鬼と神と五社宮 自然の神を祈りつつ農耕を基礎として生きて来た。 この独特な日 こんな民族は住んでいない。 世界中を探してもこんな国はない。 本人のこころの基礎に「祈り」と「まつり」のあることを想い出せば良いのであ 私はその日本人の祈りの初期の姿を、嵯峨 院の五社宮にライトを当てて考えてみたいの 一である。 大覚寺の五社宮は、寺の鎮守、神宮寺、そ の何れでもない。 五 ~ 五社宮を大師が勧請されたときは、まだ寺 一五が出来ていない。五大堂と五社宮は同時の出 発である。勿論、神宮寺ではない。 大覚寺の旧臣細川家所蔵の「御鎮守五社宮 鎮座年月考」によると、「嵯峨離宮の鎮守、 弘法大師の勧請し給う所なり」とあり、「貞
0 タ ものである。中井座主に「妙不伝」と書い ′・第石一凸央 て戴き座右の銘としている。 者座右の銘についてはもう一つ戴いている 」擬かので、ここでご披露しておこう。 私が高野山大学を卒業するとき、いよ ′ . 、しょ・つ 寺、五よ下山するので天徳院へ金山穆韶先生にお : 井別れのご挨拶に参上した。そしてお別れを 言って門の外へ出たところ、後から月僧さ 3 んが走って来て、「先生がもう一度戻るよ うおっしやっている」とのこと、再び座敷 に通されて待っていると、私のために特に 山寺跡 高大儲「大慈三昧」と書いて頂戴した。 崙於法 聹、釈そして私が社会事業の分野に進むことを 井日梨 大変喜んで下さって、「大慈三昧」の意味 をこんこんと説いて戴いた
西域に見つけた心経のルーツ 西域に見つけた心経のルーツ とんこ - っ 私は昨年、高野山の西域巡拝団に加わって、敦煌、トルファン、ウルムチと旅 ここで計らずも五大明王の座に出会った、と私が感じたお話を加えたい。 旅行団の団長は高野山持明院の住職で、竹内崇峯前官さん。副団長が同じく南 院の内海有昭住職で、浪切不動さんの住職である。 私かいま書こうとしているのが胎蔵曼荼羅の持明院のはなし、不動明王をはじ め五大忿怒尊である。 旅一丁に旅立つ前から、持明院さん、浪切不動さんに導かれていたことになるか ら不思議である。 昭和六十年十月四日の朝、夜行列車で車内泊した一行はトルファンに着いた。
大沢庭湖と菊花の妙 こせのかなおか この構築は巨勢金岡の作庭と言われている。しかも、この庭湖とその北岸を なこそ れる名古曽の滝とは何か意義をもっ繋がりのあるものと想っていた。 しかし、これもまた「妙不伝」で黙して語らずである。解明は何かを手がかり として進めるしかない。 私はその手がかりを天神島に求めた。 島の中央に祠がある。南面して祀ってあり、石の鳥居がある。寺伝では菅公を 祀る天神さんだと言う。 しかし菅原道真が亡くなったのは延喜三年 ( 九〇一一 I) のことであり、私が問題 としているのは嵯峨院で祭祀の始まる弘仁元年 ( 八一〇 ) ごろのことで、およそ 百年の相異がある。 また菅公に神位を与えるとしても、天皇の礼拝対象とするのはおかしい。 天神は菅公なり、と言う寺伝は後世のことであって、「菅公でない天神」が出 発点でなくてはならない。 京都博物館長をつとめられた林屋辰三郎先生は、その著書の中で、「天神信仰 初し
バーな表現で、現代の常識で 亠尸も聞こえるし、姿も見える。と言うと少しオー はついてゆけないそこで、 " 申ゞ、 彳カカりだ ~ " インチキだ ~ " 迷信だ ~ と言って現 代の常識の中へ戻ってしまう。 それなら「常識」とは何だ、と問いつめると、目、耳、鼻など五感で感じ得る 範囲のことが正で、それ以外は不正と言うことになる。だが、目で見る視覚と言っ ても見える範囲は限られている。 また紫外線、赤外線と言、つよう 山の向こうは見えないし、紙の裏は解らない。 に七色の外は見えない。見えるのはほんの限られたところと言うことになる。 そこで、見えないものはないものだ、と決めつけては良くない。見えないもの も、ただこのままでは見えないだけで、一寸角度を変えたり、近よったり、感光 度を変えるだけでよく見える。ものがないのではなくて、立派に存在するのであ る。不思議だと想っていたことが、あたりまえのこととなる。 そこで、嵯峨山で弘法大師のお姿が現われたと言う不思議な実話をご紹介しょ それは弘法大師の住坊と言われる五覚院の遺跡でのことである。
嵯峨の名の由来 洞庭湖と言う中国の有名な湖の名を引用するように伝承されたのだろうと想われ それでは嵯峨の名称も中国から来たのではなかろうか。あるいは、先の「さが しき」山脈に囲まれた土地の故に嵯峨と言う地名が生まれて、その地に出来た離 宮を嵯峨院と名付けられたのだろうか 地名が先か、離宮名が先か。これが、嵯峨の名の由来を考える第一歩であ 0 た。 このようなことを、かなり長い間考えていたところ、中国に嵯峨山があると、 東洋史を研究しているアメリカの知人が知らせてくれた。「讀史方輿紀要」に出 ていると言うのである。 同圭日によると、 嵯峨山、県北四十里、一名峩驛山、東西一一十六里、南北二十里、又名慈娥山、 頂有三峯云々 とある。 、。寉かめるすべもない ところが、そのころはまだ日中の国交は回復していなし不 ままに土寸は去乢れていった。
写真に、つつる弘法大師 先ず最初は嵯峨の五大堂から始まる。 大同四年 ( 八〇九 ) 四月、桓武帝の後を継がれた平城天皇は、三ケ年足らずの 短い帝位を嵯峨天皇に譲位された。 そして一年五ヶ月にして薬子の変が起こる。それは平城上皇の院と、嵯峨天皇 「一一所朝廷」と言う事態が生じたことである。しかも大同五年 の朝廷との間に、 九月、上皇の方から突如として「平安京を廃止する」と言う命令が出された。 大 この間のいきさつを林屋先生の「嵯峨天皇記」によって伺おう。 「それはきわめて異例と言う以上に天皇の大権を侵害する言行であるが、嵯峨 きのたがみ っ 、司、己田上らを造宮使として派遣しつつ、他 天皇は更めて坂上田村麻呂、藤原冬。間辛 写方これを拒否する行動を示した」「嵯峨天皇は坂上田村麻呂らに命じて、勁鋭の
と仰せになっているのである。 この上表文を、ご嘉納になった嵯峨天皇は、「さて、宮中の内道場をどこにし ようか」とお考えになったことだろう。 唐朝の例にならう。これが当時の絶対的な行動指針であった。 私は初めこの長生殿の所在を宮城内の御殿と考えていたのだが、それが驪山の 離宮内の御殿であることを教えられた。 そして、「離宮」と言う点に注目した。 驪山の華清池ならば、私も先年訪れたことがある。 そこは玄宗皇帝の離宮華清宮のあったところ、関節炎や皮膚病に効くと言われ まも涌き出ている。玄宗の寵妃、楊貴妃が温泉に入ったのはここだ、 る髓泉が、い と行楽客の人気を集めている。ここが驪山の離宮である。その離宮内の御殿を内 大 道場とされたとある。 法 る 宮城から二十数キロ離れた離宮を内道場に当てられたのが唐朝のことである。 っ とすると日本の場合、御所の西にある離宮嵯峨院を内道場にされたことは当然で 真 写ある。 りざん
なれども、倶に化の道なり」と言い 「華道に亦別の一法あり、世間に遊行し て又世外に安住す、仏法、王法の中道なり、中道に処して二法を助く、是則ち華 道の本義となす所なり」と述べている。 仏法と王法、この二法を助けるのが未生流だと明確にその本義を述べて、これ を最極の教えとしているのである。 恐らく、文政十二年二八二九 ) 十二月に、未生斎広甫が嵯峨の御所に参向し て、審問に当たった院家の共感をもたらしたのはこれであったろうと想われる。 近頃、いけばなとは何かと言うと、美を追求する芸術の一つとの返事がかえっ て来そうだが、 いけばなとは、仏法と王法の中道であって、二法を助けるものと の返事はとても望めそうにない。 寺代とともに、その本質までもすり換えられてしまったのだろうか 表に出ていないだけで、決して変わっていなし 、。心ある人の、い中深く刻みこま れているに違いない。 未生御流の中には、明らかに嵯峨天皇と弘法大師のお二方の御願は生きている のである。 絽 6
はじめに ではない。 この風光の美は、その底に天皇と大師 風光とロマンの嵯峨野はいつも美しい。 お二方の御願がある。 それが大覚寺を生み、後宇多法皇の再興をうながし、広沢の法脈となっていま も生きているのである。 「嵯峨の名の由来」がこの旅路の始発駅であった。その後、五大堂、五覚院を 鬼と神のルーツまで 嵯峨野に求め、最後に五社宮の祭神には時間がかかったが、 溯ってやがて五大の神に辿り着いた。そしてこの神と仏の融合薬に、般若、い経の あることを教えて戴いた。 神威と言い、仏徳と言うも、それはつまり大智慧と、大慈悲の裏表である。般 若菩薩と五大明王がこれであることを、中国のトルファンで私は教えられた。こ ばんのう の智慧と慈悲が三毒、五欲の煩悩を制御し浄化して幸せを招く。 この図式を嵯峨の風光は美しい彩りに宿している。 「一鳥声あり、人心あり、声心雲水ともに了了」である。 ともあれ、嵯峨天皇と弘法大師お二方の出会いは、千百余年の昔のことではあ