年 - みる会図書館


検索対象: 日本列島活性化シリーズ 博物館づくりと地域おこし
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1. 日本列島活性化シリーズ 博物館づくりと地域おこし

〈引用及び参考文献〉掲載順 『二〇〇〇年の千葉県』 ( 千葉県 ) 一九八五年 『全国市町村要覧』 ( 第一法規出版株式会社 ) 一九八八年 『千葉県立房総のむら年報 1 』一九八七年 『千葉県立房総のむら年報 2 』一九八八年 『千葉県立房総のむら年報 3 』一九八九年 『博物館研究』 ( 財日本博物館協会 ) 一九八九年 『博物館調査報告」 ( 助日本博物館協会 ) 一九八六年 『千葉県統計年鑑』一九八九年 『民俗展示の構造化に関する総合的研究』一九八八年 『野外博物館総覧』 ( 助日本博物館協会 ) 一九七八年 『現代博物館論』 ( 暁印書館 ) 一九八五年 738

2. 日本列島活性化シリーズ 博物館づくりと地域おこし

〈引用及び参考文献〉掲載順 『季刊人類学』 ( 講談社 ) 一九八九年 『ジュリスト増刊総合特集・全国まちづくり集覧』 ( 有斐閣 ) 一九七七年 『日本社会の変革と再生』 ( 弘文堂 ) 一九八八年 『むらおこしルネッサンス』 ( ぎようせい ) 一九八五年 『大手前女子大学論集』一九八四年 『地域おこしのフォークロア』 ( ぎようせい ) 一九八八年 『季刊ミュージアム・データ 5 号』 ( 丹青社 ) 一九八八年 『現代と民俗ー伝統の変容と再生ー』 ( 小学館 ) 一九八六年 『望星』 ( 東海教育研究所 ) 一九八七年 「岡山のふるさと村』 ( 日本文教出版 ) 一九八〇年 『備中吹屋ー町並調査報告書』一九七九年 〈付記〉 小稿は先に発表した「過疎地域の活性化ー岡山県の″ふるさと村。創設を中心に 5 」 ( 成城大学民俗学研 究所編『昭和期山村の民俗変化』名著出版刊 ) の一部を修正、加筆したものであることをお断りしておく。 8 5 2

3. 日本列島活性化シリーズ 博物館づくりと地域おこし

2 章公立博物館とむらおこし コレクション展示 民具にとりつかれて一一十数年がすぎた時、筆者の収集した民具が町立の資料館に展 示される運びとなり、また、観光地である角館町の武家屋敷に資料を出品して欲しい という依頼が筆者のもとに相次いで入ってきた。 筆者の住む町にある、「平鹿町農村文化伝承館」 ( 以下伝承館 ) が開館したのは、昭 和五十五年のことである。くしくも角館の武家屋敷、青柳家の土蔵を改造して「民具 の館・油谷コレクション」として展示された年であった。 青柳家が一般に公開したのは、その数年前ということであるが、入場料をいただく ようになったのは、昭和五十四年六月十九日からである。当初一万人にも、満たない 入館者数であったが、年々数を増し、昭和六十三年度には、入館料を三百円から五百 円に値上げしたのにもかかわらず、一五万人が青柳家の門をくぐった。 5 5

4. 日本列島活性化シリーズ 博物館づくりと地域おこし

8 章 「ふるさと村」の創設による地域の活性化 岡山県下の「ふるさと村」一覧表 ( 1 ) 大高下ふるさと村 ( 阿波村 ) ( 2 ) 越畑ふるさと村 ( 鏡野町 ) ( 3 ) 八塔寺ふるさと村 ( 吉永町 ) ( 4 ) 石火矢町ふるさと村 ( 高梁市 ) ( 5 ) 吹屋ふるさと村 ( 成羽町 ) ( 6 ) 真鍋島ふるさと村 ( 笠岡市 ) ( 7 ) 円城ふるさと村 ( 加茂川町 ) 245 1974 年 4 月指定 1974 年 4 月指定 1974 年 4 月指定 1974 年 12 月指定 1974 年 12 月指定 1978 年 5 月指定 1980 年 3 月指定 特徴 落合渓谷を利用して渓流釣 りが盛んな地。古くからの 茅ぶきの民家、土蔵、水車 小屋が数多く残っている。 かっては砂鉄精製が盛んで あった地で、たたら跡が数 多く残っている。 備前の高峰、八塔寺山の麓 にひらけた高台。 かって山 岳仏教のメッカとして栄え た地。 城下町の町割がそのまま残 っており、武家屋敷が昔の 面影をとどめている。 かって銅山と弁柄生産の町 として栄えた地。当時の町 並みがよく保存されており、 伝統的建造物群の指定をう けている。 県の西南端に位置し、昔は 海上交通の要衝であったと ころ。島の周囲は内海潮流 が交差し、漁業が栄え、漁 村特有の集落を形成してい る。また、あたたかい気候 を利用して花づくりも盛ん で、冬の間は島が花で覆わ れている。 県の中央部に広がり、吉備 高原の典型的な景観を有す る地帯で、純農村風景がそ の魅力をみせている。

5. 日本列島活性化シリーズ 博物館づくりと地域おこし

トされ昭和六十一一年十月十六日にオープンとなった。足かけ五年目であった。博物館 計画という事業は短い期間でも三年から四年ぐらい。国立級の博物館などは十年ぐら いかかっているのもある。昔のダム建設は、大学の土木科を卒業してダム建設を三つ もやると定年になるという話をきいて驚いたことがあったが、博物館の展示計画も、 その当初から完成まではこのくらいかかるものなのである。民間は別としても行政が おこなう仕事は、その予算措置との関係から年度のなかで作業を実施するため時間が かかるのは当然としても、この深川江戸資料館は早い方なのである。このことは最初 から明確なコンセプトと内容表現の意図があったためであり、行政側が「何を、どう 展示して、何を伝えるのか」という基本姿勢がかたまっていたことと、裏方スタッフ 全員の協力によって進行したためである。 現在、博物館等の計画が全国で多数計画されていても、展示資料に困っているとこ ろもあるのが現状ときいている。それとコンセプトが未定のままスタートして、設計 時期になっても基本姿勢が決まらないところもあるようにきいている。資料館づくり という作業は行政的にもはじめてのケースが多いし、教育行政のなかで資料館の位置

6. 日本列島活性化シリーズ 博物館づくりと地域おこし

住居 仕御田畑者銅焼候而悪所多ク中々農業斗ニ而渡世難相成何連茂銅山稼方相 兼先年より御百姓相続仕儀ニ御座候 とあり、農業だけでは生活がなりたたず、銅山稼との兼業によって生計をたててい たことが理解される。吹屋銅山は中世末にはじまり、幾多の浮き沈みを経て、明治六 ( 一八七一一 l) 年三菱の岩崎弥太郎氏が請負権を買収して近代的経営にのりだし、明治 末から大正初期にかけては三大銅山のひとつに数えられるほどの盛況を呈した。しか し、一九二九年の世界大恐慌によって一九三一年に閉山。戦後の一九五〇年に吉岡鉱 業所として再開され、細々と続けられたが、一九七二年に閉山し銅山としての歴史を 閉じた。 銅山と並ぶ吹屋の生産物で知られているのは弁柄である。弁柄とは硫化鉄鉱を原料 とする赤色染料で、弁柄の製造開始時期は江戸中期とされる。また、現在吹屋の中心 2 2

7. 日本列島活性化シリーズ 博物館づくりと地域おこし

8 章「ふるさと村」の創設による地域の活性化 部を構成する町並みは江戸中・後期に形成されたと考えられており、宏壮な構えを 誇っているのは他ならぬ弁柄竈元である。一九三一年の銅山閉山以降、弁柄産業は唯 一の地元産業となり、吹屋の過疎化の歯どめとして一定の役割を果たした。しかし、 伝統的な技術・経営から脱却できず、一九六五年代末には操業停止に至った。吹屋の 過疎化は銅山の閉鎖にはじまり、弁柄製造が衰退しはじめた一九五五年以降拍車がか けられたといえる。この過疎化傾向を阻止する方法として打ちだされた案が、県の「ふ るさと村」指定に乗じて観光地として復活するというものであった。一九七五年以降、 町家の修理、食堂の建設、弁柄工場の復元などの整備をすすめ、一九七七年四月に開 吹屋ふるさと村の場合、弁柄工場・憩いの森などへの一部の人の雇用が増えたが、 全般的に経済効果は低い。最近ようやく山梨菓子・醤油といった特産品の生産にのり だしたばかりでたち遅れがはなはだしい。というのも老人ばかりの夫婦家族が圧倒的 に多く、住民が協力して新しい事業をはじめようにも無理なためである。一九七七年 に国の伝統的町並み保存地区にも指定され、石州瓦や弁柄塗りの民家にみせられてま巧

8. 日本列島活性化シリーズ 博物館づくりと地域おこし

つかの施設整備事業が次々とおこなわれたわけであるが、このなかに博物館の設立事 業が県当局によって計画されたのである。 民俗調査と資料収集 昭和四十六年、石川県教育委員会は文化庁の補助事業として、白山麓民俗資料緊急 調査を二カ年にわたり実施した。これは、手取川ダムによって水没する集落及び周辺 の村を対象としたものだが、なかでも最も重要な調査は、すでに過疎に拍車のかかっ た出作り小屋の存在と焼畑農業を中心とした山村生活の実態についてであった。「出 作り」とは白山麓一帯の山中にて、比較的平坦な土地を選び、合掌づくりの住居小屋 を建て、その周辺の傾斜地の雑木を伐採し焼畑をおこなって稗、粟、カマシ、大豆、 小豆、蕎麦といった雑穀類を一年毎の輪作方式で経営する生業形態をいう。白山麓で は焼畑をナギハタ ( 薙畑 ) と称し、その多くは山林地主から三十年、五十年の契約期

9. 日本列島活性化シリーズ 博物館づくりと地域おこし

に地上ばかりを考えておらず、「穴に入る」動物や原始人の知恵を借りるならば、雪 にも嵐にも地下かいいのである。 「青森村」は、当然のことながら豪雪地帯にある。雪を集積する人造湖をつくり、 養魚と工業用水の配水所とすることもできる。雪を最大限に活用すれば、スキー、ス ケートなどのレジャー産業も誘致し得るものなのである。 建設準備室 昭和五十七年四月に、任意の「青森村」建設準備室が五人のスタッフのもとに発足 した。平成一一年四月でちょうど九年を経過した。当初、個人は無理だという危ぶむ声 もあった。これらの事業は行政がなすべきものだという数多くの指摘、批判、忠告も あった。しかし、準備室は着実に進展している。 「青森村」を構築する場合、用地の選定と確保が必要となる。民家移築、民具の収

10. 日本列島活性化シリーズ 博物館づくりと地域おこし

6 章博物館からのむらづくり て運営の体制が整った。そして、その年の 十二月、ダムの水没地区に当る桑島の旧杉 原家が移築され、翌五十四年七月七日、白 山の開山祭に合わせて開館の運びとなっ 左た。この時までに収集された民具の総数は 家三、四一六点に達し、管理棟における展示 杉場と杉原家の二階に並べられ、同じく三階 ては収蔵庫として使用された。 階旧杉原家は江戸期天領時代に嶋村 ( 桑島 ) 造の庄屋、組頭を勤めた豪農の家で、明治時 代には使用人の数だけで三〇人余といわ れ、したがって元治元 ( 一八六四 ) 年に建 てられたと伝えられる、木造三階建て切妻 形式のこの建物の総床面積だけでも三三五