消費 - みる会図書館


検索対象: 交流文化 volume 14
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1. 交流文化 volume 14

巡礼はまさにポスト世俗化の好例である。 に、みんな「無信仰」を標榜しているのである。葉がもつインパクトの強さゆえに、多少の語 つまり世界各地で伝統的な巡礼地が再び盛り ここでいう「無信仰」とは修行や供養、弘法弊を承知で敢えて付けたものである。「伝統 上がっているのである。例えばスペイン北西大師信仰といった四国遍路伝統の宗教的裏付宗教がツーリズムの中で消費されている」と 部のカトリックの聖地、サンティアゴ・デ・ けを持たないという意味であるが、バスにせ言うと、多くの人は残念さを覚えたり、 場合 コンホステラでは、 1993 年の世界文化遺よ、自家用車や徒歩にせよ、現代巡礼に参加 によってはけしからんと考えたりする。なぜ 産登録を契機に巡礼者数が増加し始め、 6 年する多くの人はかってと同じような意味で信 なら消費という言葉は「資源を使い尽くし後 とい , つよ , つなニュアンスを に一度の聖ヤコプ年という年を経るごとにま仰を有しているとよ、 に何も残らない さに右肩上がりとなっている。 伴っているからである。だから巡礼ツアーで 消費される宗教 ~ だからといって、かっての聖人信仰がその 宗教経験が消費されるというと、巡礼者は信 まま復活したというわけではない。宗教社会近年の新たな巡礼プームでは、旅行会社が 仰を積み重ねることなく、刹那的な観光ばか 学者の岡本亮輔によれば、現在同地を訪れる商品化したりメディアを通じてイメージが広りを楽しむ観光客に堕してしまったのではな かったり・と、 巡礼者の多くは決して伝統的な意味でのカト いか、というイメージを生み出す。 一見通常の観光旅行と同じよう リック信者ではないという。つまり、毎週教な展開が見られる。そして参加者も自分の意しかし実際には必すしもそうではない。例 せんだっ 会に通い正しい信仰のありかたを磨いてきた識としては「無信仰」であるという人が少な えばバスで行われるツアーには「先達」と呼 敬虔なクリスチャンではなく、むしろ日頃は この点をとると、確かに巡礼は宗教ばれる、霊場会 ( 寺院の合同組織 ) 公認の先導 あまり宗教に興味のない、 ヨーロッパを中心性を完全になくし、観光一辺倒になったので役が同行し、巡礼者を案内する。私はそう ッ - に世界から集まった「ごく普通の若者」である。はないかという疑念を持ってしまう。ポスト したツアーに何度か同行して取材したが、 彼らは発展しきった都市での日常生活に嫌気世俗化時代の宗教研究では、このように一見アー参加者は先達を手本に、実に熱心にお参 がさし、徒歩で聖地を目指しながら他の巡礼 したところ宗教ではなくなりつつある現象が りをしようとする。それは先達の同行しない 者や沿道の人々との交流を行い、歩 くという果たして本当に宗教性を抜きに成り立ってい 自家用車や徒歩での巡礼者も同様で、ほとん 前近代的な交通手段をあえて採ることで非日る現象なのかと問いかけてきた。 どの巡礼者がたどたどしいながらも読経をき 常性を感じ取っているのである。 その一環として、最近私は現代巡礼に関すちんと行い、宿坊 ( 寺院付設の宿泊所 ) では早 おもしろいのは、現代の四国遍路を行ってるエスノグラフィー ( 民族誌 ) を出版する機朝に起きて「お勤め」をする。また徒歩巡礼 いる人の多くがサンティアゴ巡礼の巡礼者と会を持ったのだが、その本の副題に「消費さ者は困難な道のりを延々歩くことを厭わす、 同じような考えを持っている点だ。要するれる宗教経験」と人れた。「消費」という言金剛杖と呼ばれる細い木の杖を頼りに、体力 0

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Book Review 聖地巡礼 ツーリズム 一寒「聖地巡礼ツーリズム 一譬 ' ~ 星野英紀・山中弘・岡本亮輔編三 9 = ) 観光と不可分な巡礼 現代の巡礼の最も特徴的な点は、ツーリズム ( 観光 ) と不可分になっていることである。人 を集める巡礼地では、ホテルや鉄道が整備さ れているのはもちろん、そこにいくためのパッ ケージツアーが旅行会社によって多数用意され ている。また一見素朴にみえる巡礼者も、交通 機関や宿泊業を利用しない人はなく、旅行雑誌 やメディアをフル活用して巡礼を行っている。 しかし巡礼研究と言われる分野では、これま でもっぱら宗教的な側面を研究するばかりで、 ツーリズムと結びついた側面についてはきちん と研究されてこなかった。現代的にアレンジさ れることで、巡礼のどこが変化し、何が持続し ているのか。そうした観点から、私は最近ニっ 光は今世紀を代表する一大産業にな コンポステラやルルドは年々巡礼者を増やしての著作の出版に携わった。 、世界をますます多くの人が旅すおり、日本でも四国遍路や熊野古道がプームと 四国遍路の現在 るようになっている。それにつれて、 なった。近年ではパワースポットやアニメ聖地 最も伝統的な旅のかたちである巡礼もまた盛ん巡礼といった現象がさかんに雑誌やネットで取まず私の単著である『巡礼ツーリズムの になっている。ヨーロッパのサンティアゴ・デ・ り上げられている。 民族誌ーー消費される宗教経験』 ( 森話社、 巡礼ツーリスムの民族誌 4 巡礼ツーリズムの民族誌 ーー消費される宗教経験 門田岳久著 ( ニ〇一 = l) 森話社 ( 本体五六〇〇円十税 ) 、・ ( 今回の読書案内は、〈 巡礼研究に携わる

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では、宗教的な経験であるといってもいいのること」、「身体の痛み」や「奇跡」など、巡 の限界に挑んでいる。その姿は「楽に・手早く 礼で果たされる各種の経験である。 , ) うした 移動することを目指してきた近代の観光とはではないだろうか 経験はその場その場で消尽されていくわけで 対極にあるよ、つに見える。ロでは無信仰だと 「心の旅ーと新しい観光 はなく、確実に巡礼者の心や身体に残り続け しいつつも、その行為自体は決して一般の観 このような心や内面の変化が期待される旅るものとなる。 光で代替できるようなものではない は、旧来型の大衆観光にはそれほど見られる近年観光のかたちはますます多様化し、巡 というべき性格は、 , ) の「代替不可能性」 現代巡礼の最大の特色である。便利さや快適ものではなかった。長く国内観光の主流を占礼ツーリズムのような内面重視の「心の旅 さであふれた日頃の生活を脱し、敢えて苦労めてきた観光のタイプは、「見る」「食べる」「買のニーズは明らかに高まっている。たとえば の多い巡礼の旅を行い、時に足腰に強いて痛う」にポイントを置き、かっ短時間で名所訪心身の健康を回復する旅であるヘルスツーリ みを与えつつ、また時に自らの来し方行く末間を次々にこなすために観光対象に深くコズム、神聖な体験を行うことを目的とするス ピリチュアルツーリズム、他者に尽くすやり 、くットしない傾向を持っていた。つまりツー を思念しながら瞑想を行う巡礼地での彼らの 、こよって自らの存在意義を再確認するボ 経験は、他の手段ではなかなか得られるものリストは観光資源を次々に消費 ( 消尽 ) してが ( ( ランティアツーリズムなど、 いくつもの類例 ではない また巡礼ツアーの中では巡礼者がきたといってもあながち間違いではない それと比較した場合、現代的な巡礼は大きを挙げることができる。かって観光は、「お 奇跡に出遭うことが多々ある。例えば長い巡 礼の旅が終わりカタルシスを味わう中で、目く異なっている。ます巡礼者が経験する旅の伊勢参り」のような宗教的な物見遊山から離 の前に死んだ者の姿が現れ、自らに語りかけ出来事は規格化された旧来型の観光と異なり、れ、純粋なレジャーとなることで近代化を果 たしてきた。いわば観光の世俗化である。し るといった超常現象である。 , ) うした奇跡譚生き方や内面をえぐるような予測不可能なも は、現代巡礼が巡礼者の心身にいかに刻み込のである。なおかっ他の巡礼者や沿道の人々かし今、観光は再び「宗教的なもの」と接近 との交流は、ホスト / ゲストという立場が明することで、可能性を広げつつある。観光研 まれる経験であるかを伝えてくれる。 彼らは弘法大師空海に帰依しているわけで確に分離した旧来型の観光とも異なる様相を究においても、巡礼という古くて新しい主題 を改めて位置付け直す時期に来ている。 はなく、仏道に身を投じるため修行しようと見せるものである 内面重視の観光では旅を通じて自分の中に しているわけでもない。その意味では確かに 「無信仰」である。しかし心や内面が大きく何かを残す、という , ) とがポイントとなって くる。巡礼ツーリズムの場合「何か」に相当 変化する巡礼者たちの旅は、科学や合理性に 回収しきれない経験であり、そのような意味するものは、例えば「人生の回顧」や「信じ 1 1 特集巡礼観光と巡礼

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を第・賢 mi ーⅲ可面ⅲ朝 住 S 以 R え 4 参考文献 門田岳久 2013 『巡礼ツーリズムの民族誌ー消費される宗教経験』森話社 岡本亮輔 2012 『聖地と祈りの宗教社会学一巡礼ツーリズムが生み出す共同性』春風社 マックス・ウェーバー ( 大塚久雄訳 ) 1989 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店 13 特集巡礼観光と巡礼

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列島におけるカトリック信仰は、迫害、潜伏、 復活という苦難の道のりを、世代を超えて経 験してきた。しかも浦上の信徒はその後、長 崎原爆の爆心地をも経験している。過酷な歴 史を背負っている分だけ信徒の信仰心は厚く 教会は信徒の日常生活に密着している。 私たちの心をとらえる旅 「巡礼」と「観光」との関わり 人は長い人生の折々で、生きてい ノ、 , ) との一古しさは 苦しさを味わう。生きてい いつの時代も、宗教・宗派を問わ おそらく、 す、普遍的な感情であろう。そうであるから こそ迫害、潜伏、復活を経験した長崎の教会 には、信徒であるか否かを間わすそこを訪れ る者と苦しみを分かち合い、私たちの傍らに 寄り添ってくれる真心の大気が満ち満ちてい る。このことこそが、長崎の教会への旅へと 人々を駆り立てる大きな動機になっているこ とは確かであろう。一方で、長崎の教会は、今、 観光商品化の渦中にある。この一見ジレンマ とも見える現象について考えることを通して、 私たちは「巡礼」と「観光」との関係を探っ てゆくことかできるだろう 0 聖フランシスコ・ザビエル記念教会 ( 平戸市 ) 参考文献 稲垣勉 2001 「観光消費」岡本伸之 『観光学入門』有斐閣アルマ 海老沢有道 1981 『キリシタンの弾圧と 抵抗』雄山閣 松井圭介 2013 『観光戦略としての宗教 ー長崎の教会群と場所の商品化ー』筑 波大学出版会 宮崎賢太郎 2001 『カクレキリシタン : オ ラショー魂の通奏低音』長崎新聞新書 41 特集巡礼キリシタンと現代の教会巡礼

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グロー 、ハリゼーションの深化によって、優勝一人歩きしてしまう。すると、住民や信徒が 助劣敗の地域間競争が繰り広げられており、長その新たな価値を守り通すことを押しつけら 津崎もその例外ではない。特にキリシタンが多れたり、その価値にそぐわないものは切って く居住していた外海や平戸、五島列島は都市捨てられたり、といった危険がっきまとう。 また、観光客によってもたらされる収人は 竣部から遠く離れた半島や離島といった辺境の 地であり、過疎化が急速に進行している。そ主としてホテルや旅行会社などの業者に人る のため、他の地域との差別化を図りながら地ことになり、教会を守ってきた信徒には、ゴ 、 , 、問題や駐車場不足、トイレ清掃など負の側 域活性化することが喫緊の課題となっている。 近年、「長崎の教会群とキリスト教関連遺面が押しつけられるだけ、ということにもな りかねない。すでに、長崎の教会観光研究の 用産」と題して、キリシタン史に裏打ちされた 教会を世界文化遺産へ登録することが目指さ第一人者である松井圭介は著書の中で、地元 れており、 2007 年には文化庁からユネスのカトリック教徒にとって信仰の場としての コに推薦される暫定リストに登録された長教会や儀礼の場としての聖人殉教の地が、観 崎の観光産業にとって、修学旅行をはじめと光化によって観光客の個人的な祈りや癒しの する団体旅行が落ち込んでいるため、世界遺場、あるいは四国遍路を見本とした「ながさ 「ー ~ 告町れ産 ~ の登録は願 0 てもないことだろう。教会き巡礼」の創出というような、新しい意味を や信徒にとっても、過疎化が進む中で、観光持った巡礼地として再編されつつあると指摘 している ( 松井 2 013 ) 。 収人が教会の維持に寄与するかもしれないと 会 現代社会においては、観光客の嗜好は速い の期待もなされている。 宣 しかし、世界遺産化には大きな間題もはらスピードで多様化しており、とある場所や文代 む財 む。ひとたび旅行会社や行政、観光協会の視化が商品化され、消費され、飽きられると、 を文 また新たな商品が生み出される、という一連 島要点から、各所に眠るキリシタン史や教会およ 戸重 ら指び信徒の信仰生活に観光「商品」としての新のサイクルが高速回転している。教会が日常礼 か国 たな価値が付与されると、メディアや観光客生活に密着している長崎においては、世界遺 串設 長施 などによって都合良く解釈され、その解釈が産化と教会や信仰の観光商品化に伴って、教

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次号予 2014 年 3 月刊行予定 特集 おみやげ 父 ) ル文化 14 2013 年 1 1 月 20 日発行 筆者紹介 ( 50 音順 ) 門田岳久 ( かどた・たけひさ ) 観光学部助教 東京都立大学人文学部社会学科卒業。東京大学大学院総合 文化研究科超域文化科学専攻文化人類学コース博士課程修 了。博士 ( 学術 ) 。日本学術振興会特別研究員を経て、 2012 年 より現職。単著に『巡礼ツーリズムの民族誌 - ー消費される宗 教経験』、共著に『宗教と社会のフロンティアーー宗教社会学か らみる現代日本』、『聖地巡礼ツーリズム』、『来たるべき人類 学 3 宗教の人類学』、『都市の暮らしの民俗学 1 都市とふる さと』。近年は沖縄の聖地観光について研究を進めている。 佐藤大祐 ( さとう・だいすけ ) 観光学部准教授 2003 年筑波大学大学院地球科学研究科修了、博士 ( 理学 ) 。 長崎国際大学国際観光学科講師を経て 2009 年より現職。専 門は観光地理学 ( 対象は海岸・高原のリゾート , 文化伝播 ) 。主 な著書に『地域調査ことはじめー - あるく・みる・かぐー - 』 ( 共 著 ) 『観光の空間一一視点とアプローチ - ー』 ( 共著 ) など。 内藤順子 ( ないとう・じゅんこ ) 観光学部兼任講師 早稲田大学理工学術院創造理工学部専任講師 2007 年九州大学大学院人間環境学府単位取得退学、日本学 術振興会特別研究員 (PD) 、立教大学観光学部助教を経て 2013 年より現職。専門は文化人類学 ( 都市、観光、宗教、開 発 ) 。フィールドはラテンアメリカおよびスペイン、主な著書に 『「境界」のいまを生きる』 ( 共編著 ) 、『支援のフィールドワー ク』 ( 共著 ) など。 発行人 編集人 デザイン 印刷 村上和夫 大橋健一 望月昭秀 千代田巧芸社 問い合わせ先 立教大学観光学部 〒 352-8558 埼玉県新座市北野 1-2-26 TEL 048 ー 471 ー 7375 http://www.rikkyo.ac.jp/tourism * 本誌掲載記事の無断転載を禁じます。 ◎ 2013 Rikkyo University. College of Tourism. Printed in Japan. I S B N 9 7 8 ー 4 ー 9 9 0 5 8 7 8 ー 0 ー 2

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た「佐渡」を執筆している。 2013 年 ) では、文化人類学・民俗学の観点を通じて熱心に拝んではいるが、没入の度合い これまで宗教学では、聖地がなぜ存在する から、日本の巡礼、とりわけ四国遍路の現在にはそれほどでもなく、時に信仰なのか観光なの か分からなくなってくる。それは「他者」と突のかというと、その場所自体が強い宗教的なカ ついて論じた。現代では巡礼がツアー商品にな いうなれを有しているからだと考えたり、あるいは「天 る一方、完全に娯楽や消費対象になるわけでもき放せるほど遠い世界の話ではなく、 ば「私たち」の日常感覚で捉えられる範囲の話孫降臨」のように、ある場所に強い力を持った なく、地域の習俗としての側面や「お参り」と 霊的存在が偶然降り立ってできたと考えてき である。日常性の中で宗教の拡がりを捉えるこ しての意味も残している。それは「巡礼ツーリ と、それは私の考える民俗学的視点であると言た。いずれにせよ人間の力をはるかに超越した ズム」というべき、伝統と近代との融合である。 ハワーに結びつくことが、聖地成立の要件だと 私は四国での巡礼ツアーの現場、旅行会社やえる。 考えてきたのである。 巡礼者の日常的実践の場で参与観察を行うとと 聖地をめぐる動向 しかし現在聖地と言われている場所は必ずし もに、四国遍路への信仰の篤い佐渡島で、ツアー もうひとつは宗教社会学を専攻する人たちがもそればかりではない。より現実的な、人間の 経験者から聞き書きを行った。本書はツーリズ ムを介して宗教的世界に関わろうとする人々の集まって編んだ『聖地巡礼ツーリズム』 ( 星野営みの中で作られてきた場所が多い。本書の掲 英紀・山中弘・岡本亮輔編、弘文堂、 2012 年 ) 載事例でいえば、アウシュビッツやニューヨー エスノグラフィー ( 民族誌 ) である。 本書は博士論文をもとにした著書であり、事である。右記の単著が人々の宗教経験や内面性クのグラウンドゼロ、御巣鷹山は人為的な悲劇 例分析に加え、いくつかの理論的考察を行ってに焦点をあてた内容であったのに対して、本書を鎮魂するために多くの人が訪れる場所となっ いる。最も重視したのは「普通の人々」の宗教は聖地という場所をめぐる動向に焦点があてらている。また毛沢東の生誕地やバングラデシュ 1990 年代にいくれている。つまり現在聖地とみなされ、多くのの聖者廟は、歴史に名を残す個人への崇拝がも 的経験を描くということ。 つものカルト事件を経験してきた私たちにとつ人を集めている場所がどのような歴史をたどっとになった聖地であるし、巨大大仏として知ら て、「宗教」という響きは必ずしも心地よいもて現在の姿に至ったのかを、宗教的な観点だけれる牛久大仏やアニメの聖地と呼ばれる今戸神 のではない。それは多くの人にとって理解不能でなく、ツーリズムや政治状況にも焦点をあて社は、メディアのカ抜きには語れない 本書はこのように聖地というには意外な場所 な「他者」の出来事であろう。他方で、宗教はて描いたものである。 崇高であり人間存在の根本を規定する至上の価取り上げられている場所は世界カ所に上も多く取り上げている。それを通じ、現代の人々 る。その中で私は「四国遍路」に加え、世界文が何を「聖なるもの」と捉えているかを知るこ 値とする考えもある。 だが本書で描かれる人々は巡礼に対して「力化遺産にも指定されている沖縄の聖地「斎場御とができ、結果として宗教と観光の接合という、 ルト」的に没入しているわけでも、崇高な理念嶽 ( せーふあうたき ) 」、それに律令時代以来多極めて現代的なテーマへと読者を誘う。 ( 門田岳久 ) くの貴人が流され、独自の宗教性を蓄積してき を持って行っているわけでもない。確かに巡礼 43 読書案内

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海が修行した道のりだといわれているが、現に過酷な旅に追いやられた彼らの苦境を際立 はじめに たせている。 在のルートが確立され庶民層にまで広がった なぜそこまでして彼らは悲痛な旅路を行く あらゆる宗教は、信仰上特別に意味づけらのは概ね世紀だとされている。近世におい れた場所を持っている。奇跡の起きた場所やては庶民の宗教的実践として、西日本一帯かのだろうか、と思わせる演出である。しかし 教祖の生死の地、修行の地など理由はいろい ら巡礼者を集めていたという。徒歩で廻ると旅に出なければその父子には、より過酷な生 ろだが、それらは一般に聖地と呼ばれている。成人男性の足でも優に日は要する長い巡礼活が待っていたはすであり、巡礼の旅は彼ら 聖地に赴くことは信徒にとって重要な勤めで地である。苦難の多い四国遍路に行くことは にとって救いを求めた行為だったのかもしれ あり、信仰を深めるために聖地を訪れること俗世からの「死」を意味し、今でもその象徴ない。伝統的な四国遍路はこのように「死」 を巡礼と呼んできた。 として巡礼者は白衣 ( 白装束 ) をまとっている。のにおいを少なからす伴い、必すしもプラス 巡礼は移動すること自体が修行なので、本四国遍路の役割は単に信仰を深めるというの意味合いばかりではなかった。 来は楽しみやレジャーのための旅 ( つまり観光 ) ことだけではない。近代以前には傷病者や生 とはいえ、長く「業の病」と差別されたハ ではない。しかし現実の巡礼は多かれ少なか死のみぎわにある人、障碍者など、「普通ー ンセン病も、医学の発達や法改正によって通 れ観光的な要素を含んでおり、宗教研究だけの生き方をできなくなった人が流れ着く場で常の病と同様の治療が可能となり、やむに已 でなく観光研究の立場から考えることも可能もあった。 まれす巡礼の旅にでなければならない時代で である。以下では日本を代表する巡礼地であ たとえば名作として知られる松本清張のはなくなった。現在の四国遍路ではそのよう る四国遍路 ( 四国八十八カ所札所 ) を例に、「巡長編推理小説『砂の器』の一シーンに、殺人な巡礼者は皆無となり、かってのような暗い 礼の観光化」を考えるための基本的な視点をを犯すことになったある青年文化人の知られイメージはすっかりなくなったといってよい 紹介していきたい。 ざる過去が回想される場面がある。それは代わって多くを占めるようになったのは、 青年が幼少時、ハンセン病を患う父親に連れお参りをしながらしつかり観光も楽しむよう 四国遍路の観光化 られて四国へ巡礼の旅に出るというものであな、巡礼と観光との境目の人々である。観光 四国遍路は全長 1300 を超える巡礼路る。その後の人生を送る中で青年は別の名をと一体化した巡礼のことを、私は「巡礼ツー であり、四国を一周する沿道に「札所」と呼名乗り、ハンセン病者の子であるという過去リズム」と呼んでいる。そもそも巡礼は移動 ばれる圏の寺院がある。その一つ一つに参詣を消し去って生きてきたのだが、 1974 年や宿泊が不可欠であるため、交通網や観光関 していくのが「お遍路さんー ( 巡礼者 ) である。の映画版では父子が四国を巡る場面に悲壮な連産業の発達は、必然的に巡礼の観光化を促 起源は平安時代、真言宗の開祖・弘法大師空が流れ、そのことが余計に、差別ゆえした。