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検索対象: 都市の明治 路上からの建築史
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1. 都市の明治 路上からの建築史

( ) 『官許読売新聞』第九号明治七年十一月十八日 ( 幻 ) 前掲書『東京市史稿市街編』 ( % ) 槎盆子『銀街小誌第一編』 ( % ) 前掲書『銀座』 ( ) 仲田定之助『明治商売往来』 ( ) 広重『東京名所銀座通りレンガセキ商家繁栄之図』・井上安治『京橋松田の景』などをはじめとして、いくっ かのものに描かれている。 ( 四 ) 深満地源治郎編『東京商工博覧絵』第一編・第二編上・下の三冊がある。 ( ) 新井藤次郎編輯『東京盛閣図録』 ( 引 ) 吉田保次郎編輯『東京名家繁昌図録』初編・一一編がある。 ( ) 三田村鳶魚編『伸び行く銀座』 ( 芻 ) 前掲書『東京市史稿市街編』 ( ) 前掲書『銀座』 ( 肪 ) 森銑三『明治東京逸聞史』 ( ) 『東京日々新聞』一月四日 ( 同前より転載 ) 21

2. 都市の明治 路上からの建築史

( 6 ) 前掲書『東京市史稿市街編』なお、藤森照信『明治期における都市計画の歴史的研究』によれば、銀座の 煉瓦街計画を発案したのは、井上馨や大隈重信・伊藤博文などの、いわゆる築地の梁山泊といわれていた面々 で、由利公正は、当初、煉瓦街をつくることに反対していたとのことである。 ( 7 ) 東花堂板『東京町名競』 ( 8 ) 前掲書『銀座』 ( 9 ) 野崎左文「私の見た明治文壇』 ( 川 ) 前掲書『東京市史稿市街編』 ( Ⅱ ) 同前 ( 肥 ) 同前当時の大蔵大輔・井上馨と第四代東京府知事・由利公正については、井上が民間の借家造営の会社を設 立して煉瓦街を建設することを考えていたのに対して、由利が反対したなど、意見が対立する点が多々みられ た。後年二人は、共に銀座煉瓦街の発案者が自分であると主張しているが、井上と由利のこのような主導権争 いにも、住民に対して、煉瓦家屋建設の具体的な方法を、なかなか示すことのできなかった原因の一端がある街 のかも知れない。なお、大蔵省と東京府との工事に対する分限の申し合せは、由利が東京府知事を退いた後に 行われている。 ( ) 同前 れ ( 凵 ) この点については、小木新造『銀座煉瓦地考 ら ( ) 前掲書『東京市史稿市街編』 え ( ) 同前 ( ) 同前 っ ( ) 同前 ( 四 ) 同前 ( ) 同前 ( 幻 ) 同前 ( ) 同前 開化東京の光りと翳りーーー』に詳しく論じられている。 ノ 5 ノ

3. 都市の明治 路上からの建築史

( 幻 ) 東京市役所編『東京市統計年表』 ( ) この京橋勧工場は、明治十五年 ( 一八八一 I) に設立された、京橋勧業場と同一のものであゑしかし、いっ勧 業場が勧工場と変更されるようになったかはわからない。 ( ) 前掲書『東京市統計年表』より。 ( ) 織田純一郎・田中昻・木村新之助・塩入太輔編纂『東京明覧全』なお、この他の年度の『東京明覧全』 にも勧工場は「遊覧」の項に入れられている。 ( ) 津田利八郎『最近東京明覧』 ( % ) 石井研堂『進歩的経営法小売商店繁昌策』 ( ) 生方敏郎『明治大正見聞史』 ( ) 平野威馬雄『銀座の詩情 2 』 ( 四 ) 井上安治『京橋勧業場之景』 ( ) 深満池源次郎編輯『東京商工博覧絵第弐編下』 ( 引 ) 深満池源次郎編輯『東京商工博覧絵第弐編上』 ( ) 東京の百貨店で下足預り制度を廃止したのは、松坂屋の銀座店が大正十三年 ( 一九二四 ) 十二月 ( 年史編集 委員会編集『松坂屋年史』より ) 、三越、および、高島屋が昭和一一年 ( 一九二七 ) である ( 高橋潤二郎『三 越三百年の経営戦略』・高島屋年史編集委員会編集『高島屋年史』より ) 。 栄 ( ) 小林文次『江戸本所羅漢寺さざえ堂』 ( ) 『京橋区史下巻』なお、山口廣も、『銀座建築史その建築社会学的ノ 1 ト』において、勧工場とさざえ堂場 工 との類似性を指摘している。 勧 ( ) 安藤更生『銀座細見』 ( ) 東京府『東京府統計書』 ( ) 前掲書『明治大正見聞史』他による。 227

4. 都市の明治 路上からの建築史

りの町並については、村松貞次郎『日本近代建築の歴史』においても積極的な評価がなされている。 ( ) 藤森照信『明治期における都市計画の歴史的研究』 ( ) 福田重義『新東京』 ( 建築学会『建築雑誌』第三百八十号 ) ( ) この土蔵の数は、福田重義によ 0 て 0 くられた、「須田町新橋間建物状態一覧」から数えたもので、この数が、 表の土蔵の数と異な 0 ている理由は定かでないが、表を 0 くる際に、福田重義が数え間違いをしたのではない かと思われる。 ( ) 前掲書『東京市史稿市街編』 ( ) 火災予防事業の計画に 0 いては、前掲書『明治期における都市計画の歴史的研究』に詳しく論じられている。 これによれば、この火災予防事業は、従来の建築制限のように、罰則をもたないものと異なり、罰則を伴うも ので、厳しく実施されたとのことである。 ( 四 ) 前掲書『東京市史稿市街編』 ( ) 前掲書『明治期における都市計画の歴史的研究』 ( 引 ) 『新聞雑誌』四十四明治五年五月 ( 『新聞集成明治編年史』より転載 ) 178

5. 都市の明治 路上からの建築史

( 3 ) 埼玉県教育委員会・埼玉県文化財保護協会編『埼玉県明治建造物緊急調査報告書 , ー・・・埼玉県明治建造物リスト』 ( 4 ) 宮下辰夫『川越の蔵造』 ( 5 ) 川越市教育委員会編『蔵造りの町並ーー・川越市伝統的建造物群に関する調査報告書 ーーー』なお、川越の土蔵 造りの建物の、塀や穴蔵に煉瓦が使用されている点については、村松貞次郎『日本近代建築の歴史』において も指摘されている。 ( 6 ) 『東京市史稿市街編』 ( 7 ) 同前 ( 8 ) 東京都編纂『都市紀要三銀座煉瓦街の建設』より転載。 ( 9 ) 前掲書『東京市史稿市街編』 ( ) 同前 ( Ⅱ ) 喜多川季荘著室松岩雄編輯『類聚近世風俗志原名守貞漫稿』 ( ) 同前 ( ) 伊藤ていじ『民家は生きてきた』 (2) エドワ 1 ド・・モ 1 ス著上田篤・加藤晃規・柳美代子共訳『日本のすまい内と外』 ( ) 前掲書『川越の蔵造』 ( ) 前掲書『蔵造りの町並』 並 町 ( ) 谷直樹『京の町家』 の ( ) 『中越商工便覧』明治一一十一年版などに、大火以前の高岡の店舗が描かれている。 ( 四 ) ここでは、『安田銀行六十年誌』・『十一一銀行五十年略史』・『十一一銀行史』・『北陸銀行十年史』・『尾張町支店の蔵 回顧』を参考にしており、記した年月の多くは、建物の建設時でなく、銀行が新築移転した時の年月である。 ( ) 北陸銀行編纂『尾張町支店の回顧』 ( 幻 ) 『株式会社中越銀行本館新築落成式報告』 ( ) 村松貞次郎『日本建築技術史』 ( ) 紅英斎『東京名所日本橋京橋之間鉄道馬車往復之図』なお、明治十年代に建設された日本橋付近の土蔵造

6. 都市の明治 路上からの建築史

註 ( 1 ) 内田誠『銀座』 ( 2 ) 仲田定之助『明治商売往来』 ( 3 ) 当時は、永楽町の勧工場を「第一勧工場」と呼んでおり、第一勧工場の他に、神田和泉町一番地旧藤堂邸の場 所に「第二勧工場」があ 0 た。第二勧工場は、明治十年 ( 一八七七 ) に精工社社員の中山譲治・新田義雄が、 陶銅漆器の工業を開くに際して、官有の地所・建物を貸与したもので、職工によって製造が行われていたが、 ここには物品陳列所はなかった。 ( 4 ) 『東京市史稿市街編』 ( 5 ) 勧業課『回議録第八類第一勧工場明治十年ョリ十一年ニ至』 ( 6 ) 同前 ( 7 ) 同前 ( 8 ) 前掲書『東京市史稿市街編』 ( 9 ) 同前 ( 間 ) 会計課『第一勧工場書類明治十年ョリ十一年マテ』 ( Ⅱ ) 勧業課『回議録第八類勧工場明治十三年』 ( ) 農商課『回議録明治廿年一月起』 ( ) 前掲書『回議録第八類第一勧工場明治十年ョリ十一年ニ至』 (2) 前掲書『第一勧工場書類明治十年ョリ十一年マテ』 ( ) 同前 ( ) 農商課『勧工場綴洩明治十九年』などの史料による。 ( 貯 ) 前掲書『回議録第八類第一勧工場明治十年ョリ十一年ニ至』 ( 絽 ) 『郵便報知新聞』明治十四年 ( 一八八一 ) 十二月一一十一一日 ( 『新聞集成明治編年史』より転載 ) ( 四 ) 前掲書『東京市史稿市街編』 しんこざいくれんがのみちすじ ( ) 岸田劉生『新古細句銀座通』 226

7. 都市の明治 路上からの建築史

の流れを受け継ぐ、 強い好奇心と行動的な = ネルギーをもつ人々の内に、江戸文化と西洋文化 とを混在した、和洋折衷建築の創造される種が擁されていた時代であ 0 たともいえよう。和洋 折衷建築がつくられる基盤は、すでに、江戸時代後期の人々の中に用意されていたのである。 註 ( 1 ) 伊東忠太『明治以降の建築史』 ( 2 ) 渋沢栄一の発一一一〕 ( 清水建設百五十年史編纂委員会編纂『清水建設百五十年』より ) ( 3 ) 田辺淳吉『東京市区改正建築の状態と建築常識』 ( 建築学会『建築雑誌』第二百七十二号 ) ( 4 ) 同前 ( 5 ) 三橋四郎『建築家が見たる東京市区改正』 ( 建築学会『建築雑誌』第二百五十四号 ) ( 6 ) 擬洋風建築という建築物の様式名を、村松貞次郎編集『明治の洋風建築』のように、「独自の想像力により、 ョ 1 ロ , パの建築にも、まして日本の建築にも例をみない洋風を擬した固有の建築」と、積極的な意図のもと に、和洋折衷につくられた建築物を指して使用する場合が、みられないわけではない。 ( 7 ) 堀越三郎・小瀧文七『明治時計台記』 ( 8 ) 『東京市史稿市街編』 ( 9 ) 前掲書『東京市区改正建築の状態と建築常識』 ( ) 鏑木清方『こしかたの記』 ( Ⅱ ) 西山松之助『江戸文化と地方文化』なお、西山松之助は、『江戸町人の研究』第二巻の中で、「江戸 0 子」には、 天明期に成立した札差商人たち、あるいは、魚河岸の魚問屋たちのような大商人や中堅町人たちが主体にな 0 ているものと、寛政・文化文政期以降に生まれた、「江戸 0 子」を自称する下層町人を中心としたものとが、 重層的に存在していたことを指摘している。

8. 都市の明治 路上からの建築史

( Ⅱ ) 土屋長吉『店前装飾術』 ( ) 『東京朝日新聞』明治三十八年七月十五日 ( ) 東京都中央区役所『中央区史』 ( Ⅱ ) 相馬良編輯『田舎人の見たる東京の商業』 ( ) 前掲書『東京百年史』 ( ) 前掲書『東京市区改正建築の状態と建築常識』 ( ) 討論会は、建築学会会長の、辰野金吾が自ら司会を行い、第一回目の通常会討論会では、三橋四郎・関野貞・ 長野字平治・伊東忠太が主論者となり、和洋折衷主義・新様式創造主義・欧式主義・進化主義がだされ、さら に、出席者による意見が述べられている。次いで、第二回目の討論会が行われているが、結局、結論らしいも のは導きだせなかった。 ( 建築学会『建築雑誌』第二百八十二号・第二百八十四号より ) ( ) 伊東忠太『建築進化の原則より見たる我邦建築の前途』 ( 建築学会『建築雑誌』第二百六十五号 ) ( 四 ) 前掲書『東京市区改正建築の状態と建築常識』より。 ( ) 同前 ( 幻 ) 武田五一『近来東京市に建築せられつゝある商館建築の形式に就て』 ( 建築学会『建築雑誌』第二百七十一一号 ) ( ) 同前 ( ) 同前 ( ) 同前 ( ) 『東京勧業博覧会報告第一一回』 ( 建築学会『建筑靃誌』第二百四十八号 ) ( % ) 同前 ( ) 安藤更生『銀座細見』 ( ) 三橋四郎『建築家が見たる東京市区改正』 ( 建築学会『建築雑誌』第二百五十四号 ) ( 四 ) 伊藤為吉が建築に関わったのは、彼が、明治十八年 ( 一八八五 ) に機械学研究のためにアメリカへ渡ったことに はじまっている。アメリカへ渡り、彼は、サンフランシスコで雑貨の行商を続けていたが、そこで、かってエ 部美術学校の教師をしたことのある、イタリア人建築家・カッペレッチと知りあい、臨時ドラフトマンとして -4

9. 都市の明治 路上からの建築史

いくつかの紆余曲折があった。銀座 なる建築」が生まれるまでには、すでにみてきたように、 煉瓦街に関わる出来事、土蔵造りの町並がつくられたことなどがその一例である。しかし、こ のような紆余曲折は、洪水のように押し寄せてくる西洋文化の流れの中で、主体性を失うこと なく、自分にと 0 て必要なものだけを選択し、あるいは新たな意味を付け加えつつ、自分達の 足で確かめながら近代の建築・都市をつくるうえでは、欠くことのできない出来事でもあ 0 た。 今後、このようにして生まれた近代の建築・都市の芽が、どのように成長し、どのような花を 咲かせるかはわからない。ただ明らかなことは、それらをつく 0 た職人達が、そして市井の人 人が、自らの手で歴史の歯車をまわそうとしていた事実だけである。 註 ( 1 ) 東京百年史編集委員会編『東京百年史』 ( 2 ) 東京市日本橋区役所編纂『新修日本橋区史』 ( 3 ) 田辺淳吉『東京市区改正建築の状態と建築常識』 ( 建築学会『建築雑誌』第二百七十一一号 ) ( 4 ) 同前 ( 5 ) 同前 ( 6 ) 同前 ( 7 ) 石井研堂『進歩的経営法小売商店繁昌策』 ( 8 ) 高橋潤一一郎『三越三百年の経営戦略』 ( 9 ) 株式会社白木屋『白木屋三百年史』 ( 間 ) 鵜飼長三郎『各種商店建築図案集』 洋風に似て非なる建築 253

10. 都市の明治 路上からの建築史

んでいった。その方法は、東京土産として各地に運ばれた錦絵を通して、あるいは伝聞やエ匠 自身が直接、東京や横浜を訪れるなどの行為を通してなされた。地方に建設された和洋折衷建 築としては、立石清重によって明治九年 ( 一八七六 ) につくられた松本の開智学校、高橋兼吉 によって明治十四年 ( 一、 八一 ) につくられた西田川郡役所や、明治十七年 ( 一八八四 ) につく られた鶴岡警察所、津田吉之助によって明治八年 ( 一八七五 ) につくられた金沢の尾山神社神 門、吉村松太郎によって明治十五年 ( 一、 八 (l) につくられた生駒山麓の宝山寺獅子閣などが その好例であろう。そして地方に建てられた、これらの和洋折衷建築の大部分が、伝統的な日 本の技術に自信をもっていたと考えられる、堂宮大工によってつくられていた点も注目され る。 註 ( 1 ) 清水釘吉『旧第一銀行建築に就て』 ( 建築学会『建築雑誌』第百四十号 ) ( 2 ) 『公文類聚明治三年』 ( 3 ) 『外務省沿革類従』 ( 4 ) 小木新造・前田愛編『明治大正図誌第 1 巻東京一』 ( 5 ) 『府下道路修繕之儀に付伺書』 ( 東京都編纂『都市紀要三銀座煉瓦街の建設』より転載 ) ( 6 ) 工学会編『明治工業史建築編』 ( 7 ) 同前 ( 8 ) 藤森照信『エンデ・べックマンによる官庁集中計画の研究』 ( 9 ) 伊東忠太『明治以降の建築史』