勧工場 - みる会図書館


検索対象: 都市の明治 路上からの建築史
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1. 都市の明治 路上からの建築史

しかし、全盛をきわめた頃の勧工場は、かって東京府が設立した永楽町の勧工場と違って、 その多くが庭園をもっていなかった。この点からいえば、全盛をきわめた頃の勧工場は、永楽 町の勧工場や浅草勧業場の流れというよりも、京橋勧業場の流れをくむものといってよいだろ う。この頃の勧工場の特徴は、ほとんどが繁華街に設立されていた点にある。このことは、明 治三十五年 ( 一九〇一 l) の銀座通りに、京橋勧工場・第二丸吉勧工場・第二南谷勧工場・丸吉勧 工場・京橋商品館・商栄館・帝国博品館の、七つの勧工場が集中していたことからも窺い知る ことができよう。 最も全盛をきわめた明治三十年 ( 一八九七 ) 頃のほとんどの勧工場が、茶店や休憩所を付属し た庭園をもたなかったことは、この頃には、庭園をもたなくても、勧工場が、人々をひきつけ る魅力をもっていたらしいことを暗示している。そして、さらに興味深いことは、永楽町の勧 工場と違って、茶店や休憩所を付属した庭園をもたない、明治三十年 ( 一八九七 ) 頃の勧工場に 栄 ついても、当時の人々は、遊園の場として認識していたらしい点である。このことは、明治三 ( 幻 ) 十七年 ( 一九〇四 ) 刊行の『東京明覧全』に、勧工場が、「商工業」の項ではなく、劇場・相場 撲・寄席・花火・桜花・観月・能楽・汐干・展覧会・観物などと共に、「遊覧」の項に入れら勧 ( を れていることや、明治四十年 ( 一九〇七 ) に発行された『最近東京明覧』にも、同じように、 「遊覧及娯楽」の項に入れられていることなどから窺い知ることができる。 永楽町の勧工場のように、ロンドンのバザーやニューヨークのフェアーを模範として、茶店 幻 7

2. 都市の明治 路上からの建築史

リ二尺五寸ヲ壱区トシ、壱区以上四区マデ随意借 受ルヲ得ペシ。尤モ同業者五名迄ヲ限リトスペ シ」・「本館出品区ハ二百区ト限定シテ募集ス」・ = 。は、よ「本館営業時間 ( 午前八時「リ午後十壱時迄ノ内 ニテ、時ノ景況寒暑ニ依テ之ヲ定ムペシ、などが 工決められている。 工場といふものは、明治時代の感じをあらはす一 、《蹶つの尤なるものであって、私共にとっては忘れら ( ~ ~ を ) れない懐かしいものゝ一つである。細い一間半位 の通路の両がはに、玩具、絵草紙、文房具、はて 、簪は簟笥、鏡台、漆器類、いろいろのものを売る店 があって品物をならべた『みせだな』の一角に畳 一畳位の処に店番の人が小さな火鉢や行火をかゝ 〈てちんまりと座って、時分時にささやかな箱弁当でも食べてゐゃうといふ光景はとても大正 昭和の時代にはふさはない , と語り、勧工場に、大正・昭和の時代とは異なる、明治らしさを 思い起こしているが、『京橋勧業場規約』から類推すれば、京橋勧業場も、このような勧工場 幻 4

3. 都市の明治 路上からの建築史

の一 . つであったと考えてよいだろう。ここで注目される点は、京橋勧業場が、永楽町の勧工場 のような、ロンドンのバザーやニ = ーヨークのフ = アーを理想として、庭園や休憩所をもつ、 一つの快楽園としてつくられた勧工場と大きく異なっている点である。京橋勧業場は、その設 立された場所から判断してもわかるように、陳列場が、一つの建物内に限定されており、また、 庭園もなかった。いわば、快楽園とはほど遠い勧工場が設立されたわけである。勧工場が民設 に付されてまもなく、勧工場には、浅草勧業場のような、外国を模範としてつくられた、永楽 町の勧工場の流れを受け継ぐものと、それとは異質な京橋勧業場のようなものの、二種類の形 式があったことがわかる。 よ帝国博品館 勧工場は、その後、ますます繁栄して、明治二十年 京代後半から三十年代に全盛をむかえている。『東京市繁 一」飫統計年表』によれば、東京市内の勧工場の数は、〔表場 部 1 〕の通りである。これによれば、明治三十五年勧 の ( 一九〇一 I) には、二十七カ所もの勧工場が東京市内に二 工あったことが知れる。このことからも、いかに勧工場 が繁栄していたかが窺えよう。 幻 5

4. 都市の明治 路上からの建築史

新しい形式の店舗 「銀座も夏は日除を、通り一面に張り渡し、冬は硝子の屋根を往来につけてしまったら、どう なるだらう、と時々考へることがある。つまり銀座を、電車や自動車の通らない、昔の勧工場 の大きなやうなものに、こしらへてしまはうと空想する分だけだが、さうなれば、尾張町の四 っ辻に、噴水位は欲しくなるだらう ( 中略 ) 勧工場の、子供の頃の我々の上に有った魅力は、髞 ( 1 ) 今日この頃の百貨店の比ではなかった。我々は何時間も勧工場で楽しい時を送った」と、内田場 誠が語ったのは昭和十五年 ( 一九四〇 ) である。現在は、勧工場という名前さえ忘れられてしま勧 っているが、かって、勧工場は、商品を販売する場所という以上に、人々に多くの夢をもたら二 す存在であったらしい 勧工場と書いて「かんこうば」と読むが、多くは、「かんこば」と言いならわされていた。 二勧工場の繁栄

5. 都市の明治 路上からの建築史

ロの二人に一人が、明治以降新しく流入してきた人々であり、明治三十四年 ( 一九〇一 ) には、 三人のうち二人までが新しい人々と考えられる。このことは、東京の文化を支える基盤が、明 治十年代から三十年代にかけて、大きく変りつつあったことを意味している。とすると、同じ 頃に始まったと考えられる、人々の、勧工場の売店に並べられた商品を見て歩き、賑う雰囲気 を楽しむという行為は、このような文化基盤の変化を背景として生まれた新しい動きであった ともいえよう。このような行為は、やがて、安藤更生の指摘した街衢鑑賞を経て、大正時代の 「銀プラ」へと受け継がれていったと考えられるが、賑いを楽しむために店舗を訪れるという 行為は、近世の座売り方式の店舗では生まれにくく、勧工場のような、陳列販売方式の店舗が できて初めて発達することができたのである。 勧工場は、それ自身の中に、新しい時代に受け継がれていくべき要素を確かにもっていた。 そして同時に、大正や昭和の時代にはない、明治的な古さや、江戸的なものを思い起こさせる 要素をも、その中にもっていたのである。このことは、勧工場が、都市の施設として、近世か ら近代への橋渡しの役目をはたしていたことを物語っている。勧工場の繁栄した期間は、確か場 に短かった。そして、勧工場が全盛の頃には、すでに「勧工場もの」と称され、悪い品質の品勧 物を指す代名詞としても使われはじめているのである。しかし、勧工場の繁栄した期間の短か二 ったこと自体が、なによりも勧工場自身の過渡的な性格を最もよく示しているのである。

6. 都市の明治 路上からの建築史

註 ( 1 ) 内田誠『銀座』 ( 2 ) 仲田定之助『明治商売往来』 ( 3 ) 当時は、永楽町の勧工場を「第一勧工場」と呼んでおり、第一勧工場の他に、神田和泉町一番地旧藤堂邸の場 所に「第二勧工場」があ 0 た。第二勧工場は、明治十年 ( 一八七七 ) に精工社社員の中山譲治・新田義雄が、 陶銅漆器の工業を開くに際して、官有の地所・建物を貸与したもので、職工によって製造が行われていたが、 ここには物品陳列所はなかった。 ( 4 ) 『東京市史稿市街編』 ( 5 ) 勧業課『回議録第八類第一勧工場明治十年ョリ十一年ニ至』 ( 6 ) 同前 ( 7 ) 同前 ( 8 ) 前掲書『東京市史稿市街編』 ( 9 ) 同前 ( 間 ) 会計課『第一勧工場書類明治十年ョリ十一年マテ』 ( Ⅱ ) 勧業課『回議録第八類勧工場明治十三年』 ( ) 農商課『回議録明治廿年一月起』 ( ) 前掲書『回議録第八類第一勧工場明治十年ョリ十一年ニ至』 (2) 前掲書『第一勧工場書類明治十年ョリ十一年マテ』 ( ) 同前 ( ) 農商課『勧工場綴洩明治十九年』などの史料による。 ( 貯 ) 前掲書『回議録第八類第一勧工場明治十年ョリ十一年ニ至』 ( 絽 ) 『郵便報知新聞』明治十四年 ( 一八八一 ) 十二月一一十一一日 ( 『新聞集成明治編年史』より転載 ) ( 四 ) 前掲書『東京市史稿市街編』 しんこざいくれんがのみちすじ ( ) 岸田劉生『新古細句銀座通』 226

7. 都市の明治 路上からの建築史

や休憩所をも 0 た庭園を設け、一種の快楽園として つくられた勧工場が、遊覧の場として取扱われるこ とは十分に理解できる。しかし、全盛をきわめた明 治三十年 ( 一八九七 ) 頃の大部分の勧工場は、庭園を よ も 0 ていなか 0 たのである。にもかかわらず、当時 戴の人々は、勧工場を「遊覧」の場として理解してい 示たのである。このことは、明治十年代と = 一十年代と で、勧工場を訪れた人々の意識ー こ、大きな変化が生 館 品じていたらしいことを示している。 国明治三十年代に最も繁昌していた勧工場の一つに、 新橋のたもとに設立された帝国博品館がある。石井 研堂は、帝国博品館の繁昌した理由として、「昨年 末に新築開業した勧工場博品館は、先づ二階三階の さざえ 階子を廃し勾配を緩くして螺堂風に昇り降りせしむ る建築上の新案が一 2 場内に従来例の無い珈琲店、しる粉店、理髪店、写真場などを設けた といふのが一 0 、兎も角二 0 の新案を加〈て始めましたので、数ある勧工場中にも忽ち其の名 を知られ、開業当日から人気を取りました」と述べている。 幻 8

8. 都市の明治 路上からの建築史

に履替えて一巡するという方法から、いち速く、下足のまま一巡できる方法に切りかえている 点によっても窺うことができる。 勧工場が、いっ頃から、下足のまま場内を一巡できるようになったかは明確でないが、京橋 ( 四 ) 八八一 I) 三月に描かれた建物が、下足を履替えて室内に入 勧業場に例をとれば、明治十五年 ( 一 ( 8 ) るようになっていたのに対して、明治十八年 ( 一八八五 ) 五月に発行された銅版画では、下足の まま出入りしている様子が描かれている。また、同じ十八年 ( 一八八五 ) の銅鰍にみられる杉 山勧業場も、下足のまま商品を縦覧している様子が描かれている。これらの点は、勧工場にお いて、下足のまま場内を出入りできるような傾向が進んだのが、明治十年代の後半頃だったら しいことを示している。下足のまま、場内を一巡できるという方法によって、そこを訪れる人 人が、陳列された物品をより気安く見て廻れるようになったことはいうまでもない。そして、 土足で場内を出入りするというこの方法が、松坂屋や三越などの百貨店に採用されたのが、関 東大震災以降の、大正末期から昭和にかけてであったことを考えると、勧工場にとり入れられ髞 の たのが、いかに早い時期であったかがわかる。 人々は、勧工場にぶらぶらと見て歩く楽しみを発見したのであり、勧工場は、そのような人勧 人の欲求に対して、積極的にこたえたのである。人々は、勧工場の賑う雰囲気に紛れることそ二 のものを楽しみだしたのである。だからこそ、茶店や休憩所を付属した庭園をもたない勧工場 でも、劇場や相撲・寄席・花火・桜花・観月・能楽・汐干などと共に、「遊覧ーとして、当時

9. 都市の明治 路上からの建築史

自体を楽しむという行為を発見したのである。顧客の求めに応じて、店の奥から、一つ一つ商 品を運び出すという、座売り方式の店舗においては、客が商品の購入を目的としないで、店舗 を訪れることはできなかったが、陳列販売方式の店舗は、それを可能にしたのである。いわば、 「洋風に似て非なる建築」は、このような、街衢鑑賞を楽しむ人々の要求に対して答えた、 つの回答でもあった。 このような、街衢鑑賞を楽しむ人々の行為は、やがて、大正時代の「銀プラーへと受け継が れ、明確な存在になっていったと考えてよいだろう。明治後期の、人々が街衢鑑賞を楽しむ街 は、もうすでに近世ではない。、 近代の街である。 しかし、近世から近代への街の脱皮は、一気呵成に行われたわけではない。すでに、明治中 期の勧工場に、その先駆的な姿をみることができるのである。 陳列販売方式をとる店舗の形式は、早くも明治十一年 ( 一八七八 ) に設立された勧工場におい てみることができる。その後、勧工場は、明治二十年代後半から三十年代に最も繁栄するが、 その頃に勧工場を訪れていた人々の多くは、商品の購入を直接の目的としないで、陳列された 商品を見て歩き、その賑いに浸ること自体を楽しんでいたのである。このような、陳列された 物品を見て歩くことを楽しむ人々の行為は、やがて、勧工場という一つの建物内に限定される ことなく、街全体へと広がっていったと考えられる。そして、人々が、街衢鑑賞ともいうべき 行為を楽しみはじめた明治後期は、勧工場が、翳りをみせはじめた時期でもあった。

10. 都市の明治 路上からの建築史

石井研堂は、いままでにない二つの新案を、帝国博品館の繁昌した理由としてあげているが、 二つの新案は、考えようによっては共に、東京府によって設立された、永楽町の勧工場を発展 させたものと解釈することもできる。特別な階段を用いず、二階・三階まで勾配を緩くして建 物を一巡するという方法は、永楽町の勧工場の、平家の建物であるために、平面的ではあるが、 陳列場を一巡していた形式を発展させたと考えることができる。そして、珈琲店や汁粉店を建 物の中に設けたという点は、永楽町の勧工場の庭園にあった茶店や休憩所を、建物の内部に取 り入れたと考えることもできる。 しかし、別な面から考えれば、永楽町の勧工場が、本来主役であるべき物品陳列所を、庭園 を中心とする快楽園の付属物的に取扱っていたのに対して、帝国博品館では、物品陳列所その ものを充実していったと解釈することができよう。珈琲店や汁粉店などを建物内に設けたのも、 物品陳列所そのものを、より楽しい場として充実するための工夫であったと考えてよいだろう。 とすると、永楽町の勧工場と帝国博品館とでは、非常に似かよった要素をもちつつも、質的に髞 は、まったく異なる考えのもとでつくられたものであったらしいことがわかる。永楽町の勧工易 場と帝国博品館との、このような考え方の違いは、勧工場に対する時代の要求の変化と考えた勧 方がよいだろう。 都市施設として定着 幻 9