第 1 章工コミュージアムの原点 工コミュージアムでの「遺産」は基本的には現地保存である。これは 「遺産」そのものが元来、生み出され活用されているところにおいて価値 を示すものであり、それを他の文脈に移すと、その本質的な部分が失われ てしまうという認識があるからである。その価値を発見するためには、学 際的な手法が必要とされる。工コミュージアムでは、学術委員会が設けら れ、多くの分野の研究者が住民とともに、対象把握に努めるのは、その必 要性があるからである。 リヴィエールは、エコミュージアムを学校と呼んだ。その解釈は、いろ いろあるが、ここではこれを住民と地域の将来を学ぶところとしたい。 こでは、住民に焦点を絞ってみていきたい。 地域振興にかかわる施設を協同で運営することは、「学ぶ」ことの多い ことである。ます、運営上の細かな問題の処理を協同のカで行わなければ ならない。また「遺産」について十分に理解していないと来訪者に適切な 説明ができない。協同での運営では、住民相互の理解が深まらないとスム ースな活動ができない。 地域のエコミュージアムの運営に主体的にかかわることによって、地域 とそこにあるその自然・文化遺産に通じるようになる。それに地域住民の 相互理解が深まることによって、地域への愛着は深まる。そして過去・現 在・未来にかけての地域について理解が深まることによって、地域の問題 に関心をもたざるをえなくなってくる。 これがわかると、身銭を切ってでもやろうという気にもなる。価値ある ことは、まず、自分から、自分たちから始め、実績を積み重ねていく。行 政は、多くの場合、後からついていくものである。まず、自分たちから行 動を起こすこと。それもあまり他に範を求めず、自分たちの生活を物質的 にも精神的にも豊かになる方法を自分たちの地域から創造していく。それ を行政がフォローする。工コミュージアムは、なによりも、民主的なもの でなければならない。 27
論こそがその空間を生み出すのであり。それゆえ、人間は「政治的動物」 ( アリストテレス ) とされたのである。 そして、この思想伝統が、ヨーロッパには生活倫理として定着し、ある 意味で、フランス革命で、自然権思想として定式化された。 フランス人権宣言第 11 条は「思想と意見の自由なコミニュケーションは、 人の最も重要な権利のひとつである」とし、この自由な人の結合として市 民社会があることを展望した。 日本は、現在でも「お上」がまかりとおり、地域では「お上」の命令と、 地縁結合による家父長型支配とその世襲で成り立っている。 フランスのエコミュージアムは 1970 年代後半以降は「アソシアシオン型 工コミュージアム」が急増し、事実上支配的な流れになっているという ( 岩橋恵子「フランス成人教育におけるエコミュージアムの意義と役割」 1997 年 ) 。 この「アソシアシオン」は「アソシアシオンの契約に関する 1901 年 7 月 1 日法」によって規定されており「アソシアシオンは 2 人またはそれ以上 の複数人が、非営利の目的をもって知識や活動を永続的に共有する協約体 であり」「法人格」をもつものとされている。 工コミュージアムの運営を保障するものは、この自由な個人による結合 体であるアソシアシオンなのである。 日本の明治以降の政治は「開発独裁」の手法でなされ、しかも、自由な 自発的な発言と行動にもとづく市民社会など生み出してこなかった。 こうした、日本の社会風土のうえに、 いったいエコミュージアムカゞ、新 たな文化の空間として生き生きと成立するのだろうか、とも思う。しかも、 もはや、明治以降のそうした日本の体系こそ、いまや金属疲労に陥り危機 を迎えているのである。 とすれば、エコミュージアムが、日本的な意味としての公共性のありよ うを生み出しつつ、新たなる文化創造として取り組まれいく可能性は十分 にあるのではないか。 それらを生み出すのは「自分の暮らし方とふるさとを愛する」という価 値観と自己決定であり、それを十分に表現することを支える、自然権とし ての自由権の権利意識にほかならない。 162
くれたのは吉丸先生の「私たちは弥栄村の応援にはいつでも来るけど、そ の拠点は佐々本君たちがつくることよ」という一言だった。 快医学の瓜生先生は、海外にも治療に行き、世界快医学の里を国レベル でつくっておられるが、日本にもスタッフが育ってきたし、日本でも快医 学の里をつくりたいとの意向を受け、私たちがその第 1 号の里を申し出て いる。快医学の里ができれば、講師を招き、健康道場を開くことができる。 治療のために来られる方の滞在中は、有機農法の食材と本物の調味料を使 った食事療法をし、夜はうまい地酒にれは治ってから ) を堪能していた だくなかで、健康を回復し社会へ復帰していくシステムをつくろうという ものである。このべースになるのは、先の先生方の講演や講習を受けて結 成された「家庭療法の会」である。「家庭療法の会」は白浜八重子さんを 中心に、「自分たちの健康は自分たちで」をモットーに自主的に活動を続 けている。 「あおむしの会」の会員たちもそうであるが、この村の女性たちが元気に なっている。 12. 地域の歴史文化に目を向けた交流 村は、これまでの歴史のうえに成り立っている。言い換えれば、歴史が 地域をつくっているということである。これがだいじなのである。地域づ くりで成功しているところは、必す歴史文化に目を向け、たいせつにして いるといっても過言ではない。自分たちが生きている地域は、固有の文化 があり、独自の歴史があるということに気づくことが、 21 世紀に自立して いくキーポイントの一つになるといわれている。 いま、広島県でも、ラーニング・リゾート・ネットワーク形成事業と銘 打って、中山間地の歴史、文化、自然などの地域資源を活用した学習およ 148 を治めた永安 ( 長安 ) 一族と、あの大河ドラマで有名になった吉川一族と 朝町と弥栄村が歴史文化で交流を始めようとしている。これは中世、弥栄 このテーマに乗ったかのように、どんびしゃのタイミングで、広島の大 住民との連携・交流が行われようとしている。 び学習の機会提供をネットワーク化することによって、中山間地域と都市
ないだろうか。 ②田園空間整備事業にあたる総体としての東和町の状況 空山川総研が中心となって、ハードよりソフトこそたいせっと考え、住 民参画を柱に、自分たちのスケールとテンボで進めてきたイーハトープ・ 工コミュージアム運動も、田園空間整備事業が入ることにより、いよいよ 一大転機を迎えることとなった。実戦経験の乏しい N P O としては、防具 をつけた竹刀での稽古から、いきなり真剣による勝負の舞台に、引っ張り だされたという感がしないでもない。しかもまわりには「お手並み拝見」 とばかりに、観戦者や関係者がけっこういるのである。 事業では、 5 年間で約 5 億円近くもの資金が投入されることになるし、 その半分は町の一般財源からの負担というのだから、 ことは重大である。 といっても、全国的には平均 15 億円の事業だそうだから、東和町の事業規 模は小さいほうなのだそうだ。 そもそも金をかけずに知恵と汗を出すことによって、等身大で進めたい としたエコミュージアムづくりに、力量以上の負担を強いられるよう形で 取り組まねばならなくなったことに、一抹の矛盾と疑問と不安を抱くのは、 私たちだけであろうか。 工コミュージアムといいながら、結局東和町においても、時間的な制約 のなかで、えてして行政がやってしまいがちなアカウンタビリティの不十 分な、従来とさほど変わらない補助事業が、予算の消化という程度のレベ ルで終わりということになりはしないのか、つい心配になってしまうとい うのがホンネである。 ェコミュージアムづくりを目標とする田園空間整備事業は、生涯学習の まちづくりと同じように、行政にあっては一つの担当課のみで進められう るものではない。市民サイドにあっては一つの NPO ・空山川総研だけで なしうるものではなく、行政と地域の総力が休むことなく、しかも無理な く傾注されつづけなければならない性格をもっているのである。 ③田園空間整備事業を追い風として受けとめたい この事業では、町行政も事業申請の当初から空山川総研を頼みとし、 れまでのところ担当する課だけではあるが、積極的にアプローチをしてき ている。 120
第 6 章ェコミュージアムへの招待 さて、こうした自由権運動にもとづく市民社会の形成というのは、訓育 と陶冶という学びのなかでしか生まれ、育たない。だからこそ、エコミュ ージアムは「学校」だともいわれるのである。 「学び」という一種意志的な営みは、日常の情感に流されまいという、主 観的な決意を必要とする。それは、ちょうど、共同性という市民社会の形 成が主観的な決意を必要としていることと通底している。「主体的」とい う言葉がキリスト教から生まれ、主にどれだけ意志的に近づくかというの が原意であるように、それは努力なのである。市民が主体として形成され なければ、それはただちに欲ポケ住民にくずれおちる。 かって、マルクスが、プルジョワジー ( 壁を築いて公共的自治をつくる 人々 ) が市民 ( シトワイヤン ) にはならずして、放っとけばただちにプル ジョワジー ( 資本家 ) になってしまうということを、なんとか止揚しよう としたことも同じである。地域をかけがえのないものとして価値づける個 人の営みがアソシアシオンの出発点となるとすれば、私たちは、自分の住 み暮らすこの地域を、私のふるさと ( 古里 ) として名づけなければならな 名づけというのは、地域の資源を価値づけ評価する学習活動にほかなら ない。そして、そのような学習活動をしようとする者こそがアソシアシオ ンをつくり出す資格をもつはずだ。 ふるさと それは、地域を古里として意識化させていく関係性の深化となろう。 ふるさと それゆえ、私たちは、地域のことを「名付かしい古里」といってきたの だ。決して「懐しい故郷」といった情緒的なものではない。 かって、大分県の湯布院町で、まちづくりに取り組んだ人々は、何回過 労で倒れたかをお互いの履歴として、披露し合ったという。武者修行であ る。わが住み暮らす地域に、このような、狂気ともいえる懸想をなすこと こそ、「名付け」にほかならない。 かくて、この地域を、自己決定として内発的に元気にしていこうという 人々 ( 市民 ) のアソシアシオンこそ、 N P O ( 非営利組織 ) といわれるも のにほかならない。 だが、日本の社会において、なお NPO は社会の表層の時流でしかな 163
第 3 章リンゴとワインの里のエコミュージアム か全部切ってしまえばいいと思っていた。家業の養蜂も、祖父の山暮らし も、そしてこの町も大いに卑下していた。なんとか仕事に見切りをつけて この町から抜け出すことばかりを考えていた。 豊かな生活の価値観は、すべて都会や新しいものにあった高度経済成長 時代。若い私は朝日町に住んでいることがとても恥すかしいと思っていた。 だが、そんな時代が、人や知恵、ものなど、地方から多くのたいせつな誇 りを奪っていったのではないだろうか。いつのまにか私は、都会が好きで いつも都会を向いている、朝日町のことを知らない、朝日町が大嫌いな、 朝日町生活者になってしまっていたのである。 そんな私に、ある日、幸いにも自分の価値観を取り戻す出来事が起きた。 それは、どうしてもという知人にヤマメ釣りを案内したときのこと。遊び で山に入るのは数年ぶり。先行の知人が見えなくなり、私一人がほっんと 森にはさまれた感じになったときのこと。まるで、まわりの自然に怒られ ているようなとてもせつない、とても居心地の悪い気分になったのである。 しかし、やがて昔ここで川遊びしてヤマメを焼いて食べた記憶や、父の仕 事について行って遊んでいたこと、祖父に釣りを教わったことなど、あっ たかい思い出が甦ってきて、その川原はとたんに居心地のいい場所に変わ っていった。 そのときに、「なにも肩ひじはって都会を求めないで、自分の好きなも のを求めたほうがいいや」と、やっと重たい荷物を下ろすことができたの である。それからの私は、まったく人が変わってしまった。昔遊んだこと を思い出しながらもう一度やってみたり、釣りはもちろん山菜を採ったり きのこを採ったりしてみた。祖母は、食べられないきのこを的確に取り除 いてくれた。そのとき、初めて祖母を尊敬できた。そして山暮らしの知恵 袋だったであろう祖父を亡くしたことを、とても残念に思えた。 目からうろこが落ちたと思えたのは、いままで見えなかった朝日町の自 然のきれいさが見えるようになったときのこと。見えなかった自分を罪深 クが生まれたのである。じつに単純だが、朝日町のことを好きになったと そして、何とかそんな私や朝日町を表現したいと思ったとき、蜜ローソ どん好きになった。 く感じた。この地域だからこそできる家業の養蜂も、朝日町のこともどん
したいからする、それがセミナーであった。そしてとにかく動き回った。 日本全国を西へ東へ、おもしろそうな人の集まる場所へ出かけて行って顔 を売り、外の人たちを村に呼ぶことを始めた。人のつながりを広げ、思わ ず行ってみたい、見てみたいと思わせ、実際に来たら、予想以上の満足を 味わってもらう。また、彼らは外からの風となって、われわれに弥栄村を 再発見させてくれる。風の吹かない地域に発展はない。自分たちの住みた くなる村づくりをめざして活動を続け、ネットワークを広げていった。セ ミナーのたまり場は、宇宙開発センターと名づけられた。 ーこは、メンバ ーそれぞれが自分の宇宙をもち、交錯し合いスパークするなかで、自分を 村を変えていこう、弥栄こそが宇宙の中心だという思い込みを発信する情 報基地となった。 ( 2 ) 坂田明 VS 石見神楽 弥栄村からの情報発信の一つを紹介しよう。 1986 ( 昭和 61 ) 年 10 月、坂 いわみ かぐら 田明氏を招いて、石見地方に伝わる伝統芸能・石見神楽とのセッションを 行ったのだ。前衛ジャズと神楽の競演という日本初のイベントであった。 と同時に、文明の波に追いかけられ、つねに走りつづけなければならなく なった都会人と、文明の波をとり入れないと時流に遅れると、経済面のみ で村おこし運動を考えている田舎の人との出会いの場でもあった。 NHK にもとりあげられ、全国的な注目を集め、人口 1800 人の村に集ま った 500 人あまりの参加者は、太古からの命のリズムと幻想の世界に酔い しれた。この波紋は、他の地域にも広がり、第 2 、第 3 のセッションが各 地で展開された。また、テレビ放送を見た東京の画家が、実際に弥栄まで 足を運んで神楽を見て、直径 6 メートルあまりの大屏風をつくり寄贈して いただくというおまけもついた。 さらには、ジャズと神楽の融合は新たな発見を生んだ。田舎には田舎の、 都会には都会の文化があり、それぞれが自信をもって誇れる文化を育てれ ばいいのだという意識である。 ( 3 ) 活動史 セミナーの活動史を年を追ってイベントを中心にまとめてみた。 128
第 4 章空・山・川総合研究所とイーハトープ・エコミュージアム構想 素人の農家の主婦による「おふくろの味」が好評を博し、常連客や町外か ら訪れる人で賑わっている。自分たちの活動や町のことを客に話すことの 必要から、しつかりと地域のことを学び、きちんと説明できるようになり たいという向学心の旺盛な頼もしい女性たちである。最近は、同じ農家の 主婦の立場の海外出身の女性の参加も得て、定期的な「アジア料理の日」 を実現している。 ⑥ふるさと歴史資料館 ( 教育委員会 ) 1997 ( 平成 9 ) 年に、旧県立東和病院の施設を改装した、町立のふるさ と歴史資料館が開設されている。資料館は、町の歴史と文化にふさわしい 「祈りと信仰」をテーマとし、考古展示室、歴史展示室、民俗展示室のほ か、企画展示室がある。今後は、自然関係などの分野も順次整備していく 予定である。コンパクトななかにも充実した展示・解説が行われ、地域博 物館としての一層の発展・充実が期待される。空山川総研が入っている総 合情報センターとともに、来訪者・来館者が「イーハトープ・エコミュー ジアム」と東和町の全貌を理解でき、サテライトへと導かれるようなコア 施設としての性格を有することが十分可能な資料館であることから、今後 はパートナーシップの構築が求められる。 6. これまでの活動の成果・インバクト ( 1 ) 地域の豊かさと独自性への気づき 東和町で生まれ育った住民が、東和町のよさや個性に気づくのは、なか なか難しいことであるが、空山川総研は、エコミュージアムづくりを通じ て地域資源の活用に取り組む個人や団体を応援したり、地域のよさに気づ くことができるような多様な活動を自らっくり出してきた。 ( 2 ) ネットワークという豊かな財産 空山川総研は、これまでのエコミュージアムにかかわる 8 年間の地道な 活動を通じて、多彩な出会いの機会を得ながら、町内・町外に豊かな人的 ネットワークを築いてきた。 ェコミュージアムの発展を真剣に考えていこうとしている多くの市民、
第 4 章空・山・川総合研究所とイーハトープ・エコミュージアム構想 また、小さな活動や企画でも、計画づくりから実施・実現、評価までの のプロセスを正しく踏んで、自分たちでできる等身大の実績を積み上げて いくという、従来からの姿勢を地道に継続していくことが、なによりも大 切であることは、いうまでもない。 ( 3 ) N P 0 と民間営利セクターと行政との実質的なバートナーシップの 形成 ① N P O や民間営利セクターと協働できるような行政自身の進化 町のシンクタンクを標榜し、エコミュージアムの理念にもとづいて、複 数のセクターとのパートナーシップによるマチづくりを指向する N P O の 空山川総研と町行政とは、十分に連携がとれているとはいいがたい。空山 川総研の研究員の活動は、本業が終わってからの時間帯や休日に行われる ために、日中に勤務する行政職員とのやりとりには限度がある。町行政側 が、今後は民間団体の活動時間に対応できる柔軟な体制づくりを模索する など、両者が顔を合わせ、さまざまな話題を協議し合えるテープルづくり が求められる。 また、行政内部にある程度の数で、空山川総研がめざすものをきちんと 受けとめ理解できる人たち、空山川総研の持ち味をいかせる人たち、 NP O とのパートナーシップをきちんと組める人たちがほしい。 さらに、空山川総研と行政の間において、空山川総研をはじめとする N PO と行政の、マチづくりに関するそれぞれの役割の再確認が必要である。 換言すれば、空山川総研自身は、マチづくりに関してどこまでやることを めざしているのか。一方、行政は空山川総研に対して、マチづくりに関し てどこまでやってもらうことを期待するのかについて、再度確認し合うこ とが必要である。 これからの時代、市民社会は、横並びのパートナーシップを基本としな がら「市民が主役、行政は黒子に徹する」というのが常識的な線となって いくはずである。フランスでエコミュージアムが花開いているのも、アソ シアシオン ( アソシェーション ) という市民の自由な結社の約 100 年の伝 統があり、それが法律として国家によって保障されてきたからこそであり、 中央集権色が強い国であるといっても、行政の民間に対する姿勢は日本の 117
るか見守っている。確実に子どもたちがうちふるえるような、感動してや まない地域づくりが求められている。 将来の子どもたちを嘆かせないためにも、この大転換期に生きる私たち は、時代の流れを読みとり、危機感や問題意識をきちんともって、道をま ちがわす進んでいかねばならない時代にきている。 私たちは、 ーこに住む人だけでなく、弥栄で自分の夢をかなえたいとい う人たちと手を取り合ったとき、真の村づくり、真の定住が始まると思っ ている。そのためにも、住民や行政マンが、夢を語り、アクションを起こ すことがたいせつなのである。人がいて、地域がある。どれだけ魅力的な 人が暮らしているかがキーポイントなのだ。 今後、農村がどうやって生き残っていけばいいのか。それは農業をベー スにした自給自足的自立であり、地場産業の起業であり、心とからだが癒 されるシステムがすべて語ってくれる。そういう地域、つまり弥栄村が、 日本の中山間地の生き方を提案していってもいいであろう。そういう村が あってもいいはずだ。 ここまでくるのには誰もが 1 つや 2 つではない多くの壁を乗り越えてき た。しかし私たちは、汗をかき、恥もかき、それでもこうしてここにいる。 ここがホームグラウンドであり、この場所でふんばらなければならない。 弥栄村は、信号機すらもない田舎だ。しかし、自分の一度の人生を、 こを舞台にして時代とともにしたたかに、楽しみながら生きようとする人 たちがいる。歴史の繋がりをたいせつにし、食にこだわり、明日の農業を 構想し、地域文化を愛し、世界に目を開き、じつに多彩な行動や活動を続 けている。こんな人たちがここでがんばるかぎり、弥栄は世界の中心だと いえるのではないか。これからは弥栄が大魔術を見せてくれるかもしれな 賽は投げられたのだ。どうぞ期待していただきたい。いつの日かこの弥 栄村がセンターオブザワールドになる日を。 150