らを鞭打っ無欲の人には、どんな地位や金のある人も一目も二目も置かないではいられないわ けである。 先生のこのような生活態度が私には永年の間本当には理解できなかった。「人に見せるため わざとやっているのではよ、ゝ オしカ ? 」と疑ったこともある。しかしこれは「下司のかんぐり」で 自分のレベルの低さを示すもので恥ずかしい限りである。 御無沙汰は二十数年続いたがその間も先生のことは私の頭から離れなかった。先生の方は私 の一方的な気持ちが具体的にわかるはずはなく、永年かわいがった弟子の忘恩は許せなかった ことであろう。 昭和四十年頃から私は浜松短大で英語を教えたが、私の講義の中心はラッセル、モームなど の作品と多くのエッセイであった。ラッセルは第二次大戦以後めざましい平和反核キャンペー ンとともに次々と多くの著作を出版した。政治、国際問題を考える中に心理学を取り人れ、人 間の本質そのものから世界の平和問題を解明する考え方に多くのものを教えられ、社会主義国 家間のナショナリズムについても多大のヒントを与えられた。倫理問題にしても西田幾太郎の 『善の研究』よりもラッセルの R g ぎ and Science ( 宗教と科学 ) の方がはるかに私に は説得力があった。
日本間の教室であった。竹針を使用する手廻しの「蓄音器」でロッシーニの「ウィリアム・テ ル序曲」を聴いたのが西洋音楽への入門であったし、頭を垂れ深刻な面持ちでリストの「ハン ガリー狂詩曲」を受けとめようとしたのも懐しい思い出である。絵画についても先生はよく語 って居られたがあまり強い印象を受けなかった。ただセガンティニというアルプスなどをよく 描いたイタリヤの風景画家については先生がたかぶった感激の口調で話されたことを思い出す が、それは最近新聞紙上で知ったのだが、松方コレクションの展示会がその当時東京で開かれ その会場でセガンティニの実物を見た感動を野上弥生子が書いたことがあったらしい。その影 響だったのであろう。齋藤塾で私たちが受けた文化的洗礼は言わば岩波アカデミズムともいう べきものであった。私はその後大学で出隆教授のギリシャ哲学の講義を一寸聴講したことがあ るが、『哲学以前』のややセンチとも言える高い調子とは全く違う冷静な学者らしい講義であ ってそれはそれでまた感銘を与えられた。和辻哲郎博士が当時京都帝大から東京帝大に転任し て来られたので博士の得意の倫理学の講義も聴いて見たが講義そのものが和辻博士独特のあの 名文であったのに一驚を喫した。 先生の刺戟によることが多かったことは事実であるが、一方で私は自分なりに自分の読書を 作り上げて行った。厨川白村のものを古本屋で探して来ては貪り読んだことを私は特に思い出
今の学生にもアルバイトや受験や就職にわずらわされないで、学問に没頭できる時期をもう けてあげることが教育改革で一番必要なのではないでしようか。 遠山先生の回想記はなおっゞきます。 「東京帝大理学部数学科に入ったが、高校より程度の低い講義をする教授がいてすっかりい や気がさす。二年ほど籍をおいて退学する。 いまの人からは、ばかな奴だと思われるかもしれないが、その頃は就職難のひどい時代だっ たので東大を出ても就職はむつかしく、それだけに大して気にはしなかった。 大学をやめて家庭教師や翻訳をして食べていたが、ふとした機会にワイルの「群論」を読ん でもう一度数学をやる気になり、当時もっとも自由の雰囲気のあった東北帝大の理学部数学科 に入学した。まっすぐいったら一一十二才で卒業するところを二十八才で卒業した。学歴という レールを脱線しても、そうあわてることはないという一種の度胸のようなものができていた。 世の中は二・二五事件や日中事変がつぎつぎに起こって日ましに暗くなっていく時代だっ た。今から考えると敗戦までは私は精神的には隠遁者であった。戦後の民主々義は、人間に背 を向けていた私の精神をゆっくりと人間の方へ向けかえていった」。 長々と遠山先生の回想記を紹介したのは、齋藤先生や藤田先生の生き方と、どこか似たとこ
ことを覚えている。 私の齋藤塾での勉強は二年ほどで終わった。それは昭和三年四月から、前記の蚕業取締所へ 再度勤務することが決まったためである。その後、昭和五年四月、私は農業教員養成所に人所 し、卒業後は教員として小学校十年、青年学校六年、中学校三年、高等学校二十一年、計四十 年の教員生活を送り、昭和四十六年三月末で完全に教職を去った。 私は教員生活の四十年間も、退職後の十三年間も、年に三 ~ 四回は先生をお訪ねした。私の 若いころには先生は開口一番「読んでいるか、勉強しているか」と言われた。先生は良い本を一 推せんしてくださり、本をくださることも度々あった。お伺いするたびに教えられたことが多 く、刺激を受けて帰るのが常だった。 先生は講義の時間よりご自分の研究のために多くの時間をさいておられた。先生は哲学の難 しいお話をされることもあったが、ある時は植物の話であったり、富士山の研究の話であった り、中国の地質のことであったり、日本の民主々義の遅れた面の話であったりした。このよう に先生の学問は広汎に一旦っていた。戦後、私の勤務して、 した引佐高校へ先生をお招きして、講 堂で職員、生徒を対象に講演をお願いした。先生の博学に一同驚嘆すると共に、とかく学問よ り勤労重視に陥りやすい農業教育に、先生の講演は大きな警鐘となった。 ー 158
日練を受けたあと、昭和五十四年に講師として浜松医科大学に招かれ、郷里に帰る 法医実務の司、 , 事となった。その挨拶に伺ったところ、当時私は弱冠三十二才であったはずであるが、教授と して着任したものと誤解され閉ロした。浜松医科大学は新設医科大学であるためか、医大の教 官には塾生が少なく、彼にとって医大と言えばすぐ私の名前が上がる事となった。長い間御無 沙汰すると、先生の方から私に電話があり、慌てて伺う事もあった。私としてはもっと学問的 な話をしたかったのであるが、専門が法医学であるため、解剖、死体等いつもその様な話にな ってしまったが、先生はそれでも結構楽しんでおられたと思う。先生の亡くなられる二、三ケ 月前に先生から自宅に電話があったが、私は丁度不在であった。家内から聞いて早速こちらか ら電話をさし上げると、用件を忘れたとおっしやるのである。これはいけないと思っていたと ころ、間接的に先生の他界を知ったのであった。思えば最後まで先生の医学に対する興味と憧 は大変なものであった。 齋藤先生から受けた教育、思想が私自身にどれだけ影響したのかよく分からないが、医学部学 ループは基一 生時代、大学の講義が終わると、他の級友は遊んでいるのにわれわれ数人変わり者グ 礎医学研究室に出掛け、夜遅くまで実験したのを思い出す。そんな生活も多少とも齋藤塾の学問 ーリタニズムに影響された結果とも思われる。 ( 名大・医ー浜松医大助教授 ) 至上主義的ビュ ー 299 ー
達郎さん ( 故人 ) 、吉林幸男さん、渡辺登さんたちでした。 私は隣りの小部屋に席をあたえられ、拝聴しながら自分の勉強をしていました。 これが藤田敦男先生との出会いでした。 先生は明治四十二年に浜松で生まれ、西小学校を卒業されたのですが、足がお悪くて、軍事 教練や体操がはばをきかす市内の中学校に人学することができず、おじいさんのご尽力で掛川 中学に人学されたそうです。 先生は中学時代を次のように述懐されておいでです。 「掛川中学卒業のとき、恩師の鴇田先生に将来数学をつゞけたいと相談したところ、『これ は私が最も感銘して何度もよみ返した本である。この本を繰り返し読んで数字の真髄にふれな いって高木貞治著新式算術講義をくださった。それを何度も読み返して、今でも宝にし ている」。 余談ですが、書名が算術講義なので小学校の先生たちが競って買われ、内容が連続とか極限 についての証明でとても読み切れるものではなく、神田の古書店にはこの本が堆高く積まれて いたそうです。 もう一つ余談を申しあげます。戦後、密接な交流のあ「た東京工大の名誉教授で理学博士の
市立高等女学校でご一緒の小池よしという方が、襄治さん循理さんご兄弟のお母さんというこ とを私は母からきいた。母は一組で、よしさんは二組で、色白の頭のよい方であったと、今も 病床で語っている。私の家では弟が三人あったし、母の実家のある浜松に移転し、浜松一中に 三人共続いて人学した。私は浪人した機会に齋藤塾に入塾し、齋藤先生の講義を聴いたり、藤 田先生にも数学を教えて頂いた。金曜日の夜は、近くの常盤幼稚園から牧師のミス・ヘミステ トが来られバイプル・クラスがあり、襄治さんの通訳で、講義が進められた。私はそうした 日々の生活の中に、偏理君の自室の狭い個室に、うず高く積まれた昆虫採集の函を見せて頂き、 敬服した。そして時には旧浜松警察署裏の中山町一丁目六ノ一の借家に、昆虫採集用のタモを もって偏理君が遊びに来られた。当時は実母のよしさんが、中山町近辺に住まわれていたこと も知らず、五社神社の裏辺りにも虫がいるのかなと思っただけで、支那事変も拡大し、偏理さん は従軍し、中支に転戦の噂を洩れきいたり、私は京都の同志社大学に学んで、掛中時代の友人 の藤江金一郎君が、金沢の第四高等学校を卒えて、京大の経済学部に入学し、私と旧京都一中 の北の北山町に小宅を借りて一緒に自炊生活を始めた頃の或る日、京大で高田保馬博士のお話 を聴きに来ないかとすゝめられて、講義が終わったあと、百万遍のあたりで、学生服の襄治さ んと再会した。言語学を専攻中とのお話しで、ギリシャ語の原書をみせられて、辟易したもの ー 201 ー
して文字通り実行していました。 昔の教育と現在の教育との優劣は時代が違うから僕にはよくわかりませんが、戦前の僕は数 学を学問として教えていたように思うし、生徒の皆さんも学問としての数学を勉強していたよ うに思います。現在の学校教育での数学は受験のための数学で、あれで数学といえるのでしょ うか。ある程度のパターンを覚えて練習を積めばできるような問題ばかりでまったく驚きです。 齋藤先生と御一緒にやらせていただいた関係で、門前の小僧のたとえで英書にも関心をもち ました。今から五十年程前に手に入れたハーディのゝ Course ofPure Mathematics は僕 の宝です」。 お手紙を披露したところで、私の中学生から青春の時代を振り返ってみようと思います。 私は藤田先生に直接講義をうけた思い出はありません。しばらく上級生の講義を聞いていま したが、 そのうち鴨江の裁判所の前にある先生のお宅へ伺うようになりました。先生は机に向 かって勉強されている。私は横で本を読んでいる。何か質問すると、指で軽く本をおさえなが ら問題をのぞくようにしてお読みになって、「君、この定理を知っているかい」といわれ、定 理の証明から問題の解き方までを説明してくださいました。 勉強が終わると友人宅や塾へ行かれる先生のお供をして街をあるいたことを覚えています。
冷たい水で雑布をしぼり、整然と十して本日の清掃は終了。 「バスに乗り遅れるから早く帰りなさい コートは教室で着なさい」。 広く一般教養、そして英語で追求しながらの専門的な分野まで、「学問とは、何ぞや」と問 い直すよい授業でした。一面から見れば、大学の講義より質の高いものでした。私にとっては、 講義よりももっと思いやりをもった先生の人柄がしのばれます。 母に連れられ初めて塾の門をくぐったのは、一年遅れの中学一一年生でした。ト、 / 学校一年生で 母子家庭になった私に、母は、父親でなくては育てられない心のはり金 ( 人間の強さ ) を先生 に求めていたのでしよう。 塾生という面では、いつも立派な人達に囲まれ、自分のカのなさに悩んだときもありました が、英語の語源の勉強は、中学、高校、大学を通してずい分役立ちました。一回、しやもじで たたかれましたが、私個人のことを思ってのお叱りでした。 今、英語とはかけ離れた小学校教員をしていますが、齋藤先生の考え方は、教職の中の随所 に生かされています。雑用に追われ、それを臨機応変に処理して、 しく能力が要求される現在、 てきばきと仕事をしていかなければなりません。私は、いつの間にか、齋藤先生から処理の仕 方を学ぶことができ、感謝の念でいつばいです。 一 293 ー
ヴァン・ルーンの "Story M 。 d = は部厚い原書で二年間にわたって講義をされた が、その中でデモクラシイという単語を覚え、天皇制政体を盲信していた自分には鮮明なもの であった。 「天照大神の馬鹿野郎ーと大声で叫び天罰が下るか試してみたが、羽立朝起きて天罰のないこ とを確かめたのもその頃である。 当時先生がどのような人生観、社会観を持っていたかは少年の私はもちろん考えたこともな く、現在でも明らかには分からない。 しかしその知識は古今東西、和漢に及び各分野にわたり、また日本の現代文学などもよく読 んでいた。ラッセルの『哲学の諸問題』の講義は上級生のクラスで聴講したが、以来私はラッ セルと数十年間関り合いその思想的影響を受けた。 当時、日本のファシズムが次第にその巨大な黒い影を濃くし、中国侵略から大詰の太平洋戦 争へと突入する過程の中にあって、社会思想的なことを話すこと自身が危険な時であったが、 先生の河上肇博士に対する尊敬の念は話の中によく分かった。長谷部訳『資本論』が岩波書店 から出版された時はその本を私たちに見せくれた。私は何の知識もないのに伏字だらけの河上 肇の『貧乏物語』を買った。またいわゆる「死の商人」の話にもショックをうけた。