八七 , ハ年までの五十五年間に栖霞館は造られたことになる。 融公は河原左大臣と呼ばれ、「愚管抄」によると、「 , 、條河原にいみじき家造り て、池を掘り水をたたえて、毎月潮三十石ばかり運び入れて、海底の魚貝を住ま しめたり。陸奥の国塩釜の浦をうっして、海士の塩屋に煙を立ててもてあそばれ けるなん」と、超弩級の遊びをされた様子を述べている。また、謡曲「融」にも 同様に唱われている。宇治の平等院も融公の山荘の跡と一言う。嵯峨の山荘が栖霞 館で、これが現在の清凉寺釈迦堂の始まりとなるのである。 融公が薨去されたのは寛平七年 ( 八九五 ) 八月、七十四歳であった。 明治二十七年に融公の千年忌がいとなまれ、その時建立された墓誌が釈迦堂域 の墓前にある。「公在世の時、旦タこの五大尊に祈請して、国家を治め給い、且 っ我命終らば必ずこの地に葬るべし云々」と、誌している。 とすると、清凉寺釈迦堂の境内にある融公の墓地、その近くに栖霞館の建物が あり、その近くに五大堂があったことになる。 現在の釈迦堂の西門から中院町の街並みがつながるが、その道は北側の土地か ら見ると少し南に曲って、中彭れになっている 0
嵯峨野の十二ヶ月 四月 大念仏狂一一 = ロ釈迦堂の西門近くに狂言堂があり、土地の人達が狂一言役者になって、 無言劇狂言を行う。昭和六十年より無形文化財の指定を受けている。はじまりは、 鎌倉時代に円覚十万上人が踊り念仏として始めたと言われる。釈迦堂の塔中地蔵 院の創設が、この歴史を伝えている。釈迦堂は大覚寺の支配で、地蔵院、宝泉院、 宝性院、明王院、歓喜院の五院を 学侶と言い、薬師寺、文殊院を寺 中、本願とは善導院、蓮池院、多 宝院、看松庵の四院であった。真 言宗の学侶は維新後大覚寺に戻 、地蔵院墓地は覚勝院に属して 大り 今日に至っている。 令旨 清凉寺之大念仏開基円覚上人 209
大師の住房五覚院 線上に手を結んでいる この東西と、南北の両線がクロスする中台に嵯峨五大堂が建てられている。 それが嵯峨中院である。い まの釈迦堂より少し西の方に当たる。 大師が五大堂を建立されたころ、現在の釈迦堂はなかった。その前身である栖 霞寺も生まれていない。 もう一つ前の栖霞館もまだ建てられていない。 大師選定の五大堂から始まってこの浄域が次々と生まれて来るのである。 その間のいきさつを考えてみよう。 五大堂の建立は、弘法大師の選地によって嵯峨中院の地と定められた。それは 密教占星法による選地であり、妙見尊を水天、船形とするまんだら山の霊水、ま んだら川がぐるりと巡る浄地中院であった。 五大堂の建立が、弘仁元年 ( 八一〇 ) 三月であることは前述の通りである。 みなもとのとおる 栖霞館は、嵯峨天皇の皇子、源融公の山荘である。融公の出生は八二一年 だから、五大堂出現から十一年後のことである。 大覚寺の出現の貞観十八年 ( 八七 , ハ ) は、この寺の境界を「栖霞館の東路」と 定められたことに始まるから、この館はすでにあったことになる。八二一年から
の伝来の釈迦像を祀りたいと奏請して勅許された。 これが五台山清凉寺と呼ぶ今日の釈迦堂である。奝然の寂年が一〇〇三年であ るから、その後にいまの釈迦堂は生まれた。五大堂の建立以来、約二百年後のこ とであった。 「五大堂略縁起」によると、「夫れ五台山清凉寺は往昔、其の号なし、唯根本 五大堂有るのみなり、嵯峨王府に属す。是れ即ち弘仁帝の御願なり。弘法大師開 基なり。本尊五大明王は大師の製作なり」と、この間の消息を明らかにしている。 嵯峨王府とは大覚寺のことである。 宮中の内道場となった嵯峨院。内道場の中心となる五大堂。 「五大堂略縁起」に言う通り、嵯峨天皇と弘法大師お一一方の御願念力の象徴で あった。 江戸時代には現在の清凉寺境内に、嵯峨天皇と檀林皇后の供養塔、源融公の墓、 そしてその傍らに五大堂があった。 しかしこれは、「唯、根本五大堂有るのみなり」と言うその五大堂ではない。 「山城国嵯峨庄條里図」が「嵯峨誌」に出ていて、栖霞寺、有智子内親王墓、
私は、この辺が五大堂の旧跡ではなかろうかと想っている。 八九五年、公が薨去された後の栖霞館は、醍醐天皇の皇子、式部卿重明親王の ものとなった。やがて、親王が山荘を寺とされて栖霞寺と呼ばれるようになった。 重明親王は栖霞寺の中で、亡姫の供養のために金色等身の釈迦如来像を祀られた。 うてん ちょうわん その後、東大寺の僧奝然が、印度の優嗔大王が刻まれたと言う釈迦如来像を 宋より将来し帰朝した。 奝然の悲願は、当時中国仏教のメッカ、五台山にならって京都の愛宕山に五台 山を建立することであった。 愛宕山は海抜九二四メートル、古代からの霊域である。しかも山は、朝日、鷲 峯、龍上、高雄、鎌倉の五峯からなり、日本型五台山建設には最適の霊山である。 東大寺帰朝僧奝然の懸命な努力にもかかわらす、彼の目で五台山の建立を見る ことが出来なかった。 院 覚 五 南都北嶺の風は冷たく、そのしがらみは殊の外厳しかったのかも知れない。 奝然の愛弟子盛算は師の悲願を受け継いで、恩師奝然の名において愛宕山麓に の 五台山清凉寺を建立したのだった。即ち、弟子の盛算は栖霞寺にある釈迦堂にこ
ののみや 嵯峨祭愛宕神社と野宮神社の祭で、昔は五月五日の節句に行われたが、近年 は第三日曜と決められている。釈迦堂前の大門町にお旅所があって、全町内別に 長柄や獅子、幡等を保管していて、この日にそれらを運び込んで祭の行列が行わ れる。祭の列も先ず御所へ上がり、寝殿の前に祀られて門主、寺僧の御拝が恒例 である。 愛宕や野宮の神輿等については、大覚寺宮より「学侶司之目代支配」となって おり、修復等が行われたことの古文書が残されている。 鯖ずし祭のご馳走は、鯖ずしと決められている。塩鯖の大きいのを三枚にして 酢につける。そしてごはんと併せ、竹の皮に包んだり、型に嵌めて一晩押してお く。これを親戚に配り、お客もふくめて家族中で楽しむ。嵯峨祭の主役である。 くるまざき みふねまつり 三船祭五月第三日曜日、嵐山の川に美しい船を浮かべて、車折神社の三船祭 ダきす 、ト皆、謡曲、献茶献花、 か行われる。御座船に供奉する船は、龍頭、鷁首、詩歌信言 子竹、小唄、琴等、沢山な芸能船がこれに従う。車折神社を出た神幸列は渡月橋 さが士つり 五月 2 に
除夜の鐘大覚寺、釈迦堂、念仏寺、天竜寺など、嵯峨野に響く除夜の鐘は、遠 く近く往く年、来る年の想いを込めて鳴り渡る。 近頃は若い人達で鐘を撞く希望者が増えている。それぞれの寺でその作法があ るから寺の方の指導を受けると良い。 若水正月の若水には、古くから嵯峨の霊水として尊ばれている仙翁水がある。 嵯峨御所の若水として宝前に供えるしきたりであったと言う。 おロ祝い嵯峨御所大覚寺では、修正会の後、午前五時より正寝殿で「おロ祝い の儀」をとり行う。神盃についで、小判型の昆布とみかんを戴く。みかんは弘法 嵯峨野の十二ヶ月 一月
お松明嵯峨釈迦堂のお松明は、嵯峨中の人達が待ちに待つ「お松明」で、これ から本当の春となる。朝から境内一杯に子供たちの喜ぶ店が出て、夕方までは子 供天国となる。夜八時になると、大松明のあたりは身動きも出来ない人出となる。 やがて点火され、夜空を彩る火の祭典となってクライマックスを迎える。嵯峨の 一一人達には「お松明」が季節の合一言葉となっている。 佐野さくらさざれ石の丘、千代の古道より広沢へ出るところに毎年見事な桜が、 ちょうど彼岸の終ったころに咲く。佐野藤右衛門さんの桜である。千代の古道に 「森嘉」と言われ、森井家で作るとうふが大変好評で、京都市内は勿論、大阪方 面の一流の料理店でも、嵯峨まで毎日仕入れに来ると言われている。近頃ではア 、。淡味が喜ばれ、 メリカでも日本料理がうけ、とうふも向こうで作っているとカ しかも栄養は豊富である。嵯峨名物の一つと言える。 207
大師の住房五覚院 の制定に際しても、この寺が境界となっている。従って五覚院の余地はない とすると、鳥居本の谷と言うことになる。ここに大師の息吹を伝える遺跡があ るはずだと私は改めて探してみた。果してそこには数々の遺跡が伝えられている。 大覚寺の西にまんだら山があり、その山麓をまんだら川が流れ、釈迦堂 ( 清凉 寺 ) の裏を通っている。毎年、大文字の夜に「鳥居の火」が点されるのがまんだ ら山である。 弘法大師が曼荼羅諸尊を祀られたと言う。その埋れていた仏たちが掘り出され て、化野念仏寺の沢山な石仏の中に混じっている、と古老たちは伝えている。 その念仏寺は、弘法大師の開創である。最初は五智如来寺と呼んでいたのだが、 中古、浄土宗となって、五智山念仏寺に改めたと言われている。 まんだら山の山上には、七世紀の中頃、法道仙人がいて仙翁寺を建立したと伝 え、現在もこの辺を仙翁町と呼んでいる。 恐らく道教を奉ずる道士か、雑密を修行する修験者が住んでいたのを仙人と称 また、ここには仙翁花と言う石竹のような珍花が生え していたのかも知れない。 ている。いまも仙翁町と地名になっているところを見ると、古くからの霊地とし