西洋文化 - みる会図書館


検索対象: 都市の明治 路上からの建築史
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1. 都市の明治 路上からの建築史

あったかも知れない。そして、たまたま下町の人々が、好条件に恵まれたから花開くことの出 来た文化かも知れない。しかし一方においては、西洋文化の受け入れに際して、受け入れる側 に主体性があってはじめて、人々の内側から生まれるもの、内発的に創造されたものとして、 和洋折衷の文化が花開くことのできたのも事実である。和洋折衷建築が、堂宮大工として、す ぐれた伝統的技術をもっていた清水喜助によってつくられた点や、生活に根ざした、独自の、 合理的ともいうべき思考法を身につけていた三野村 利左衛門によって、建設が推進されていた点もこの ことを裏付けている。彼らは、西洋文化に流され、 自己を見失うことは決してなかった。彼らにとって よ 西洋文化は、在来の文化の中に入ってきた一つの新入 相しい要素であるにすぎず、自分にとって必要なもの築 治を、自分なりの解釈を加えて吸収する対象としてし西 かとらえられていなかった。彼らは、自分の意志に 基づいて西洋文化を取捨選択していたのであり、そ主 の結果つくりだされたのが和洋折衷建築である。と四 しすると、このような和洋折衷建築をつくり出した人 人の主体性がほめられこそすれ、和洋折衷建築は、

2. 都市の明治 路上からの建築史

百鬼夜行の町並 八一 ) に、東京府知事と警視総監とによって布達された火災予防事業の後、 明治十四年 ( 一八 いわば、明治中期の日本橋付近の町並が、黒壁をもっ土蔵造りによって構成されたことは述べ築 る たが、この土蔵造りの町並が、いつまでも続いていたわけではない。 明治中期の、土蔵造りの急激な普及が、その理由はともかくとして、江戸時代への回帰とも て 似 いうべき、後むきの姿勢の中で生まれたものである限り、その中に、黒壁をもっ土蔵造りの町 並の限界も隠されていたといえよう。土蔵造りの町並をつくりつつも、明治初期に和洋折衷建洋 築をつくりだした多くの人々の、西洋文化を積極的に吸収しようとする姿勢が消えたわけでは三 なかった。それどころか、政府の盲目的な欧化政策の、強引な押付と接触することによって、 よりかたくなに心を閉ざしていった人々の裏側にも、西洋文化吸収に対する欲求が、蓄えられ 三洋風に似て非なる建築

3. 都市の明治 路上からの建築史

もちろん今日から考えれば、立川知方の西洋建築に対する考え方に問題がないわけではないが、 彼自身は、日本建築と西洋建築の両方を理解したと考えたうえで、日本建築の方が、西洋建築 よりもすぐれていると自信をもったのである。結局、皇居造営は、奥向御殿を純和式の木造建 築、表向御殿を木造で洋風と和風を混淆したもの、宮内省庁舎を煉瓦造と決定された。そして、 伝統的な木造建築を上申した立川知方は、はからずも、煉瓦造の工事を担当させられている。 立川知方ほどではないにしても、日本建築の技術 に、自信をもっていた大工は多かったに違いない。 当時の日本の大工は、条件さえ調えば、いつで も創造行為に結びつけることのできる、すぐれた 腕まえと、技術に対する自信をもっていたのであ入 る。変化はすでに内部から起こり始めていたので築 ( 、物、岡あり、それを外側から刺激したのが西洋の文化で あった。和洋折衷建築という、因襲の殻を打ち破 り、自由で斬新な発想が生まれる基盤はすでに準主 四 備されていたのである。 和洋折衷建築は、横浜に根をはり東京に花を開 3 いたが、その種は、東京に留まらず、地方にも飛

4. 都市の明治 路上からの建築史

、簽、第い あんを入れてつくったあん。ハン、牛肉をなべ料理として 日本化したスキヤキ、イスに踏み板や両輪・日覆などを 効つけ人間が引いた人力車、その他衣服における和洋折衷 、《 ( 文などなど、数えあげればきりがないほど多くのものがっ IIJ くられているが、これらに共通する点は、これらのもの 図が、上から与えられたものではなく、多くの人々によっ 栄てつくられ、支えられてきたものであるという点である。 天いわば、一人一人の内側から生みだされたもの、外来文 り化を刺激として、内発的に創造された文化であるといえ 町よう。これら和洋折衷のものが数多く生みだされた背景 人には、在来文化とは異質な西洋文化を受け入れる側に、 第は京本来の西洋文化のもつ意味に拘東されることなく、自由 「に新しい解釈を付け加えながら、自分に必要なもののみ 清を受け入れ、吸収するというような、主体性ともいうべ 山き行為が存在していたことを示している。 これらの現象は確かに、「日本橋の文明開化といわ れるもので、東京の下町を中心に展開された文化現象で 週 8

5. 都市の明治 路上からの建築史

( 5 ) せ我慢を出しても出来ない。考へ来ると何だか涙が出さうになったーとさえ、語らなければな らなかったのである。このような建築家達が、棟梁・職人のつくった、純粋な西洋建築の規範 からおよそかけ離れた建築物を、理解することができなかったのは当然といえよう。 しかし、棟梁・職人達のつくった、和洋折衷建築や「洋風に似て非なる建築ーは、決して、 西洋建築を模倣しそこなって、やむを得ずそのような形態になってしまったのではない。むし ろ、積極的な意図のもとに、そのように表現されていたのである。 彼らの西洋建築導入の方法は、本来の西洋建築のもつ意味に拘束されることなく、自由に新 しい解釈を付け加えながら、自分にあったもののみを受け入れるという、主体的なものであっへ た。彼らは、西洋文化と日本文化とを、上位と下位の関係としてとらえていたのではなく、質近 ら 的に異なるものとして理解していたのである。とするならば、棟梁・職人のつくりだした、和か 洋折衷建築や「洋風に似て非なる建築」を、純粋な西洋建築と、あまりにもかけ離れていると近 非難するのはあたらない。むしろ、西洋建築とかけ離れた建築をつくった、彼らの主体性を認市 都 め、伏流を形成し続けた彼らの建築に対する情熱を評価すべきである。 このような、棟梁・職人によってつくられた建築のもつ意味を理解し、支持しつづけたのは、建 無名の市井の人々であった。明治初期の和洋折衷建築が、建築後も、長い期間にわたって錦絵章 に描かれ続けたことは、なによりもよく、この事実を物語っている。当時、錦絵は非常に廉価 で販売されており、日常的に、庶民生活に潤いを与えるものとしての役割をはたしていたので

6. 都市の明治 路上からの建築史

あり、まさに近世とも近代ともっかない明治という過渡的な一時期に、このような市井の人々 の行為が、もっともよく現われえたのではないかと考えるからである。 幕末から明治にかけてつくられた、和洋折衷建築や「洋風に似て非なる建築」にみられるよ うに、棟梁・職人、および彼らを支えた市井の人々は、自己の基盤を失うことなく、主体的に 西洋文化と相対していたのである。文化が、外側から、もしくは上から与えられるものでなく、 一人一人の内側から、内発的に創造されるものであるとするならば、建築家や知識人から、近 代化の名のもとで無視され、切り捨てられつつも、伏流として流れつづけた建築群を、もう一 度見直してみる必要があろう。このことは、市井の人々が、どのように西洋文化を導入し、自へ らのものとなしてきたかを考えることでもあり、彼らの世界の、近世から近代への移り変りを近 理解することでもある。 世 近 明治の東京の街 明治の東京の街は、洋風化が定着していく過程であると同時に、建築・都市の、近世から近 建 代へ移り変る過程を示すものでもある。 建築・都市の、近世から近代へ移り変る過程をみると、東京の街には、三回の主だった動き序 があったことがわかる。 最初の目立った動きは、幕末から明治初期にかけて建設された和洋折衷建築である。次いで

7. 都市の明治 路上からの建築史

の種は、銀座煉瓦街をつくりかえ、土蔵造 りの町並を生み出す一方で、明治後期にな って、「洋風に似て非なる建築ーという、 効近代の芽を出して再生したのである。建 書築・都市の伏流は、流れ続けていたのであ ~ 央る。 このように、建築・都市の、近世から近 京代〈移り変る過程をみてきた時、そこには、 大別して和洋折衷・和風・洋風という、市 蠑井の人々の、大きく屈曲した姿が写しださ 一れていることがわかる。と同時に、この大 きな揺れ動きは、市井の人々の西洋文化の 京 陳導入が、西洋のものを絶対的なものとして 国導入していたのではなく、自分自身で取捨 選択し、ある時は新しい解釈を付け加えな がら、必要なもののみを受け入れていくと いう、主体的な姿勢をもって行われていた 内第イを、

8. 都市の明治 路上からの建築史

煉瓦街の建設決定と住民の反応 明治初期に、和洋折衷建築が華々しく開花していく一方で、西洋文明を受け入れることに戸譱 惑いを感じ、ためらいをみせる人々がいなかったわけではない。そして、この西洋文化の導入 をためらう人々は、政府の盲目的ともいえる、欧化政策の強引なおしつけと接触することによた ら って、よりかたくなに、心を閉ざしていったのである。 え 銀座に煉瓦街の建設をはじめた明治の初め頃、京橋に近い、銀座一丁目の大通りの西側にあり った、「淡雪」という茶漬屋の「老婆は煉瓦の改造に大反対で、それに激して首を縊って仕舞ーっ った。そして、その隣りで生薬屋を営む、「笠原の主人も同じく煉瓦反対で今宗五郎とあだな一 ( 2 ) をつけられ」ていた。 今宗五郎が、どのようにしてつけられたあだなかはわからない。しかし宗五郎が、江戸時代 一つくり変えられた銀座煉瓦街 ノ 29

9. 都市の明治 路上からの建築史

と語っている。ここには、時代が明治に改まっても、江戸時代と変ることのない幻想の世界と、 強い好奇心をもった人々の生活が描かれている。 江戸時代後期の文化文政の時代について、西山松之助は、絶大な権力のもとで、権力から一 歩身をかわしたところで発達したものであることを認めつつ、「神社・仏閣への参詣、名所を たずね歩く旅行、温泉場への湯治、そのほか遊山・納涼・花見・祭礼など、多方面な文化的行 動がおどろくばかり盛んになった。『江戸名所図会』『東都歳事記』とか、ときには随筆などま でが、寺社の由来や年中行事などの記事で埋まっている , と述べている。明治が受け継いだ江 戸の文化は、未知なるものに対する、大きな好奇心をもつ人々の、たくましい生命力が脈打っ ていた行動的な文化であった。このような人々の、たくましい好奇心とその生命力とが、幕末 から、明治になって新しく入ってきた、今までの文化とはまったく異質な性格をもつ、西洋文 化に注がれたとしても不思議ではない。 江戸の文化が花開いた、遊郭や劇場にも、いち速く西洋文化は受け入れられている。イギリ スの外交官であったアーネスト・サトウは、「二十一日 ( 明治元年十月八日Ⅱ筆者註 ) に、アダム ズ、ミットフォード、マーシャル、ワーグマンなどが吉原へ出かけて、金瓶楼で豪遊したが、 この家の一部は西洋好みの日本人客のために洋風に作られていた」と記し、西洋好みの日本人 がいたことを述べている。また、劇場にも、明治六年 ( 一八七 = l) 五月には、横浜・岩伊座で、照 明に初めてガスが使用されるなど、西洋文化が、いち速く取り入れられた例が記録されている。

10. 都市の明治 路上からの建築史

ていたのでないことも明らかである。それは、かって、明治初期に和洋折衷建築がつくられた 時と同じような、本来の西洋建築のもつ意味から離れて、自由に新しい解釈を付け加えながら、幻 自分に必要なもののみを受け入れ、吸収するという方法であり、主体性を失うことのない西洋 文化の導入であった。つまり、その方向は、はからずも建築家達が、「洋風に似て非なる建築」 と非難した、そこにこそあったのである。 東京勧業博覧会の影響 武田五一によると、市区改正によってつくられた木造漆喰塗の建物は、明治四十年 ( 一九〇 七 ) に開催された、東京勧業博覧会の影響を強く受けているという。東京勧業博覧会の際、 「上野公園に非常に大なる西洋風の建築物が多数に出来上った、之れが悉く木骨漆喰塗りの建 物で、其為めに多数の熟練した左官が出来た、そして一方には多くの人々が其等西洋風の建物 ( 幻 ) に常に触れた為めに、多少其趣味を感ずることになった」と彼は、博覧会と市区改正に伴って 新しく建設された建物との関係を指摘している。 東京勧業博覧会は、明治四十年 ( 一九〇七 ) 三月二十七日から七月三十一日まで、百三十四日 間の会期をもって、東京の上野で開催された博覧会である。この博覧会は、東京府という一地 方の主催による博覧会であり、東京府民を中心としたものではあったが、その規模や内容から すれば、ほとんど内国勧業博覧会に匹敵するものであった。