第 5 章わが村はエコミュージム 弥栄村農芸学校のひとコマ に携わりたい人たちを対象に、始まったものである。「農業学校」ではな く「農芸学校」としたのには理由があった。自給の技を身につけることを 手始めに、その技をイ中間に伝えるシステムづくり、醸造文化をベースにし た地場産業の起業化や地域文化の掘り起こしを通して村の再生を考え、そ れらを新しい芸術にまで高めていきたいという意図からであった。 もちろん教授は弥栄の自然と地元の人々である。農は命に通じ、食、健 康、環境とすべてに繋がっていくものであるという視点から、専門家も呼 びながらの学校だ。 農芸学校では、弥栄村に定住、あるいは半定住的に住んでみたいという 人たちの受け皿づくりを目標に、農村生活者を募るプログラムをつくった。 農村の価値を見いだし、命の尊さを発見し、「直耕」がいかに人間らしい 生活なのかを認識してもらい、その体験のなかで参加者それぞれが自分の 道を見きわめる指標づくりができればと思ったわけだ。 当初、 20 名程度の募集に 90 名以上の応募があった。第 1 回として、 23 名 を受け入れて始まったのであるが、開校直後にちょっとした事件が起こっ 141
第 3 章リンゴとワインの里のエコミュージアム や結婚難とあいまって、平成になってからは社会減に加えて自然減による 人口減少が加速傾向にあることで、これまでと違った新たな発想による定 住対策が大きな課題となっている。 産業別の就業人口は、第 1 次産業人口の減少、第 2 次、第 3 次産業人口 の増加という形で大きく変化している。山形県の平均と比べてみれば第 1 次産業人口の割合が高く、朝日町が農業をたいせつにしてきたことの表れ だが、農家の高齢化や後継者不足、農産物の消費や価格の低迷など、基幹 産業として朝日町を支えてきた農業の抱えている問題はより深刻になって いる。 ( 2 ) 課題解決に向けた取り組み こうした課題の解決のために、町ではリンゴを中心とした果樹の振興を、 町の基幹産業と位置づけ積極的に支援してきた。遊休農地や桑園を果樹団 地に切り替えるなど、農業振興にはとくに力を入れてきた。 また、工業面でも 1970 ( 昭和 45 ) 年以降、積極的に工場誘致を行い、多 くの企業を迎え入れることにも成功している。 観光面では、家族旅行村「朝日自然観」を開設し、生涯教育・学習のま ちづくりにも取り組み、定住対策のための係の設置など、考えられるほと んどの手を打ってきた。 しかし、これらですべて解決するといったものではない。 都市と地方の関係は変わらず、地方の活性化は容易ではない。こ、 つし、つ た経済状況のなかでは、ますます困難になりつつあるというのが実感であ る。 1989 ( 平成元 ) 年度から第 3 次総合開発基本構想・基本計画の策定の検 討が進められ、町民参画により 2 年間討議され 1991 ( 平成 3 ) 年 3 月に策 定された。 この構想の理念は「自然と人間の共生」をかかげ、エコミュージアムが 大きく反映されている。その結果、町づくりの基本テーマは「楽しい生活 環境観・エコミュージアムのまち」、キャッチフレーズは「地球にやさし い活力のまち」とされた。 朝日町に住んでいる人々が、自分たちの生活に誇りをもち、自分たちの 75
第 6 章工コミュージアム、 たとえば、バリ島の深い森やライステラスには、これを支える農家。 たちの農耕のありようや、食文化、宗教やライフスタイルが生み出したも のであり、そうした文化総体として風景はあるし、そのように表現される べきであり、そのように楽しむべきだと思う。 風景というのは汕断がならないものなのだ。それゆえ安易にみかけの風 景によりかかってはいけない。 「歴史は自然の景観の中にさえ点在する。王朝の始祖が初めて居を定めた 場所を岩が示し、バオバブの大樹は、しばしば王の墓」 ( 『無文字社会の歴 史』川田順造岩波書店、 1990 年 ) であったように、風景は自然と人間の 営みの歴史の結節点を示しているのであって、決して観光ガイドの諮意性 にまかせられないものだ。 もともと、古代、文字を構想した中国の人々は「風」と「景」について、 次のようなイメージをもっただろうという。 「風」という文字は、それぞれの方域を司る方神がしたがえている鳥のは ばたきを表したものだ、と白川静氏はいう ( 『漢字百話』白川静中公新 書、 1978 年 ) 。 鳥は方神と人間を結ぶ使者であり、それはきざしであり、予知であり、 予言でもある。 風に方神の命を予感するとき、風は風景という場所の姿を現す。「景」 はその民族の最も中心的な場所を示す言葉である。 風について、さらに白川静氏は次のように理解を広げてくれる。「鳥形 の風神は帝の使者であり、帝の命令をその方域に伝達し、布きひろめるも のであった。その行動がすみやかであること、しのびやかであり、ゆきわ ふうこう たることを風行という。その地の風土・地域的性格は、この風神によって もたらされるものである。これを風俗・風気という。わが国でいう『国が ら』である。その風土・風俗のなかで形成される気風、人間性を風格とい い。外に表れるものを風貌という。そのような風土性・風俗は、その地の 民謡にも反映する。それで地域の民謡を風、国風という。歌は無意識に人 の心を表現し、人を感動させる。それは、風教である」 ( 『中国古代の文化』 白川静講談社学術文庫、 1979 年 ) 。 風景はやはり油断がならない。私たちは、自己の手もちの風土がおりな 155
た。そして、これらの伝統的博物館のあり方に対して、自らも国立博物館 の学芸員でありながら、果敢に挑戦したのがリヴィエールであった。 博物館学者であり民俗学者でもあったリヴィエールにとっての最大の関 心は、「人間」にあったといわれる。人間は、博物館において、一方で 「研究対象」として、他方では「観衆」として重要な位置を占めてきた。 だが、彼にとって人間とはたんなる研究対象や観衆でなく、自然と社会の なかで生きる存在であり、文化の継承者であり創造者であり、なによりも 歴史の主体であった。「リヴィエールにとって人間とは、収集物、展示、 博物館、同じ伝統、同じ状況や技術、同じ生産物を通して集結する人間の 共同体を語る物語の主人公である」といわれるとき、そこでは人間はたん なる抽象的一般的な存在でなく、生活を切り拓いていく具体的な「住民」 であったのである。「リヴィエールをもって、博物館史において初めて住 民が、博物館とその責任者のパートナーになった」といわれ、「主体とし ての住民を発見した」といわれるのはそのためである。そこから、博物館 の収集物や現存物、展示のテーマや出版活動などは、住民の永続的な関与 なしにありえないと考えられたのであった。 また、人間を起点とする彼にとって博物館の役割は、モノの保存のため に占有されるべきでなく、人間が自らの問題を発見し学び解決することを 援助し、人間社会に寄与するものであると考えられた。したがって、収集 物についても、あくまでも人間のために証言しうるものすべてが構想され ており、たんに「傑作作品」や「国家的に価値づけられた収集物」ではな いと考えられたのであった。ここに、大きな国立博物館のエスタブリッシ ュメントと闘ったといわれるリヴィエールの博物館学の工ッセンスがあっ たといえよう。そして彼が自らの博物館像、主体としての住民への配慮を 最も完全に表現するものとして見いだしたのがエコミュージアムであった ( ただし工コミュージアムという用語は、当時国際博物館会議 (ICOM) の 責任者であったユーグ・ドウ・ヴァリーヌ・ボアン <HuguesdeVarine- Bohan 〉によってつくられた ) 。 しかし、こうした伝統的博物館 ( 学 ) への批判を通しての新たな博物館構 想は、そのまま実現されたのではない。それは、一方で財政的基盤を含む 国の政策との接合、他方で新たな博物館実践を担う主体の存在が必要であ 32
第 1 章ェコミュージアムの原点 4. 工コミューシアムの概念 工コミュージアムの理念をみていくためには、フランスの地方文化の振 興、地方の活性化を図る DATAR の存在と、長年にわたる博物館学的研究 の蓄積をもつ G. H. リヴィエールの知見とをふまえる必要がある。両者に 共通するものは、フランス文化の多様性の発見と、それを表現するものを 「遺産」とし、それは人間の環境とのかかわりで営まれる生活のなかで、 過去から現在、そして未来に引き継がれるものとみることである。その保 存・活用は、そこで生活している人々の活動にゆだねられる。したがって、 工コミュージアムは、地域住民の参加なしには成立しえない。住民は、そ の運営に参加することで、テリトリーにある各種の遺産の価値を知り、そ れらとともにあることに誇りをもつ。また地域や運営に参加している個人 としてのアイデンティティの確立を図っていく。そのことは、結果として 地域の活性化につながっていくし、地方分権を実質的なものとしていく。 工コミュージアムの理念を検討していく手がかりとして、 1980 年、リヴ イエールが行った「発展的定義」がある。これは、さまざまな側面から、 工コミュージアムをとらえたものであり、いわば、エコミュージアムの工 ッセンスともいうべきものである。 まず、「エコミュージアムは、行政と住民とがともに構想し、創り出し、 活用する手段である」としている。そこでは、行政・専門家・住民の連携 が強調されている。次に、エコミュージアムは、住民自身と地域の生活環 境とを映し出す「鏡」であるとしている。工コミュージアムにかかわるこ とで自己と地域とを客観視できるという。そのほかに、エコミュージアム は「人間と自然の表現」であり、「時間の表現」であり、「空間の解釈」で あるという。それを機能という側面からみると、「研究所」であり、「保存 機関」であり、「学校」であるという。 それぞれの項目について、彼の体験にもとづく簡潔な解説が付されてい る。それについては、これまでの記述でふれられているのでは繰り返さな い。アフォリズム ( 警句・金言 ) 風に示されたエコミュージアムの「発展 的定義」は博物館学の基本的な部分をしつかりおさえながらも、より開か 25
このようにエコミュージアムの実現の背景には、国の政策的側面とリヴ ィエールにみるような新しい博物館を求める要求があった。そして同時に 5 月革命に象徴される 1960 年代末の思想と運動、すなわち、エコロジーと 地域主義運動および異議申し立てと自主管理思想があったことも見落とせ ない。もともとエコミュージアムは、国の政策の一環としての制度的な試 みとして実施されていったわけだが、これらの思想や運動は、次にみるよ うに、地方自然公園を土台とする制度的なエコミュージアムに対して、新 たなダイナミズムを与えることになった。 ( 3 ) 協同体運動の高まり 1972 年、プルゴーニュ地方にル・クルゾー・モンソ・レ・ ーヌ・エコ ミュージアム ( 以下クルゾー・エコミュージアムと略す ) が、上記公園型 工コミュージアムとは異なるタイプのものとして設立される。それは、環 境と人間のかかわりを表現するものであるという点では同様であるが、そ の設立の経緯や主体のあり方において、次の点で特徴があった。 1 ) 地域の工業遺産を保存し、未来につなげていこうとする住民が中心 になって設立した。彼ら住民の多くは 5 月革命の影響を受けており、 イデオロギーを一つにともに活動しようとした人々であったと、後に F. ユベール (Francois Hubert 当時グランド・ランド・エコミュージ アム学芸員、現在プルターニュ博物館学芸員 ) は述べている。 2 ) 経済活動のなかで歴史的に形成されてきた 16 市町村を「地域社会 (communauté) 」としてとらえる。約 500km2 、人口 15 万人のこの地域 は、産業革命以降、クルゾー町の鉄鋼業、モンソ町の石炭業を中心と して発展してきたのだが、エコミュージアムは、まずこの 2 つの町の 住民が核となり、その周辺の市町村住民も参加してくるなかで設立さ れた。つまり、この「地域社会」はエコミュージアム設立によって成 立したものである。 3 ) 協同体としてエコミュージアムを設立し活動を進める。協同体とは、 個々人が自律的に互いの要求にもとづき活動を共有する非営利的な民 間団体であり、 1901 年の協同体法 (Loi du ler juillet 1901 relative au contrat d'association) によってその活動の自由が保障されている。具 34
従来の利益誘導型行政が、自己決定なるものをベースにした行政に変わ ろうとしていても、あいかわらす社会の意識は、開発独裁がもたらす利益 誘導型に依存しようとする。 この関係性を変えないかぎり、 N p O なるものも育たない、ということ になろう。 非営利のボランタリーな市民性のうえに社会を築くという N p 0 セクタ ーがほんとうに日本に定着するのか、という点でもまた、エコミュージア ムには問われている。 もしかしたら、むしろ、制度があろうとなかろうと、行政支援があろう となかろうと、わが村はエコミュージアムだと宣言していく、それこそ非 営利の文化運動がもっともっと広がっていくことが、いま工コミュージア ムの動きにとって重要なのではないか。 6. 貧乏で文句あっか ( 1 ) 足るを知る 人間というのはどうもやっかいな動物らしい、生命原理からみると、 う考えても動物としては欠陥動物でしかない。病める動物ともいう。 して、人間は、その病める部分、あるいは欠陥部分を「文化」という、 れまたやっかいなもので補おうとしてきたのが、人類の文化史である。 ど 竹内芳郎氏がなにかの本で、狩りにゆく前、人間が火を囲んで狂ったよ に踊って狩りの成功を祈っているわきで、寝そべっている大が、それを見 て「バカじゃねえかこいつら、早く行きゃいいじゃねえか」というだろう、 というくだりがある。プランドものを身にまとうのも、 こうした「文化」 の行動でもある。 そして、てっとり早く文化を手に入れてしまおうという行動を、人間は するようになる。いちばんてっとり早いのが、フロムのいう「持つ様式」 ( 『生きるということ』 E. フロム紀伊國屋書店、 1977 年 ) だろう。この 「持つ様式」がなかなかやっかいなことは、たとえば、人類が、哲学とか 宗教とかを考えはじめたとたん、この問題にぶつかっていることだ。 たとえば、紀元前 5 世紀に書かれたとする『老子』 ( もちろん、 2500 年 164
第 6 章ェコミュージアムへの招待 前ほどに書かれたということは、 3000 年くらい前から、 こうした考えをめ ぐってぐちゃぐちややっていたということだろう。「老子」という名前も ある特定の個人ではないもかもしれない、ともいわれている ) 。『老子』第 33 章は次のように語る。「知足者富 / 不失其所者久」一一己れに足ること を知るものは富み、己れにふさわしい在り方を失わぬものは永つづきがし ( 『老子』福永光司朝日新聞社、 1997 年 ) 。フロムの『生きるという こと』はこの文言に触発されて生まれた。『老子』には、繰り返し、この 知足 ( 足るを知る ) が出てくる。結局、欲望装置のかたまりみたいな人間 という種の文化史は、この「知足」をめぐっての長い歴史だったのではな いかとも思う。 工コミュージアムもまたこの問題とかかわる。「地域の暮らしと文化」 といったとき、「どういう暮らし、どういう文化」を自らの意志として選 択するのかという課題が、それこそ「生きるということ」としてつきあた る。 だが、このことは、ただ、人生の処世としての抽象的な課題ではない。 世紀末の今日にあたって、私たちは、時代そのものからこの問い ( 選択 ) を迫られているにちがいない。ある意味で、エコミュージアムに取り組も うとしたとき、 こうした問いに対する自分なりの回答をいやおうなしに用 意しなければならない、ということかもしれない。土建屋仕事やお役所仕 ふるさと 事ではすまないのだ。「地域の暮らしと文化」は、たしかに時流ではない。 トレンドでもない。時流といいトレンド ( 傾斜 ) といい、要するに、これ はみんながやるからやるだけであって、あのトレンデイドラマなぞ、いま は見たくたって見ようがない。 「地域」はしばしば「地方」といわれ、中央から名づけられる従属形態で あった。だから「いなか」は「田舎」ではなく「夷中」として征服史観に よって表現されてきた。 「夷中」で文句あっか、いいじゃねえか、俺たちは、おまえたちの文化と 違う個性の地域の暮らしに自足してんだよ、といいきってしまわないかぎ り、時流から逃れられない。だから、人々は昔から「われ住むところわが 都」といってきたのだ。 もう少し『老子』の「知足」のものいいを考えてみよう。第 44 章は「知 165 いなか
1. ィーハトーブ・エコミューシアムのはじまり ( 1 ) ィーハトーブ・エコミュージアムとは 宮澤賢治の生誕の地である花巻市を中心に、岩手県内では、賢治生誕 100 年にあたる 1996 ( 平成 8 ) 年以来、記念事業の一環として、毎年 8 月 から 9 月にかけて、音楽祭・演劇祭などの芸術分野でのステージの数々、 そして、農業・哲学・文明・文学・環境・科学・宗教などの幅広い分野に わたるシンポジウムの数々の催しが、多彩に繰り広げられている。このよ うに、岩手県人をはじめ多くの人々が、敬愛し、身近に感じ、学んでいる 偉大な先達が、宮澤賢治であるといえよう。 科学と宗教と芸術との融合により、農村の厳しい現実を、農民自らの手 で、あらゆる存在が共生し響き合える平和で理想的な世界へと導いていこ いのち うと、自らの生命を削るようにしながら、この東北の農村で、求道者とし て農民を相手に働きかけて燃焼し尽くした先覚者、これが宮澤賢治の一つ の姿である。そして賢治がめざした理想郷が「イーハトープ」である。造 語が得意だった賢治が岩手をエスペラント語風に表現した言葉で、「イー ハトープとは、田園理想郷・ドリームランドとしてのわが日本国岩手県を 指す」と、自身の作品のなかで紹介している。 賢治が唱え、求めつづけた田園理想郷・イーハトープは、そのコンセプ トとテリトリーのスケールにおいて、そのままわれわれが学んでいるエコ ミュージアムの一つとして、読み換えることができるのではないかと思わ れる。しかも真のイーハトープの実現をめざすということも、地域をエコ ミュージアムのように開花させるということも、学べば学ぶほど自然に親 和性や共通性が増してくるのである。 それは、基本的には中央集権 ( 集金 ) 体制のもとで、行政と企業といっ た主として第 1 、第 2 のセクターが主体や主役となって牽引・誘導されが ちな、ハード先行型の地域づくりのあり方が、いままさにこれまで以上に 転換を迫られていることとも大いに関係がある。自然と人間、開発と保護、 者外国と日本、エコロジーとエコノミ 、女性と男性、高齢者と若者など、 われわれを取り巻くあらゆる環境の諸相について、賢明なバランス感覚と 一三ロ 94
第 6 章工コミュージアムへの招待 るのが、「コンセルバトウール」という「主任学芸員」の配置である。 西野嘉章氏によれば「コンセルバトゥール」とは「文化財について研究 すること、文化財を保存すること、文化財を充実すること、文化財を評定 し、認識させること、文化財について調査を行い、それを広く公衆へ伝達 し、流布すること」である。それゆえ、「コンセルバトゥールは、研究、 調査グループを率い、これを監督し、予算を計上し、執行し、行政上の諸 問題全体を処理する」 ( 『博物館学一一フランスの文化と戦略』西野嘉章 東京大学出版会、 1995 年 ) という役割を果たす専門家として配置されてい る。 もし、ほんとうに地域が、自らの地域で「エコミュージアム」としての こうした「方法としての博物館」のあ すがたを生み出したいのであれば、 りようを備えていなければ、また一過性の行政の思いつきイベントか、土 建屋型まちづくり行政で終わってしまうにちがいない。 名付かしい古里の N P 0 工コミュージアムを生み出していく運動 ( プロセス ) は、新しい日本人、 新しい文化を生み出していくように思える。 ェコミュージアムが「地域」を領域とし、「市民参加」を方式としてい る以上、それは公共性の実現にほかならない。 いったい「公共性」とは何なのか。日本では古くから、公共性を「お上」 といってきた。 この場合、滅私奉公の対象としてのお上でしかなく、もともと公共性と いうものを原理的に問うことはされてこなかった。 ェコミュージアムを実現しようとするとき、もちろん、それは非営利 ( ノンプロフィット ) な空間であり、さもしい利潤原理では生み出せない 空間であり、地域をつくる仕事師たちの作用である。 ヨーロッパに歴史的につくり出された公共の思想は、ギリシアでまず生 まれた。そこには、個人としての存在は、はかなく愚かしいものだという ギリシア風の人間観から生まれた観念であった。「都市 ( 国家 ) のもつ公 共性」こそが人間をたしかなものにし、そのためには自由な市民たちの言 かみ 161