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検索対象: 嵯峨野の神と仏たち
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1. 嵯峨野の神と仏たち

嵯峨野の十二ヶ月 四月 大念仏狂一一 = ロ釈迦堂の西門近くに狂言堂があり、土地の人達が狂一言役者になって、 無言劇狂言を行う。昭和六十年より無形文化財の指定を受けている。はじまりは、 鎌倉時代に円覚十万上人が踊り念仏として始めたと言われる。釈迦堂の塔中地蔵 院の創設が、この歴史を伝えている。釈迦堂は大覚寺の支配で、地蔵院、宝泉院、 宝性院、明王院、歓喜院の五院を 学侶と言い、薬師寺、文殊院を寺 中、本願とは善導院、蓮池院、多 宝院、看松庵の四院であった。真 言宗の学侶は維新後大覚寺に戻 、地蔵院墓地は覚勝院に属して 大り 今日に至っている。 令旨 清凉寺之大念仏開基円覚上人 209

2. 嵯峨野の神と仏たち

大師の住房五覚院 ているように、法皇ご自身とご両親、皇后と御子を祀る御陵である。 江戸時代には「六角堂」と呼んで、毎月二十五日に大覚寺門主が廟参されてい 蓮花峯寺陵を寺と言う文字にとらわれて、自分の寺の祖は蓮花峯寺で、ご開山 は後字多法皇であるなどと言う人があるが、これは間違いである。法皇は大覚寺 の中興であるが、他の寺の開山ではない。蓮花峯寺陵は御陵であって寺ではない。 五覚院が御陵の西にあるように画かれたこの伽藍図は、いつごろのものだろうか それは御陵が画かれているから法皇以後のもので、それ以前のものではない。 即ち法皇のころ、十四世紀の五覚院と言える。 ところが十世紀の文書によると、大覚寺の西とあり、この図の五覚院と位置が違う。 十世紀の五覚院の文書は次の通りである。 みなもとのしたごう 嵯峨天皇の曽孫で、漢学者であり、文人、歌人として知られる源順の「本 朝文粋」に見られる文章である。 「三月尽日、五覚院に遊び同じく紫藤花落鳥関々を賦す」と言う詩の序文である。 「五覚院は彼院の西洞 「嵯峨院は、我が先祖太上皇の仙洞なり」から始まり、

3. 嵯峨野の神と仏たち

なり」と、その位置を明確に誌している 古図の五覚院は嵯峨院の北であって、ここで言う西とは違う。 なお「西洞」の「洞」の字は、洞穴の意味とともに谷の意味がある。即ち「西 の犬ロ」と一言、つことになる。 だとすると、五覚院は最初、嵯峨院の西の谷にあった。それから , ハ十数年の後 しっしか に大覚寺が生まれ、境外地になってしまったので時の経つのとともに、 消えてしまった。 源順が五覚院へ行ったころは、まだ立派に建っていたのである。 しかし五百年の年月は長い。 法皇が大覚寺をご再興になったとき、弘法大師の大切なご遺跡、五覚院を復興 されたものと考えられる。それが古図に見るもので、当初のものは大覚寺西の谷 であった。 大覚寺の西の谷と一言うと二つある。一つは観空寺谷であり、もう一つは鳥居本 の谷間である。 観空寺谷には、文字通り嵯峨天皇の御願寺と一一一口う観空寺があった。大覚寺境域

4. 嵯峨野の神と仏たち

故に源順の言う「西洞」は西の谷と解され、五覚院はここにあったことになる。 大師の住房が鳥居本にあったとすると、もう一つ良い条件が揃う。それは、鳥 居本から清滝への試み坂を越えると、清滝川にそって高雄山寺 ( 神護寺 ) へはす ぐそこのところである。 高雄山寺を、大師が常住寺としておられたことは広く知られている。 高雄山寺から嵯峨院へ伺候して、天皇とお語り合いがあり、夜ともなれば五覚 院に宿られる。五大堂での修法も、ここから出仕されると言う嵯峨院での住房が 五覚院であった。 ところで、まんだら山は大覚寺の方から眺めると、丸い饅頭形の山に見える。 まんだらと言うのだから金、胎と左右二つ並んだ山形であって欲しいものだ、と 私はかねてから勝手なことを考えていた。 最近になって、念仏寺のあたりから眺めると、まんだら山の奥にもう一つ山塊 院 覚 五 があって、ここからだと二つ並んで一対に見えることに気がついた 房 一対に見える一番良いところはどこだろうと、新しく住宅化したあたりを歩き の 廻っていると、後亀山天皇小倉陵のあたりが良いと解った。

5. 嵯峨野の神と仏たち

火のまつり毎年八月十 , ハ日の夜は、京の街は火のまつり一色に包まれる。いわ ゆる五山の送り火である。嵯峨野ではその一つ、まんだら山の鳥居形の火がある。 西村公朝さんは、五山の火は金、胎両大日と法華経と、水神、火天を表現する 大師の大護摩で、鳥居は愛宕と結びつく火天と言う。水、火の二つは寒暖ともな 、万物成生の基本エネルギーである。亡くなった人の魂が帰ってゆく、その送 り火と言うのも間違っていない。 から見ても、信仰の厚い山であることが知れる。 嵯峨御所の記録によると、愛宕護山白雲寺と呼び、社僧として上之坊 ( 大善院 ) 、 西之坊 ( 威徳院 ) 、下之坊 ( 福寿院 ) 、長床坊 ( 勝地院 ) 、尾崎坊 ( 教学院 ) の五坊 を挙げ、福寿院が真一言宗、他は天台宗であるが、年始の礼その他の儀は、総て当 卩に相勤むと大覚寺支配に属していたようである。 ノ月 幻 6

6. 嵯峨野の神と仏たち

大沢庭湖と菊花の妙 なお、大沢の北岸は名古曽と呼ばれ、そこには名古曽の滝がある。 滝の音はたえて久しくなりぬれどなこそ流れてなほ聞こえけれ と、藤原公任卿の歌は広く知られている。 この名古曽は、「勿来関」と同じ「なこそ」、即ち「来る勿れ」である。今風に 言うならば、「立入り禁止」の地域である。「聖なる地域」を指している。天神を 祀る斎場を意味するのではなかろうか。 このように考えながら、天神島と名古曽を歩いていると、天神を祀られる天皇 の召す袍の衣摺れが聞こえて来るようである。 嵯峨天皇の離宮を嵯峨山院と申し上げるようになったいきさつは、先述のよう に庭湖に導かれて嵯峨の大事を知ることが出来た。 それではその嵯峨院が、後日になって大覚寺となり、そのまた後に時を経て、 後字多法皇によってご再興を見ると言う不思議な因縁を考えてみたい。 嵯峨天皇の離宮は嵯峨院だけではない。いまの二条城の東北隅に当たる冷泉院。 国鉄一一条駅の南、三条から四条に至る広大な土地の朱雀院。もう一つ嵐電西院電 停の西北、四条通に沿う土地にあった淳和院。何れも天皇の離宮なのだが、嵯峨 なか

7. 嵯峨野の神と仏たち

べた通りである。 天皇は「文華秀麗集」に御製をとどめられ、「嵯峨山院暖光遅云々」と、自ら 離宮のことを、「嵯峨山院」とお呼びになっている。 また、「類聚国史」では嵯峨院、嵯峨山荘、嵯峨別館等と言い、「嵯峨」「荘」 と略称している。 「嵯峨」とは地名ではなし ) 。「離宮」のことである。日本における嵯峨は、先 ず「離宮名」より始まったことは明白である。 しかも、離宮名に嵯峨山をと推したのは大師であろうとして、弘法大師の入唐 事情を誌したことは上述の通りである。 なお、弘法大師が嵯峨天皇へ徳宗皇帝の真跡一巻を献上されたのは、弘仁一一年 ( 八一一 ) 八月のことであると「性霊集」に言う。 とすると、離宮名を「嵯峨山院」と命名されたのも、あるいはこのころのこと であったかも知れない。 もう一つ推測が許されるならば、現在高野山で、もと大師の住房だった中院御 房龍光院に秘蔵されている黄金の念珠についてである。

8. 嵯峨野の神と仏たち

西域に見つけた心経のルーツ て語るべきなのだが、その先にもう一つ、大師の御修法に大切な祭祀がある。 五社明神の勧請である。 嵯峨の名のルーツは中国の嵯峨山で、それを将来されたのは弘法大師であるこ とは , 請した。 大師のおすすめで天皇は離宮の名を「嵯峨」とされた。即ち、「嵯峨院」である。 おくりな 嵯峨院をこよなく愛された天皇は、ここで崩じられたので、「嵯峨」を諡し て嵯峨天皇と申し上げる。 嵯峨院の境域が地名となって、現在の嵯峨があり嵯峨野がある。 嵯峨院はその後六十年の後に、嵯峨天皇の皇孫、巨寂親王により寺となり、大 覚寺が生まれた。 昭和六十年の秋、ご開山恒寂親王の一、一〇〇年御忌が大覚寺で厳修された。 大覚寺誕生の機縁とな 0 たのは淳和皇后の発願であるが、その核となるのは、 嵯峨天皇と弘法大師の鎮護国家の祈念である。 五大堂、五社宮、五覚院がその霊跡である。五百年の年月を経て後宇多法皇が、 この霊験を感得されたので大覚寺復興の大業をなしとげられた。 107

9. 嵯峨野の神と仏たち

大師の住房五覚院 嵯峨天皇は、大師の上表文をご覧になり、嵯峨院を宮中の内道場とお決めになった。 五社明神を勧請し、五覚院を建てて護国の 大師は早速ここに五大明王を祀り、 祈願を修法された。 私はいま、その五覚院を尋ねて鳥居本のほとりを歩き廻ると、後亀山天皇の御 陵のあたりがその旧蹟と想われる。大師もこの院を建てるに当たって源順の「 = 寺 仙遊」と言う通り、嵯峨院内の霊地を探し定められたことだろう。 五社明神、五大堂、五覚院、この三つの場所を定めるに当たっての要件は、私 は星と水であったろうと密かに想っている。 弘法大師が中国から帰朝の際の「三鈷飛翔」の物語。やがて高野山に登りその 三鈷を探し当てたと言う「三鈷の松」の話も、私は満天に輝く星を読んで嘉祥の 地を定める占星方位の法を用いられたものと想っている。 また私の大学での恩師森田龍僊僧正は、その著「密教占星法上編」において、 じゅんしやく みぎり 弘法大師が修禅相応の勝地を求めて巡錫の砌、「親しく尊星王妙見大菩薩の降 臨を感見し給いし霊跡」として、北河内郡星田村の妙見山のことを書いておられ、 星田村の名もこの星に由来すると述べられている。また同書には「白宝抄」の「妙 さんこ

10. 嵯峨野の神と仏たち

大師の住房五覚院 五覚院は現存する「大覚 一寺伽藍図」と言う古図の中 に画かれている。 この古図によると、東北 の隅に蓮花峯寺と一言う後宇 覚 《大多法皇の御陵があり、その すぐ西側に五覚院が画かれ ている 蓮花峯寺は、後宇多法皇 したた かそのご遺告に認められ