特集に関連する書籍の中から今回選んだのは、 交流文化としての食を考えるのに最適のニ冊 驚くほど多様化した 「中国外の中国料理」の現在 アジア遊学行 特集「世界の中華料理」 勉誠出版 ( ニ〇〇五 ) 一八〇〇円十税 Book Review 読書案内 者らによる詳細な事例をもとに解た中華料理が海外に伝播していく だけでなく、中国内でも外からの 説している 日本をはじめ韓国、インドネシ食文化が流入することで本家の中 アといった周辺アジア諸国から北華料理に変容が起こっていること だ。本書が注視するのは「料理を 米ヨーロツ。ハに及ぶ豊富な事例が 紹介されるが、多様化には大きく文化としてとらえ、そうした文化 が多文化と接触し、受容、拒否、 三つの類型が見られる。第一に、 幾分「現地化」されながらも伝統解釈といったプロセスを経て変容 の姿を保とうとする高級レストラしていく姿」なのである。 なかでも「日本の『国民食』と ンの「正統」中華料理。第ニに、 チャプスイ ( 北米風中華雑炊 ) やしての中華」という論考では、も ラーメンのような中国には存在しともと中国伝来の食文化がいかに ないほど「現地化」した料理。第日本食として一般化し「国民食」 三に、東南アジアに見られるようとなるかというプロセスに注目し ている。本号における「ラーメン なほとんど中華料理とは思えない 編者によると、中華料理には北 という近代」と問題意識の重なる 京料理や広東料理といった「大伝ほど「土着化」した料理。 一般にこうした料理は正統を知部分も多いので、併せて読んでみ 統」以外にも、見落とすことので る者の目からは「まがいもの」とると面白いだろう。 きない一群の「小伝統」があり、 なお、本号に寄稿いただいた香 その一潮流が「中国外の中国料見られがちだが、日常的にそれを 理」だという。それはまさに本号食している人々にとっては、これ港中文大学の張展鴻準教授も「返 還後の香港広東料理」という論考 こそが中華料理だと認知されてい 号の特集「交流が生における日本のラーメンであり、 を執筆している。香港の観光客向 む食のかたち」というスリナムのチャオミンにほかならるのである。 テーマについて、もつない。本書ではその全世界的な規興味深いのは、多様化の諸相はけ料理の流行の背景にある中国返 と突っ込んで知りたいと思われた模で驚くほど多様化した中華料理単純に地理的な距離ではなく、交還がもたらした香港人のアイデン 読者に恰好の題材を提供しているの現在の姿を、それぞれの特定地流の生じた歴史的文化的な状況のティティ危機について理解を深め 域を専門にした人類学者や社会学違いに大きくよっていること。まることができるだろう。 のが本書である。
ベトナム観光の現状と課題 観光学部では、ニ 00 六年度からベトナム国家大学ハノイに属する社会人文大学の観光学部、 ベトナム言語ベトナム文化学部との間で共同の教育プログラムを開始する 同国の観光教育の中心的機関である社会人文大学観光学部学部長 ディン・チュン・キエン氏にベトナム観光の現状についてご講演いただいた。 一二 % 。東南アジア諸国からのベトナム訪間 とはいえ、一九九〇年から二〇〇四年に 一五年間て外国人旅行者数か一 0 倍 かけてベトナムを訪問した外国人旅行者数は者はまだそれほど多くないのが実情です。特 ベトナムはインドシナ半島の東側に位置し、年々着実に増えています。二〇〇四年の旅行に〇一年以降、中国の観光客が増えています。 」に中国、西にラオス、カンポジアと国境を者数は約二八三万人と、三〇〇万人に迫る勢中国人の海外旅行解禁ゃべトナム政府による ビザ免除措置などの影響が大きいようです 接し、東岸は南シナ海に面しています。日本いです。一九九〇年以前は観光客がほとんど の南西約三六〇〇キロの場所にあります。正いませんでしたし、当時年間の旅行者数が約中国を訪ねるベトナム人の数と比べると、べ 式な国名は「ベトナム社会主義共和国 ( s 。 cialist 二五万人だったことを思うと、この一五年でトナムに来る中国人旅行者数は一〇倍になり 一〇倍以上になったことがわかります。〇三ますが、中国の人口はベトナムの一五倍もあ Republic 。「 Vietnam) 」で、首都はハノイです 一九七六年にベトナム戦争が終結し、南北年に少し減少しているのは重症急性呼吸器症るので、当然なのかもしれません 統一されました。 候群 (SARS) の影響ですが、翌年にはすぐに 日本語ガイドは全体のわすか六 % ベトナムは日本をはじめ中国や韓国、東南回復しました。 アジアの国々の協力により近年大きな発展を外国人マーケットのシェアでいうと、二〇日本人旅行者数はここ数年伸び悩んでいま 遂げてきましたが、観光産業や観光教育の現〇四年の場合、中国 ( 約七八万人 ) が約一一八 % すが、個人あたりの消費能力の高いのが特徴 状はまだこうした周辺国にくらべると遅れてとトップで、次いでアメリカと日本 ( 約です。ただし、受け人れ側のベトナムの観光 います 二三万人 ) 、台湾、韓国などがそれぞれ約産業にはまだ問題が少なくありません。たと 【 e c ざ「 e 一最近の講演会から 「ベトナム観光の現状と課題」 ディン・チュン・キエン氏 ベトナム国家大学ハノイ 社会人文大学教授、観光学部長 ニ〇 0 五年一〇月七日 池袋キャンバス 八号館八一〇一教室
南米大陸北東部、大西洋沿岸の熱帯地域にされた、ほば一世紀前に刷られた絵葉書には、基本である。大抵の場合、肉は調理済みで冷 スリナム共和国という小さな国がある 中国系・ヨーロッパ系・インド系・ジャワ系・たいが、熱帯では苦にならない。野菜にはナ 首都バラマリボの中央市場にはいろいろなアフリカ系という当時の主要五集団を用いてガササゲが使われることが多いナガササゲ 飲食店が軒を連ねている。「平記賓館」なるスリナム社会の多元性が表現されている は、ナシゴレンやローティの付け合せとして 中国系食堂の看板には、「チャオ、 , 、ン ( 焼きソ , ) うした歴史的・社会的背景から、スリナも多用されており、スリナム料理で不可欠の パこ、焼き飯、そしてソフトドリンクというムにはさまざまな地域に山来する料理が存在食材となっている この食堂の主な商品の名が記されている。そする。「中国料理」のチャオ、 , 、ンや、「ジャワ さらに、キュウリの酢漬けと激辛唐辛子の して、食堂の店先では、ジャワ系とインド系料理」のナシゴレン、「インド料理」のローティスライスも付いてくる。この唐辛子はハバ、、 と思われる人々が燻製魚を売っている。 は、最も人気のある外食メニューだ。スリナロの一種で、スリナム料理屋ならどこでも置 スリナムは、世界でも珍しい多民族国家でム人が、ユダヤ系企業フェルナンデスのソフ しているものだ。スリナム人にはそれくらい ある。旧宗主国のオランダ王国が一七世紀中 トドリンクを飲みながらこれらの料理を食べ辛い物好きが多く、「そこがオランダ人とス 葉から二〇世紀前半までの間に、プランテー ている姿は、ランチであろうがディナーであリナム人の大きな違い」と言う人もいるくら いである。 ション産業の必要に応じて、世界のさまざまろうが、きわめて日常的な光景である な地域ーーアフリカ大陸西岸、現在のインド さて、このチャオ、 , 、ンであるが、実際には こうしてみると、「中国料理」のチャオ、 , 、 やインドネシア、中国大陸南部など に労単に焼きソバと形容するだけでは物足りない ンにもスリナム的な側面が多々備わっている 働力を求めたからだ。したがって、スリナム山盛りの麺の上にブッ切りのトリ肉が表面を ことが分かる。熱帯の木陰でフェルナンデス 共和国の人口は、黒人奴隷やアジア人労働者覆うようにテンコ盛りになっている。注文にを片手にチャオ、 , 、ンで腹を膨らませつつ、ス の子孫で構成されていて、きわめてモザイク応じて豚肉や牛肉が加えられることもあるが、 リナムの友人とするおしゃべり。私にとって、 的である。「我らスリナムの子供たち」と題スリナム人が大好きなトリ肉が使われるのが日本ではできない贅沢である 0
パラマリボの中国系食堂で食べたチャオミン
立ロ 開催日講演者 10 / 7 ディン・チュン・キエン ベトナム国家大学ハノイ社会人文大学 1 / 12 保継剛 中山大学 対象 本学学生、本学教職員、一般市民 演題 ベトナム観光の現状と課題 ディズニーランドと中国の観光開発本学学生、本学教職員、一般市民 開催日演題 12 / 1 1 雲南およひ周辺地域の観光開発に伴う文化変容 近年、観光開発が著しく行われる中国の雲南省およびその周辺諸国において、観光が重要な産業とし て発展してきた。本会議は観光開発に伴う地域の変貌と文化の変容に関わる研究成果を発表し、社 会学、文化人類学、地理学及び行政など多岐に渡る視点から意見を交換する。 研究発表 中国雲南省・西双版納における観光開発および問題点ーー - 劉剛 ( 沖縄大学教授 ) 観光強省づくりを目指す雲南の動向 - ー一周文傑 ( 中国国家観光局所長補佐 ) 雲南隣接地域における観光化ールアンナムタ・ラオスの事例ーー稲垣勉 ( 立教大学観光学部教授 ) 西双版納における刀耕火種 ( 焼畑 ) の変貌ーー白坂蕃 ( 立教大学観光学部教授 ) 世界遺産麗江古城の観光開発ーー杜国慶 ( 立教大学観光学部助教授 ) The Sociallmpacts of lsland Tourism in Malaysia Badaruddin Mohamed ( マレーシア科学大学準教授 ) います。そのため、大学でも観光学を学ぶ学 科は人気が高く、就職率もいいといえます。 ただベトナムは観光資源が豊富ですが、開発 はまだ力不足といわざるを得ません。 a ベトナムの国内旅行の動向について教え てください < ベトナム戦争中、私も軍人でしたが、戦争 終結後三〇年がたち、時代は大きく変わり ました。ベトナム人も日本人や中国人と同 じように旅行が大好きです。ですから、生活 レベルも少しすつ上がってきた最近は、国内 旅行もかなり盛んになっています。でも、海 外旅行はまだ少し先のことのようですね。 つかべトナム人も海外旅行が自由にできる時 代がくるようがんばりたいと思います。 a 日本人観光客がベトナムに期待するもの と欧米人や韓国人のそれは違いますか < 日本人はきちんとスケジュールされたツ アーを好み、ホテルも市内の繁華街に近いに ぎやかな場所のものより静かな郊外のホテ ルが好きなように思います。お土産も高額 で高品質の商品に関心が高いようです。それ に応えるのはなかなか難しいことですが、少 しすっ努力を続けていきたいと思っています。 ベトナム観光の現状と課題 4 ・
である福岡市の成立は、このような日本の近 に、ラーメンは日本に定着・普及してきたの 都市・観光・ラーメン 代史と深く関連しており、九州内の人々、とである。私は、ラーメンの歴史とは日本の近 今や日本全国にまで広がったとんこっラー に若者たちは、この福岡市の都市性を消費代、あるいは近代民衆の歴史ですらあると考 えている。 メンの本場、福岡での観光客の昼食の定番はしに福岡市を訪れる。つまり「観光」しにやっ やはりとん , ) っラーメンだろ、つ。福岡のラー て来るのである。 ところで、新横浜にあるラーメンをテーマ メンのスタイルが確立した場と言われる、市 としたア、 , 、ユーズメント施設、新横浜ラーメ ラーメンの歴史と近代 の中心部にほど近い博多漁港そばの長浜地区 ン博物館のホームページにある「日本ラーメ にある「元祖長浜屋」の前には、 週末ともな ラーメンが観光資源となっている場は福岡ンの歴史」 というサイトを見てみると、興味 るとガイドブックを抱えた観光客の長い行列市ばかりではないその先駆けとも言えるの深いことに気づく。このホームページでは日 ができるし、一九九六年に開業した複合娯楽は札幌だろう。みそラーメン発祥の地であり、本のラーメン史を年表形式でわかりやすく紹 施設「キャナルシティ博多」内にあるテーマもう二〇年以上前に、すでに「ラーメン横丁」介しているが、ラーメンの定着期を戦中から ーク「ラーメンスタジアム」は、今や福岡が観光地となっていた札幌市は、福岡市の先戦後としている点が興味深しナオ 、。こ、、こ、戦麦ど を代表する観光スポットとなっている。ここ輩格とも言える。ただ、福岡市と札幌市は のように日本人の生活文化にラーメンが普及 には日本各地のラーメンが集められているに ともに近代に発展した都市であり、また両者していったかはあまり明確に記されてはいな もかかわらす、一番人気はやはり地元のとんとも「支店都市」の典型と呼ばれる、非常に 。しかし、前述の時代区分で興味深い点は、 こっラーメンのようだ。ラーメンは、福岡の似た性格を有している。これは偶然なのだろラーメン定着の担い手が、中国大陸からの引 立派な「観光資源」の一つとなっている。 うか。この場で、その謎を紐解くことはでき き揚げ者だった点である。そ、つするとラーメ 福岡市の特徴は九州最大の都市というそのないが、その糸口ぐらいは見つけられそうでンは、ある意味で第二次大戦前の、日本人の 一点であるし、それ以外の特徴はない。幕末ある。そこで一旦、ラーメンの歴史に目を向海外進出 ( 植民地支配という負の面が大きいが ) 期の人口は三万人程という、どこにでもあるけることにしよう の落とし子とも言える存在なのである。これ 城下町の一つであった。それが日本の国民国 ラーメンの起源か中国にあることは、日本は、 インドの植民地支配によりイギリスにも 家化にともない、九州を管轄する行政の出先人なら皆知っている事実である。そして、日たらされた茶が、紅茶文化としてイギリスに 機関が福岡市に多く出現することで、この街本にラーメン屋が登場したのも明治以降とい 定着した動きと似ている は大きな変貌を遂げることになる。「支店都うことは容易に想像できる。つまり、日本の ちなみに現在、福岡で食されているとん こっラーメンのスタイルも、博多漁港脇の長 市」としての近代の、そして九州一の大都市近代の成立と発展に歩調を合わせるかのよう ′ 0
楽しんでいたのである。地元の伝統を強調した「盆菜」は地元 の観光宣伝でエキゾティシズムを売りにする一方で、一九九〇 「私房菜」 年代の香港におけるイギリスによる支配の終焉のメタファーと 隠れ家風プライベートキッチン しても理解されている。言い換えれば、政治的な文脈において 「盆菜」は新界地区の親族の絆を深めるものから、香港全体の 香港では「私房菜」と呼ばれている独自のメニューを目にす シンボルとして変化してきたのである。 る。それらは家庭的な雰囲気を強調した料理で、その料理店の 「盆菜」は大きなボウルを親族一〇、・一二人でとりわけるとい オーナー独自の個性が反映されるものである。中国料理やヨー う伝統的な食事のスタイルだけにとどまらす、今では村の宴会 ロッパ料理などさまざまな「私房菜」料理店があり、それらは 場ではなく市街地の家庭でも食されるようになっている。興味皆、香港の普通料理である広東料理ではないことやヨーロッパ 深いことに、二〇〇三年の旧暦の正月、「盆菜」は不況下におのホームスタイルの料理であることを売りにしている。有名な けるヒット商品とメディアに報じられた。特に正月の二日に家英ガイドブック『ロンリーフラネット・ワールドフード・ホ 族が集まったときに食べる料理として買い求められた。現在ンコン』は、このような新しい食事の形について、禁酒法時代 「盆菜」は、家族が集まって食べる料理というイメージや、香のアメリカにおける地下クラブになぞらえるとともに、「私房 港のシンボルであるというようなイメージによって、日常的な菜」料理店はビジネスではなくアートであると論じている ものとなってきている。たとえば、「、 , 、ニ盆菜」 ( 容器がわりに小 香港において「私房菜」料理店は単に非認可の料理店である さなかばちやを使い鶏肉やキノコ、野菜などがいくつか人っているよう だけではなく、中流階級の人だけに許された秘密の食事の場で なもの ) が地元のファストフードチェーンから売り出されておあるともいえる。それらは通常企業登記されておらす、普通の 一人用の「盆菜セット」なるものまであるほどだ。 マンションの一室にある。通りすがりのお客が人ることはなく、
ているのではないかということが間題になったことかある。こ らす、そして地元の人と同じメニューを食べることができない れは、ホテルと旅行会社のあいだで取り決められる部屋タイプのではないか、と思ってしまうのは想像に難くない や眺望の指定などの条件も関わっており、一概にはその是非を 「盆菜」 間うことのできない間題でもあった。 同じことが香港を訪れる観光客が注文する料理についても一言 地元らしい伝統的な家庭料理 える。それは香港の大部分のレストランは二つ以上メニューを それぞれの上地には、地元の文化的伝統を象徴する再創造さ 持っており、それによって外国からの訪間者が違う値段設定が ほかにもあることに気づいてしまうということである。もちろれた料理がある。このような料理はガイドブックや観光客向け んここで私が言いたいのは香港のすべてのレストランが正しい のウエプサイト、旅行雑誌などでよく取り上げられているが、 価格表示をしているのかどうかということではない。重要なの香港では一般的に、それらは地元のアイデンティティを求める は、観光客と観光地それぞれの誤解によって、香港を訪れた観地元香港の観光客に人気となっている。「盆菜 (puhn choi) 」と 呼ばれる伝統的な特別料理はその一例である。 光客に悪い印象を与えかねないということである 私の知る限りでも、香港のレストランには通常テープルに複 伝統的な側面から見れば「盆菜」はハレの食事であり、香 数のメニューがおいてあることが多い。たとえば、「本日のオ港の新界地区に古くから住む人々が法事や結婚式の時に広間に ススメ」「シェフのオススメ」「お値打ちメニュー」「新メニュー」集まって食べる料理である。それはメイン料理であり、通常は 洗面器やお盆に人っている。そ 「特別料金のディナーセット」 剰一してそこから銘々が小皿に取り 「定番メニュー」などといった 具合である。ただし、そのなか 分ける。「盆菜」を食べるとい 料 統 でもアワビやフカヒレ、新鮮な う伝統は一九九〇年以降、外国 伝 港からの観光客よりも地元香港の シーフードとい , つよ、つな ~ 咼級な 観光客に人気を博している。 , ) 定番料理だけは中国語、英語、 れ ゲの料理は、香港が植民地化され 日本語それぞれで書かれている 割る以前から続く歴史を持ってお のである。そうすると、観光客 、観光の発展にともなって、 は自分たちは地元の人々に比べ 面 洗 メディアを通じて、その起源に 高価な料金を支払わなければな つん
タ の プ ログ、 フ ムに い て つ モ ツ ア 今回のモニターツアーは、森林ツアー と山村体験のニつから構成されています。 秩父演習林の森林ツアーでは、木材生 産を中心に林業に携わっていた人々が演 習林を活用した新しい観光ビジネスをつ くり出そうとしている現場を訪ねます。 また小菅村では従来の観光事業を脱皮し て、多摩川の「源流」をテーマにした森林 再生につながる山村体験などをメインに した新しい観光のスタイルを提唱し、村 役場を中心に取り組む姿を学びます。 森林鉄道の廃敷を歩く 秩父 東京大学、習林埼 ・入川渓 ' 、 ( 荒川源流 ) 雲取山 - 小菅村 多摩月 山梨県 荒川 東京都 スケジュー丿レ 2005 年 IO 月 22 日 ~ 23 日 10 / 22 立教大学新座キャンバス出発 08 : 45 東京大学秩父演習林着 12:00 森林ツアー ( 入川渓谷 ) * 1 13 : OO 小菅村着 18:00 19 : 30 村役場の人たちの話を聞く * 2 林ツアー * 1 入川渓谷の東大演習林には原生林や美しい渓流の流れる林道があり、埼 玉県秩父農村振興センターの専門家に森林の楽しみ方を聞きながら歩き ました。 1970 年頃まで実際に使われていた森林鉄道の廃敷をたどりなが ら、荒川源流近くまでハイキングするエコツーリズム体験です。 * 2 村役場の人たちの話を聞く 全国の山間部の村に共通する過疎化の問題を抱える小菅村は、「多摩川源 流の里」として森林を活かした都市との交流事業を起こそうとしています。 その取り組みに実際に携わる村長や森林組合の関係者の話を聞きました。 * 3 地元のお年寄りの話を聞く 農家などの地元のお年寄りに現在の村の生活や昔の暮らしぶりや仕事に ついての話を聞きました。 * 4 交流文化ディスカッション ツアーを通して体験した山村の姿についての感想や、都市と山村の交流に 関する意見交換。さらに、観光学部で交流文化を研究している中国、タイ からの留学生の話を聞きました。 10 / 23 地元のお年寄りの話を聞く * 3 09 : 30 交流文化ディスカッション * 4 1 1 : OO 小菅村を出発 14 : OO 新宿で解散 17 : OO 33 交流文化フィールドワークモニタ ーツアー
えば、現在ベトナムには三二九の国際観光を ベトナムには現在一九五六のホテルがあり、 たり、多くの留学生がベトナムに戻ってくる 扱うツアーオペレーターがあり、ライセンスそのうち五つ星の客室数は約五〇〇〇室ですことで、より教育の質を高めてい を持ったツアーガイドも約五〇〇〇人いますが、二〇一〇年までにその数を二倍に増やすきると信じています が、日本語を話すガイドの割合はわすか六 % のが目標です。もちろん、 しいホテルを増や 私の所属するベトナム国家大学ハノイ にすぎません。約四〇 % が英語で二五 % が中してもスタッフのサービスの質が伴わないと社会人文大学観光学部が設立されたのは 国語、一一〇 % がフランス語とその大半を占め、意味はありませんから、ホテル教育もますま一九九五年です。学科は観光地理学 (Tourism 英語のガイドは余っているのに日本語ガイドす必要になっています。 Geog 「 aphy and Cultu 「 0) と観光経営学 (Tou 「 ism か足りないという状況にあります。しかも、 lndustry and Skills) の二学科に分かれます。前 ベトナム国家大学ハノイ社会人文大学観光学部 ガイドの質は十分とはいえす、日本語はでき 者ではエコツーリズムや観光文化、観光計画 ても観光や文化の知識が足りない場合も多く、 ベトナムの観光教育の現状についてですを学び、後者ではツアーガイドや観光産業の 教育が必要です。今回来日して思ったことでが、 一九九〇年代前半、観光学部を置く大学経営やホスピタリティ・マネイジメントなど すが、日本人は歩くのがとても早く、ベトナはひとつもありませんでした。しかし、二〇を学びます。本学部ではすでに中国やフラン ム人はのんびりしています。こうした日本と〇四年現在、二四の大学にあります。ベトナス、タイなど海外の大学との提携協力も結ば ベトナムの文化や習慣の違いも知っておかなムでは教育施設が充分に整備されているとはれており、今後立教大学との提携協力も強め しカイドとはい , んません。 しえませんが、将来は海外から教員を招聘していきたいと考えています。 ティン・チュン・キエン氏 ベトナム国家大学ハノイ社会人文大 学教授。ベトナムにおける観光研究 の第一人者。また同国における観光 研究、観光教育の中心的機関である ベトナム国家大学ハノイ社会人文大 学観光学部の学部長として、後進の 指導、観光研究の振興を果たした役 割も高く評価されている。 写真 / 森園晴美 、り 講演終了後も活発な質疑応答が繰り広げられた。 その一部を収録。 答 a ベトナムの全産業の中で業績が伸びているの はどんな業種ですか。 応 < 衣料品などの加工業と観光産業です。特 疑 に観光産業はニ〇〇〇年以降、政府もベトナ 質ムにとって最も重要な産業の一つと認識して 「 4-