丸太町通 御池 御池通 千本通 卍堂 革 地下鉄東西 一 - 条駅 条 駅 山 東東大路通 三条京 卍六角堂 阪急烏丸駅 四地 条下一 駅鉄 / 六波羅蜜寺 阪急京都線 四条通 一・町衆の闘いと躍動 茜大路通 7 卍清水寺 五条通 地下鉄烏丸 七条通 京駅 J 日新幹線 卍今熊野観音寺 卍泉涌寺 鉄京都線 九条通 京阪本線 1500m 500 1 : 60000 本尊とする真 = = 0 宗寺院。御詠歌は スポット解説・豆知識 「重くとも五つの罪はよもあらし六 波羅堂へ参る身なればーです。 ・今熊野 十一面観音を本尊とし、正式名・六角堂 を新那智山観音寺という真 = = 0 宗寺六角堂は通称で、正しくは紫雲 院です。御詠歌は「昔より立っと山頂法寺と称す天台宗寺院。本尊 も知らぬ今熊野仏の誓ひあらたなは如意輪観音。御詠歌は「わが思 ふ心のうちはむつの角ただまろか りけりーです。 れと祈るなりけり」。境内のへそ ・清水寺 音羽山と号する北法相宗寺院。石は有名。 本尊は十一面千手観音。御詠歌は・革堂 「松風や音羽の滝の清水はむすぶ心霊麈山行願寺が正式名で、本尊 は千手観音。御詠歌は「花を見て は涼しかるらん」。 今は望みも革堂の庭の千草も盛り ・六波羅蜜寺 補陀洛山と号し、十一面観音をなるらん」。 換やての 当あに経東条丸歩 5 乗白王み殿 、スじは四烏徒歩 に天「御 同寺り急へ徒ゴ 阮東へ 3 線代 歩西歴く 徒東分も入 駅下車西下本墓 で 条ら 条 蜜也 1 分丸太町下かへ剞そまか 八か車寺五羅を歩 2 線丸日前駅南涌、き時 す 駅駅下蜜ま波駅徒歩丸阪向寺条、泉くて 9 . せ都各道羅思六都へ烏京東輪三車宗篤れ 急十阪下言がさ円 京の寺波ま、京北 7 く 分日東北下 阪涌六道 た阪、京駅真崇称 8 ・ り陵 ~ 尊尊 3 . 、東地 京泉・水 あ 寺乗寺御寺のとは・ 野はし寺清歩堂車 分 峰に慶、涌室」観 通 熊い車水で徒角下車堂 交今る乗清路へ六駅下革 ] 分善ス元え泉皇ら拝
長岡宮大極殿跡 5 石塔寺 5 乙訓寺 5 向日市文化資料館 長岡京探索 寺は聖徳太子の創建といわれる古 い寺です。平安遷都後の八一一年 には、唐から帰朝した空海が別当 農民を苦しめた「呪われた都」 に任せられたこともありました。 って暗殺されました。この嶋坂の寺はその後袞えましたが、江戸時 と、天皇の休憩所の役割をもつ小 長岡宮大極殿跡 安殿の基壇跡がコンクリートの段場所が、石塔寺の門前付近の道路代の元禄期に、将軍綱吉の母の桂 昌院の援助で再興され、現在は牡 長岡京の京域は、現在の京都市で、柱跡が円盤で表示されていまにあたるといわれています。 桓武天皇の弟の早良親王は、藤丹の寺として観光客が訪れます。 から大山崎町付近にまで広がってす。また公園の一画には、明治二 いましたが、 その中心になる大極八年建立の「長岡宮城大極殿蹟地」原種継暗殺事件に関与したとされ、 向日市文化資料館 殿跡は向日市鶏冠井町にあります。の石碑があります。長岡宮の建物乙訓寺に幽閉され、絶良して無実 ここは閑静な住宅街に囲まれた小は出土した瓦などから、聖武天皇を訴えますが流される途中、憤死長岡京の人々がどんな生活を送 さな公園になっています。大極殿が副都として造営した難波宮の建します。これが怨霊騒ぎの発端につていたのかを考えるには、向日 物を移築して建設されたものであなったわけですが、乙訓寺は長岡市文化資料館を訪ねてみるのがい いでしよう。館内には、当時の庶 京市今里三丁目にあります。この ることがわかります。 民、役人、貴族の食べていた食事 なお、ここから三〇〇メートル の様子が再現されています。貴族 ほど東南の阪急西向日駅の東側に の食事は白米に清酒、鯛や鴨肉に は、朝堂院西第四堂と会昌門跡地、 果物やチーズがつくという豪華な 更に西五〇メートルには長岡宮内 ~ 俣 ものですが、地方から強制的に連 裏回廊の築地跡があります。 の 京行された庶民は粗末な飯場に寝起 石塔寺と乙訓寺 長きし、玄米のご飯と、青菜とワラ 大極殿跡の西方の西国街道を少 館ビだけのおかすに少しの塩をつけ たものを食べて暮らす悲惨な状態 殿し南下すると、石塔寺の門前に出 でした。 デを極ます。長岡京造営の責任者であっ 文 市長岡京は、農民たちにとってま をら京た藤原種継は、工事現場を視察中、 日 向さに「呪われた都」だったのです。 《長嶋坂付近で何物かが放った矢によ
動ーロ 0 菱 300 「 n 100 0 寿月観 大石仏 祥華院卍 を修学院小 [ コ ノ工」幻義参道 町 衆 9 修学院迴乙コ ロロロロ 闘 凶 院匸ア第 と 躍 ロロロロロロ第ロ 匚ここコ匚コ匸こコ = = 修院離宮 林丘寺 、御客殿楽只軒 ナ ウ ス 幵森神社 弁天茶屋 曼殊院 アクセザしト く = 0 奓 = く。 卍清賢院 卍西圓寺 - せ圓光寺 ・京都民芸館ィー 白 通 4 ロ ー乗寺下り松 寺駅 9 ー乗寺 一一 , 。下り松詩価堂幵八髯社 1 : 12500 双 母の あくせす & で一た 貭古ー名 ス 鳩 イ木 け道乗産 堂 ~ ポ ・交通・・・京都駅、烏丸四条、河原町三条を通る 茶所 寺と ツ 店とが雲下休 市バス 5 系統が便利。「一乗寺下り松」下車。 冗母り憩 ト が し , 叡山電車「一乗寺駅」から歩くことも可能。 ら松所 解 ・寺院案内 、れ 一周 説 殊詩て 詩仙堂・ 9 時 ~ 1 6 時 30 分、拝観 500 円。谷 ぃ ち 院仙 075-78 ト 2954 圓光寺 ( 円光寺 ) ・・・紅葉の時期にライトアッ 、叡 知 。で の隣 プを行うことで有名。 2 ] 時を最終時間とし 手 ( て、 1 1 月頃に実施。 9 時 ~ 16 時 30 分、拝観 0 曼殊院門跡 月リ 300 円。容 075-781-8025 曼殊院門跡・・ 9 時 ~ 1 6 時 30 分、拝観 500 円。 所 がの徳寺 林 王し でい神修像て曼寺で川 詩スちは 谷 075-78 ト 5050 . す神 ネ土宀 子 創 殊宝 家円仙ボ よ サ t ・ 修学院離宮・・参観予約は、希望日の ] ~ 3 か 社は院建院と現康光 び天 堂 ツ 月前の間に往復はがきで申し込む。希望日、 、離宀さはし在が寺か . 境で ト つ茶 ・内あ 産宀 呂 0 れも ら と屋 参観者の住所、氏名、職業、年齢、人数など、 子 、と伝古問 . 拝り土 ( ノ 0 ヾ 曼圓オが 申し込み用の書式があるので、書式通りに書 ・観 、ネ申、土 . 、寺もわの所あ殊光イあ くこと。土・日曜、祝日、年末年始は参観で る / 玉 つ木とり院 自隠を 寺 シり 由れ 途 の天て版しまま ィま ま きない。宮内庁京都事務所参観係 ( 受付 ) 容 た つ中 . ムゝ . ロい活てすで ー -1 075-21 ト ] 2 1 5 紅る ま 字建 マ ・弁天茶屋・・・ IO 時 ~ 17 時 30 分、 無休。 不寺す四て ( 葉歴あ イ の史る 動院 。万たれ圓 ナ 075-7 ] 1 -5665 明と 名の鷺 個もは光 55
をな 塔頭寺院 5 大徳寺三門 5 建勲神社 5 船岡山公園・山頂 由に、後日秀吉は利休に切腹を命 じます。利休の墓は境内の聚光院 に納められますが、大徳寺の茶 室・石庭と共に、彼の存在はいま 広大な境内には、数多くの塔頭極めて対照的です。 一 ' でも多くの人を魅了しています。 寺院が並んでいます。「お寺の中 大徳寺・堺商人・茶の湯文化 にまたお寺」という不思議な構造 7- 「 ) 建立競う戦国武将たち は、かって応仁の乱で荒廃した後、大徳寺中興の祖、一休宗純に因 堺商人の財力、茶禅の文化を背 堺衆の支援で復興し、次第に中央む塔頭がいくつかあります。徳禅 景に、大徳寺という精神世界の輝 政権を狙う戦国武将たちにより競寺や真珠庵 ( 一休の菩提所 ) は、 きが戦国武将をもひきつけました。 うようにして塔頭が建てられたた堺商人、尾和宗臨の援助で再興さ そのため、船岡山北辺に位置し めです。当時の活況は、静かに彼れました。明貿易で富を蓄えてい 戦略的に重要な大徳寺は、政治的 らが眠っている現在の雰囲気とはた堺商人との結びつきは、大徳寺 ~ 。 権威を発現する格好の場ともなり 神 が官刹 ( 五山十刹 ) を辞し「林下」 ~ 勲ました。実際豊臣秀吉は明智光秀 となり、室町幕府と距離をおいて を討った後、織田信長の盛大な葬 褝的修道を追求するようになったえた魅力が大徳寺にあ 0 たのです。儀を大徳寺で主催し、信長の菩提 ため、生まれました。 やがて、「市中の隠」という茶所として総見院を建て、「天下人 他方、一休のもとに参褝していの理念は堺豪商の出身、千利休にの継承をアピールしました。 た茶道の開祖、村田珠光の影響でよって、草庵茶室と侘茶の形で大 祀られた「忠臣」信長 「茶禅一味、の思想が生まれます。成しました。寺内で唯一朱色の栄 堺商人のように急速に力を持ち始える大徳寺三門は、彼の手によ 0 建勲神社は明治政府によ 0 て織 春めた階層にとって、臨済禅と茶のて完成されます。 田信長を祀り、創建されました。 湯のもつ「非日常」の文化は魅力「天下人」秀吉にと 0 て、利休が階段を上り三分程で拝殿、本殿に 頭的に映りました。当時寺内にあ 0 体現する文化性は次第に魅力より着きます。また、緑豊かな船岡山 寺た松源院が多量の祠堂銭を堺商人も危険と映るようになりました。公園や露岩が目立っ山頂に行けば、 に貸付けていましたが、経済を超三 門に安置した利休自身の像を理京都市街が展望できます。 京文化に魅せられた戦国大名 戦国武将の眠る寺・大徳寺
四条河原町 5 寺町電化店街 5 京都市学校歴史博物館 寺町電化店街を歩く 寺には本尊阿弥陀三尊像と空也像 が奉安されております。釈迦堂に 祀られる釈迦如来像を藁縄で縛っ 先端と伝統が同居する街 て祈願すると、おこりの病が治る 価品が目玉というのでなく、商品代表的存在が茶道具の吉田宗兵衛と伝えられています。 京都のニつの顔 が質量ともに豊富に揃えられ、電商店です。 京学校歴蟲物館をめぐる 古く「新しい町」が京都の隠さ化製品に関して最新の情報が提供 繁華街の社寺を訪れる 寺町通からもう一筋西の御幸町 れたもう一つの顔です。京都にはされる場ともなっています。「生 〈日本最初の〉というキャッチ・フ活向上に役立つ」をこの商店街の四条通から南の高辻通までのわ通を南に下ると、旧開智小学校の すか数百メートルの間に七つの寺跡地と建物を活用した京都市学校 レーズには事欠きません。すなわモットーとしています。 が、この寺町通は最新の電化製院と二つの社が存在しています。歴史博物館が姿を見せます。小学 ち、それらは水力発電所、小学校、 図書館、市電などです。常に時代品を取り扱う店ばかりではないのすなわち、北から春長寺・火除天校の統廃合が進むなか、各校が所 を先取りし、その先端を走り抜けが面白いところです。茶道具や法満宮・浄教寺・京都大神宮・透玄持する貴重な書画や工芸品、書簡、 ることを喜び、また誇りにも思う衣、数珠等、門前町でもあった寺寺・聖光寺・空也寺・垂願寺そしさらには当時使用されていたオル ガンやピアノ等の楽器類や教科書、 のが京都人の、もう一つの気質な町通にふさわしい品物を商うお店て永養寺です。 もいくつか営業しています。その春長寺は本能寺の変で信忠に従教具、写真等の資料も収集・保存 のです。 って討死した織田家の重臣村井長されています。これらの収蔵品は、 人と車が絶えることなく行き交 門守貞勝の旧邸を寺にしたもので、常時展示され、二か月ごとに内容 う四条通の喧騒の中、河原町通か 彼の菩提寺です。墓は背後の墓地が変更されています。 ら一筋西の寺町通を南に渡ると、 収蔵品は各校が購入したものも にあります。その南隣の浄教寺は そこは巨大な看板やネオンに飾ら 平重盛ゆかりの寺院本堂には見事多いのですが、卒業生や父兄の寄 れた大店舗が建ち並び、数多くの 客足でごった返す一画に出ます。 \ 賑な阿弥陀三尊像と重盛像が安置さ贈品がかなりの比重で占めていま の れ、また彼が愛用したと伝えられす。とくに高名な画家や書家・陶 東京の秋葉原や大阪の日本橋に 街 る琵琶が秘蔵されています。聖光芸家・作家らの芸術家や文化人が 比肩される寺町電化店街で、パソ 。、寺は大石内蔵助良雄の生母くま女母校に贈った自作の作品が数多く コンやワープロ、テレビ等の情報 寺や天野屋利兵衛の墓所です。空也あるのも同館の特色です。 機器の一大商店街です。たんに廉 にーー宀 152
活性化する西陣を訪ねる 宅 伝統産業の町に新しい芸術の風 屋 んやら洞」という妙な名前の喫茶 した。 妙蓮寺と「フリーマーケット」 秀吉によって伏見城より移され店があります。一九九九年の一二 地 堀川寺之内を西に入ると、北側た「臥牛石」のある石庭、「四季月に引っ越してきたばかりの新し 上 に法華宗の大本山「妙蓮寺、があの襖絵」など逸品を多く見ることいお店ですが、常にお客さんでい つばいです。コンサートや展覧会 ります。寺之内通は、寺町とならができます。数年前からは毎月一 んで寺院の集中するところです。二日に西陣地域の活性化 ( 地域おなどたくさんの企画で多くの人を芸術家が住むようになってきまし た。特に、機織りの機械の置いて 豊臣秀吉の「城下町化計画」によこし ) の一環として、妙蓮寺の境楽しませてくれています。 あった土間がアトリエとして使え って強制的に移転させられたので内で「フリーマーケット」が行わ 新しい西陣の町 るとい、つこともあり、町家を借り すが、妙蓮寺も一五八七年 ( 天正れています。古着、手作り装飾品、 て、自分たちで改修をして住み始 五年 ) にこの地に移転をしてきま漬け物、様々な食料品などの店が「大黒町」界隈 出ており、地元の人や観光客で大さらに、寺之内通を西へ進むと、めています。新しい京都の文化の 織物の町西陣の中心部に入ってき発信地となることが様々な形で試 変賑わっています。 ます。木造の町家が軒を並べ、多行されています。その一つが「龍 西陣の商店街大宮通 くの織物問屋が現在も看板を上げ華堂」です。そこでは、新しい町 ています。かっては多くの家が織家の生活を見ることができます。 「たんきり飴」と「ほんやら洞」 妙蓮寺から西に向かって寺之内り屋さんをしていたのですが、最寺之内浄福寺下ルにある「織成 ケ通を進むと、大宮商店街にある近では、高級品だけが生き残って館」では西陣織の展示と同時に、 マ「たんきり飴」の黄色い看板の前おり、路地のおくからひっそりと「手織り体験工房」が用意されて います。西陣伝統の技術と生活を にきます。この店は操業一二〇年機織りの音が聞こえてくるだけと 体験することができます。 フとのことで、伝統ある西陣の商店なっています。 寺街を代表するお店の一つとなって数年前から、織物の衰退や老朽西陣にも新しい風が吹き始めて います。 一 ( 「「一第、 . 妙〔ます。一方、そ 0 北西には「ほ化で空き家にな 0 た町家に、若〔 68 3 妙 蓮 寺 寺 内 通 浄 福 成 館 154
南神寺境内から白沙村荘まで歩く 中世寺院と哲学の道 南禅寺 5 永観堂 5 哲学の道 55 白沙村荘 えられていることから、「見返り 阿弥陀」と呼ばれています。 国宝の「山越阿弥陀図ーのほか 寺宝が多く、毎年秋には特別公開 されています。多宝塔の傍らに立 の庭園は全国でも数少ない鎌倉後 南褝寺と水路閣 っと京都市内が一望できます。 期のものとして、貴重です。南禅 西に向かって鴨東運河に入る琵寺の門前に湯豆腐を食べさせる店 社寺が建ち並ぶ哲学の道 琶湖疏水の幹線と支流が、分れてが建ち並んでいます。そのうち、 北流する疏水に沿って続く石畳 道 北上するために築かれたのが水路「順正」は江戸末期の医学者新宮 3 ~ 一 の の小道が、哲学の道です。若王子 学 閣で、古代ローマの水道橋を模倣涼庭が建てた私塾「順正書院、の・ ) も , ・壑、 哲から北へ、銀閣寺橋に至るこの道 したものと、 しいます。着工当初は跡地で現在も一部の建物が残り、 山水の美を破壊するという非難も門内には往時の雰囲気が漂ってい荘が建ち並ぶ地となりました。そは大正期の哲学者西田幾多郎がこ ありましたが、現在は南禅寺境内のます。なお、参道の北側にある西の代表的なものが「碧雲荘」 ( 野の道を愛し、散策しつつ思索にふ 、川治兵衛制作の壮けったことからこの名称がっき、 景観にしつくり溶け込んでいます。福寺は国学者で『雨月物語』の作村別邸 ) で、 南褝寺は、後に足利義満に「五者上田秋成の墓があります。彼は大な庭園を所有しているので有名この道に沿って光雲寺・霊鑑寺・ です。時たま特別公開される以外安楽寺・法然院・銀閣寺などの中 山之上」とされた臨済宗の名刹で最晩年を京都ですごしました。 は非公開です。春となれば邸前に世 5 近世初期の寺院が並び、趣あ す。本坊をはじめ、天授庵や金地 南褝寺から永観堂へ はしだれ桜が咲き乱れ、さながらる景観を形造っています。 院など庭園の美しさで知られた塔 銀閣寺橋で大きく西に流路を変 頭が多くあります。ことに南禅院南禅寺を北門から出ると、すぐ一幅の名画の趣があります。 目に入る西側の瀟洒な建物が野村左手に野村別邸を見ながら歩みえる辺りに橋本関雪の旧宅を改造 美術館で、大和銀行・野村証券のを北へ進めると、紅葉で名高い永した白沙村荘があります。橋本関 雪自らが設計した池泉廻遊式庭園 創始者野村徳七が収集した茶器・観堂に到着します。 陶磁器・書画や能装束を保管・展この寺の阿弥陀如来像は中興のの中に記念館があり、その作品や 示しています。この辺り一帯は良祖・永観が念仏行道中に、突然厨蒐集品が展示されています。庭園 「プな寺房以来、藤原氏の別荘地として知子から降り立ち、振り返って「永のあちこちに石灯籠や石仏の逸品 を / 」られ、明治以降は政財界要人の別観遅し」と言ったという奇瑞が伝が配されています。
利義輝の保護をうけ、毛利元就の 寺卍 スポット解説・豆知識 年 【 0 4 ・、 6 っ 0 「 / っ 0 つ」 11 治療に島根へ赴くなど戦国武将と 7 9 一 11 11 11 11 11 「 / CO ・和気清麻呂の姉広虫は孤児を養の結びつきも強く、後進の指導で っ 0 ワ】 -0- ワ」 の っ 0 1 亠一 0 、 9 紀 「 / 9 “ 11 11 一 0 、子の広世は大学別曹 ( 貴族の門弟数百名に及んだといいます。 物 11 11 、ー亠 1 ー亠 11 人 山部光宮 恩子弟教育のための寄宿舎 ) 弘文院・山脇東洋の「観臓」 ( 人体解剖 ) 田△学卍戒神 の呂三医 項麻頼道玄山悦洞洋長 卍 を設けました。高雄の神護寺は和は、粟田口と並ぶ京の一 - 大刑場だ 幵平 の清康瀬屋艮玄東東宣 こ気波直古藤川益脇居 気氏の造営で、清麻呂の墓所でもった六角獄舎で行われました。ま ◇和丹曲名後賀吉山本 1 ロ冂一『 0 西 0 移されたのが護王神社です。菩提寺の誓願寺で慰霊しており、 寺極ま養 願京脇供 ・丹波康頼の『医心方』全三〇巻今日でいう解剖祭も始めました。 立 誓師見山音 出斤 府 い・京都に来て学んだ著名な医師に は、御室の仁和寺にその最も古 都 ( Ⅱい芦 写本の一部が現存します ( 国宝 ) 。は、分娩手術の始祖賀川玄悦、山 社都 侍道 0 神京「〔年年当ロロ・京都に生まれ育った曲直瀬道三脇東洋に見出された臨床治療医の 寺瀬 ・護 通 は、医方中興の祖とされ、下野の吉益東洞国学者の本居宣長など たの 売あと 凵ロロロロロロ冂〕ロ随「立のる〕ロ条芒ロ 寺 。会入。碑東ド茶フ 。るの。での 第ト 今迪さ 徳卍 新啓と 地軋るす所車地野劯師が車地で一ちソ 地 〔侍 - O 寺所 跡下あ接墓下の生もむな府念停臓通一の抹 と ) 臓 らい所 福墓千通 厩ス墓。らス観塔とい都記ス観川アこら 円・ ロ一屋当〕あ西観 堀の の地ら京たバ 下のぶ子バ羊 3 土 秀玄 売叨彼並父詰 6 刑け轄も〕れ前ト ~ 級日年 4 ・ 琢川所 立者、が忠西脇田処志管がきら庫一本大売 0 玄徳野居 角宮脇 ロ「天幵屋 で 中長院信橋山の王の院でく車リ千最廉 3 卍 名〔〕Ⅱ凵Ⅱ凵「凵冂〔〔〔凵〔〔〔〕ロ冂凵ロ 新丸幕臣が生ト、本。和・ イイヨ年スグる西曜、祥 烏かの信バの国殉弋匕 す 光 院ス教な田市祥ま野こ時感シ 6 バン上ぶ金は発 せ迪バ義町織。発舎平治都ン市ビで及週園た・ ッまも毎作し く啓市利寺〔る学獄たの明京マ に自出 / 足ははあ医角し碑はにはでつョ通 り寺も代六導念舎年在手たシ条 E る野り あ社 ) 神し寺辺陀で近た指記獄 3 現のに会三 8 至矢売 王な念の弥っ本つを臓角がどロ条ら 8 へのを 護も十こ阿一日あ変観六 ] だなり三か西街舗ト 北山通 植物園 第 2 室 町 衆 の 卍仁和寺 と 御室駅 躍 動△ヶ丘 卍心寺 河 南褝寺 卍 JR 嵯 ロ 1500 「 n 500 1 : 67000
卍 浄禅寺 国道 1 号線 第 1 室 竹田駅 竹田小 平安京民衆の営み 京都南℃ 安楽寿院 ・・院政の 西行寺跡 地の石碑 白河天皇陵・北向不動尊・近衛天皇陵壑 都 線 一宮 秋ノ山 鳥羽宮公 西高瀬川 ヾルスプラザ川 京セラビル 国道赤池 300m 100 ー卍恋塚寺 1 : 15000 のが同寺の起りといいます。 スポット解説・豆知識 文覚上人は、その後高雄神護寺 の創建や東寺の再興に尽力し、流 ・「袈裟と盛遠」の物語 北面の武士遠藤盛遠は、美しく人の源頼朝に挙兵を勧めた逸話 成長した従妹の袈裟に恋して関係 ( 『平家物語』 ) でも有名です。な を迫ります。夫ある身の袈裟は悩お、南区上鳥羽の浄禅寺も恋塚の んだあげく、我が家に忍んで来て寺として有名です。 夫を殺してくれと言います。遂に・鳥羽伏見の戦いと城南宮 吾が事成就かと盛遠は喜び、掻き城南宮は、幕末・維新期の鳥 切った首を月明かりに見るとそれ羽・伏見の戦いには長軍の本陣 は袈裟でした。彼女は命懸けで操となりました。城南宮の表参道か を守ったのです。我が身の罪業のら西に直進すると小枝橋に出ます 深さに慄いた盛遠は出家。荒行にが、「の橋が旧幕軍と薩長軍が衝 耐えて見事名僧となり、袈裟の冥突し、鳥羽・伏見の戦いのきっか 福を祈ってこの地に一庵を結んだけになった場所です。 」こ。の遣び。 0 るて置予 線堂藤の容 る O 山ーる れれが要 代の遊 良本い寺 奈るなのの部し寺園のらか石は 鉄す少こ必 賰窈庭朝剛え書号部 安は由ジ山ら。王入伝で名内 たを仏自一築のえそるはカ ま陀石観べのま埴「のの然 で鉄弥尊拝ム宮ロ励とが 3 , 前法い由 地車のの境ホ羽周のこ 1 な檪御はと自 々・る 1 雅范 O 袈横れ拝 2 すち下卍内。の鳥 1 ー・ 8 は種山見と優はのら内 2 にそて境 せ駅丑尊。日ぱ苑入る桃を 6 園 2 た内、建 竹本要なっ 4 水て 5 ・ 必重い〕 楽っ町庭月せ自乃境りでる あえ院が責ア ~ 通れ室る 4 さ観 0 ~ あ手い 0 ・ 換寿約のモ - 宮をさ・あは現拝谷寺がのて谷 乗楽予期一乃南横載安色で再内。塚塚覚れ 交に安は原ュ o 城の記平特水を境円恋恋文か約
六角堂 5 革堂 5 清水寺 5 六波羅蜜寺 京の観音霊場めぐり 番外が一か寺が存在しています。 市中にあって今も多くの参詣者 庶民に広がる観音信仰の高まり で賑わう寺院は以下の五か寺です。 一五番今熊野 ( 東山区 ) れるようになりました。忘れてな思想の盛行とともに教団や寺院に 一六番清水寺 ( 東山区 ) 庶民の地位向上 らないことは、このような活発な所属せず山林で修業する聖と呼ば 一七番六波羅蜜寺 ( 東山区 ) 平安末期から鎌倉、中世に入る経済活動の主要な担い手は農民やれる僧侶や験者が民衆の教化に努一八番六角堂 ( 中京区 ) と農業生産力の向上と安定にとも商人、職人その他の庶民であり、彼める新しい動きが生まれてきまし一九番革堂 ( 中京区 ) ない、手工業をはじめとする諸産らはその経済活動を通じて社会的 西国三十三か所巡礼と町堂 業が発展し、京都と地方の遠隔地地位を上昇させていったことです。 商業も活発となりました。年貢そ 一方、京都では町衆と呼ばれる 庶民信仰の広まり の他の銭納化が進み、貨幣に対す 上層の商工業者を中心に町組ごと 堂 る需要は年々高まってきました。生活にゆとりをもった人々によ 角に団結し、月行司と呼ばれる代表 古代の皇朝十二銭にとどまらず、って、物見遊山、寺社参詣が遊楽 者が町政を運営しました。革堂や 中国王朝の宋や明が発行する銅銭の対象となったのはこの時代以降 あ六角堂は宗派を越えた観音信仰を で をも輸入して使用し、それでも流です。観世音菩薩は三十三に化身 土台に、町衆の精神的紐帯の場と 堂 通量が不足し、私鋳銭までつくらして衆生を救うという『妙法蓮華 町して、町組の集会場「町堂」とな 経』にちなんで三十三か所の霊場た。空也や革堂の開基の行円らはりました。すなわち町衆の議事堂 すめぐりが広まっていきました。い そのような人々を代表する存在で ( 議会 ) ともいえる役割を果たし みわゆる西国三十三か所巡礼で、そした。さらに室町末期に入ると たのです。侍や一揆等の侵入に際 しの創始は定かではありません。 業僧や山伏が中心だった霊場巡礼して堂の鐘が鳴らされ、救援が求 引西暦五三八年の公伝のように、 に一般民衆も参加するようになり、められました。京都では、旧仏教 ど 仏教は本来支配者の宗教として伝巡礼はいよいよ盛んとなっていき系寺院が衰退した朝廷・貴族や幕 にえられて皇室や豪族、貴族たちにました。 府から離れて、広く民衆の浄財を は熱狂的に迎えられました。ところ観音霊場の多くは畿内に集中し、集めて再興を期する動きと符節を 堂 革が、すでに平安中期になると末法とくに京都市内には札所が七か寺、一致し、再生を果たしたのです。