大覚寺相承は他に例がない 門跡相承と一言うのは、弘法大師の法の直伝である。大師より平城天皇の皇子真 如親王に、そして大覚寺開山恒寂親王へと伝えられる。一方、大師の肉弟真雅僧 正より源仁、益信を経て宇多法皇に伝承されたものである。 大覚寺が一乗院によって兼領されている三百年間の政治史は、ちょうど源平の 盛衰期に相当する。法流は字多法皇より仁和寺親王へと伝承され、禅助大僧正よ 二方の因縁の深い大覚寺を私は再興した」とでも拝承すべきであろうか このような尊い後字多法皇によって、大覚寺の法流は本流によみがえり、嵯峨 天皇、弘法大師お一一方の、弘仁の御願が門跡相承として大覚寺の血脈に流れるの である。 あたかも大黄河の流れが曲折をくりかえしながらも大黄河である如く、法の れも同じである。 初し 0
嵯峨野を生ける なる般若心経は、勅封心経として微動もせず嵯峨御所大覚寺心経堂に奉祀されて いたのである。 後字多法皇は弘安四年二二八一 ) 、元軍十万が北九州に攻めて来た弘安の役 の時の天皇である。上皇となられた後、出家されて、大覚寺を再興されたのであ る。法皇が大覚寺を再興された理由は、ご遺告の第一に示されている。 「大覚寺を建立して法脈を伝流する縁起第一」と仰せになり、そこに「先皇の 基趾、高祖の遺跡を尋ね、草莱を かりたいらげて当寺を再興す」と 仰せになっている。 像先皇とは嵯峨天皇のことであ 法 り、高祖とは弘法大師のことであ 多 後る 平たく言えば、「嵯峨天皇の皇 統と、弘法大師の真言密教の一一つ を私は一身に受けている。このお ロ 9
なり」と、その位置を明確に誌している 古図の五覚院は嵯峨院の北であって、ここで言う西とは違う。 なお「西洞」の「洞」の字は、洞穴の意味とともに谷の意味がある。即ち「西 の犬ロ」と一言、つことになる。 だとすると、五覚院は最初、嵯峨院の西の谷にあった。それから , ハ十数年の後 しっしか に大覚寺が生まれ、境外地になってしまったので時の経つのとともに、 消えてしまった。 源順が五覚院へ行ったころは、まだ立派に建っていたのである。 しかし五百年の年月は長い。 法皇が大覚寺をご再興になったとき、弘法大師の大切なご遺跡、五覚院を復興 されたものと考えられる。それが古図に見るもので、当初のものは大覚寺西の谷 であった。 大覚寺の西の谷と一言うと二つある。一つは観空寺谷であり、もう一つは鳥居本 の谷間である。 観空寺谷には、文字通り嵯峨天皇の御願寺と一一一口う観空寺があった。大覚寺境域
生んだのであると言うこと。 四、その後、年を経て五社宮は大覚寺のご鎮守神として祀られて来たこと。 五、いっしか五社明神と言うのだから五柱の神さまだと一言うことになって五柱の 神名が現われるのだが、お祭に奉仕する神官によってそれぞれの神名をあげ たこと。 六、いろいろの神名は間違っているのかと一『〕うとそうではない。あらゆる神々を、 総て包含している五社明神だから、決して間違っているのではない。 五社宮は大覚寺の開創以来、鎮守社であることもこれまた当然である。 五社宮のご神威、、 こ神徳は何千年経とうとも、ますます盛んで加護を垂れ給う ているのである。 千百有余年にわたる長い歴史の中で幾度か火災を受けながらも、ますますその 神威を輝やかせ給うているのである。 しかも、五社宮は大覚寺信仰の中心である心経の信仰と密接不可分のつながり をもっている 大に、い釜言仰について考えてみよう。 しかも 凵 4
すない 院を除いて総て消えてしまった。朱雀と淳和院は地名として残っていても姿はな 、 0 嵯峨天皇の皇女で、淳和皇后であった正子皇太后の念願によって嵯峨院がその よわい まま寺となり、寺院なるが故に千年の齢を保ち得た。 その寺が大覚寺である。 大覚寺の誕生は、史実としてはその通りであるが、私はその背景に、嵯峨天皇 しわゆる加持 と弘法大師のお二方に依る「念の力」を想わないではいられない。、 力である。 このことは、五百年の後に後宇多法皇が大覚寺をご再興になったのであるが、 その理由をご遺告に見ることが出来る。「先皇の基趾、高祖の遺跡を尋ね、草莱 をかりたいらげて当寺を再興す」と仰せになっているのがそれである。 嵯峨天皇と弘法大師の遺跡だから再興するのだと仰せになるのである。 この遺跡とは単なる離宮跡とか、交遊の場所と一言うだけのものではない。 その中身は、嵯峨天皇の写経御祈願、弘法大師の五社明神の勧請、五大明王造 立祈願、等々、三密加持の念力が強く作用している霊跡であることを、法皇が感
きの流麗さである主々 = = ロ彳 。卩契の少を吾り旦寸て充分であった。 般若の大典は、仏国印度で大成するのだが、それに至るまでの数々の思索には、 殊に砂漠が生んだ神秘体験の累積が大きな比重をなしているのではなかろうか ご承知の通り、般若、い経の翻訳には玄奘の他に羅什も、法月もと数多い。それ だけに、、い経の原本は唯一つでなかったことを物語っている。このことは、少莫 が織りなす神秘体験の深さと広さを物語るものと想われる。 ともあれ、玄奘三蔵によって象徴される般若心経の背景は、広大で深遠な神秘 砂漠の「いのち」である。それはいまもたくましく息ずいている。 大師はこれを「般若菩薩のいのち」なりと仰せになっている。 私はおよそ以上のようなことを西域旅行によって感じたのたか、 、五大明王と般 若、い経はそのままに嵯峨山院の信仰の中核として今日までも続いている。 嵯峨天皇が弘法大師のすすめによって、疫病流行のときにその平癒を祈念して 般若、い経をご写経になった。 その心経が、そのままいまも大覚寺に祀られている。これが勅封心経である。 それ故、、い経信仰は大覚寺信仰の中心をなしている。その、い経と大覚寺につい 106
大沢庭湖と菊花の妙 得されたためのご再興であったと知るべきであろう。 法皇はご遺告の第三条に、 「我が後血脈を継ぐの法資、天柞を伝ふるの君主、盛衰を同じくす可く興替 を伴にす可し」 と仰せになって、密法興隆の重要性を厳しく戒められているのである。 このように見てくると、千百余年にわたる大覚寺の歴史は、貞観十八年 ( 八七 六 ) の清和天皇の勅許に始まるのではあるが、それは寺院としての公的な手続き であり、国の制度への適合であった。 私が申し上げているのは、大覚寺はそれよりも六十数年も前の弘仁 ( 八一〇 ~ 八二四 ) の初めより、嵯峨天皇と大師のお二方によって祈願の道場になっていた と一一一口、つことである。 お二方による祈願の「念の力」が、大きく強く作用して、離宮がそのまま寺と なり、その寺がいくたびもの兵火をくぐり抜けて今日に及んでいると言うことで ある。 時空を超えた加持力の不思議を、私は「嵯峨」に見る想いである。
その後、再三兵火にあった大覚寺だが、天皇と大師と言う両聖の御願力は微動 もせず、ご歴代の門主によってこの法が伝承され今日に至っている。
十一月 嵐山紅葉祭十一月の第二日曜に行う観光行事である。初めは、終戦直後に嵯峨 風土研究会で発足し、現在は嵐山保勝会が主催して毎年行われている。嵐山の渡 月橋のすぐ上で船を浮かべる水上パレードである。小督船の箏曲、今様船の今様 の舞、天竜寺船の画、能舞台船の御能、 大覚寺船の花手前、車折船の芸能、野宮 月行神船など。また河畔の舞台では、大念仏狂言と嵯峨野の神と仏たちの総出 演と一一一口、つかっこうである。 このころから嵯峨野の秋は次第に深まり、しみじみとした嵯峨野の味が、空と 山と野と水にあらわれる。 嵯峨菊「京都大事典」 ( 淡交社刊 ) の解説に依ると、「右京区嵯峨あたりで伝え た菊の一種。一」ハ〇年ほどの歴史がある。明治中期、新宿御苑で品種が改良され た」と言い、現在は大覚寺の庭の花壇で栽培されると解説している。 昭和二十四年十一月二十五、六の両日、東京の三越で、大覚寺の宝物と花展を 行った折、嵯峨菊を新宿御苑から戴き、正面の嵯峨天皇御影の前へ、漢代の古銅 222
大覚寺の法脈は嵯峨天皇の心経に顕われ、五社宮に現われ、そして大師練行の 五大堂、五覚院に息づいている。 まだ寺と一言う名のつかない離宮の中での出来事である。 順を追ってこの間の消息を私なりに考えてみようとするのが、この稿の願いで ある。