弘法大師 - みる会図書館


検索対象: 嵯峨野の神と仏たち
62件見つかりました。

1. 嵯峨野の神と仏たち

はじめに 嵯峨の名の由来 望雲嵯峨山に聴く 大覚寺の生まれるまで 嵯峨の帝と弘法大師 空海の入唐 中国の嵯峨山 大沢庭湖と菊花の妙 写真にうつる弘法大師 大師の住房五覚院 恐い顔の五大明王 西域に見つけた心経のルーツ 30 26

2. 嵯峨野の神と仏たち

すない 院を除いて総て消えてしまった。朱雀と淳和院は地名として残っていても姿はな 、 0 嵯峨天皇の皇女で、淳和皇后であった正子皇太后の念願によって嵯峨院がその よわい まま寺となり、寺院なるが故に千年の齢を保ち得た。 その寺が大覚寺である。 大覚寺の誕生は、史実としてはその通りであるが、私はその背景に、嵯峨天皇 しわゆる加持 と弘法大師のお二方に依る「念の力」を想わないではいられない。、 力である。 このことは、五百年の後に後宇多法皇が大覚寺をご再興になったのであるが、 その理由をご遺告に見ることが出来る。「先皇の基趾、高祖の遺跡を尋ね、草莱 をかりたいらげて当寺を再興す」と仰せになっているのがそれである。 嵯峨天皇と弘法大師の遺跡だから再興するのだと仰せになるのである。 この遺跡とは単なる離宮跡とか、交遊の場所と一言うだけのものではない。 その中身は、嵯峨天皇の写経御祈願、弘法大師の五社明神の勧請、五大明王造 立祈願、等々、三密加持の念力が強く作用している霊跡であることを、法皇が感

3. 嵯峨野の神と仏たち

鬼と神と五社宮 とになるのではないだろうか 「実の如く自心を知る」と言うことが大目標である真言密教の祖、弘法大師は 的確にまとめられ、神仏一如と信仰対象に置かれたのが密教の修法であった。 五大明王と五社宮を祀ることから始まる内道場の修法は、日本国の原点にたっ てその平和と泰平を祈念されたのである。 弘法大師の哲学は、「真理を、客観的認識の対象として、把えるのではない。 主体的体験の、内面的表現として把えられたところに特色がある」と学者は言う。 大変に難しい言い方なので、一寸理解しにくいのだが、要するに字宙の真理、 人間の生きがいと言うものは、我々と縁のない、大学の象牙の塔の中に納まって いるのではなし ) 。誰かれの区別なく、みな自分自身の中に高遠な真理をもってい るのだ、と言うことであろう。 弘法大師ご自身も、「それ、仏法はるかにあらず、、い中にして即ち近し」と仰 せになり、「真如外にあらず、身をすてて何くんか求めん」と、、い経秘鍵と言う 心経釈の中で仰せになっている。 先述の神さまを求めて五十万年もの昔まで探しに行ったのであるが、その結論 に 9

4. 嵯峨野の神と仏たち

嵯峨野を生ける なる般若心経は、勅封心経として微動もせず嵯峨御所大覚寺心経堂に奉祀されて いたのである。 後字多法皇は弘安四年二二八一 ) 、元軍十万が北九州に攻めて来た弘安の役 の時の天皇である。上皇となられた後、出家されて、大覚寺を再興されたのであ る。法皇が大覚寺を再興された理由は、ご遺告の第一に示されている。 「大覚寺を建立して法脈を伝流する縁起第一」と仰せになり、そこに「先皇の 基趾、高祖の遺跡を尋ね、草莱を かりたいらげて当寺を再興す」と 仰せになっている。 像先皇とは嵯峨天皇のことであ 法 り、高祖とは弘法大師のことであ 多 後る 平たく言えば、「嵯峨天皇の皇 統と、弘法大師の真言密教の一一つ を私は一身に受けている。このお ロ 9

5. 嵯峨野の神と仏たち

べた通りである。 天皇は「文華秀麗集」に御製をとどめられ、「嵯峨山院暖光遅云々」と、自ら 離宮のことを、「嵯峨山院」とお呼びになっている。 また、「類聚国史」では嵯峨院、嵯峨山荘、嵯峨別館等と言い、「嵯峨」「荘」 と略称している。 「嵯峨」とは地名ではなし ) 。「離宮」のことである。日本における嵯峨は、先 ず「離宮名」より始まったことは明白である。 しかも、離宮名に嵯峨山をと推したのは大師であろうとして、弘法大師の入唐 事情を誌したことは上述の通りである。 なお、弘法大師が嵯峨天皇へ徳宗皇帝の真跡一巻を献上されたのは、弘仁一一年 ( 八一一 ) 八月のことであると「性霊集」に言う。 とすると、離宮名を「嵯峨山院」と命名されたのも、あるいはこのころのこと であったかも知れない。 もう一つ推測が許されるならば、現在高野山で、もと大師の住房だった中院御 房龍光院に秘蔵されている黄金の念珠についてである。

6. 嵯峨野の神と仏たち

の遍歴」と題して、「北野神社の祭神は菅原道真公であるが、菅公以前にも、実 は北野に天神があったと言う事実を確認しておかねばならない」と、「続日本後紀」 「西宮記」「続日本紀」等を引用して説いておられる。 それによると、雷神信仰が古くからあり、菅公と雷神とが歴史の中で置きかわっ た、と一一一一口、つことを説明されている。 雷神を祀った場所として天神島と呼ばれる、と言うならばすんなりと納得出来 雷神は降雨の神である。水天龍神も降雨の神であることは神泉苑での雨乞い物 語で弘法大師のことか知られている。 池の中の天神は雷神であり、水天龍神であってこそ降雨を祈り、五穀豊穰を願 うにふさわしい。 故に、天皇の離宮の庭池の島に天神を祀られても不思議でない。 かんじよう 否、むしろこの離宮に五社明神を弘法大師が勧請されたと言うから、同時に天 神を祀る島があり、その島をいまも天神島と呼ぶ、と言うなら筋の通ったことに なる。

7. 嵯峨野の神と仏たち

バーな表現で、現代の常識で 亠尸も聞こえるし、姿も見える。と言うと少しオー はついてゆけないそこで、 " 申ゞ、 彳カカりだ ~ " インチキだ ~ " 迷信だ ~ と言って現 代の常識の中へ戻ってしまう。 それなら「常識」とは何だ、と問いつめると、目、耳、鼻など五感で感じ得る 範囲のことが正で、それ以外は不正と言うことになる。だが、目で見る視覚と言っ ても見える範囲は限られている。 また紫外線、赤外線と言、つよう 山の向こうは見えないし、紙の裏は解らない。 に七色の外は見えない。見えるのはほんの限られたところと言うことになる。 そこで、見えないものはないものだ、と決めつけては良くない。見えないもの も、ただこのままでは見えないだけで、一寸角度を変えたり、近よったり、感光 度を変えるだけでよく見える。ものがないのではなくて、立派に存在するのであ る。不思議だと想っていたことが、あたりまえのこととなる。 そこで、嵯峨山で弘法大師のお姿が現われたと言う不思議な実話をご紹介しょ それは弘法大師の住坊と言われる五覚院の遺跡でのことである。

8. 嵯峨野の神と仏たち

大覚寺相承は他に例がない 門跡相承と一言うのは、弘法大師の法の直伝である。大師より平城天皇の皇子真 如親王に、そして大覚寺開山恒寂親王へと伝えられる。一方、大師の肉弟真雅僧 正より源仁、益信を経て宇多法皇に伝承されたものである。 大覚寺が一乗院によって兼領されている三百年間の政治史は、ちょうど源平の 盛衰期に相当する。法流は字多法皇より仁和寺親王へと伝承され、禅助大僧正よ 二方の因縁の深い大覚寺を私は再興した」とでも拝承すべきであろうか このような尊い後字多法皇によって、大覚寺の法流は本流によみがえり、嵯峨 天皇、弘法大師お一一方の、弘仁の御願が門跡相承として大覚寺の血脈に流れるの である。 あたかも大黄河の流れが曲折をくりかえしながらも大黄河である如く、法の れも同じである。 初し 0

9. 嵯峨野の神と仏たち

大覚寺の生まれるまで 弘仁一一年 ( 八一一 ) 八月、沙門空海たてまつる、として徳宗皇帝の宸筆一巻を 嵯峨天皇に献上したことが大師の文を集めた「性霊集」に出ている。 中国の嵯峨山はただ単なる山の名前ではない。それは、徳宗皇帝の崇陵である。 その皇帝の宸筆一巻を嵯峨天皇に献上した僧空海。弘法大師と徳宗皇帝の関係は 嵯峨山と徳宗皇帝、京都の嵯峨と嵯峨の帝、この橋渡しをしたであろう僧空海。 弘法大師空海と嵯峨天皇との深い因縁。それを「嵯峨山」に語ってもらいたい。 千百余年の年月は経過しているけれども、嵯峨はある。またこれからの未来に かけても嵯峨は変わらない。 嵯峨の山野が変わらぬ限り、嵯峨の歴史も不変である。しかもそれは日中文化 の懸橋として、仏教伝来の渡船として、嵯峨はいまここにある。 想いをいにしえ人に馳せて嵯峨山に聴いてみよう。

10. 嵯峨野の神と仏たち

嵯峨野を生ける り後字多法皇に伝えられたのであった。 この法脈を大覚寺では、門跡相承として今日に伝えている ふつう法脈と言うと、弘法大師までに八祖相承され、大師以降師匠より弟子へ と次々に伝承される密教の大事である。 これを広沢の御流と 大覚寺に伝えられる門跡相承もこの大事に変わりはない。 呼んでいる。ところが大覚寺門跡相承は、この御流だけに終るのではない。 に言えば、天皇の王法が密教とともに存するのである。このような門跡相承は他 に例を見ない。 天皇の御願が、密法と一如となって伝承されるのである。 このことは、後宇多法皇のご遺告第三条に、「我が法断廃せば皇統も共に廃せん。 吾が寺興復せば皇業も安泰ならん」と仰せられて、王法と密法とが一つでなくて はならないと、お訓しになっているのである これは、嵯峨天皇と弘法大師の御願は一つと言うことである。 「これをもって範とすべし」と菊花を挿して仰せになった嵯峨天皇のご垂訓が、 密法の中に生きていると申し上げるのは、このことである。 0 0