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1. 京都に強くなる75章

今宮神社 芳春院 龍泉庵 卍 如意奄 ~ い , 、・ 第卍頃ロ 龍翔寺総見世、、諶、宗務本所 匸コロロ 瑞一襾 = 朝去殿 正受院 紫野高校 玉林院ロ〔蜂院卍 , 、卍龍源院 龍光院卍ーロÉ 大慈院譓 " 卍徳禅寺 ロ匚こ ) 大光院卍′ 卍 \ 大徳寺 黄梅院 養徳院・ 9 大 徳大北路通 ハ船岡山公園 [ 二 : こコ匚こコ [ コ匚コ 1 平安京民衆の営み 玄幵冂凵 幵一 、△ 、建勲神社 に、いくつか公開されています。 スポット解説・豆知識 その内、大仙院庭園は、禅的な枯 山水世界をよく表現しています。 ・塔頭紹介 塔頭と、建立した戦国大名の関他方、芳舂院、高桐院の人り口に 係は次の通りです。黄梅院 ( 小早ある石畳の道には、写真のような 川隆景・毛利輝元 ) 、竜源院 ( 畠気品があります。また、高桐院に 山、大友、大内 ) 、瑞降院 ( 大友は、出雲阿国と、石灯籠を使った 宗麟 ) 、三玄院 ( 石田三成ら ) 、大ガラシャ夫人の墓があります。 仙院 ( 六角高頼 ) 、芳舂院 ( 前田・戦争の証人、船岡山 利家夫人 ) 、聚光院 ( 三好長慶の船岡山公園には、一見、川か溝 子、義継 ) 、総見院 ( 豊臣秀吉 ) 、のように見える、応仁の乱の時の 塹壕の跡があります。また、山頂 高桐院 ( 細川幽斎の子、忠興 ) 。 現在公開されているのは竜源院、には第一一次大戦中に使用したと伝 瑞峰院、大仙院、高桐院の四つで、えられる、ラジオ放送の拡声機塔 他の塔頭は、秋の特別拝観の期間が残っています。 し 日噌け名。谷 所 天味うて 本 4Q 務円た 院 / 5 の。茶しあ 旺慈店 6 らいおとも定 充駅 3 円 o 大野 6 。 方路軋 0 の紫なる剴不 見大下開観 0 0 4 内山 引昔剱でく弁 循齔で訟拝 o 観境 4 、りけっ進 理。 , う、、る & 原下坊 0 、分 o 料あ 0 いめえ通の時 ー〒↓ノ 9 時時 0 3 進が谷とたそ「り 2 6 7 7 3 時 - 主月 。豆るに、盛 1 2 ど「介由 5 せ こなの紹自 C? ~ ~ ~ 6 側休納い飯た高 / く 6 目頭内 1 時時時お泉無 、豆っ 繁 0 駅塔境 9 9 9 9 月 . 味理時納作いい徳・ 9 頻 2 3 の あ 寺寺乃院院院 2 院で料寺で近よ大寺【 通徳徳 o 源峰仙 2 桐頭進 ~ 徳しにもい徳乃 交 2 乗大大谷龍瑞大 ] 高塔精時大干味に高大 o 300 「 1 100 1 : 10000

2. 京都に強くなる75章

動ーロ 0 菱 300 「 n 100 0 寿月観 大石仏 祥華院卍 を修学院小 [ コ ノ工」幻義参道 町 衆 9 修学院迴乙コ ロロロロ 闘 凶 院匸ア第 と 躍 ロロロロロロ第ロ 匚ここコ匚コ匸こコ = = 修院離宮 林丘寺 、御客殿楽只軒 ナ ウ ス 幵森神社 弁天茶屋 曼殊院 アクセザしト く = 0 奓 = く。 卍清賢院 卍西圓寺 - せ圓光寺 ・京都民芸館ィー 白 通 4 ロ ー乗寺下り松 寺駅 9 ー乗寺 一一 , 。下り松詩価堂幵八髯社 1 : 12500 双 母の あくせす & で一た 貭古ー名 ス 鳩 イ木 け道乗産 堂 ~ ポ ・交通・・・京都駅、烏丸四条、河原町三条を通る 茶所 寺と ツ 店とが雲下休 市バス 5 系統が便利。「一乗寺下り松」下車。 冗母り憩 ト が し , 叡山電車「一乗寺駅」から歩くことも可能。 ら松所 解 ・寺院案内 、れ 一周 説 殊詩て 詩仙堂・ 9 時 ~ 1 6 時 30 分、拝観 500 円。谷 ぃ ち 院仙 075-78 ト 2954 圓光寺 ( 円光寺 ) ・・・紅葉の時期にライトアッ 、叡 知 。で の隣 プを行うことで有名。 2 ] 時を最終時間とし 手 ( て、 1 1 月頃に実施。 9 時 ~ 16 時 30 分、拝観 0 曼殊院門跡 月リ 300 円。容 075-781-8025 曼殊院門跡・・ 9 時 ~ 1 6 時 30 分、拝観 500 円。 所 がの徳寺 林 王し でい神修像て曼寺で川 詩スちは 谷 075-78 ト 5050 . す神 ネ土宀 子 創 殊宝 家円仙ボ よ サ t ・ 修学院離宮・・参観予約は、希望日の ] ~ 3 か 社は院建院と現康光 び天 堂 ツ 月前の間に往復はがきで申し込む。希望日、 、離宀さはし在が寺か . 境で ト つ茶 ・内あ 産宀 呂 0 れも ら と屋 参観者の住所、氏名、職業、年齢、人数など、 子 、と伝古問 . 拝り土 ( ノ 0 ヾ 曼圓オが 申し込み用の書式があるので、書式通りに書 ・観 、ネ申、土 . 、寺もわの所あ殊光イあ くこと。土・日曜、祝日、年末年始は参観で る / 玉 つ木とり院 自隠を 寺 シり 由れ 途 の天て版しまま ィま ま きない。宮内庁京都事務所参観係 ( 受付 ) 容 た つ中 . ムゝ . ロい活てすで ー -1 075-21 ト ] 2 1 5 紅る ま 字建 マ ・弁天茶屋・・・ IO 時 ~ 17 時 30 分、 無休。 不寺す四て ( 葉歴あ イ の史る 動院 。万たれ圓 ナ 075-7 ] 1 -5665 明と 名の鷺 個もは光 55

3. 京都に強くなる75章

一乗寺下り松跡 5 詩仙堂 5 曼殊院門跡 5 修学院離宮 そのため大書院の飾棚は桂離宮の ものと同じであるなど、建築様式 の類似が指摘されます。 また当時のサロンには欠かせな ます。この文化は宮廷文化の特徴い華道 ( 立花 ) の写生図三代池 境地極める戦国武士の末裔達物 ' 「」 ~ ーは〔 を持ち、天皇・公家・武士・僧坊専好画 ) が多数残っています。 「一乗寺下り松」バス停を降り、 侶・歌人・茶人・上層町衆・知識宮廷サロンの中心、後水尾天皇が 人など、多層な交流が支えとなっ譲位する一六二九年には、実に三 曼殊院通の坂を登ると、「宮本・ 三回もの立花会が主催されていま て生まれたとされます。 吉岡決闘之地」の立派な石碑が見 宮廷サロンが誕生したのは、禁す。 えます。吉川英治の小説「宮本武 蔵』には、関ヶ原の合戦で落武者 中並公家諸法度や紫衣事件を通じ庭園には神仙思想に基づき鶴 となった武蔵が、剣豪の道を歩時 - 」て天皇の学問義務化、政治統制が島・亀島の二島を配置することで、 の大舞台として描かれています。 示されたこと、後水尾天皇のもと禅的な要素に王朝風の要素を加え さらに行くと、石川丈山が創建 に徳川和子が入内し皇室料が増加、ています。また「古今集」の一部 した詩仙堂があります。山茶花の 安定したことが挙げられます。まが当院に残っている点からも、王 樹下にある小さな門「小有洞」を 。シ仙た、皇族の多くが格式高い寺院の朝文化への関心が見て取れます。 くぐり、竹に囲まれた石の小径を 住職になっており、こうした皇族山荘文化に特有の景観の美しさ 一折れ、二折れする度に、気分はで禁を犯して一番乗りをしたため、住職の寺院である門跡や褝院に各は、関西セミナーハウスの下から 少しすっ別天地に誘われます。 徳川家康により、蟄居を命じられ、層の人々が出入りし、重層的な交伸びる坂道で味わえます。 漢晋唐宋の詩と詩人の人物画が禄を辞してからのことです。 流が可能になりました。 後水尾院が晩年、心血を注ぎ造 壁に掲げられた「詩仙の間」、円 営した修学院離宮は、せひ参観予 宮廷サロンの誕生 洛北に花開く「山荘の文化」 形窓の美しい「嘯月楼」、園水を 約をしておきたい。王朝風に船遊 利用して鳴らす「鹿おどし」は、落ち着いた民家を抜け、カエデ曼殊院が現在の地に移されたのびのできる浴龍池と上・中・下の 更にこうした詩境を深めています。並木の参道を登ると、修学院離は、良尚法親王が門跡の時です。御茶屋にある広大な庭園をたつぶ 三河武士の彼が文化人として第宮・桂離宮と並び「寛永文化」の彼は桂離宮造営に着手した八条宮り散策することで、開放的な景観 二の人生を歩むのは、大坂夏の陣結品と言われる曼殊院門跡に至り智仁親王の次男に生まれました。を堪能することができます。 京にひらいた「霓永文化」 文化生む「菊と葵」の対抗と融和

4. 京都に強くなる75章

西山禅林寺派の総本山です。最初 ・南禅院 寺宝も多くあります。 スポット解説・豆知識 亀山上皇が落飾、その死去に至は真 = = 0 宗寺院でしたが、中興の祖 ・天授庵 一三三九 ( 延元四 ) 年に南禅寺るまで居住した離宮の跡地に建て永観によって専修念仏の道場とな ・金地院 一四世紀初に足利義持が開き、の開山堂として創建され、細川藤られた、いわば南禅寺発祥の地。り、本尊も従来の大日如来から阿 近世に以心崇伝が再興。小堀遠州孝 ( 幽斎 ) が再興。東南一うの庭方丈の西と南に展開する池泉廻遊弥陀如来へと変わりました。 式鑑賞庭園は鎌倉後期のものとし・法然院 作の茶室「八窓席ーと庭園「鶴亀をもち、南庭は幽斎の作。 数寄屋風の萱葺門をくぐると白 て貴重で、国の史蹟名勝です。 の庭ーが有名。「猿猴捉月図ー等 砂が敷き詰められ、堂宇が閑雅な ・永観堂 銀閣寺 正式には聖雰囲気を漂わせています。一六八 法然院 寺ノートルダム社 卍 院 安楽寺艦子学院中・高 衆来迎山無量〇 ( 延宝八 ) 年、法然の旧跡に一 豊若王子神社 卍霊—L.@ 幵大 浄館 寿院禅林寺と宇を創立したのが始まりです。 記、荘 号する浄土宗 若 9 喫イ 0 入 一 1 西ス湯 ら 7 、食テ O 日 3 軽ン 5 6 で市が 駅でな谷 0 なアト 池前め りた 7 0 明 め月 5 われワ の 6 ワ変さ 5 5 方車三園 日乃風集ワ o o と収容 5 一乗阪庭が 2 谷つら に京ら ) O も 円月。よ か谷れ で線は車か o 3 館ち地目 丸た下院 o & 烏ま園書 o 3 鉄、勿 7 間圧 せ土下市の のに雪洸 ら駅都頭 館日庭い関 くか上京塔 駅蹴 ' 寺く叺 7 栗やて本寺・ あ て禅だ 6 明優内れ橋 ) 楽・ 俳店も ( 円安 京え乗南た 8 館 い 1 術 。埋荘 8 乗院を美日子店で村 8 寺・ 通に系松腐田村 5 王のク沙料鑑・ 交線聴豆 7 野月若茶一白場霊・ 京都大学 吉田山 吉田神社 岡 太 丸 市園 物 京動 公 岡 京都国 0 - 近代美 美と技と生業の部屋 宗忠神社 卍 真如堂白 白河養護学校 卍金戒光明寺 岡崎神社 東山中 、、・永観堂 野村美術館卍 聴松院 @ 東山学園中・高 卍南祥寺 卍南禅院 卍金地院水 西福寺 500m 100

5. 京都に強くなる75章

西陣空襲と聚楽第跡 歴史の町揺るがす突然の空襲 智恵光院・丸太町通 5 下立売通 5 下長者町 5 上長者町通 ち まじりの爆風が家の中まで吹き抜田さんのお母さんは崩れる家の下 「山中油店」の爆弾の破片 け、人も吹き飛ばすほどのものだ敷きになり亡くなられました。交 差点から下長者町通沿いに歩くと、 ったといいます。 京の町家のたたずまいを残した 爆弾で吹き飛ばされた所だけが新 「山中汕店」 ( 下立売通智恵光院通 「昌福寺の井戸」と「大銀杏」 しい町並みになっています。ま 西入ル ) のショーウインドウ内を - 戸 智恵光院通下立売通上ル「昌福た、下長者町交差点では朝から新 覗くと、爆弾の破片が油しばりの 道具と一緒に並べられています。寺」の裏の井戸には焼夷弾が落と兵の壮行会が行われており、大勢 寺 古田 また、下長者町通裏門通下ルのされましたが、井戸に落ちたための人が集まっていました。そこに 昌 か不発弾となり被害を免れたとい被弾し、その中の婦人の引きちぎ 「磯崎瓦店」の中庭には長さ一メ 1 トルほどの爆弾の破片が置かれてうことです。また、智恵光院通はれた下半身が吹き飛ばされて「大た町家 ( 借家 ) はすべてなくなり います。この破片から見て二五〇一九四五年の三月に「建物疎開」銀杏」に逆さにぶら下が 0 ていた駐車場とな 0 ています。 しいます。その「大銀杏」は現また、「秋田酒店」には二発目 キロ爆弾が投下されたようで、砂の対象となりましたが、昌福寺のと、 の爆弾が直撃しました、北野天満 東側はそのとき幅五メ 1 トルほど在も同じ場所にあります。 宮の縁日のため二五日に疎開から が買収されました。その際、鐘楼 「堀牛乳店跡」と「秋田酒店跡」 帰っていた老夫婦を含め家族五人 が壊され、釣り鐘が本堂軒下に置 爆弾は北から落とされましたが、が爆死しました。現在そこはマン かれたままになっています。 智恵光院通下長者町通には三発一発目は上長者町通の「堀牛乳店」ションとなっています。 この付近一帯は家々が倒 杏目の爆弾が落ち多くの被害を出し北側にあった小谷さん宅に落とさ 銀ています。ほば直撃を受けた寺石れました。小谷さんの防空壕を直壊し、また、付近の電線や樹木に 一のさんの娘さんの遺体は数百メート撃したために、非難していた堀さ遺体の一部や服の切れ端がかかる 者ルにわたって飛散したということんご夫婦は遺体も発見されなか 0 など、まさに地獄絵そのものでし 下です。また、その北側の畳屋の山たといいます。現在はそこにあった 1 14

6. 京都に強くなる75章

テ。。ュ台 跡 代幼 所待 ロ 朝堂院跡 ( 大殿跡 ) 堀川通 第 1 室 院 平安京民衆の営み して利用され、幕末期には家茂が スポット解説・豆知識 攘夷を誓い、慶喜が大政奉還を上 表するなど政治の場となりました。 ・平安京 七九四年、桓武天皇により長岡一一の丸殿の大広間や白書院にあ 京から遷都され、そのとき、風水る狩野派の障壁画は特に有名です。 屋思想により「四神相応の地ーとし平安京大内裏跡に一一条城を造り、 条て平安京の建設が進められました。その権威を天下に誇示しようとす 千本通の真北に、北の守り神「玄る政治的意図があったようです。 武」に想定される船岡山を眺めら・ニ条陣屋 れます。政治の中心である朝堂院京都に本陣のない大名が上洛し ( 大極殿 ) も朱雀大路も船岡山をたときの宿泊所となったのが一一条 陣屋です。天井裏の武者隠しゃ落 基準にして作られています。 とし階段など様々な仕掛けなども ・ニ条城 跡 局也獄 - 六〇三年、徳川家康により築あり楽しく見学することができま 送、の : 都 城され、朝廷に対する対面の場とす。 一一条公園 い座駅 、 2 都 美福通 円 り古北都 。省大 下停 中 場直 駅ス 部朱条 側。の 京 大内裏デ こ条バ o 統生紅 入西気台 跡 二条 2 系高ラ 、のの囲用 中要 始見苑雰団を 開一店泉た」れ 日半は茶神い原ら・ でに、円 駅ス 2 4 時」喫【着河見 9 ち条ヾ 前バ停丸 8 ℃事 城市収 日日後胤胸落四し ( 本般 朱雀大路す 条 3 1 午土ロでの 、ノ停千一る月月月 興チま年 ( せ二駅痾ス、料 。場 - す 2 5 5 言中の「ま初印 囈一条駅 言狂目辺食の治写 く下一一鳰明圦乃係 凵第 祭狂祭苑演周軽子明ど 地線出太世 2 屋谷に 陰、丸出城生陣。苑祭苑苑焚泉十城椅るな・ 立ロ 山硎本ス条学条み泉分泉泉火神三条茶や残」 ニ休神節神神御※ニ喫机の舎 交田系千バニ 兵 , ー一豊楽院 ハ省Ⅱ〕 丿幼稚園 竹屋町 一条城 ' ) 本丸御殿 , の丸御第引 禰泉堯東境界跡 ーー木月リ 省 朱雀門跡 全旦空 神泉兎西境界跡 大学寮跡東町奉行所跡 神泉苑 御池通 200m 8 1 : 10000

7. 京都に強くなる75章

南禅寺・哲学の道 5 上賀茂・鷹ケ峰 5 北嵯峨・嵐山 行きます。大沢池で一休み。うま くいけば映画の撮影に出くわすこ とがあります。 釈迦堂清滝道を横切り西進しま 院離宮を右に宝ケ池公園にハンドを過ぎ、今度は急な坂道をポンピす。右折すれば化野念仏寺、ここ 東山山麓から鷹ケ峰界隈へ ルを向けます。そうそう冬の暖かングプレーキで無事に下り終え、は左折しましよう。嵯峨野を代表 自然と歴史の都、京都はサイクい 日、運が良ければ音羽川の土手東海自然歩道に沿って紙屋川を渡する古刹・名刹が立ち並んでいま リングに絶好の場所です。適度なで餌を食べている野生の猿の群れり、原谷へと自転車を進めます。す。二尊院から常寂光院に向かっ スピード感が脳内物質ドー ハミンを見かけるかも知れません。宝ヶ原谷川沿いに登って行くと住宅地ての細い道を、行き交う人を避け の分泌を促し、風を切る爽快感が池で休憩としましよう。 が開けてきます。字多野方面へのながらペダルをこぎます。ちょっ 自律神経の働きを高めます。さあ宝ケ池から深泥池に寄り、大田登り坂に自転車をとり、ヘアピンと向きを変え、趣のある落柿舎に 休日はサイクリングに出かけ、風神社を過ぎ、社家町から上賀茂神力ープが続く長い下り坂が終れば立ち寄るのもよいでしよう。秋の と一体になりましよ、つ。 社に行きましよう。上賀茂神社か御室の仁和寺に到着です。四月の紅葉は見事なものです。小倉池を 京都市美術館前の広場を集合地らは鷹ケ峰方面へとハンドルを向終わりにここを訪ねれば遅咲きの過ぎ、急な坂を登れば眼下にトロ にしましよう。今日は、東山の麓けます。だらだらした長い坂道を「御室桜」が出迎えてくれます。 ッコ列車の駅が見えます。もうす から鷹ケ峰、嵐山まで足をのばしやっと登りきり、源光庵・光悦寺 ぐ亀山公園です。 北嵯峨から亀山公園・嵐山へ ます。琵琶湖疏水に沿って東進し 亀山公園を過ぎれば京都随一の 南禅寺から哲学の道へと進みます。 仁和寺から福王子を過ぎ、広沢観光地嵐山に到着です。今日のサ 哲学の道のさらに東の道をとれば 池へと向かいましよう。休日の午イクリングはここまでです。時速 安楽寺、河上肇・九鬼周造・谷崎 後、多くの家族が楽しんでいます。七 5 八キロぐらいのゆっくりとし 潤一郎などの哲人や文豪ゆかりの 広沢池の脇を回り、北嵯峨にハンたペースで、休憩や寺社の参拝等 墓所である法然院へと続きます。 ドルを切りましよう。春にはレンの時間を含めて所要時間は約六時 ~ て 白川通を北進し、造形芸術大学の ゲ草の絨毯が広がり、手入れの整間の行程です。適度な疲労感が充 道を右折すれば一乗寺下り松にで 。す ( 時 0 た畑に見える小高い丘は古墳群実した満足感を呼び起こし、美味 ます。ここを右折し、さらに左折 仁です。直指庵の前の道を過ぎ、大しいタ食と、明日のためのここち して円光院・曼殊院を過ぎ、修学 ー春覚寺を巻くように自転車を進めてよい睡眠を約東してくれます。 京都市周遊サイクリング 自然と歴史の都のサイクリング案内 140

8. 京都に強くなる75章

安楽寿院 5 鳥羽・白河天皇陵 5 城南宮山 5 恋塚寺 洛南に『平家物語』の舞台を歩く 院政文化の栄華の残照を訪ねる くの寺院が建立され、それにとも 南の離宮・鳥羽殿 現在の鳥羽と周辺の史蹟 ない商工業者や雑役に従う人々も 一〇八六 ( 応徳三 ) 年、退位し住みつき、一大都市を形成するに 竹田駅を下車して西を眺めると、 て上皇となった白河は、ただちに至りました。 樹々の梢の上を越えて多宝塔が眼 院政の拠点として鳥羽離宮を建設 に入ります。近衛天皇陵を示す塔 伊勢平氏の台頭 に着手しました。その規模は壮大 で、一六〇六 ( 慶長十一 ) 年に、 宮 で、「さながら都遷りのごとし 白河・鳥羽・後白河三代の上皇豊臣秀頼によって再建されたもの 城 ( 『扶桑略記』 ) と言われる騒ぎでの治世のおよそ百年間を院政時代で、現存する陵墓建造物では最古 した。古来、鳥羽は水陸交通の要といいます。この時期に急速に台のものです。この塔の北側に建つ城南宮です。方除け・役除けの御 衝でした。こうして院の御所をは頭してきたのが桓武平氏の一流、 安楽寿院は院政時代に、この地に利益があるとされるこの社は、鳥 じめとして皇族や貴族の邸宅や多伊勢平氏でした。正盛が一〇九七建立された寺院のうち唯一残され羽離宮の鎮守社でした。後鳥羽上 ( 永長二 ) 年に白河院にその所領た存在です。阿弥陀堂には鳥羽天皇が承久の乱に際しここで自軍の を寄進して以来、院の近臣として皇の念持仏の通称「卍の阿弥陀」馬揃えを行なったといいます。そ 勢威を伸ばし、嫡子忠盛は、院のと呼ばれる仏像が安置されていまのすぐ傍の鳥羽離宮跡公園は離宮 近臣として平氏の地位を高めるとす。この寺の西には鳥羽天皇陵がの南殿の西北部に相当し、公園の ともに瀬戸内の海賊衆を掌握してあり、その周囲には碁盤の梅や冠北側にある築山は、南殿庭園に造 日宋貿易を積極的に一丁い、 巨万の石などの天皇ゆかりの遺蹟が点在られた秋の山の遺構で、玉石の洲 富を築きました。この富と武力をしています。また、隣接している浜や遣水が復元されています。最 引き継いだ清盛を主人公とする物北向不動院は天皇の勅願寺であっ後に、南へ約一キロの地にのちの 語が『平家物語』です。そして、たといいます。 文覚こと遠藤盛遠と袈裟御前の悲 「一な寿その主要な舞台が鳥羽だ 0 たのでさらに西へと進むと、白河天皇劇の寺、恋塚寺を訪ねてみてくだ 陵の前に出ます。その西方の森がさい

9. 京都に強くなる75章

京大研究所 5 万福寺駐車場入口 5 宇治少年院 5 羽戸山 3 丁目住宅北側 黄檗の陸軍火薬製造所 の 京大構内に残る赤レンガ建築群 し ミ残 が足 重点に軍隊作りを開始しました。周堤 ( 上手 ) が築かれていました。 衆の 民居 黄檗の火薬貯蔵庫 兵部大輔の大村益次郎らは、日本外からは火薬庫の屋根さえ見えな ガ ン 宇治橋を渡 0 て広がる東宇治地最大の武器製造を誇る陸軍大阪砲い仕組みにな 0 ていたのです。今 レ 域の・京阪電車沿線は、火薬兵工廠の火薬貯蔵庫のための広大も京大グラウンドや野球場、少年 赤 る 貯蔵・製造の一大拠点として戦争な土地を、大阪と連絡が密にとれ院周辺の高い周堤にその名残をと 体制を支えた重要な場所でした。る所で探しました。そこで選ばれどめています。この辺り一帯が火 処 黄檗駅前の府道を右 ~ 進み一たのが宇治川沿いの五ケ庄地域で、薬庫で、少年院の奥に入ると、今」 つ目の信号を左折すると黄檗運動一八七一 ( 明治四 ) 年に万福寺敷もなお数十年前さながらの情景が 西 関 公園への上り坂です。坂の左側一地の一部 ( 南側 ) が「上地」 ( 没収 ) 残されています。小屋の奥に赤レ 隊 。 ~ 衛築 され、兵部省が火薬貯蔵庫を建設ンガのトンネルがあり、それをく 帯は黄檗山万福寺の敷地です。 自建 明治維新直後、新政府は関西をし各藩からさし出させた火薬を集ぐると、内部は火薬試射場でした。 トンネルのすぐ内側には、火薬のには、村の鎮守の杜がありました。 めたのです。 発射・爆発力を実験した小屋が残社は今の許波多神社に移されまし 宀レ高い周堤とトンネル たが、鎮守の神を心の拠り所にし っています。 ~ ン現在火薬庫跡には、市営黄檗公周堤の一か所は、火薬運搬のたていた村人たちは、参道をまたい こと園の野球場や市民プール、京都大めの出入り口としてトンネルが造で建っていた鳥居の二本の足の底 学総合グラウンド、字治少年院、られていました。万福寺参拝者駐部だけを残しました。黄檗運動公 車場入り口前右側の土手には、ト園の坂道を下り、京阪電車踏切を を ~ ま。場宇治黄檗病院などがあります。 火薬貯蔵庫は、もし事故があっンネルがはっきり残っています。渡った所の左右に、人の背丈ほど の円柱の石が残っているのが鳥居 . 蕪ても連鎖反応を起こさないために、 火薬庫に追われた鳥居 の足の底部です。村人の抵抗精神 " 、”イ、、「心構造上一棟すつが独立し個々の火 、、を薬庫の周囲には屋根と同じ高さの火薬庫が設置された万福寺南側を今に伝える貴重な財産です。 120

10. 京都に強くなる75章

鹿苑寺 ( 金閣 ) 5 わら天神 5 等持院 5 妙心寺 足利義満を偲ぶ地・北山 室町幕府の明暗を映し出す金閣の威容一 0 : い る 武家政権、特に幕府政治で唯一殿、居所を室町第と称します。 応永の乱と妙心寺の中絶 京都を基盤としたのが足利氏でし 】。置像 北山山荘ー金閣の実像 義満は政治だけでなく、宗教面 た。室町幕府というものの、幕府 第ー満 を開いた尊氏は二条高倉や押小路義満の代が室町幕府の全盛でしでの統制・支配も手がけました。 よしあきら た。一三九〇年に土岐康行、翌年一三八二年、室町第の東に相国寺 高倉、一一代将軍義詮は三条坊門 手のち と一定しません。三代義満が初めに山名氏清 ( 明徳の乱 ) など有力を建て、あわせて禅宗寺院の五山 ′ 4 ー院う い持の て室町を本拠とし、一三七八年、守護勢力を討ち、翌々年南北朝をの制を再編し、寺格を確立しまし 等軍 新邸 ( 花の御所 ) が鳥丸 5 室町・合一しますが、一三九四年、将軍た。したがって禅寺は、幕府が保 上立売 5 今出川の地に内裏の倍の職を長男義持に譲り太政大臣に就護する五山と、それ以外の林下に山第に後小松天皇の行幸も仰ぎ・ : 規模で造られました。将軍を室町きました。しかし翌年、これも辞分れました。一三九九年、明徳の義満の野望は達成寸前でしたが、 し出家します。これは既存権力の乱などで活躍した守護大内義弘が、一四〇八年に急逝し崩れました。 の東縛を逃れ、自由な立場で全勢力鎌倉公方足利満兼と通じて挙兵し跡をついだ義持は、父に不遇に扱 竟の最高の地位を得ようとしたとさ鎮圧されました ( 応永の乱 ) 。このわれてきたため、義満 ( の太上天 れます。義持に室町第を任せ、一時、林下を代表する妙心寺の当時皇の尊号辞退、日明貿易の停止 : 同 三九七年に北山の摂関 ( 西園寺 ) の住持が義弘にくみしたかどで、と従前の方針を覆し、北山第も金 こ寺は没収され、義満の四閣など一部以外破却されました。 潮家の敷地へ上棟し住んだのが北山乱の後 : 院閣第で、金閣は舎利殿でした。ここ男青蓮院義円 ( 後の六代将軍義教 ) ところで、妙心寺に義持が描かせ たとされる初期水墨画の傑作「瓢 法寺は単なる山荘でなく、公武の頂点に与えられてしまいました。 、苑 鮎図」があります。この絵が義満 にたった政治の中心 ( 室町第と北 え鹿 義満の野望の挫折とその後 の怒りをかった寺に所蔵されてい 映る山第がさしすめ内裏と院の御所の ら関係 ) で、義満は皇位を狙い、法人事・祭祀を含む権限の大半をるのも興味深く、また妙心寺も一 湖か 、北四三二年頃再興がかないました。 鏡層皇になろうとしたというのです。収め、明から日本国王とされ