時代 - みる会図書館


検索対象: 齋藤塾
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1. 齋藤塾

時先生の淋しそうな顔は今でも忘れることは出来ない 忘れることが出来ないといえば、先生と釣りに行「た想い出がある。余り趣味というものを 持たない先生ではあ「たが、当時、先生はとても釣りにこ「ていて、仕掛針を自分で作「て、 僕達に見せて得意であった。 休みの日曜日には、先生のお気に入りの生徒二、三人をつれて、掛川辺りの小さな川に、 ( ャやふな釣りに出かけた。今の様な自家用車は一台も無い時代だから、各々自転車で目的地迄 行くのである。自転車で先生を僕達が交代で乗せて行くのだが、先生は仲々重くて、二、三里一 の道を走るのにイキがきれたものだ。 川の流れも静かに見守「て、楽しそうに釣り竿を持「て佇む先生 Ⅱの堤の上に、 今でも、 ( 慶応大ー画家 ) の姿が、空を茜色に染めたタぐれの田園風景の中に浮かぶのである。 ー 210

2. 齋藤塾

せる必要な年令になり、改めて齋藤先生の生き方に感銘している次第です。 ( 東大・エー旭化成工業ー旭化成エレクトロニクス研究所長 ) 山内裕雄 医学の国際化をめぐって 私は医学の中でも整形外科を専門としています。整形外科はもう今は余り誤解が少くなった一 と思いますが、脊椎や四肢の障害・外傷などを扱う部門であります。医学生時代は文学青年く ずれ的なところがあり、精神科や脳外科を面白いと思ってはいたのですが、一生の道を決める 段になって代々続いた野崎の蒙済の家業に最も近い専門を選んだのは、一見親孝行のようです が実は江戸で駄目なら何時でも帰れるという安易な妥協でした。でも足をつっ込んでみると、 それなりに面白く、三十年にもなり、家を継ぎそこなったのですから、何が親孝行かという始 末です。 整形外科といっても守備範囲は実に広く、一応どんな患者さんもこなせる積りですが、中で も手と脊椎を専門とし、多少は人に知れるようになりました。現在の私はいわゆる学者という ー 260

3. 齋藤塾

の藩校、つまり塾はまだ公共教育、特に義務教育制度のなか「た時代の学校であり、公共教育 の役目を果たしたものといえる。そしてそこでは藩主による子弟の武士としての教育も重視さ れたので、単なる知識の伝授だけでなく、人格的陶冶に大きな重点がおかれていた。各藩それ ぞれの独特な風格も備えていた。 これに対して、現代の受験産業としての塾は、およそ正反対の性格をもっているように思わ れる。もっとも、私自身は最近の河合塾などを経験していないので、その経験者からは批判が でるかも知れないが、私は次のようにみている。つまり、河合塾などはマンモス授業で、受験 技術の教授が優先されていて、人格の陶冶とか躾の訓練とかいった側面は、ほとんどおこなわ れていないのではなかろうか。でなければ、全国各地に河合塾のネットワークが組まれている などということはできないことである。徳川時代の藩校や私塾は、一つ一つが個性をもってい たのである。そして何よりも大きな違いは、受験産業としての塾は、公共教育 ( 特に中学や高 校 ) を補完するものであって、公共教育そのものではないということである。 このように、片や徳川時代の藩校、片や戦後日本の受験塾とを対比してみると、齋藤塾はち ようどその中間に位置し、両者の特徴を兼ね備えていた。まず第一に、齋藤塾には徳川時代の 藩校に通ずる一面があった。単に英語や数学の成績向上だけが目的ではなかった。厳しいスハ ー 1 11 ー

4. 齋藤塾

先生は、大正デモクラシーがはぐくんだ考え方や行動を、次の世代へとバトンタッチしてゆ く歴史的な役割りを果たした人ではなか「たろうかと、私が考えるようにな「たのは、戦後民 主主義の時代がはじま「てからであ「た。天皇を " 現人神。として無条件に奉仕する神がかり 軍国主義は、かなわないという感清的な反発や嫌悪は、軍国主義がいよいよ狂気のように荒れ 狂「ていく戦争末期にも、私は心のかたすみにず「と持ちつづけてきたつもりだが、齋藤塾で 身につけたものの考え方がこういう生活態度をつくるのに案外大きく役立「ていたにちがいな もっとも、先生の口から直接、「軍部の独走」とか「中国侵略」とかをテーマにした政治講 義をきいた記億はない。 これも戦後知ったことだが、豊橋の女学校の教師をやめた直接のきっ かけは、「御真影事件」であり、先生は火災から病身の先生と生徒を安全に避難させることを 第一にしたため、当時、どこの学校でもそうであったが、一番大事な宝物の「御真影」と呼ば れた天皇の写真を焼いてしま「たのだ。今からみれば当然の措置だ「たが、恐らく " 不敬極ま りない。というきびしい批判にさらされ、あやうく不敬罪で牢屋にぶちこまれるところだった とい , つ。 このあたりで、はなしは少し横道にそれるが私が、齋藤塾に通「ていた先述の三十年代前半 ー 125 -

5. 齋藤塾

があれば敵味方の別なく人間として心が通ずるものだった。塾で先生が講義中に朗読された美 しい詩、又折にふれ推奨された数々の書物の中の文言が、生死の境で、死の深渕を覗き続けた 三年間どれ程心に安らぎを与えて呉れただろうか。 又、静高時代は渡辺登さん、藤田武雄さん等と一緒のエンバーソンホール寄宿舎での生活を 楽しんだし、京大では菅沼惇さんのの学生寮で良い生活が出来た。之も塾の縁故え。 捕虜生活一年で敗戦の故国に復員した私を待っていたものは、父の訃と病衰の母で、私の結 婚を見届けるかの様にして死んだ。占領政策は、一部の革命であったろう。私は興銀本店に復 職したが、農地解放、財産税、相続税と一度に片付ける為静岡出張所勤務に変えて貰って、新 婚間もない妻と二人で変革に対応した。その時心の支えになったのは、塾での昼の勉強の時、 先生と長谷川さんの話の間に教えられたことだった。社会間題、乂小作農問題等が頭の切り換 え、生活の転換を容易にさせて呉れ、新しい時代に立ち向かう勇気を与えて呉れた。私も戦争 に行く前に父と、地主制度は遠からず崩壊しそうだと話し合った事もあったし、妻の父は戦時 中、富岡村長時代自ら進んで小作人に農地を解放して自作を薦めたと聞いた。 想えば、地方地主の長男坊で何一つ不自由無く、学生時代は勉強より野球に打ち込んでいた ーマニズムを基盤にした生活信条を続けられ、又、 男が塾の生活を転機に、其の后一貫してヒュ ー 199 ー

6. 齋藤塾

このような事情は、隣の韓国の事情と比較するとよくわかる。韓国では日韓併合以前に李朝 五〇〇年という時期があった。しかし李朝時代における地方の長官は、京城 ( ソウル ) から派 遣された役人であったから、その赴任先に根づくよりは、いち早く都 ( 京城 ) に帰ることばか りを念願していた。ところが徳川時代における日本の大名は、もともと地方の豪族だった者が 多く、韓国の事情とは全く異なっていた。日本の大名はもともと地つきのものであったから ( もちろん幕府によって転封されることはあったが ) 、隣の藩と競争して、自分の藩の繁栄を 願う意識が強く、その結果、その地方独特の産業を起こす殖産興業政策をとったり、藩の将来 を担う有能な子弟を教育するために、ほとんどの藩が藩校を設けていた。教育投資などという ものは、経済投資とは違「て、その見返りがすぐに現われるようなものではない。にもかかわ一 らず、徳川時代の大名たちは、藩の将来のために、藩校を多く設けていたのであり、そのこと の結果、下級武士の間にも、町人の間にも、「読み、書き、算盤」の教育が普及し、さらには 古今の古典的文献の祖述なども盛んにおこなわれていた。このことが、明治の開国以後、日本 が欧米の列強に「追いっき、追い越すーための能力を準備することになったのであり、日本が 欧米諸国の植民地になることを防いだ一つの遠因でもあった。 また地方文化の多様性があるかどうかが日韓両国の大きな違いになっている。日本では各地 109 ー

7. 齋藤塾

の大名が、それぞれの藩の繁栄を願って、その土地に合った産業を起こしていった。日本にお ける地方文化の多様性を端的に物語るものは、駅弁の多様性である。昭和五十七年の調べでは 駅弁を売っている国鉄の駅は三六三、駅弁の種類は一八七五にのぼる。駅弁など、果たして文 化であるか、といった疑問を呈する人もいるかも知れないが、駅弁はその地方その地方の産物 を基調にして作りあげた食文化の典型であろう。駅弁はもちろん、明治の開国以後、鉄道の普 及につれて発展していったものであるが、地方地方の多様な産物の基礎を築いたのは、徳川時 代の大名であった。それが韓国では、李朝時代における地方の長官が中央から派遣された役人 であったがために、産業面でも特に独自のものを開発するという熱意に欠けていたようであ る。今でも韓国では、どこの土地にいっても余り変化はなく、地方文化の多様性は極めて小さ いといわれている。 以上のようにして、徳川時代における地方文化の多様性が、明治の開国以後の日本の成功の 大きな基盤となったのである。特に本稿では、塾の問題が主題であるから、藩校を重視してい く必要がある。松下村塾は吉田松陰による私塾であって、藩校ではなかったが、藩校の代表と しては、岡山の花畠教場が最初のもので、他に水戸の弘道館、金沢の明倫堂、鹿児島の造土館 などが有名であるが、その数は約三〇〇の藩のうち、約二五〇校に及んだ。こうした徳川時代 ー 110 ー

8. 齋藤塾

した。足掛け五年続いたのは私一人でした。その間月謝を払ったのは二年位で、後は免除して 頂きました。田町に塾があ「た頃で、南側の和室の一階と二階が教室でした。まだ黒板もなく、 どの部屋にも本が沢山あるのに驚きました。初めは途中から入りましたため、私がどこに坐「 ても、先生は私の横に坐り、授業され、直接目を掛けてくれました。しかし生徒が騒ぐと、 つも私の背中をどやされたものです。やっと一メートル四方位の黒板が人り、その役をのがれ ました。楽しかったのは、授業が終わってから時々するお話でした。為になる思想的な話が多 、時には、家庭のこと、少年時代のこと、齋藤秀三郎先生の正則英語学校に通「た苦学時代 のこと、女学校の教師時代のこと、など交じりました。 「本を読め」「本を読め、と口癖のようにいわれました。「善人なほもて往生を遂ぐ。況ん や、悪人をや」も聞き、大変ショックを受けたことを覚えています。後年『歎異抄』にのめり こむようになったのも、その関係でしよう。 家は貧しく、身体は背が低く虚弱で、性格は小心内気で、劣等感が強く、亦末子で、幼時よ り祖母に育てられ、極めて幼稚で、物のいいようも知りませんでした。中学生活に適応できな くて、その上二三年して月謝も遅れ勝ちになり、三年一学期には祖母にも死なれ、その後は親 戚にたらい回しに預けられました。益々学習意欲もなくなり、中学に通学するのがいやになり、 ー 172 ー

9. 齋藤塾

代に人っていたし、私の履歴書でみれば、浜松一中 ( 現在の北高校 ) に入学した年が、一九三 一年 ( 昭和六年 ) で満洲事変がおきた年だし、六年かゝって中学を卒業した年が ( 中学時代病 気で一年休学したため ) 一九三七年 ( 昭和十一一年 ) で、この年の四月、静岡高校 ( 旧制 ) に人 って、自由の空気をいくらか吸いこんだのも東の間、その年の七月には蘆溝橋事件がおこり、 これがロ火になって、日中全面戦争の時代がはじまったのである。 高校では山岳部に席をおき、さっそく七月はじめから南アルプスの山歩きを一週間ほどやっ て、村里に下りてきた時には、中央線の小さな駅が日の丸の小旗でうまり、真新しい軍服を着 た召集兵が、汽車の窓から体をのりだして、万才、万才という観呼の声に答えている光景がく り拡げられていた。このように軍国主義が足音荒く時代の大勢となり、しかも日一日と熱気を 帯びてきたが、軍国青年になるには、中学生のころの齋藤先生の感化の方がずっと強かったと いうべきだろうか。感化といっても塾の勉強で、先生が軍国主義反対を政治的に語ったという 記憶はない。こだ、真理の追求こそがいかに大切か、求道者の真摯な姿を先生の一挙一動から 感じとっていたことが、軍国主義への抵抗等になったような気がする。中学校から授業の中に 軍事訓練があり、三月十日 ( 戦前は陸軍記念日 ) には、早朝の全校をあげての演習で、三方原 の草叢を匍匐前進したりしたものだが、そうかといって、学校の空気として、年がら年じゅう ー 122 ー

10. 齋藤塾

えて教室管理費、光熱費、母の事務処理費などを必要経費として人金から差引いて処理すべき であるのに、敢てそれをしなかったというのは現代の常識からは考えられないことである。 、こ。徹底的な亭主関白で右のものを左に 父には家庭的には十九世紀と一一十世紀と同居してしオ するにも母の手を煩わした。母の呼び名は千代でなく「オイ」であった。たまたま外人が訪ねて きて別れる際「オイさんよろしく」と言ったという伝説がある。母が没我的精神で仕えたためで あるが、そのため極度の連動不足を来し、持病の心臓病などのため普通なら到底九三歳まで生き られる筈はない。この長寿を可能にしたのは私と中学と塾同期の名医渡辺登医師の功績である。 母の記憶力は抜群で数多くの生徒の名前と顔の他その家族構成まで正確に覚えていた。また 膨大な書籍の山から父の要請を即座に取り揃えることができた。この能力が父の仕事にどの位 レ女時代カルタ競技に彼女に勝る者がなかったと言われている。 い役立ったかわからない。 昭和十一年三好野という餅菓子屋製大福による大量中毒事件が発生し死者、重体者が多数出 た。この原因が当局はなかなかっかめなかったが浜松衛戍病院 ( 陸軍病院 ) の軍医がゲルトネ ル氏菌が原因だと発表して一件落着した。父はこれに対し批判を加え、当局が、当時勢力が強 い軍人の人間が言うので無批判にゲルトネル氏菌説を受け入れたと日記に書き来る客に見せて それを主張した。しかし新聞、雑誌などに意見をのせることは、この場合だけでなく生存中殆 ー 353 ー