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検索対象: 都市の明治 路上からの建築史
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1. 都市の明治 路上からの建築史

三井組の危機と海運橋三井組の建物設計者の決定揺れ 動く計画案三野村利左衛門豪商の「西洋造り」駿 河町三井組の建物鯱について 四主体的な西洋建築導入 外国人応接所政府と民間の西洋建築導入和洋折衷を支 えたもの和洋折衷建築と主体性優秀な大工技術 第二章洋風化へのためらい 一つくり変えられた銀座煉瓦街 煉瓦街の建設決定と住民の反応明治初期の銀座銀座煉 瓦街の建設経過住民の抵抗煉瓦家屋の改造付加さ れた和風要素 ニ土蔵造りの町並 川越の土蔵造り土蔵造りと煉瓦造の工事費黒壁の土蔵 造り地方に伝播した店蔵日本橋の土蔵造りの町並 煉瓦造よりも土蔵造りを選ぶ 127

2. 都市の明治 路上からの建築史

治二十六年 ( 一八九 = l) の大火後の店蔵の建設にあた 0 て、東京の問屋を手本とした話や、東京 から職人を呼んで建設したことは、十分に考えられることである。 このことは、川越の土蔵造りの町並が、江戸文化を受け継ぐ町並であり、明治中期の東京の 土蔵造りを、直接的に反映したものであることを示している。先に、川越になぜ煉瓦造の町並 がつくられなか 0 たのかという疑問を述べたが、東京と川越との密接な関係をこのように見て きたとき、次のように考えることはできないだろうか。すなわち、東京においては、当時煉瓦 造よりも土蔵造りの評価の方が高か 0 た。そして、その影響のもとに、川越に土蔵造りの町並 がつくられたと。少なくとも、明治二十六年 ( 一八九一一 l) の川越では、煉瓦造ではなく土蔵造り が選ばれたのである。もちろん当時、煉瓦造の職人を得ることは、土蔵造りの職人を得ること よりも困難なことであ 0 たに違いない。しかし、当時の東京は、銀座煉瓦街の工事もすでに終 0 ており、煉瓦街の建設にたずさわ 0 た職人達がいたことも事実である。そして、川越の土蔵 造りの工事には東京から腕のよい職人を呼んだともいう。さらに、川越が東京と密接なつなが町 りをも 0 ていた点、工事費が煉瓦造と土蔵造りとでは大差ないと考えられる点などから判断す尠 れば、やはり川越の商人達は、煉瓦造の存在を知りつつも、煉瓦造ではなく、土蔵造りを積極土 的に選んで建設していたと考えた方がよいだろう。 地方に伝播した店蔵

3. 都市の明治 路上からの建築史

は、まだ、銀座煉瓦街に対する人々の批判の余韻が、くすぶっていた時期であった点も忘れて はならない。火災予防事業が、銀座煉瓦街の建設という、大事業の直後に行われたにしては、 あまりにも煉瓦造の建物が少なすぎるといえよう。やはり、銀座煉瓦街に対する当時の人々の 批判には、かなり根強いものがあったと考えた方がよいだろう。 このような銀座煉瓦街の建設にみゑ政府の極端な欧化政策に対する批判が、市井の人々の、 煉瓦家屋に対する評価を下げ、土蔵造りの評価を高める背景の一端をなしていたことは十分に 考えられる。先に明治二十六年 ( 一八九 = l) の川越の大火後に、川越の商人達によ 0 て、煉瓦造 ではなく土蔵造りが選ばれた理由として、当時の東京において、土蔵造りに対する評価が高ま っていたのではないか。そして、このことに影響されて、川越にも多くの土蔵造りがつくられ たのではないかと述べたが、その直前にあたる明治十年代後半から、東京でも、土蔵造りが人 人によ 0 て選ばれて建設されていたのである。川越の土蔵造りの町並は、当時の東京の土蔵造 りに対する評価の高さをそのまま示しているものといえよう。もともと、洋風化をためらう人 人が、銀座煉瓦街の建設でみられたように、政府の強引な欧化政策のおし付けと接することに よって、よりかたくなに心を閉ざしていった点についてはみてきた通りである。とすると、こ のようなことが、土蔵造りの評価を高める遠因をなし、結果として、土蔵造りの町並をつくり だしたことは十分に考えられる。 明治十年代の後半から、東京において、数多くの黒壁をもっ土蔵造りの店舗が建設されはじ 174

4. 都市の明治 路上からの建築史

( 四 ) 建築技術の流れは、大別して二つの流れがあったように思う」と述べ、幕府および幕末の諸藩、 さらに明治政府によって、外国人の指導のもとで建設された工場や停車場など、合理的な洋風 のトラス小屋組および壁体構造法を採用している流れと、居留地の、外人の商館や住宅、およ びこれを模倣した日本人工匠の手になる、洋風の外観をもつにもかかわらず、屋根の小屋組に、 伝統的な和風小屋組をとる流れがある点を指摘している。ところが、興味深いことに、明治中 くつかの例を示したように、 期から後期にかけて民間によってつくられた土蔵造りには、い の様式と技術との関係が、逆転するものがあらわれたのである。つまり、明治初期の民間の建 築物には、洋風の外観をもっているにもかかわらず、伝統的な和風小屋組をもっ例が多かった のに対して、明治中期から後期にかけては、伝統的な土蔵造りという外観をもちながらも、洋 風小屋組をもっ例が見られるのである。このように、洋風の技術を受け入れつつも、土蔵造り の外観をもっ建築物を建設した事実は、それだけ当時の人々が、土蔵造りに対して、価値をみ いだしていたことを示しているといってよいだろう。 明治時代後期に、土蔵造りは、全国各地に着実に浸透していったといっても、決して過言で はない 日本橋の土蔵造りの町並 明治時代の中期から後期にかけて、全国各地に建設された土蔵造りの店舗が、黒い色の外壁 768

5. 都市の明治 路上からの建築史

ることは困難であるが、いずれにしても、黒壁をつくることが、いかに手間のかかる作業を必 要としていたかを窺うことはできる。この点から考えても、川越の黒壁をもっ土蔵造りの工事 費が、煉瓦造に比して、けっして安くはなかったであろう点も推察できよう。 黒壁をもっ土蔵造りは、贅沢な普請の一つだったのである。黒壁は、江戸時代のたび重なる 贅沢禁止令に対して、士農工商の封建的な身分制度の中では、最も低い地位にいた商人達が、 彼等のなした財にものをいわせて、着物の裏地に高価な布地をつかったと同じような、武士に 対する、せめてもの反抗を示すもの、いわば、商人の反骨精神を象徴するものであったのかも 知れない。もともと、土蔵造りは、関西から江戸に伝えられたものではあるが、店舗を土蔵造 りとする店蔵は、江戸で考案されたものである。 明治二十六年 ( 一八九一一 l) の大火直後に建設された、川越の店蔵は、「特に南町、鍛冶町の目 貫通りは、東京の問屋の蔵造を手本として、各店競争で職人を奪いあうようにし、中には東京 ( 巧 ) から職人を呼んで、腕のよい職人の引張り合いで普請を始めたーと伝えられている。『蔵造り の町並』によると、川越の店蔵にみられる観音開きの窓や、背の高い箱棟・黒漆喰塗の壁など の特徴は、明治二十六年 ( 一八九一一 I) の大火以後に現われてくる特徴で、「明治二六年大火以前 の蔵造りはどちらかといえば二階が低く中二階町家からの発展形式と考えられさほど強く江戸 の蔵造りの影響はうけていないのに対し、明治一一六年大火後の蔵造りはまさに幕末日本橋界隈 の蔵造りの系譜であり定型化されたものであったーという。とすると、伝えられるように、明 ノ 60

6. 都市の明治 路上からの建築史

めたのである。そして、土蔵造りは、明治中期から後期にかけて、全国各地に伝播していった。 明治の初期には、あれほど積極的に西洋の文化を受け入れ、大胆な和洋折衷建築をつくりだす 原動力として、あるいは、それを支える役割をはたした多くの人々も、いまは、伝統的な黒壁 をもっ土蔵造りを選び、建設しはじめたのである。彼らが、洋風建築である煉瓦造を知らない から伝統的な土蔵造りとなったのではなく、煉瓦造を知ったうえで土蔵造りを選んでいたこと は確かである。そして、現在は確認されていないが、高岡などの、地方に建設された土蔵造り の例からすれば、当時の東京にも、洋風小屋組をもった土蔵造りが存在した可能性は十分にあ るといえる。 明治五年 ( 一八七一 D 五月、東京浅草材木町にすむ松村春助は、新聞に、「煉瓦石ノ儀ハ支那 上海ニ於テ伝習ヲ受シ後、新発明煉達ノ品ヲ以テ御好ニ任セ築造共御請合可申上候ーとの広告 を出している。この広告は、銀座煉瓦街の工事を当て込んだものであるが、このように、煉瓦 並 造の建築に対して、積極的に飛び込んでいった職人がいた点と、銀座煉瓦街の工事を、まがり の なりにも完成させることのできた、多くの職人達が存在したのは事実である。とすると、それ造 蔵 よりも後の、明治十四年 ( 一、 八一 ) 以後の火災予防事業において、江戸時代以来の黒壁の土蔵土 造りが、多くの人々によって選ばれ、建設されていった原因として、煉瓦造の建物をつくる職二 八一 ) 以降に 人の不在をあげることはできない。むしろ、他の理由によって、明治十四年 ( 一、 黒壁をもっ土蔵造りが選ばれ、建設されだしたといった方が良いだろう。そして、その頃から、 ノ 75

7. 都市の明治 路上からの建築史

建設を進めたにもかかわらず、結果的には、煉瓦家屋への入居希望者は少なく、数多くの空屋 が生じるという状態が生じたのである。やむを得ず政府は、煉瓦街建設の計画を縮小し、打切 らざるをえなくなったのである。そしてさらに、煉瓦家屋の払下げ条件を緩和することによっ て、やっと人々に払下げることのできた建築物も、住民により当初の政府の意図とはおよそ異 なる、和風要素の付加された煉瓦家屋につくり変えられていったのである。 このような、政府の強引な欧化政策のおしつけは、逆に、市井の人々による、江戸時代の黒 壁をもっ土蔵造りの評価を高める遠因をなし、明治中期以降、東京の街に、土蔵造りの町並を へ つくりだす結果を導いたと考えられる。 代 八八一 ) に、東京近 東京に、土蔵造りの町並をつくりだした直接のきっかけは、明治十四年 ( 一 府知事と警視総監とによ 0 て布達された火災予防事業によ 0 ている。火災予防事業では、防火 ( 8 ) の路線を定め、その路線に面する建物は、「煉化石造土蔵造、のいずれかにしなければならな いと定められたが、この三種類の建築物のうちから、多くの人々が選んだのは、伝統的な土蔵市 造りであった。 建 明治中期につくられた、黒壁をもっ土蔵造りが、江戸時代のものと異なる点は、土蔵造りの 章 建物を建設した人々が、すでに煉瓦造の建物を知ったうえで、土蔵造りを選んでいたという点序 である。 政府が、煉瓦造と決定せず、「煉化石造土蔵造」のいずれかでよいとした点自体に、すでに、

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百鬼夜行の町並 八一 ) に、東京府知事と警視総監とによって布達された火災予防事業の後、 明治十四年 ( 一八 いわば、明治中期の日本橋付近の町並が、黒壁をもっ土蔵造りによって構成されたことは述べ築 る たが、この土蔵造りの町並が、いつまでも続いていたわけではない。 明治中期の、土蔵造りの急激な普及が、その理由はともかくとして、江戸時代への回帰とも て 似 いうべき、後むきの姿勢の中で生まれたものである限り、その中に、黒壁をもっ土蔵造りの町 並の限界も隠されていたといえよう。土蔵造りの町並をつくりつつも、明治初期に和洋折衷建洋 築をつくりだした多くの人々の、西洋文化を積極的に吸収しようとする姿勢が消えたわけでは三 なかった。それどころか、政府の盲目的な欧化政策の、強引な押付と接触することによって、 よりかたくなに心を閉ざしていった人々の裏側にも、西洋文化吸収に対する欲求が、蓄えられ 三洋風に似て非なる建築

9. 都市の明治 路上からの建築史

示している。『蔵造りの町並』によれば、土蔵造りを建設した時に、同時に煉瓦壁が用いられ ていた点や、明治二十六年 ( 一八九一一 l) に、当時煙草卸商を営んでいた万文屋・小山文蔵の店蔵 ( 5 ) に、「地下にレンガ積の貯蔵穴が造られているー点を指摘している。 土蔵造りと煉瓦造の工事費 川越の商人が、煉瓦造ではなく土蔵造りを選んだ理由として、経済的理由、つまり、煉瓦造 よりも土蔵造りの方が建設費が安いからという理由はあたらない。 土蔵は、普通四寸 ( 約十二センチメートル ) から八寸 ( 約二十四センチメートル ) 位の厚さ の土壁で建物全体が塗り込められており、壁塗りの工程だけでも、丁寧なものになると「二十 四返し塗ーなどといわれ、二十四工程に達するものもある。また、建物を全部仕上げるのに、 二年位のエ期が必要で、土蔵造りは、たいへんな手間と費用とを要するたて方なのである。 煉瓦造と土蔵造りとの工事費を細かに比較した史料は、現在のところ明らかにされていない が、銀座煉瓦街建設に際して、大蔵卿大隈重信代理大蔵少輔・吉田清成の明治七年 ( 一八七四 ) 五月二日の指令に、「三等家屋ニ至リテハ土蔵ト比較候テモ、経費些少之相違ニテ甚差等モ有 ( 6 ) 之間敷」と記された個所がある。この頃は、銀座煉瓦街の三等家屋と土蔵の工事費とが、同じ 位の金額を必要とすると考えられていたのである。しかし、この指令に述べられた銀座煉瓦街 の工事費は、まだ、建設初期の頃の概算金額である。この頃には、銀座煉瓦街の工事費は、明 156

10. 都市の明治 路上からの建築史

明治二十年代後半から四十年代にかけて、いわば明治時代の後期に、土蔵造りの店舗は全国 各地に建てられはじめた。京都の町中に店蔵が目立ちはじめたのもこの頃である。谷直樹は、 「日清、日露戦争前後になると資本主義の成長がみられ、この間に何度か訪れた好景気の波に の 0 て町屋の建て替えが促された。とりわけ官公庁や金融街に、赤レンガや石造りの本格的な 。いかつい塗込造りの店舗町屋が登 洋風建築が建設されだすと、これに刺激されるかのようこ、 場してく」と述べ、日清・日露戦争前後に、洋風建築と共に、土蔵造りの店舗が京都に入 0 てきた点を指摘している。 そして店蔵は、北陸の商業都市・高岡にも伝わ 0 てきた。高岡の町に土蔵造りの町並がつく られたのは、明治三十三年 ( 一九〇〇 ) の大火を契機としてである。 明治 = 一十 = 一年 ( 一九〇〇 ) の大火以前の高岡の店舗は、外部に柱の露出した真壁造りのものや、 一一階は壁で木部が塗り込められているものの、一階は木部が露出している塗屋造りのものが大 半で、店舗を土蔵造りとした店蔵は、あまりみられなか 0 たようである。 高岡の店蔵で注目される点は、伝統的な黒壁をもっ店蔵の、外からは見えない屋根裏部分に、 洋風の小屋組が用いられている点である。洋風小屋組をもっ店蔵は、現在のところ佐野邸・菅 野邸などで確認されており、これらの例からみると、部材や金物の用い方など、ほぼ完全に近 い真束小屋組を用いていることがわかる。高岡の町には、江戸で考案された伝統的な店蔵の外 観と、洋風の技術とが同時期に伝えられていたわけである。 162