追悼文集編集委員会 追悼文集編集委員会
願っていましたが、 やはり、出来てみれば、先生のすばらしい面が強くおしだされているの は、弟子どもとしてはいたし方ないことでしようか。 この文集の編集に参加して、いまさらに「齋藤塾」の育てた人材の優秀さを寉忍、 石 = んしオー ) き 6 , し たし、また同時に、そのことにたいする反感とまではいえぬにしても、かなり複雑な感情の存 在していることをも知りました。 巻末に掲載する予定でありました「塾生職業一覧表」は、編集委員会に回答をよせられた数 が、卒塾生に比してあまりにもすくないということからとりやめました。勿論、回答されたも プロフェショナル のについては整理をいたしました。その結果は、ほとんどが「専門職」。医学関係者が首位で田 十七 % 、第一一位は工学部・理学部出身の技術関係職十四 % 、第三位は企業管理経営者をふくむ 自営業十三 % 、第四位は法文系学部出身の事務職十一一 % 。医学部以外の大学教員・研究機関等 九・四 % 、高校教員八 % 、小中学校教員七 % 、金融機関五・二 % と続きます。 この文集の編集に参加した八人には、作業の進行とともにそれぞれの年代間の旧い交友関係 が回復したり、あるいは同年代間、年代を超えての新しい知己が増える等々のうれしい副産物 オヤジ がありました。これも先生のおかげです。「三人寄れば文珠の知恵」と、 しいますが、編集に参 加した五十代三人は、それぞれの経歴・関心事からして、まことにうまくいった分業と統一と オヤジ
編集後記 昨一九八五年八月、一周忌を前にして行われた「齋藤謙三先生を偲ぶ会」で「追悼文集」出 版が発議され、決定されました。 十数回におよぶ編集委員会の集まりによる討議と作業の結果、ようやく刊行にいたりまし こ。齋藤塾には、これも先生の考え方からでしようが、正式な「塾生名簿」といったものがあ りません。原稿依頼にしろ、通知の発送にしろ、正に手探りからの出発でした。いずれにおい ても数多くの方々がもれていることと思います。失礼の段はお詫びいたします。 「構成」につきましても、もっと立派に出来たかとも思っています。「年譜」はさらに補正 がのぞまれます。本文集の「装丁、は、卒塾生の清川泰次画伯にお願いいたしました。本文Ⅱ 冒頭の「炎のように氷のように」については、当初、編集委員会としては、「評伝・齋藤謙三」 として、もっと多くの枚数を考えていたのですが、いろいろな事情で今回は実現出来ませんで した。しかし、この文章を芯に、、 月池章太郎さんはいっか完成したいと述べておられます。編 オヤジ 集委員会としては、この文集が、塾の「懐しさ」や齋藤先生の「讃美ーに終わることなしにと ー 381 -
追悼文集編集委員会
『齋藤塾』 一九八六年一〇月一五日発行 編集・発行齋藤謙三先生追悼文集編集委員会 〒四三〇浜松市頭陀寺町一一七八ー一一 藤田武雄気付 電話 ( 0 五三四 ) 六一ー七七六一一 印刷所株式会社開 明堂 浜松市中沢町一番一号
を制し、激動の時世に、その信ずるところに従って一生を奮闘した「齋藤謙三」という一つの 極めて大きい個性と、それとぶつかりあって巣立った青春の姿、教育の真髄がここに見られる のではないでしようか 心をこめて先生に本書を捧げたい。 一九八六年十月 齋藤謙三先生追悼文集 『齋藤塾』編集委員会
使用教科書一覧表 編集後記 頌一相 頌和会と私 頌一相 . 父・教師としての齋藤謙三 Ⅵ 編集委員会 表紙・見返し・装幀清 清川泰次 カバー写真 編市齋 集 川藤 委 員 360 357 355 編集委員会 河合廣 347 365 381
序 齋藤謙三先生年譜 Ⅱ 炎のように氷のように 齋藤塾の思想 IN MEMORIAM MR. KENZO SAITO 齋藤謙三先生を偲んで 魂をゆさぶる教育 私にとっての齋藤塾 かずかずの訓え 一女生徒の心に遺ること 編集委員会 編集委員会 辻村公一 河合茂 藤田武雄 中村三枝子 真木三三子 池章太郎ⅱ 48 35 79 75
( 本「年譜」は、齋藤襄治氏・小池章太郎氏による礎稿をもとに、各方面での確認をおこな った上、編集委員会において作製した。なお不詳の年次等もあり、今後の補正がのぞまれる ) 。 編集委員会 ( 文責・中西 ) 正三年三月とのこと。同氏は、浜松市一兀城尋常高等小学校にて四年生より六年生まで齋藤謙三先生に教えを受く なお、元城尋常高等小学校退職年次は、大正五年三月とする証言もある ( 浜松市渥美典久氏・明治三十七年〔一 九〇四年〕十二月一一十七日生・元城尋常小学校にて五年生まで齋藤謙三先生に教えを受く ) 。 メソジスト教会に属し、大正四年 ( 一九一五年 ) から十五年間 ( 昭和五年〔一九三〇年〕まで ) 浜松にて伝道。 没後、郷里カナダと浜松に分骨埋葬される ( 吉川弘文館『国史大辞典』第五巻五七〇頁、参照 ) 。浜松市におけ る同氏の墓は、市内中沢町七四ノ一市営墓地にあり。 福井県三国町への派遣は、大正一一年あるいは三年の夏休み期間とする証言あり ( 前出中村国盛氏 ) 。また、そ の目的は不詳であるが、福井行は数度におよび、家族、小池礼三などの同行者もあったとのこと ( 齋藤襄治氏 ) 。 闇男子三名とも、当時、浜松商業学校生徒。増田金助 ( 清水市で高等学校教員。没 ) 。福田貴 ( 外交官。ル ニヤ勤務、スエーデン領事、等。没 ) 。前出渥美典久氏。渥美氏談「これが塾のはじまりか : ⑨残された書籍等のうち、一六、八八一一冊は浜松市に寄贈され、「齋藤謙三文庫」として浜松市中央図書館に所 蔵されている。
中学砂漠の塾がオアシス 大正十四年一月中学一年三学期に入塾しました。すぐにその班はつぶれ、その後は上の班や 下の班にくつついては続け、級友もつぎつぎと変わり、昭和四年三月中学五年卒業まで続けま に同行してビルマに入り、ウーヌー首相と単独会見したことがある。当時は東西の冷戦が激化 し、インドシナ半島の不安情勢に対し、世界の眼がこの地に集中したので、特に慌しい毎日で あった。 帰国した私は、編集委員に任命され、次いで英字新聞、朝日イ。フニング・ニュース社に出向 し、企画編集長となる。 戦中、戦後の慌しい時期を、微力ながら朝日新聞で報道の任務を務めえたことに、喜びとと もに、ささやかな誇りのようなものを感じている。塾で叩き込まれた " 負けじ魂。とおぼっか ないながらも、多少の英語を身に付けていたためではないかと、塾の生活を懐しく思い返して ( 青山学院大・文ー朝日新聞・編集委員イプニングニュース・企画編集長ー退 ) 根岸 孝 ー 171 ー