった。この追悼文集の表紙から装丁の一切を手がけた画家 の清川泰次さんは、いまも交際している同級生の一人だ。英語の助動詞の変化を忘れた時に、 先生は、生徒の指にそれをベンで書きこんで、何が何んでもおばえさせようとした。そんな時、 " 被害者〃の彼と私とはお互いに顔を見合わせて苦笑したものだ。 きびしい授業だったが先生自身の息抜きにもなったのだろう、時々クラシック音楽のレコー ドをかけてくれた。普段はこわい顔の先生がこのときばかりは目を細めてうっとりとききいっ ている様子が、いまも目のあたり思い浮かべることができる。 四、国際性の原点は 先生にたのまれて昔とはすっかり趣きをかえた広い教室の演壇から、塾生たちに講演をした のか、いつのことかはっきりした記憶はないが、 二つの岩波新書が出てから、そう離れた時期 ー 140 ー
軍国主義的であったかというと、そうでもなかった。たまたは私のクラスの担任になった伊藤 先生は、英語が専門の若い教師だが、教室にやってくると、いきなり空席の生徒の机の上に腰 をおろしてしゃべりだすといった行儀の悪い人だった。伊藤先生とはその後仲好しになって、 私が高校のころには、清水の方の学校の教師になっていたこともあって、日曜日には先生が借 りていたお寺の離れの一室を訪ねたりもしたが、こういうつきあいをふりかえってみて、戦後 わかったことだが、彼は、「専制政治」反対の気運を盛りあげた大正デモクラシーの空気をた つぶり吸って育った青年だった。私が中学生のころ影響をうけたのは、齋藤先生を別格にすれ ばこの伊藤先生ごっこ : オオが言うまでもなく齋藤先生も、第一次大戦後の世界的な思潮としての デモクラシーに共鳴し、その考え方、生き方を、英語教育を通じて中学生たちにたたきこんだ 人だった。こういう人を師にしたおかげで、私は軍国主義の時代に感受性の強い青少年期をお くりながらも、盲目的な愛国主義の衝動にかりたてられることはなかった。「鬼蓄米英ーとい うようなスローガンにだまされることもなかった。日本だけが世界ではないという国際的なも のの見方を育て支えるのに、諸般の清勢は決して恵まれてま、よゝっこ。 : ( しオカオカやはり折角学びか けた英語を有力なカギにして、真理の扉と開く努力をやめてはいけないと思いながら、学生生 活をおくっていた。 ー 123 ー
絵の好きな齋藤先生 齋藤塾の教室には、高須光治氏の油彩画「静物」がいつも掛けられていた。中学生の多感な 時期に一冊の画集を見せられたのはこの教室であった。 子供が中学生となり、その勉強態度を見るにつけ、齋藤塾の有難さを改めて感じています。 なまいき盛りの年頃の子供達を、教育なさった齋藤先生の御苦労を思わずにはいられません。 子供を齋藤塾に通わせたい、とっくづく思います。それがかなわぬ今、せめてお教えの一部で も子に伝えたいと思うのですか、全くうまくいきません。先生のような厳しい態度を、常に持 っことができないからなのでしようか。 二十五年も前の、高い天井、固い椅子、清潔な教室、身のひきしまるような雰囲気を、鮮や かに思い起こすことができます。追いたてられるような忙しい日々の中で、ふとそれを思い出一 す時、新たな意欲とでもいえるファイトが湧いてきます。何歳になっても、学ぶ姿勢を持ち続 けたいと思います。 ( お茶水女大・文ー東京女子医大ー東京女子医大第一一病院内科 ) 金原宏行 ー 313
した。足掛け五年続いたのは私一人でした。その間月謝を払ったのは二年位で、後は免除して 頂きました。田町に塾があ「た頃で、南側の和室の一階と二階が教室でした。まだ黒板もなく、 どの部屋にも本が沢山あるのに驚きました。初めは途中から入りましたため、私がどこに坐「 ても、先生は私の横に坐り、授業され、直接目を掛けてくれました。しかし生徒が騒ぐと、 つも私の背中をどやされたものです。やっと一メートル四方位の黒板が人り、その役をのがれ ました。楽しかったのは、授業が終わってから時々するお話でした。為になる思想的な話が多 、時には、家庭のこと、少年時代のこと、齋藤秀三郎先生の正則英語学校に通「た苦学時代 のこと、女学校の教師時代のこと、など交じりました。 「本を読め」「本を読め、と口癖のようにいわれました。「善人なほもて往生を遂ぐ。況ん や、悪人をや」も聞き、大変ショックを受けたことを覚えています。後年『歎異抄』にのめり こむようになったのも、その関係でしよう。 家は貧しく、身体は背が低く虚弱で、性格は小心内気で、劣等感が強く、亦末子で、幼時よ り祖母に育てられ、極めて幼稚で、物のいいようも知りませんでした。中学生活に適応できな くて、その上二三年して月謝も遅れ勝ちになり、三年一学期には祖母にも死なれ、その後は親 戚にたらい回しに預けられました。益々学習意欲もなくなり、中学に通学するのがいやになり、 ー 172 ー
語を学び、心のふれあいを勉強してきたいと思います。 私の心に興味、希望を与えて下さった、自分に厳しく、英語一筋にうちこむ齋藤謙三先生、 天から、また外国のお話しをして下さいね。授業の時のあの緊張感を忘れずに生きていきます。 最後に、やさしく親切な先生の奥様、お体をお大事に。 ( 浜松市立高校一年・最後の塾生 ) これは齋藤塾で注射っていうんだよ 中学になって初めて学習塾に行った私。 塾の始まる何日か前から、姉に齋藤先生は恐ろしいと聞かされ悩んでいた。 初めての英語の授業の日に、教室に入った私は、一瞬辺りを見周した。 ただっ広い教室、沢山の机、そして何といってもあの恐ろしい数の本が私の目を引いた その本の中に埋もれるようにして座っていた齋藤先生は、一見やさしそうに見えた。 小学校の頃、英語というものをローマ字とかわらないと思い込んでいた私は、先生のお説教 に毎日おびえていた。 山下厚子 ー 329 ー
いくようでした。生徒は四人で、ほそぼそとやっていました。 最初、教室に入った時は、これが教室なのかと思いました。あちこちに本が山積みになって いたからです。まるで古い図書館のようでした。「へえーこんな塾もあるんだ」と思ったもの です。 齋藤先生は、思っていたとおり気まじめで厳しい方でした。毎日必ず怒っていました。僕も 何度か怒られました。特に腕を何秒かつねられて、帰ってみるとアザになっていたことが心に 残っています。あの頃は齋藤先生をニクんでいましたが、今となっては良い経験でした。 僕は、塾に人った当初なかなか慣れずに、何度かやめようと思いました。難しい教科書、ぶ 厚い辞書、難しい発音、その頃、ピカピカの中一年生だった私には、何もかもが難しく、「こ んなのじゃっいていけない」と思いました。しかも、授業が始まる時刻も早く、部活との両立 も困難でした。しかし、他の三人の生徒も部活をやっていたし、しかも、みんな女だったので 「負けてたまるか」と思って行き続けました。 そのうちにだんだん慣れていき、塾に行くことも苦にならなくなりました。しかし、その頃 から齋藤先生は元気がなくなり、たびたび授業が休みになりました。そして、とうとう英語の 打業かなくなりました。僕は、その時に塾をやめました。 ー 325 ー
先生の教育は、後々までも僕の人間形成に大変な影響を与えている様に思う。 僕達の頃の齋藤塾は、浜松市田町の大通りの一つ北側の裏通りの両側にあった。道の北側が 先生の家で、そこで英語を、南側は数学教室になっていて、そこでは藤田先生が数学を熱心に 教えて下さった。 教室といっても、いずれも十畳位の畳の部屋で、そこに、巾一尺、長さ六尺位の板を何枚も 並べて、それが机がわりになって、二十人位の生徒が肩を並べて座って、熱心に先生の講義を 聞き勉強した。 出入口は、いつも自転車が一杯置いてあって生徒交代の時は、ごったがえした。 授業は、毎日が特訓の様なものできびしく僕達は真剣に勉強した。 いでた ールテンズボンにサスペンダー 齋藤先生の出立ちは、いつもコ 独学の大学者の先生も、これから何か労働でもする様な格好であった。眼はギョロッとしてい たがやさしく、ロもとは意志の強さと学問に対する真剣な情熱があふれていて僕達にもヒシヒ シと伝わって来るものがあった。 僕の様な人間でも、英語や数学に自信を持ち好きになれたのも正しく両先生のおかげあった のであろう。 クリクリ坊主頭にシャツ姿、 ー 207 ー
「ていたがそれを果たせないうちにお別れしなくてはならなくなり全く心残りである。お別れ して以来心の中に何か空虚なものができてしまい消えないのである。 ( 京大・農ー京大・医ー京大医学部講師ー京都府立病院神経内科部長 ) 山崎 齋藤先生と書見台 私が塾生であ「た頃、齋藤先生は六十代の前半であ「たと思う。元気一杯でこわい存在であ 「た。宿題を忘れるとシャモジと注射 ( 二の腕をつねる ) 。単語ができないと「〇〇旅行」と 称し、〇〇、〇〇と単語を繰り返し唱えながら教室を一周させた。授業中の姿勢から掃除に至 るまで、厳しくしつけられ緊張の連続だ「た。英語の講義から脱線したあらゆる分野にわたる 話から、平和を願い、知を愛し、謙虚に生きる態度を学ぶことができた。 一分の隙のない一生を過ごされた聖人の様 先生は学問以外の俗事にさく時間など全くなく、 に私には思われた。私が社会に出てからも、たるんでいる時など、いつも先生に見透かされて いる様な気持ちになる程先生の存在は大きかった。