博品館 - みる会図書館


検索対象: 都市の明治 路上からの建築史
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1. 都市の明治 路上からの建築史

ものである千疋屋の建築に使用せられたるアイオニック式様のポリュートの如き博品館の奇塔 の如き到底建築学上の常識なるものでは考へることさへ出来ない豈んや実地に施行して之を公 衆の眼に晒すに於てをやである然れども此の如き大胆なる向ふ見ずの努力がやがては新建築形 式の萌芽となることとなるので此の如き実例を作て見せて呉れるのは所謂純粋の日本大工の賜 であると云はねばならぬ」と白状せざるをえなかったのである。彼は、千疋屋や帝国博品館の 建物を、決して、積極的に評価しようとは思っていなかった。しかし、他方で、無視し続ける ことのできない何かを、これらの建物から感じとってもいたのである。これらの建物には、西 洋建築を模倣しそこなって、似て非なる建築になってしまったのではない何かがあることを、 彼は感じたのである。 おそらく、武田五一は、千疋屋や帝国博品館の建物に、創造性を認めざるをえなかったので築 る あろう。 ここにいう帝国博品館が、明治三十二年 ( 一八九九 ) に創立された勧工場であることは述べる て 似 までもない。そして、帝国博品館に代表される繁華街の勧工場が、単に商店としての機能をこ え、都市施設として、近世から近代への橋渡しの役目をはたしたことについてはすでに指摘し洋 た通りであるが、その帝国博品館をはじめとして、いくつかの建物に、創造の萌芽がみえはじ三 めたのである。そして、それらの建築物の創造の方向は、西洋建築を参考にしつつも、けっし て西洋建築ではないところに向っていた。もちろん、その方向が、伝統的な日本建築を目ざし

2. 都市の明治 路上からの建築史

博覧会にイルミネーションを用いた最初は、明治三十六年 ( 一九〇一一 l) に大阪で開かれた第五回 内国勧業博覧会であるが、東京勧業博覧会では、大阪の博覧会と比べようもないほど多くの電 灯を用い、あたかも不夜城の世界をつくりだしていた。 建築家達は、東京勧業博覧会の、各種の様式をもっ建物が雑然とならび、「錯雑して居って 少しも統一する所が無い」点に不満をもっていたが、多くの人々にとっては、イルミネーショ ンのつくりだす華やかさと、雑然とした建築群がつくりだ す賑いこそ魅力的だったのではない だろうか。人々が、これらの建物に魅力を感じていたからこそ、市区改正後の町並に、博覧会 の影響を受けた建築物が数多く建設されたと考えることはできないだろうか。少なくとも、当 時、建築家と市井の多くの人々との間には、建築や都市に対して、考え方に大きな隔たりがあ ったことは確かなようである。 新橋の帝国博品館は、「明治三十年代の銀座を象徴するものは、服部の時計台と勧工場の博 品館であるーと語られた建物であるが、この銀座を象徴するといわれ、多くの人々に親しまれ た帝国博品館の建物でさえ、建築家達は、評価しようとしていなかったのである。帝国博品館 の建物に、創造性を認めざるをえなかった武田五一にしても、帝国博品館の建物を、積極的に 評価しようとはしていない。どちらかといえば、非難の方が強かったといってもよいだろう。 そしてまた、三橋四郎も、帝国博品館の建物について嘲弄を浴びせた一人である。彼は、「往 往にしてちっぽけな屋根の上に素敵もない不味い広告塔など平気で建てゝ居るものがあるが、

3. 都市の明治 路上からの建築史

石井研堂は、いままでにない二つの新案を、帝国博品館の繁昌した理由としてあげているが、 二つの新案は、考えようによっては共に、東京府によって設立された、永楽町の勧工場を発展 させたものと解釈することもできる。特別な階段を用いず、二階・三階まで勾配を緩くして建 物を一巡するという方法は、永楽町の勧工場の、平家の建物であるために、平面的ではあるが、 陳列場を一巡していた形式を発展させたと考えることができる。そして、珈琲店や汁粉店を建 物の中に設けたという点は、永楽町の勧工場の庭園にあった茶店や休憩所を、建物の内部に取 り入れたと考えることもできる。 しかし、別な面から考えれば、永楽町の勧工場が、本来主役であるべき物品陳列所を、庭園 を中心とする快楽園の付属物的に取扱っていたのに対して、帝国博品館では、物品陳列所その ものを充実していったと解釈することができよう。珈琲店や汁粉店などを建物内に設けたのも、 物品陳列所そのものを、より楽しい場として充実するための工夫であったと考えてよいだろう。 とすると、永楽町の勧工場と帝国博品館とでは、非常に似かよった要素をもちつつも、質的に髞 は、まったく異なる考えのもとでつくられたものであったらしいことがわかる。永楽町の勧工易 場と帝国博品館との、このような考え方の違いは、勧工場に対する時代の要求の変化と考えた勧 方がよいだろう。 都市施設として定着 幻 9

4. 都市の明治 路上からの建築史

や休憩所をも 0 た庭園を設け、一種の快楽園として つくられた勧工場が、遊覧の場として取扱われるこ とは十分に理解できる。しかし、全盛をきわめた明 治三十年 ( 一八九七 ) 頃の大部分の勧工場は、庭園を よ も 0 ていなか 0 たのである。にもかかわらず、当時 戴の人々は、勧工場を「遊覧」の場として理解してい 示たのである。このことは、明治十年代と = 一十年代と で、勧工場を訪れた人々の意識ー こ、大きな変化が生 館 品じていたらしいことを示している。 国明治三十年代に最も繁昌していた勧工場の一つに、 新橋のたもとに設立された帝国博品館がある。石井 研堂は、帝国博品館の繁昌した理由として、「昨年 末に新築開業した勧工場博品館は、先づ二階三階の さざえ 階子を廃し勾配を緩くして螺堂風に昇り降りせしむ る建築上の新案が一 2 場内に従来例の無い珈琲店、しる粉店、理髪店、写真場などを設けた といふのが一 0 、兎も角二 0 の新案を加〈て始めましたので、数ある勧工場中にも忽ち其の名 を知られ、開業当日から人気を取りました」と述べている。 幻 8

5. 都市の明治 路上からの建築史

明治十年 ( 一八七七 ) 頃と三十年 ( 一八九七 ) 頃とでは、勧工場を訪れる人々の目的が、すでに 大きく違っていた。そのなかでも、特に注目されることは、明治三十年 ( 一八九七 ) 頃に勧工場 を訪れる人々の中には、商品の購人を直接の目的とするのでなく、売店に並べられた商品を見 て歩き、賑いに紛れ、その雰囲気に浸ることを楽しむ人々が数多くみられたという点である。 生方敏郎は、彼が東京で過した、明治三十年代の学生時代を振り返って、「勧業場といふもの が丁度活動写真のやうに市内の賑やかな町の彼方此方に在った。今新橋際にある博品館などそ の遣物の一ツであるが、上野にもあれば神田にも牛込にもあって、散歩に出た人たちは買物は 有っても無くっても其処へ入った ( 中略 ) 私なども神田の親戚へ行って泊った晩には、必ず小 川町を散歩してそして必ず勧業場へ入ったものだが」と思い出を語っている。勧工場を訪れる 人々は、必ずしも、売店に陳列された物品の購入を目的とする人ばかりではなかった。むしろ、 「ひやかし連中もたくさんくる。よくみていると、ほんとに物を買ってかえる客の方がずっと 少ない」といわれるほどであった。このような時代においては、永楽町の勧工場のように、庭 園で人々を引きつけることよりも、商品を陳列する場所そのものを充実する必要があったので ある。帝国博品館が繁昌した理由は、このような時代の要求に対して、多くの工夫がなされて いた点にあったといえよう。帝国博品館が創立したのは、明治三十二年 ( 一八九九 ) である。そ して、この頃はちょうど、勧工場が全盛をきわめていた時期でもあった。 勧工場が、商品を陳列する場所そのものを充実する傾向にあったという点は、場内を、上履 220

6. 都市の明治 路上からの建築史

如何にも店主の愚な頭を広告して居る様で、甚だ滑稽である。殊に装飾の智識の如きは極めて 幼稚故、比例も何も構はず不調和の装飾を遠慮なしに列べて置く ( 中略 ) 新橋の博品館や上野 の商品館は家ではなくして看板のお化けである」とさえ述べているのである。帝国博品館の建 物に対する非難は、当時の建築家達に共通した考えであ 0 たとい 0 てもよいだろう。 当時、市井の人々に人気のあ 0 た建物は、むしろ、建築家の手から切りはなされたところで つくられていたといえる。 帝国博品館や、服部商店の時計台は、銀座煉瓦街の建物を改造してつくられたもので、これ らの設計・監理を行 0 たのは、伊藤為吉である。彼は職人ではなく、「洋風に似て非なる建築、 といわれた建築物の多くが、職人によ 0 てつくられていた点から考えると、特異な存在であ 0 たともいえる。 建 建築家ではなかった。彼は、辛苦して建築の勉強 しかし、その伊藤為吉も、決してエリート を続けた人物で、建築に関する正規の教育は受けておらず、知識の多くは、独学によ 0 て得たっ ものである。彼の活動は多彩で、その活躍は建築に留まらない。そして、建築においても幅広に い活躍をなし、『 = 一害安全家屋計画書』・『新式大工法』などの著書を出版すると同時に、職工洋 徒弟学校創立の計画、職工軍団の組織などの他、数多くの建物の設計・監督も行 0 ている。彼三 は、当時の = リート建築家とは違 0 て、どちらかというと、技術者に近い存在として、自分自 身を位置づけていたのではないだろうか。伊藤為吉は、自分で、「米国建築師、という肩書き 249

7. 都市の明治 路上からの建築史

の他、いくつかの例が知られており、江戸時代から明治初期にかけては、名所として、人々の 人気を博していたものである。そして、なかには、会津若松の正宗寺のさざえ堂のように、正 面から入り、斜路を右回りに螺旋状に昇り、一番上から、こんどは左回りに斜路を降りて、西 国観音札所の巡礼をすますことができる方法を もっている例も現存している。 石井研堂が、帝国博品館にさざえ堂を思い浮 べたのは、この建物が、「二階や三階にるの 堂 ゐに階段なしにぐるぐる歩いてゐるうちに何時の 蔵間にか上へ上ってゐる」という方式をもってい 繃館 百書る点に由来しているといえよう。古老の話から 央 類推すると、この建物は、通路に斜路や二、三 戸段ずつの階段が設けられていて、人々が、陳列 「練物を縦覧しながらいつのまにか昇降し、入口か場 宀広ら出口に一巡するように計画されており、さら勧 にサービス用として、動線を短絡して結ぶ通路二 や階段が別に設けられていたと考えられる。ま 3 さに、石井研堂は、帝国博品館に江戸文化のな

8. 都市の明治 路上からの建築史

1 ある。そしてまた、明治時代の後半には、 「洋風に似て非なる建築」と称された建物の 一つであゑ帝国博品館が、銀座を象徴する 建物として、多くの人々に親しまれていたの 蔵 晦である。 井建築・都市の歴史を、一握りのエリート建 築家がつくった、頂点の連続としてのみとら 一一・「建えると、あまりにも大きなものがこぼれ落ち 折てしまう。建築・都市を、建築家のみがつく 和 ってきたとするのではなく、棟梁・職人のつ くりだしたものから、そしてその棟梁・職人 町を支えた、多くの市井の人々の視座から、と : 際らえ直してみる必要があろう。本書の題名を、 肖明治の都市ではなく、都市の明治としたのは、 市井の人々によって、建築およびその集合体 としての都市が、内発的につくりだされてき たものである点を重要視しようとしたためで

9. 都市の明治 路上からの建築史

第三章伏流を形成する建築 一建築家の出現と職人世界の変化 エリート建築家の誕生近世の咲かせた最後の花中堅技 術者の道を歩む職人世界の変化進歩した明治の職人技術 一一勧工場の繁栄 新しい形式の店舗内国勧業博覧会と勧工場永楽町 ( 辰 のロ ) の勧工場民間の初期の勧工場帝国博品館都 市施設として定着近世から近代への橋渡し 三洋風に似て非なる建築 百鬼夜行の町並座売り方式から陳列販売方式の店舗へ 街衢鑑賞の成立洋風に似て非なる建築創造性の萌芽 東京勧業博覧会の影響自らの手で建築・都市をつくる あとがき 179

10. 都市の明治 路上からの建築史

れた五つの建物が、須田町・新橋間 の木造漆喰塗の建築物の中では、特 に大胆な形態をもっていたと考えて りもよいだろう。そして、これら五つ の建物が、建築家にとって、最も気 になる建物であったことは確かであ ろう。 , 字建築家としては、このように大胆 に表現された、建物の存在そのもの を無視しようとっとめたに違いない しかし、これらの建物の存在を無視 し、否定しようとすればするほど、逆にこれらの建物が、無視しえない何かをもっていること をも認めなければならなかったのである。 武田五一は、西洋風な様式をもつ、木造漆喰塗の建物が数多く建てられていく現実を前にし て、「粗製濫造の厭はあるが之れが神経質の国民性の発現であって見ると情ないが之あるが為 めに露国にも支那にも戦争に勝ったとあれば致方もない」と、ややあきらめ的な面をみせつつ も、結局は、「日本橋区にある千疋屋果物店の新建築又は博品館の建物などは実に大胆至極な