7 章復元 かえると、近世になっても、中世の村々の既得権を認めるかたちで僻遠の複数の領主 による細分統治がおこなわれていたわけである。そうした極めて特殊な歴史的経緯を 経て、吉備高原のむらやまちには、現在もなお中世的な社会が残存している、といえ るのである。 ちなみに、日本の歴史研究のうえでも長い間、中世は空白期とされてきた。それだ けに、美星町で中世的な遺産の調査研究をすすめ、それを伝承保存することには、日 本的規模での意義がある。美星町へ行ったら中世を知る手がかりが見られる、といっ たような歴史公園なり歴史館を具体的な核として、さらに周辺整備や観光開発を考え ていったらど、つだろ、つか つまり、町全体を野外博物館と考えてみたらどうだろうか。 しかし、参考にすべき先進例がほとんどない。が、国内では三州足助屋敷 ( 愛知県 ) 、 房総のむら ( 千葉県 ) 、近隣諸国では韓国の民俗村と台湾の九族文化村あたりは参考 になるだろう。もちろん、そうした右の提案が、すんなりと彼らに理解されたわけで はない。何しろ、中世の集落だの景観が博物館だのという話は、私にとってはある確夘
次 7 マ博物館の整備 / ▽観光施設としての博物館 マ博物館と地域の問題 マまちづくりと博物館 / 5 中世吉備の荘 5 平凡なまちの活性化 マ中世の野外博物館ができないものか / マモザイク会議と学習会 マリーディングプロジェクト「中世吉備の荘」 / 叫 マかたちが見えはじめての不安 / 神崎宣武
ところで、博物館といえば収蔵庫と展示場をもっ建物だけが博物館ではない。琴平 の例でもあげたように、ひとつは地域全体を博物館とみなして構成する必要もある。 岡山県美星町などはそれに近い発想である。備中神楽をはじめとする中世芸能、中世 荘園の遺跡の残存などの文化的状況をふまえて、中世吉備の荘の復元として、地域全 体を対象として整備されつつある。目の当りに中世の村の生活の情感をかもしだす構 成である。こうなると町全体が生きた現代の博物館となり、その核に学術的に集約し た展示施設が設けられるならば、地域博物館の新しいタイプとして評価できるのであ る。 こうしたなかで、特に重要なことは、博物館というのは社会教育機関として、市民 に教育する場ではない。市民、地域住民が自分なりに感じとる場である。したがって 何らかの刺激を与える場、挑発する場と考えるべきであろう。 4
中世の野外博物館ができないものか そこで、筆者は次のような提案をした。 ①「まちづくり」のユニークなメインテーマを探すこと ②「まちづくり」を町民運動にまで高める手立てを考えること そして、具体的には、「まちづくり」のテーマには「中世的な文化の保存」が描け そうであることを述べた。 例えば、ひとっ美星町に限ったことではないが、吉備高原上の町村には中世的な歴 史要素を伝えているところが少なくない。 まず、その景観である。なだらかな丘陵地、赤土土壌に赤松林ーーー松は疎林で杉木 202
そして、さっそく「中世のむら」の勉強会が開始されることになった。 それには、役場の企画開発班の若手メンバーが中心となった。企画開発班は、先に 紹介した振興計画の策定時に編成されたチームで、各課から中堅と若手を選出して「ま ちづくり」の実践活動にも連動できるよう位置づけられていた。このあたり、まちの 将来を担う世代に自覚を求める組織づくりをおこなったことは、町長をはじめとする 幹部の慧眼というべきであろう。 彼らが「中世のむら」を彼らなりに具体的に描いてみよう、と意欲を燃やすように なったきっかけは、、 しってみればささいなことにあった。 まずはじめに、中世を理解するのに比較的わかりやすい最新の手引き書として『日 本の絵巻』 ( 中央公論社 ) や『日本の歴史』 ( 朝日新聞社 ) などを購入して読み合わせ ることにした。そこで、「中世の村落想像図」 ( 『日本の歴史』 ) に興味をもった彼らは、 自分たちの手で絵を描くことに情熱を傾けはじめたのである。 彼らが試みたのは、現在の集落景観から近代的 ( あるいは近世的 ) な要素を剥いで いき、より原型に近い図を求めていく景観スリップの作業であった。まず、自動車道 2 72
者だけを養成することではない。もっと広く試みなくてはならない。 もてなしとは、客に媚びることではない。また、偏狭なお国自漫をすることでもな い。自分たちの生活文化に正当な誇りをもって、外来者とも対等に語り合うことが大 事なのではなかろうか。 そのためには、あらためて郷土の歴史と文化を見直して、次代に語り継ぐことは何 かを考えてみる必要がある。そこで、筆者は、例えば以下のようなことにとり組んで みたらどうか、という提案をしてみた。 ①もし " 中世のむら。を標榜するとなれば、何人もの人が語り部となれるよう、 歴史学的な勉強をしてゆく。専門の学者の指導も必要になろうが、ある手順に したがって、自分たちの祖先がどのように暮らしをたてたかを考察してゆけば、 素人でもあるレベルには達するはずだ。中世を伝えるむらは、また中世を学ぶ むらであってほしい。 ②美星町では神楽が盛んである。名人といわれる太夫もいるし、若手の後継者も 2 70
7 章復元 5 中世吉備の荘 5 神崎宣武
び美星町と東京を往復するかたちでおこなわれたし、その中間的な報告会は町の推進 協議会や企画開発班でそのつどおこなわれた。 そして、そうしたなかで、「中世」と同等の位置づけで「星」というテーマが浮上 してきた。ちなみに、「美星」という町名は、昭和二十九年の旧四村合併の時、その 中心が美山村と星田村の境のあたりとなったので両村の頭文字をとったにすぎない。 つまり、なかば偶然に生まれた名称なのであるが、その名にふさわしく、ここからの 星の眺めはまことに美しい。広々と開けた天空に散りばめたように輝く星は、それま でもこの地を訪れた人々の賞賛の的であった。「星」は、確かに美星町のシンボルと してふさわしいものであろう。 ともあれ、計画策定集団を中心に町ぐるみで美星町の資源分析、特徴づけをおこなっ ていった結果、「中世」と「星」というタームが浮かびあがってきた。すると、美星 町の愛称も「星の郷」がよい、ということで、そのイメージが統一されることになっ たのである。そして、歴史になじみ星と遊べる野外博物館の構築がいよいよ本格的に すすめられることになったのである。
7 章復元 こと欠かない。だが、伝承の中心は神代神楽 ( 演劇性の高い神話劇で、江戸中 期に国学者西林国橋によって編じられた ) である。備中神代神楽の要素は、の びんご いわみ ちに備後神楽にも石見神楽にも伝えられている。もし、遠来の客が他地方の神 楽と異なるものを要求したとき、神代神楽しか舞えないというのでは情けない。 いまこそ、中世系の荒神神楽 ( 問答形式の五行神楽が中心 ) や吉備津舞 ( 吉備 うんら 津彦命の温羅退治 ) を伝えるときではないか。 ③これまで美星町を訪れた人が美星町に泊る例は稀であった。しかし、今後「ま ちづくり」がすすめば、宿泊客が増えることが予想できる。その場合、宿舎の 快適さも大事だが、食べものの良し悪し、印象度が問題になる。何をもってご ちそうとするか、料理人だけに任しておいてよいことではない。名物を再生し たり創造してゆかなくてはならない。 そうした経緯があって、美星町の振興計画は、勢い野外博物館的な「中世の動態保 存」を指向することになったのである。 じんだい
7 章復元 路を元の歩道の状態にもどす。耕地も灌水整備・圃場整備以前の状態にもどす。それ には、古く確かなところで明治初年の土地利用地図が役にたつ。一気に中世までスリ プはできないし、その必要もない。まず、近世が多少とも具象化すればよい。先述し たように、吉備高原上の村落のあり方は、あるいは近世 ( 特に前半期 ) と中世の違い が歴史区分ほどに明らかでないかもしれないのだ。 次に、古地図や文献との照合、古老からのききとり調査から、本家・分家の関係を 明らかにする。そして、例えば江戸中期頃 ( 氏子や檀家組織が確立され、墓石が立ち はじめ、神事や神楽が再編された頃 ) までさかのばって、それ以後の分家をのぞいて 家数を本家と一、一一番分家ぐらいに仮定する ( すると、ほば同じ標高上に家が点在す ることがわかった ) 。後に分家などに一部分譲した耕地を集合してみると、屋敷の前 に畑がある ( 現状とさほどの違いがないが ) 。水田は、それより下方に棚田が開かれ ているが、水利を探っていけば、同じ家系 ( 本家・分家 ) の開作が一水系に連なるの は当然である。つまり、家・畑・水田のタテの構図が明らかになる。 また、井戸や泉を確かめる。株神や荒神、堂や石塔の位置も確かめる。さらに、樹幻