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検索対象: 嵯峨野の神と仏たち
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1. 嵯峨野の神と仏たち

嵯峨野を生ける 美の感動に続くもの いけばなの終点は、アッと驚くすばらしい作品を制作すること、と想う人は多 仏教の極意は、語りを開くことと言うのと同じである。 しかし、弘法大師空海は中国へ渡り恵果阿闍梨と一言う師僧に逢い、密教の極意 を授けられたとき、師の恵果は空海に対して次のように言った。 「早く御国に帰りて以て国家に奉り、天下に流布して、蒼生の福を増せよ、然 やす れば則ち四海泰く、万人楽しまん。是れ則ち仏因」に報じ、師徳に報ゆるなり」と 恵果の垂訓である。 密教の極意は、唐りをひらいて終るのではない。「蒼生の福を増す」ことである。 多くの人々を幸せにすること、「万人を楽しませること」が極意である。密教用 ′、きょ・つ 語の中に「方便を以って究竟となす」と言っているのはこのことである。自分 だけが唐りをひらき、蓮の花の上に座り込んでいるのを自受法楽と言うのだが、 これは仏教ではない。仏教とは人々の福を増し、万人を楽しませることである。 、 0 円 9

2. 嵯峨野の神と仏たち

驚いた空海は「福州の観察使に請ふて入京する啓」と言う嘆願書を出し、やっ と入京の許しを得たのであった。 先の一行を救った嘆願書が閻済美の心を打ち、そのため閻済美自身が空海を福 州の手もとに留め置こうとしたのだと言われている。 如何に留学僧空海の文章能力、及び語学力が、中国事情に秀でていたかを物語 るものである。 葛野麻呂にとっては、空海を手放すことは不安極まりない。そのことは嘆願書 の一件以来、言葉も文章も抜群の能力をもっていることをまのあたりに知り、長 安までの長旅を想うとき、杖とも柱ともたのむ青年僧空海となっていたからであ 十一月三日、二十三名の一行は長安に向かって福州を出発した。 社廾から長安まで二、四〇〇キロ。どうしても正月までに長安に入り、皇帝の 新年拝賀までに間にあいたいと、一日平均四八キロの強行軍であった。十二月一一 十一日に長安城外長楽駅に到着し、二十三日夢にまで見た長安城の春明門をく ぐった。

3. 嵯峨野の神と仏たち

嵯峨の帝と弘法大師 宗教界の各参拝者の中に大師がおられて不思議はなし のである。 これが中国における大師と嵯峨山の出会いである。 嵯峨山崇陵に参拝された大師は、端然と鎮まる嵯峨山五峯に対されて徳宗の御 霊に廻向されるとき、必ずや深い感動を覚えられたに違いない。 三ヶ月の時が流れて、大師の撰せられた恵果和尚の碑文を拝することが出来る が、その中で「人の貴きは国王に過ぎず、法の最なるは密教に如かず」と仰せに なっている。 大唐の長安首都に入って第一番に人皇徳宗に謁し、密教の和尚よりいま法脈を 受けて、その国王に対して開眼の作法に入られる。 大空三味の中に嵯峨山五峯と対されているのである。 ・いま、広沢の御流に流れる開眼開智の秘趣は、その源泉をここに置くのではな いか、とさえ想われる壮麗な荘厳浄土の絵巻物であったことだろう。 その時から、四年の歳月が流れた。舞台は日本国に移る。 大同元年 ( 八〇六 ) 八月、大師は帰朝され、三ケ年の後、日本の嵯峨山に対さ 否おられねばならない

4. 嵯峨野の神と仏たち

弘法大師の著書「即身成仏義」に「仏日の影、衆生の心水に現われるを加と一一一〕 行者の心水、能く仏日を感じるを持と名ずく」と加持の意味を説明されてい る。ちょうど、この古歌がこの加持の妙を詠っているようにも想われる。 加持と言う言葉は、真言密教の中で常に使われている。それはおよそ次のよう な意味あいをもっている。 即ち、私達の総ての行動は、三カと言って三種のエネルギーの合体だと言うの である。 その一つは自分自身の行動、技術、勉学等である。二つめは如来の加持力と言っ て、私達の目には見えないが、字宙の彼方から大きな作用を受けて、自分が行動 していると言うことを知らねばならないと言うこと。第三は法界のカ、解りやす く言えば、社会全体からいろんな角度からの力を受けて始めて、自分の行為に現 われると言う。これを三カと言って、密教を修行する人にはかたときも忘れては ならないと教えられる。 自分の積極的な態度と、世間のご恩については理解しやすいのであるが、二番 目の如来加持力は頭の中だけでは理解しにくい。

5. 嵯峨野の神と仏たち

すない 院を除いて総て消えてしまった。朱雀と淳和院は地名として残っていても姿はな 、 0 嵯峨天皇の皇女で、淳和皇后であった正子皇太后の念願によって嵯峨院がその よわい まま寺となり、寺院なるが故に千年の齢を保ち得た。 その寺が大覚寺である。 大覚寺の誕生は、史実としてはその通りであるが、私はその背景に、嵯峨天皇 しわゆる加持 と弘法大師のお二方に依る「念の力」を想わないではいられない。、 力である。 このことは、五百年の後に後宇多法皇が大覚寺をご再興になったのであるが、 その理由をご遺告に見ることが出来る。「先皇の基趾、高祖の遺跡を尋ね、草莱 をかりたいらげて当寺を再興す」と仰せになっているのがそれである。 嵯峨天皇と弘法大師の遺跡だから再興するのだと仰せになるのである。 この遺跡とは単なる離宮跡とか、交遊の場所と一言うだけのものではない。 その中身は、嵯峨天皇の写経御祈願、弘法大師の五社明神の勧請、五大明王造 立祈願、等々、三密加持の念力が強く作用している霊跡であることを、法皇が感

6. 嵯峨野の神と仏たち

西域に見つけた心経のルーツ 従って、玄奘の旅のまず初めのころの出来事で、心経伝授のお陰で、幾多の危 難を無事乗り越えられたと見るに一番ふさわしいところと言える。 私が最も重視するのは、火焔山の真中と言う地理的条件が、重要な意味をもっ からである。 この地理的条件の火焔山の中と言うのは、胎蔵曼荼羅の持明院そっくりだと想 うからである。 持明院については、私の大学の大先輩であり、私の長男を加行させて戴いた恩 師、三井英光先生の「曼荼羅の講話」のことを想い出す。それには、「この院に は五体の仏様いまし、特にその姿を忿怒降伏の明王として画きます。その真中は 般若菩薩であるが、この場所は、曼荼羅を下に敷いて拝む場合、阿闍梨が座して 般若経を読誦する場所なのです。今はこの経の本尊である般若菩薩を画くのです」 と説明されている。 曼荼羅は掛図であるから掛けて拝む対象であるが、実は仏さまの字宙観の配置 図なのである。私達行者は、この配置図を心に画いて自分自身は持明院の中央、 般若菩薩の画いてある中へ座らせて戴くのである。そこで、心経を唱えると言う

7. 嵯峨野の神と仏たち

きの流麗さである主々 = = ロ彳 。卩契の少を吾り旦寸て充分であった。 般若の大典は、仏国印度で大成するのだが、それに至るまでの数々の思索には、 殊に砂漠が生んだ神秘体験の累積が大きな比重をなしているのではなかろうか ご承知の通り、般若、い経の翻訳には玄奘の他に羅什も、法月もと数多い。それ だけに、、い経の原本は唯一つでなかったことを物語っている。このことは、少莫 が織りなす神秘体験の深さと広さを物語るものと想われる。 ともあれ、玄奘三蔵によって象徴される般若心経の背景は、広大で深遠な神秘 砂漠の「いのち」である。それはいまもたくましく息ずいている。 大師はこれを「般若菩薩のいのち」なりと仰せになっている。 私はおよそ以上のようなことを西域旅行によって感じたのたか、 、五大明王と般 若、い経はそのままに嵯峨山院の信仰の中核として今日までも続いている。 嵯峨天皇が弘法大師のすすめによって、疫病流行のときにその平癒を祈念して 般若、い経をご写経になった。 その心経が、そのままいまも大覚寺に祀られている。これが勅封心経である。 それ故、、い経信仰は大覚寺信仰の中心をなしている。その、い経と大覚寺につい 106

8. 嵯峨野の神と仏たち

今の御社は、「仏母心寺宮尊性親王の御代、寛永八年二 , ハ三一 ) 十月の建立」 と、この間の ) 們自を物っている。 五社宮の由緒と、その規模はおよそ以上の様子である。 ところが、問題はその祭神である。 「五社宮鎮座考」によると、八幡 ( 応神天皇 ) 、外宮 ( 豊受皇太神 ) 、内宮 ( 天照 皇太神 ) 、春日 ( 天津児屋根命 ) 、住吉 ( 底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后 ) の五座と言う。 ところが、「山州名跡志」及び「拾遺都名所図会」によると、「神明、八幡、春 日、加茂、住吉」の五明神となっている。 もう一つ「嵯峨誌」では、「伊勢、石清水、加茂、春日、松尾二本に住吉 ) の神を祀れり」とある。 五社ノ宮の祭神が本によって、それぞれに異なっている。これはどうしたこと だろ、つ。 先述の北野社の天神さんが、雷公から菅原道真公に変わったように、五社宮で も何かがあったのだろうか

9. 嵯峨野の神と仏たち

れ、我即大日と自覚することと言われるのはこのことである。 ところで、ここ ~ 行く道程は、寝ていて良いはずはない。先ず自分とその周辺 から入 0 てゆく。目に見える自然の姿は美しい。そして厳しい。台風の襲来によ 0 て天地も裂けるかと想う恐ろしい自然になる。台風一過、また美しい自然に還る。 この天地動転の変化は何故起こるのか。どうして、と考えてゆくとその背景に大 きな宇宙の天体がひかえている。その宇宙を神として、智慧と慈悲をもっ如来と 見るのが、弘法大師の密教である。 その字宙を物理学、生物科学、量子力学等で研究を進めるのが科学である。 その字宙の本質は何か、その姿、現象は、その作用はと考えていくのが哲学で ある。 地・水・火・風と考えたのは、ギリシャの哲人であ 0 た。印度の哲人も、中国 の人達も、およそ人間の考えつくところは同じであ 0 た。今から三千年ほど前の る ことである。人間が人間として自覚し、疑問をもち始めたころである。「何故 生 を と言う疑問が人智を発展させ、近世の科学の発展によ 0 て宇宙天体の動きを何億 野 嵯光年の向こうまで観察をすすめている。

10. 嵯峨野の神と仏たち

しかし私は、洞庭湖を模して庭湖と呼ぶと伝承している背景と同じように、千 年前の日本へどっと流れ込んだ中国文化の一隅に、嵯峨山もあるに違いないと想 、つよ、つになった。 そんな或る日のこと、私が大覚寺について講演したとき、嵯峨のルーツは中国 の嵯峨山であろうと話したところ、聴衆の中の一人が、「そうだ、その通りだ、 自分は戦時中に中国の戦場にいたが、 その奥に嵯峨山があると聞いた」と、私の 話の裏付けをしてくれたことがある。 私はそれ以来、ますます自信を深め、中国の嵯峨山と日本の嵯峨野とのつなが りを解明したいと願っていた。 やがて、日中の国交も回復し、日本人が中国を訪ねるようになったころ、私の 願いに応じてくれた人が二人現われた。一人は高野山南院の住職内海有昭師であ り、もう一人は駒沢大学の渡辺三男教授であった。 内海さんは私の学友で、中日友好協会の関係で中国へ行くと言う。私は西安へ 行ったら嵯峨山のことを調べて来て欲しいとお願いしておいた。そうしたところ、 昭和五十四年十一月三日付の消印で、内海師から中国の絵葉書が届いた。