ば一石二鳥というもの。 以前は、田圃の主役は鍬を引っぱる牛や馬だった。ところが今は自脱機である。人 と動物の協同作業だった農業がいまや機械化時代。仕事を楽にするために導入したは ずの機械類は、その購入費に相当するだけ、農家の人たちの仕事を本当に楽にしてい るだろうか。機械化投資が新たな負担になってはいないだろうか。こんな疑問を抱く 人もでてくるに違いない。農業に限らず、自分たちの住んでいる町の歴史を「体験」 をもとに知り、そして自分たちの生活の変化・町の変化・地域の変化が浮き彫りにさ れるはずである。今自分たちがおかれている状況を知り、これからすすむべき道を模 索せねばと、個々が身のまわりのことに興味を抱きはじめれば、民俗資料館の最初の 使命は果たせたことになる。 触発された興味・意欲を満足させるのが第二の使命である。豊富な整理された資 料・文献を収蔵した資料室・図書室・展示室はもちろんのこと、よき理解者・指導者 層の充実も大切だ。指導者たちの個々の研究室も欲しいところ。自分の考え・疑問に 対して意見やアドバイスを請う人もでてこよう。自分の考え・研究を人にきいてもら
8 章「ふるさと村」の創設による地域の活性化 化的イベント、過疎を逆手にとった観光事業に集約でき、これらを手段として衰退し こ村に活况を取りもどそうとしているのである。 特産品づくりといえばまず「一村一品運動」が想起されよう。「一村一品運動」は、 一九七九年大分県の平松守彦知事が県下の市町村長との懇談会の席上提唱したもの で、この運動に連動するかたちで「むらおこし」が各地ではじまり、あれよあれよと いう間に全国に広まった。この運動は、自分の町や村の顔となるような特産品を育成・ 開発して、まちづくり、むらづくりをすすめようとするのが趣旨であったが、『ふる さと情報』 ( 大成出版刊 ) に見られるように刺身のツマや酒の肴などが主で、全体的 にその生産は「つまもの産業」の観を呈しつつある。これでは生産活動の再生、村の 活性化は不可能である。豊富な農山漁村資源を有効に活用した、しかも長期的展望に たった地場産業の育成へと質的転換をはかる必要があり、現にそれによって成功をお さめている地域もある。 例えば北海道中川郡池田町の、十勝ワイン製造業を核としたまちづくりがその好例 であろう。池田町は米・大豆・馬鈴薯・ビートなどを生産していたが、これらの作物
3 章民俗資料館と地域づくりプラン この二つの考え方を念頭において、人口一〇万から三〇万程度の地方の中心都市、 例えば米沢を考えてみる。米沢も東京とかわらない点が多く見うけられる。車が氾濫 し、街角に自動販売機が立ち、農家の縁先にアルミサッシが入っている。その一方で、 米沢地域ならではの、長い年月を経て構築された生活上の工夫がまだまだ生き続けて おり、大都会の生活にドップリ首までつかっている者は新鮮さを覚えることがある。 中央からの大きな流れに巻き込まれかけているのが、どっこい町独自のものも保持し 続けているという様は、米沢に代表される地方の中心都市の大方の実状ではないだろ うか。こ、ついう状況下の米沢には二つの考えをうまく融合させながらまちづくりをす すめていける土壌が十分にあると思われる。 まず第一に大切なことは、その町に住んでいる人たちが自分たちの町の過去・現在 を知ることから未来のまちづくりは出発するということである。ところがその「知る」 という行為の「知り方」に問題がある。 従来のいわゆる郷土学習といえば、小中等教育において既存のカリキュラムのなか に申し訳程度に組み込まれた課外授業で市役所配布の小冊子を片手に市内数カ所を巡内
者だけを養成することではない。もっと広く試みなくてはならない。 もてなしとは、客に媚びることではない。また、偏狭なお国自漫をすることでもな い。自分たちの生活文化に正当な誇りをもって、外来者とも対等に語り合うことが大 事なのではなかろうか。 そのためには、あらためて郷土の歴史と文化を見直して、次代に語り継ぐことは何 かを考えてみる必要がある。そこで、筆者は、例えば以下のようなことにとり組んで みたらどうか、という提案をしてみた。 ①もし " 中世のむら。を標榜するとなれば、何人もの人が語り部となれるよう、 歴史学的な勉強をしてゆく。専門の学者の指導も必要になろうが、ある手順に したがって、自分たちの祖先がどのように暮らしをたてたかを考察してゆけば、 素人でもあるレベルには達するはずだ。中世を伝えるむらは、また中世を学ぶ むらであってほしい。 ②美星町では神楽が盛んである。名人といわれる太夫もいるし、若手の後継者も 2 70
回見学した記憶がある。人の頭ごしに見えるガイド嬢の旗ばかり気になって結局何も 見ていない団体さんの慰安旅行にも似ている。これでは郷土のことはおろか郷土学習 らしきことをしたと、覚えているのが精いつばいである。積極的に「知る」ことが大 いってみれば田舎っぺの集まりのようなもの。みん 切なのだ。東京などの大都会は、 なの「へソの緒」が故郷の実家につながっている状態では自分の住んでいる町を知ろ うという気さえおこらない。ただ目で「見る」だけ、頭で「考える」だけでは人の印 象は薄い。実際に体を動かし、手をよごすことによって印象は深められ、その深めら クされた時、自分の町への新しい れた印象が個々の今までの生活体験にフィードバッ 興味、積極的に知りたいという意欲が沸騰してくるものではなかろうか。そういう手 足・五体を通しての郷土学習のできる施設建設の下地が米沢にはすでにできている。 米沢市のはずれ、六郷町の「置賜民俗資料館」を整理し、再編成して「置賜民俗資 料館」を建てようという構想をうかがっている。その青写真に地域の新しい郷土学習、 ひいてはまちづくりの拠点の夢を描きたいものだ。 従来の民俗博物館、民俗資料館は極論すれば、入口で入場料を払い、矢印の順路に
ところで、博物館といえば収蔵庫と展示場をもっ建物だけが博物館ではない。琴平 の例でもあげたように、ひとつは地域全体を博物館とみなして構成する必要もある。 岡山県美星町などはそれに近い発想である。備中神楽をはじめとする中世芸能、中世 荘園の遺跡の残存などの文化的状況をふまえて、中世吉備の荘の復元として、地域全 体を対象として整備されつつある。目の当りに中世の村の生活の情感をかもしだす構 成である。こうなると町全体が生きた現代の博物館となり、その核に学術的に集約し た展示施設が設けられるならば、地域博物館の新しいタイプとして評価できるのであ る。 こうしたなかで、特に重要なことは、博物館というのは社会教育機関として、市民 に教育する場ではない。市民、地域住民が自分なりに感じとる場である。したがって 何らかの刺激を与える場、挑発する場と考えるべきであろう。 4
6 章博物館からのむらづくり 各民家の囲炉裏の火はガンガン焚かれ、あたたかいい つばいのかけ蕎麦や汁粉、甘酒 のようなものが安価に提供され、暖をとって休息できるような施設として利用されて もよいのではなかろ、つか 以上の提言は筆者の全くの思いっきの案でしかないが、これからの地方博物館のあ り方を模索するうえで、筆者自身の反省点に立って自問自答したものと自負している。 いずれにしろ、真に地域に根ざした博物館はその土地に住む人々の心情のいかんに かかわったものであり、そのための教科書は一切なく、あくまで自分たちの創意工夫 によるしかないというのが正直な感想である。ただ地域の人々が親しく愛した博物館 こそ末長く存続されるであろうし、維持していくための知恵がそこから次々と生まれ てくるのではないだろうか。イギリスの思想家ウィリアム・モリスはその著『ュー ピア』のなかで種々の工芸技術をもった人々の集団社会を理想とした。本来、日本の 民俗的技術の発生は山の民からはじまったといわれるほど、山村社会には数多くの伝 承技術が眠っている。この技術文化を後世にのこす基盤として、山村における博物館 が今後機能していくのではないかと思うことしきりである。 793
そして、さっそく「中世のむら」の勉強会が開始されることになった。 それには、役場の企画開発班の若手メンバーが中心となった。企画開発班は、先に 紹介した振興計画の策定時に編成されたチームで、各課から中堅と若手を選出して「ま ちづくり」の実践活動にも連動できるよう位置づけられていた。このあたり、まちの 将来を担う世代に自覚を求める組織づくりをおこなったことは、町長をはじめとする 幹部の慧眼というべきであろう。 彼らが「中世のむら」を彼らなりに具体的に描いてみよう、と意欲を燃やすように なったきっかけは、、 しってみればささいなことにあった。 まずはじめに、中世を理解するのに比較的わかりやすい最新の手引き書として『日 本の絵巻』 ( 中央公論社 ) や『日本の歴史』 ( 朝日新聞社 ) などを購入して読み合わせ ることにした。そこで、「中世の村落想像図」 ( 『日本の歴史』 ) に興味をもった彼らは、 自分たちの手で絵を描くことに情熱を傾けはじめたのである。 彼らが試みたのは、現在の集落景観から近代的 ( あるいは近世的 ) な要素を剥いで いき、より原型に近い図を求めていく景観スリップの作業であった。まず、自動車道 2 72
美に心を奪われてしまったことを思いだす。また、岐阜県高山市で日本民芸協会の総 4 会があり、出席した際に民俗村を見学した。民俗資料が観光として重要な役割を果た しており、民具が大きな価値を生んでいることを知った。そこで、筆者は、自分の民 具収集の方向に確信をもち、民具のもっすばらしさに感激もした。 民具が農家の経済力の向上と近代化によって捨てられていく一方、収集が叫ばれ、 公民館や学校の空き教室に展示されたり、マスコミの記事にもなったが、それも一時 のことであった。民具には暗いイメージがあったようである。かって農民は貧しい生 活を送らなければならなかったという暗いイメージである。しかし、民具をただ懐古 の思いのなかにだけ埋もらせてはいけないと、かっての農村を知る者として、痛く感 じた。 昭和三十九年の暮れのことである。クリスマス用品と年末売出しの仕入れのため上 京した時、東京の本屋で『民芸』 ( 日本民俗館 ) 百四十五号を百一一十円で買い求めた。 本のトップ記事は、大原総一郎氏の「民芸協会員はエリートか」であった。
祭りは、近年本来の祭りの姿から離れてしまったが、ここでおこなう祭りは、本来 : 寺こ資料館という立場から、 の姿にもどして、非日常的なものでなければならなし牛し、 過去のものを捨て去り別に新しい祭りを求めるのではなく、古いものを伝えそれを新 しい祭りとして発酵させなければならない。例えば、臼祭りは臼を知らない我々には これから 新鮮に映るし、伝統的な獅子舞も、そこに新たな発見をするかもしれない。 の農耕社会を形成するうえで、新しい「はれ」と「け」のリズムを見つけ、「はれ」 としての祭りを自分たちのなかでおこなっていかなければならない。 資料館は山の象徴でもあり、「大きなもの」として存在するものであり、付属の建 物は屋根の重なり合うもので、そのなかは人々の存在をあらわす空間となる。資料館 から、収蔵棟と宿泊研究棟が一一方向に伸びており、その囲まれた空間が、祭りの広場 となっている。台所は、この地域の主婦が共同で食事をつくりながら対話する場であ り、棧敷席では、人々が飲食しながら対話する場である。土手からおりてくる道行に は、フレームだけの建物があり、人々の創造により演出する空間となる。 ( 田口恵一 )