め、学校に行かず。長兄の知人小川家の本を濫読。 日 明治ニ十ニ年 ( 一八八九年 ) 十四歳この頃、「し 1 1 ロ がらみ草紙」に短歌一首を投稿。 明治八年 ( 一八七五年 ) 七月三十一日、兵庫県神明治ニ十三年 ( 一八九〇年 ) 十五歳父方の又従兄 東郡田原村辻川に、父松岡賢次 ( のちに操と改名 ) 、中川恭治郎の感化により文学を志す。次兄の紹介に 母たけとの間に八人兄弟の六男として誕生。松岡家より森外を知る。 は代々医家であるが、父賢次は医学と儒学とをおさ明治ニ十四年 ( 一八九一年 ) 十六歳高等学校受験 のため、開成中学校に編入。 めた。母たけは、記憶力のすぐれた人であった。 明治十ニ年 ( 一八七九年 ) 四歳辻川昌文小学校に明治ニ十五年 ( 一八九二年 ) 十七歳一月、歌人松 入学。 浦萩坪の門に入る。この頃、田山花袋を知る。開成 明治十六年 ( 一八八三年 ) 八歳昌文小学校を卒業。中学校より郁文館中学校に転校。 北条町の高等小学校に入学。 明治ニ十六年 ( 一八九三年 ) 十八歳第一高等中学 年明冶十七年 ( 一八八四年 ) 九歳一家は加西郡北条校に入学。「校友会雑誌」に短歌を発表し始める。 町に移転。 明治ニ十七年 ( 一八九四年 ) 十九歳夏、田山花袋 明治十八年 ( 一八八五年 ) 十歳高等小学校を卒業。と日光に行き、尾崎紅葉に会う。 卒業後約一年間、辻川の三木家にあずけられ、和漢明治ニ十八年 ( 一八九五年 ) 二十歳「文学界」に の書物を読みふける。 赤松某の名で新体詩を発表。 明治ニ十年 ( 一八八七年 ) 十二歳八月末、次兄に明治ニ十九年 ( 一八九六年 ) 二十一歳七月母を、 伴われて上京。上京に際して、自筆詩文集『竹馬余九月父を喪う。太田玉茗宅で催された紅葉会に出 事』を編む。 席し始める。 幻明治ニ十一年 ( 一八八八年 ) 十三歳身体虚弱のた明治三十年 ( 一八九七年 ) 二十二歳七月、第一高
等学校 ( 第一高等中学校改称 ) 卒業。九月、東京帝明治四十年 ( 一九〇七年 ) 三十一一歳一一月、イプセ ン会始まる。 国大学法科大学政治科入学。 明治三十一年 ( 一八九八年 ) 二十三歳七月、田山明治四十一年 ( 一九〇八年 ) 三十三歳五月下旬よ 花袋と伊良湖岬、伊勢を旅する。この時の見聞が最り約三カ月、九州四国地方を歩く。四月、新潮社刊 後の著『海上の道』の端緒となる。 の『二十八人集』に『遊海島記』を収録。 明治三十三年 ( 一九〇〇年 ) 二十五歳七月、東京明治四十ニ年 ( 一九〇九年 ) 三十四歳八月、遠野 帝国大学卒業。卒業論文は三倉の研究である。卒業に行く。 っちのかりことばのき 後、農商務省農務局に勤務。早稲田大学にて農政学『後狩詞記』 ( 二月、自刊 ) を講する。 明治四十三年 ( 一九一〇年 ) 三十五歳この年、新 物明治三十四年 ( 一九 0 一年 ) 一一十六歳柳田家を嗣渡戸稲造博士を中心に郷土会を設立。 『石神問答』 ( 五月、聚精堂刊 ) 野明治三十五年 ( 一九〇一一年 ) 二十七歳九月、専修『遠野物語』 ( 六月、聚精堂刊 ) 遠学校にて農業政策を講ずる。この頃、和洋の農政学『時代ト農政』 ( 十一一月、聚精堂刊 ) の書物と西洋の文芸書をよく読む。 大正三年 ( 一九一四年 ) 三十九歳四月、貴族院書 明治三十六年 ( 一九〇三年 ) 二十八歳二月、小作記官長となる。 騒動視察のため岡山県北部を歩く。内閣所蔵の諸国『山島民譚集』 ( 七月、甲寅叢書刊行所刊 ) たん・こ・、 しり 雑話を耽読。 大正五年 ( 一九一六年 ) 四十一歳この頃、折ロ信 明治三十七年 ( 一九〇四年 ) 一一十九歳日露戦争勃夫、はしめて訪ねてくる。 発。横須賀の捕獲審検所の評定官となる。 大正六年 ( 一九一七年 ) 四十二歳三月一一十日から 明治三十九年 ( 一九〇六年 ) 三十一歳八月、北海二カ月あまり、台湾、支那、朝鮮を旅行。 からふと 道樺太視察旅行。十月帰京。 大正八年 ( 一九一九年 ) 四十四歳十二月、貴族院 210
211 年 書記官長を辞任。 談話会に出席。全国各地への講演旅行多し。 大正九年 ( 一九二〇年 ) 四十五歳七月、朝日新聞 『山の人生』 ( 一一月、郷土研究社刊 ) 社客員となる。八月、九月、東北旅行。十二月より昭和ニ年 ( 一九二七年 ) 五十一一歳八月、北多摩郡 翌年にかけて九州、沖縄を旅行。 砧村 ( 現在の世田谷区成城 ) に移転。 『赤子塚の話』 ( 二月、玄文社刊 ) 昭和三年 ( 一九二八年 ) 五十三歳十二月、上田万 「おとら狐の話』 ( 一一月、早川孝太郎共著・玄文社刊 ) 年、橋本進吉、東条操らと方言研究会を設立。 『神を助けた話』 ( 二月、玄文社刊 ) 『雪国の春』 ( 二月、岡書院刊 ) 大正十年 ( 一九二一年 ) 四十六歳五月、国際連盟昭和四年 ( 一九二九年 ) 五十四歳四月、雑誌「民 委任統治委員に就任。ジ = ネーヴに行き十一一月に帰族」休刊。 国。 『日本神話伝説集』 ( 五月、アルス刊 ) 大正十一年 ( 一九一三年 ) 四十七歳四月、朝日新『民謡の今と昔』 ( 六月、地平社書房刊 ) 聞社論説班員になる。五月、再び渡欧。 昭和五年 ( 一九三〇年 ) 五十五歳十一月、朝日新 大正十ニ年 ( 一九二三年 ) 四十八歳十一月、欧州聞社論説委員を辞任。 より帰国。 『ことわざの話』 ( 一月、アルス刊 ) 大正十三年 ( 一九二四年 ) 四十九歳二月、朝日新昭和六年 ( 一九三一年 ) 五十六歳 聞社編集局顧問論説担当となる。 『明治大正史世相論』 ( 一月、朝日新聞社刊 ) 『炉辺叢書解題』 ( 十一月、郷土研究社刊 ) 昭和七年 ( 一九三一一年 ) 五十七歳 大正十四年 ( 一九一一五年 ) 五十歳この年、北方文『秋風帖』 ( 十一月、梓書房刊 ) 明研究会を開く。十一月、雑誌「民族」を創刊。 『女性と民間伝承』 ( 十一一月、岡書院刊 ) 大正十五年・昭和元年 ( 一九二六年 ) 五十一歳ニ 『山村語彙』 ( 十一一月、大日本山村会刊 ) 月、吉右衛門会 ( 昔話研究の会 ) 発会。六月、南島昭和八年 ( 一九三三年 ) 五十八歳五月、比嘉春潮 きぬたむら
貶とともに雑誌「島」を発刊。 『木綿以前の事』 ( 五月、創元社刊 ) 『桃太郎の誕生』 ( 一月、三省堂刊 ) 『狐猿随筆』 ( 十一一月、創元社刊 ) 『地名の話その他』 ( 一月、岡書院刊 ) 昭和十五年 ( 一九四〇年 ) 六十五歳一月、信州へ 『小さき者の声』 ( 一月、玉川学園出版部刊 ) 講演旅行。十月、日本方言学会創立、初代会長に就 昭和九年 ( 一九三四年 ) 五十九歳民俗学研究を志任。 す者の集まり、木曜会を設立する。 『食物と心臟』 ( 四月、創元社刊 ) 『郷土生活の研究法』 ( 八月、刀江書院刊 ) 『妺のカ』 ( 八月、創元社刊 ) 昭和十一年 ( 一九三六年 ) 六十一歳この年から三 『伝説』 ( 九月、岩波書店刊 ) 年間、全国昔話の採集始める。 『野草雑記』『野鳥雑記』 ( 十一月、甲鳥書林刊 ) 昭和十六年 ( 一九四一年 ) 六十六歳一月、日本民 物『地名の研究』 ( 一月、古今書院刊 ) 昭和十ニ年 ( 一九三七年 ) 六十一一歳一月、丸ノ内俗学の建設と普及の功により、朝日文化賞を受く。 野 ビルにて日本民俗学講座を開講、常設一年。五月、五月、仙台中央放送局の企画により東北民謡旅行。 遠全国海村生活調査始める。五月、九月、東北帝国大『豆の葉と太陽』 ( 一月、創元社刊 ) 学にて日本民俗学を講義。六月、十月、京都帝国大昭和十七年 ( 一九四一一年 ) 六十七歳 学において日本民俗学を講義。 『こども風土記』 ( 二月、朝日新聞社刊 ) 『婚姻習俗語彙』 ( 三月、民間伝承の会刊 ) 『木思石語』 ( 十月、三元社刊 ) 昭和十三年 ( 一九三八年 ) 六十三歳一年間、丸ビ昭和十九年 ( 一九四四年 ) 六十九歳十月八日、京 ル日本民俗学講座にて講義。 橋泰明国民学校において古稀の記念会。十二月、堀 マ」しようはいかし 『昔話と文学』 ( 十一一月、創元社刊 ) 一郎宅にて芭蕉の俳諧評釈を始める。 昭和十四年 ( 一九三九年 ) 六十四歳九月、中国四昭和ニ十一年 ( 一九四六年 ) 七十一歳七月、枢密 国地方講演。 顧問官に任官。
年 213 『笑の本願』 ( 一月、養徳社刊 ) 院大学にて日本民俗学会第三回年会が催され、喜寿 記念会を行う。記念に『後狩詞記』を複刻。十一月、 『先祖の話』 ( 四月、筑摩書房刊 ) 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七年 ) 七十一一歳三月、木曜文化勲章を受く。 会は解消。民俗学研究所設立。七月、芸術院会員と 『島の人生』 ( 九月、創元社刊 ) なる。 昭和ニ十七年 ( 一九五二年 ) 七十七歳五月、第六 昭和ニ十三年 ( 一九四八年 ) 七十三歳五月、東京回九学会連合大会にて『海上の道』を講演。 書籍刊の小学中学国語科検定教科書の監修を受諾。 『東国古道記』 ( 六月、上小郷土研究会刊 ) 『村のすがた』 ( 七月、朝日新聞社刊 ) 昭和ニ十八年 ( 一九五三年 ) 七十八歳一一月、国立 譜『婚姻の話』 ( 八月、岩波書店刊 ) 国語研究所評議員会会長となる。 昭和ニ十四年 ( 一九四九年 ) 七十四歳一月、御講『神樹篇』 ( 三月、実業之日本社刊 ) 書始めに、「富士と筑波」を御進講。学士院会員と 『不幸なる芸術』 ( 六月、筑摩書房刊 ) なる。九月、日本民俗学会第一回年会で講演。十月、昭和ニ十九年 ( 一九五四年 ) 七十九歳五月、第八 島の話を聞く会を始める。十一月、アメリカ人類学回九学会連合大会で「海上の移住」と題して研究発 協会名誉会員になる。 表。十月、日本民俗学会第六回年会で、八十の賀の てまりうた 『母の手毬歌』 ( 十一一月、芝書房刊 ) 祝いを受く。 昭和ニ十五年 ( 一九五〇年 ) 七十五歳七月、国学昭和三十年 ( 一九五五年 ) 八十歳 院大学教授を受諾。この年より三カ年計画で本邦離『柳田国男集』 ( 一月、筑摩書房刊 ) 島村落の調査開始。 昭和三十一年 ( 一九五六年 ) 八十一歳一月一日、 『方言と昔他』 ( 一月、朝日新聞社刊 ) Ztæより『米と正月』と題しての三笠宮との対講 昭和ニ十六年 ( 一九五一年 ) 七十六歳五月より国を放送。 学院大学にて理論神道学の講座を開く。十月、国学『妖怪談義』 ( 十一一月、修道社刊 )
214 昭和三十ニ年 ( 一九五七年 ) 八十一一歳 = 一月、国立テビ「此処に鐘は鳴る」に出演。故郷兵庫県 国語研究所評議員を辞す。 = 一月二十二日、放福崎町名誉町民になる。五月三日、成城大学にて、 送文化賞を受賞。この月、民俗学研究所解散。九月、日本民俗学会主催の米寿祝賀会が開かれる。この日、 柳田国男賞設置が発表される。八月八日、心臓衰弱 民俗学研究所の書籍を成城大学に移す。 のため死去。享年八十七。八月十二日、青山斎場に 『少年と国語』 ( 七月、創元社刊 ) て日本民俗学会葬がとり行われる。川崎市春秋苑に 『史料としての伝説』 ( 十月、村山書店刊 ) 埋葬。九月、遺言により蔵書は成城大学に寄贈され 昭和 = 一十三年 ( 一九五八年 ) 八十三歳一月より、 一一百回にわたり神戸新聞に『故郷七十年』を連載。た。 語 『炭焼日記』 ( 十一月、修道社刊 ) 物昭和 = 一十四年 ( 一九五九年 ) 八十四歳四月、相模 民俗学会にて「子墓の話」を講演。 野『故郷七十年』 ( 十一月、神戸新聞社刊 ) 遠昭和三十五年 ( 一九六〇年 ) 八十五歳一月四日、 で「旅と私」を放送。五月十八日、学士院会 に出席。十月、慶応大学地人会にて「島々の話」を 講演。 昭和三十六年 ( 一九六一年 ) 八十六歳五月末より 仙台旅行。朝日新聞に『柳翁閑談』連載。 『海上の道』 ( 七月、筑摩書房刊 ) 昭和三十七年 ( 一九六二年 ) 八十七歳一月、『定 本柳田国男集』 ( 筑摩書房 ) 刊行始まる。三月、 z さみ 本年譜は、鎌田久子氏編の年譜 を参照して編集部で作成した。
おおざませんにせがね 罰来て佐比内の赤沢山で、大迫銭の贋金を吹いて、一夜の中に富裕になったという話が残って居 る。 つくもうし うでき ニニ七附馬牛村の阿部某という家の祖父は、旅人から泥棒の法をならって腕利きの盗人となっ た。しかし決して近所では悪事を行わず、遠国へ出て働きをして暮したと謂う。年をとってから わらし・ - 一と は家に帰って居たが、する事が無く退屈で仕方がないので、近所の若者達が藁仕事をして居る き ある などへ行っては、自分の昔話を面白おかしく物語って聴かせて楽しんで居た。或晩のこと、此瑜 うまや ふんどし が引上げた後で、厩の方が大変に騒がしい。一人の若者が立って行って見ると、数本の褌が木戸 いなな 語 木に結び着けてあって、馬はそれに驚いて嘶くのであった。はて怪しいと思って気が附いて探っ 物て見ると、居合せた者は一人残らず褌を盗られて居たそうな。年はとっても、それ程腕の利いた 野老人であったと謂う。又前庭に竿を三四間おきに立てて置き、手前のを飛び越えて次の竿の上に 立つなど、離れ業が得意であった。竿と言うから相当の高さがあって、且っ細い物であったろう が、それがこんなに年を老って後も出来たものだと謂う。又此爺は、人間は蜘蛛や蛙にもなれる しにぎわ ものだと口癖の様に言って居たそうな。死際になってから目が見えなくなったが自分でも、俺は かす 達者な時に人様の目を掠めて悪事をしたのだから仕方が無いと言って居た。今から七八十年前の 人である。猶、旅人の師匠から授かった泥棒の巻物は、近所の熊野神社の境内に埋まって居ると 言うことであった。 ニニ八同じ附馬牛村の字大沢には、砂沢という沢がある。此沢合を前にして、某という家があ るが、或時この家の爺が砂沢へ仕事に行って、大蛇に体を呑まれた。幸いに腰にさして居た鎌の さびない なお と と かえる このじじい
る。蓮台野という地があって、昔は六十を超えた老人はすべてこの地へ追い遣る習いだったとあ ならやましこう る。まるで『相山節考』のような習俗だが、老人はいたずらに死ぬことも出来ず、日中は里へ下 のり り農作して口を糊したという。 ( 一 こういう話が、淡々と、さりげない筆致で書かれているので、かえって感動が大きい。そして さる いしがわ つく・もうし ろっこ . うし この一冊を読むと、この人煙稀な小盆地の中の、早池峯山とか猿ケ石川とか附馬牛とか六角牛と おそ かいった地名が、この上なく親しいものとなり、ここに営まれる村人たちの自然を怖れ親しみそ けいけん れと一つに融け合った、敬虔でひっそりとした、・ サシキワラシやオシラサマや河童などとの共な ほうふつまぶた る生活が、彷彿と瞼に浮んでくるのである。 四 佐々木喜善がその後自分の名で『遠野雑記』を書き出したのは、明治四十五年以降のことであ そうしょ る。最初の著書は大正九年に炉辺叢書の一冊として刊行された『奥州のザシキワラシの話』であ るが、この時は彼の長い執心であった創作から全く心を断っていたようだ。そのことは私に、 田氏が一人の民俗学者、あるいは民間伝承採集者を育て上げるのに、どれほどの歳月と根気とを えさしぐん ろうおんやたん 要したかを想像させる。佐々木にはその後、『江差郡昔話』『東奥異聞』『老媼夜譚』『聴耳草紙』 などがある。後には村長になったが、ある事件で郷里にいられなくなり、仙台に移住し、昭和八 年九月二十九日に不遇のうちに死んだ。 鰤『遠野物語』はその後も続篇が計画された。柳田氏が彼に執筆をすすめ、大部な草稿が氏のとこ - 解 説 まれ はやちねさん
197 え 還って、私どもの歓喜に、声合せているのでないかと思う。 昭和十年盆の月夜 折ロ信夫
記 た先生も、ことしは、ちょうど人生の暦一ばいの年に達せられた。と言うことは、まだどう考え ても、しつくりと胸に来ない。初版のままの表紙をかけて見ると、少し茶つばい赤みの調子が、 、い祝いの色あいを出してくれているような気がする。 わづか 「唯鏡石子は年僅に二十四五自分も之に十歳長ずるのみ」とあった佐々木喜善さんも、早ことし 三回忌の仏になってしまわれた。 「遠野物語」後、二十年の間に、故人の書き溜めた採訪記は、ずいぶんのかさに上った。先生は もう、再版の興味などは、持って居られなかった。でもその間に、「広遠野物語」出版の計画に 燃えた岡村千秋さんなどがあって、昭和の初年には、公表したもの、未発表の分一切、先生の手 もとに届けてあったようである。 わんしゃ ややなかば その 念者の先生だから、楽しみ為事に書き直し書き直しして行かれて、稍半に達した頃、其中に包含 ききみみぞうし せられて居た物が、「聴耳草紙ーの形で、世間に出てしまったので、此は永久日の目を見ない事 になるもの、とあきらめて居た。 去年以来、せめてその計画の一部だけでも、実現して見たい、と言う志を起すものがあって、待 ち望んだ人々に喜んで頂く方に向いて来た訣である。だが何しろ、師匠の作物と言えば、過去の 謙徳に育てられた者は、誰しもちょっと、手出しの出来かねるものである。此は専ら、若役に属 へんしゅうしごと するものと言う事から、一等骨惜しみをしない鈴木脩一さんに、編輯為事を引きうけて貰った次 第である。で、その後新しく着手した為事は、かの残りの半分に当る未整理の部分である。 ゅうゆう 四私などは、まことに悠々と、高みで見物して居て、出来あがった今頃、そろそろおりて来て、こ わけ