正月から二月にかけての京都は、底冷えがして冷たいのだが風はない。貸自転 車の店がたくさんあるので、自由に嵯峨野の小路を楽しんでいる若い人が多く なった。 節分星まつり、厄払い、年越し等と言って、京の社寺ではそれぞれの祈疇会が 行われている。大覚寺では「罅供」と呼んで、天界の星を招いて一つ一つ丁寧な 法要がいとなまれる。その法会では、大般若経典の , ハ百巻を出して大勢の僧侶が 一斉に大声をあげ、経典をパラバラとしながら読み始める。天の神、地の神、念 てに供養すると言う法要である。 七福神詣で天竜寺の山内に七福神を祀って、立春大吉福詣でと沢山の人が参拝 する。甘酒の接待もあり、老若男女を問わず福々しいお祭である。 湯どうふ外気が寒いので、土鍋で湯どうふは絶好の嵯峨風情である。とうふは 206
苦厄を除く心経の指針 の姿が教令輪身である。縄でしば 0 てと言うのが不動明王の左手に持っ縄である。 どうしても、どんなに子供が泣き叫ばうが火の中へ放置出来ない母親の愛情を、 仏の絶対の大慈悲を、絵で表現しようとしたとき、仏師は、仏画師は、忿怒の表 情をもってしたのであった。 これが五大明王である。 その五大明王の中心が般若菩薩なのである。私達一人一人はその般若菩薩の座 に座るのである。これが、「般若波羅蜜多を行ずる」ことである。智慧と慈悲の 台座である。 、。「一丁深般若波羅蜜多」と、い釜に 般若菩薩の座にただ座るだけでは意味がなし 、。卩ち、「身 書いてあるように、「 ~ 木般若」の「深」の字に注意しなくてはならなし只 心一如」になりきる境地を指している。それを「行」ずるのであるから時間の経 過がなくてはならない。 弘法大師は、「身、ロ、意」の三密修行と言うことを教えておられる。 、い経を誦えるならば、先ず手を合せ、ロで誦えて、心の中に仏さまのお姿を想 い浮かべるのである。写経をする場合は、心の中で一字一字を唱えながら、その い 5
西域に見つけた心経のルーツ 従って、玄奘の旅のまず初めのころの出来事で、心経伝授のお陰で、幾多の危 難を無事乗り越えられたと見るに一番ふさわしいところと言える。 私が最も重視するのは、火焔山の真中と言う地理的条件が、重要な意味をもっ からである。 この地理的条件の火焔山の中と言うのは、胎蔵曼荼羅の持明院そっくりだと想 うからである。 持明院については、私の大学の大先輩であり、私の長男を加行させて戴いた恩 師、三井英光先生の「曼荼羅の講話」のことを想い出す。それには、「この院に は五体の仏様いまし、特にその姿を忿怒降伏の明王として画きます。その真中は 般若菩薩であるが、この場所は、曼荼羅を下に敷いて拝む場合、阿闍梨が座して 般若経を読誦する場所なのです。今はこの経の本尊である般若菩薩を画くのです」 と説明されている。 曼荼羅は掛図であるから掛けて拝む対象であるが、実は仏さまの字宙観の配置 図なのである。私達行者は、この配置図を心に画いて自分自身は持明院の中央、 般若菩薩の画いてある中へ座らせて戴くのである。そこで、心経を唱えると言う
きの流麗さである主々 = = ロ彳 。卩契の少を吾り旦寸て充分であった。 般若の大典は、仏国印度で大成するのだが、それに至るまでの数々の思索には、 殊に砂漠が生んだ神秘体験の累積が大きな比重をなしているのではなかろうか ご承知の通り、般若、い経の翻訳には玄奘の他に羅什も、法月もと数多い。それ だけに、、い経の原本は唯一つでなかったことを物語っている。このことは、少莫 が織りなす神秘体験の深さと広さを物語るものと想われる。 ともあれ、玄奘三蔵によって象徴される般若心経の背景は、広大で深遠な神秘 砂漠の「いのち」である。それはいまもたくましく息ずいている。 大師はこれを「般若菩薩のいのち」なりと仰せになっている。 私はおよそ以上のようなことを西域旅行によって感じたのたか、 、五大明王と般 若、い経はそのままに嵯峨山院の信仰の中核として今日までも続いている。 嵯峨天皇が弘法大師のすすめによって、疫病流行のときにその平癒を祈念して 般若、い経をご写経になった。 その心経が、そのままいまも大覚寺に祀られている。これが勅封心経である。 それ故、、い経信仰は大覚寺信仰の中心をなしている。その、い経と大覚寺につい 106
沢山解説されると言うことは、それほど多角度の効果がある、と言える。私も 以前、「呪文の謎」と題して解説をこころみたことがあるのだが、初歩の人でも、 奥深い経験をもつ大家でも、それぞれに相応した了解と、効果を得られるもので ある。 ともあれ、話をすすめる必要上、「、い経とは何か」、それが五社明神、五大明 王を祀る大覚寺とどうつながるのか、を説明しなくてはならない。 牛兀ず、「、い経とよ可、 ( , 1 力」から「人ろ、つ 「心経」と言、つと、「般若波羅蜜多」のことである。「般若波羅蜜多」と言って いるか、これは日本語ではない。「プラージュニャー ーラミッタ」と発音す る印度の言葉、梵語である。玄奘三蔵が梵語から中国の漢語に翻訳するときに、 イの部分は訳されたのだが、「般若波羅蜜多」と漢字で音を当てられただけで、 のその翻訳はされていないのである。 意味はどうなのかと言うと、「ハンニヤとは智慧のことで、智慧を完成すること」 除 と言、つ意味になる。 を 厄 苦 「人間が、 真実のいのちに目覚めたときにあらわれる、根源的な叡智のこと」 凵 7
いるからである。 私達の身心を悩ます煩悩と一一一一〕うものを浄化する方法は、般若波羅蜜多を行ずる ことだと一言、つことを . 知った。 「般若波羅蜜多を行ずる」とはどうすることかと言うと、「、い経を誦えたり、 写経したりすること」と解った。 ここで注意しなくてはならないのは、「薬と言うものは効能書きで効くもので ない」と言うことである。私達はえてして、効能書きの上手、下手を問題にして いる。「薬は含むもの」であることを忘れてはならない。 般若心経も同じで、解説書を何十冊読んだところで「智識」は増えるけれども、 、。少糖の甘みは説明して 「智慧の完成に役立たない」ことを考えておいて欲しし 解るものではない。大人でも子供でも、ロに入れさえすればすぐ解るのである。 私は、い経も同じで写経するか、唱えなかったら甘味は説明出来るものでない。 こ益がないからである。けれども、その甘味を自 また説明しても意味がなし 分で確かめるための導きになる。馬を水の端まで引いて行くことは出来る。呑む か呑まないかは馬の側のことで、馬子の責任ではない。 い 8
苦厄を除く心経の指針 ところが、こんなことで止めにするようでは、火中の母のような「大慈悲」 ははるかに及ばない。 五大明王は、「火中の母」のような大慈悲の権化である。不動明王がその代表 である。 「無、いになって、何のてらいもなく、お願いします」と童心に返ることが大事 である。 そして想わず知らず、い経を唱えていた、と言うようになれば、先ず合格と言う ことだろ、つか。 五大明王と般若、い経の関係は、胎蔵曼荼羅の持明院で画かれているように、殳 若菩薩の心座に私達が座らせて戴いて、大宇宙生命の大日如来を拝むのである。 やがて、煩悩の雲が晴れると、赫々と輝く大日如来の座に導かれる。これを語 りと言い、大覚と言、つのである。 、般若波羅蜜多を行じて大覚に至る寺なのである。 大覚の寺こそ文字通り ここで五社宮と五大明王、そして、い経はどう関係するのか、について考えてみ よ、つ い 9
その他にもいろいろの説がある。 「但し神舎に詣せん輩は、この秘鍵を誦 しかしその中に書かれているように、 し奉るべし」と仰せの深旨について異論をはさむ人は誰もいない。 般若の妙典は、天神地祇、五大の神々の神威を増し、神徳をいよいよ昂める経 典だからである。 般若、い経について、もう一つ深く考察するならば、、い経と言うようにお経の形 式をととのえてはいるが、実は大師が仰せになる如く、「諸経を含蔵せる陀羅尼」 なのである。 ダラニとは真言のことで、「真言は不思議なり観誦すれば無明を除く、 千理を含み、即身に法如を証す」と秘鍵の中で仰せのように、田 5 議しないもので ある。いろいろ考えたり、解釈したりするものではない。仏を観想し、くりかえ ヾッと明るい道か開かれ しくりかえし唱えていれば、無明か除かれる。暗黒からノ るものだと言われている。 、い経はまさしく「観誦して無明を除く」もの、である。 2
私が絵心経について想うのは、観誦すれば無明を除くと仰せになる大師のお言 葉である。 私達がいまへんにとらわれているのは、漢字の、い経の姿ではなかろうかと言う ことである。例えば、「般若波羅蜜多」は漢字のアテ字である。梵語ならば、「プ ラージュニャー ーラミッタ」であり、絵心経ならば、「般若の面、腹と箕と田 んぼの絵」である。「蜜」の字は「密」では間違っている等と言うのは、この三 種の表現から言うと意味がない。 ハラミタ」と亠尸を山山して誧す . ることと、神さま、仏さまを伝じ 敬って唱えることが、「無明を除く」、即ちパッと明るい歓喜の境地へ導かれるこ とではなかろうか。、い経を読誦して果して効果があるのかどうか、とよく尋ねら れることがあ・る。 、。一時の大 三百年ほど前に生まれた絵心経も、効果がなかったら続きはしなし 行のようであれば何百年も続くことはない。 その地方では、「めくら心経」と言って伝えられていると言う、この事実が何 よりの証拠であると言って良いだろう。 初し
である。 一軒の家を見ても、父は智慧を担当し、母は慈愛を受けもっているようだが、 両親の愛は一つであり、この愛が子供をはぐくむと言う法則に変わりがないのと 同じである。 般若と一言うのは梵語の発音で、智慧のことを意味している。智慧の門を入って 仏の大慈悲を戴くと言う仕組みである。 智慧と言うのは智識とは違う。物識りになると言うのではない。自分で自分の ことを知るのである。特にいま、自分が生きていることの意味を「有難いこと」 と知るのである。認識ではなくて、価値を知るのである。そうすると、因と縁に よっていま生きていると言うことが、実は「生かされている」と解って来る。 「生かされている。有難いことだ」と解って来ると、腹を立てたりしなくなる。 なお、今と一言う一時は二度となし 、。者行は無常だと気がつくと、 いま、圧 ~ かさ れていることに感謝して、一生懸命に生きようとする。生活の基本がこのような 姿勢になると、煩悩と言う三毒が薬に変化するのである。「渋柿の渋そのままの 甘さかな」である。苦しみがいつの間にか楽しみに変わっている。般若、い経の「真 ロ 4