為に、蛇は唇を切られて死に、爺は蛇の腹から這い出すことが出来た。家に帰って此話をすると、 村の者達が多勢集まって来て、砂沢へ行って見た。如何にも其処に大蛇が死んで居たと謂う。そ きのこ れから数年の後、銀茸に似た見事な茸が其沢一面に生えた。煮て食おうと思って、爺がそれを採 って居たら、洞の何処かで、油させさせと言う声がする。多分茸を煮る際に鍋へ油を人れよとい うことであろうと思って、其通りにして賞味した。ちょうど近所の居酒屋に若者達が寄り集まっ こちら て居たが、此茸があまりに見事なので採って来て煮て食った。すると此方は十人の者が九人まで これ はその夜のうちに毒に中って死に、少ししか食わなかった者でさえ三日ばかり病んたと謂う。是 拾は岩城君という人が壮年の頃の出来事だと言って語ったものである。今から四十年近くも前のこ、 語とであろうか。 ひといち 物 ニニ九昔遠野の一日市の某と云う家の娘は抜首だと云う評判であった。或人が夜分に鍵町の橋 野 の上まで来ると、若い女の首が落ちて居て、ころころと転がった。近よれば後にすさり、近寄れ ば後にすさり、とうとう此娘の家まで来ると、屋根の破窓から中に人ってしまったそうな。 ニ三 0 是は明治になってから後の話であるが、遠野町の某という女には妙な癖があって、年ご ろになってからは、関係した男毎に情死を迫ってならなかった。それが一人二人でなく、また嫁 に行っても情死のことばかり夫に言うのでいつも不縁になって帰った。こんなことが十何回もあ めかけ すす った後に石倉町の某という士族の妾になったが、此人にも情死を奨め、二人で早瀬川へ身投げに 往った。そうして自分だけ先に死んだが、男の方は嫌になって帰って来たそうである。 ニ三一維新の当時には身に沁みるような話が世上に多かったと謂われる。官軍に打負かされた 、 171 くちびる ぬけくび ころ
り抜けて行ってしまった。口惜しがって見て居るところを、皆の者に呼び返されて蘇蹶した。後 で聞くと、車に乗って通った女は、其時刻に死んだのであったと謂う。 一五七俵田某という人は佐々木君の友人で、高等教育を受けた後、今は某校の教授をして居る。 たび 此人は若い頃病気で発熱する度にきまって美しい幻を見たそうである。高等学校に人学してから 後も、そう言うことを経験し、記憶に残って居るだけでも、全部では六七回はあると言う。まず 始めに大きな気体の様な物が、円い輪を描きつつ遠くから段々と静かに自分の方に進んで来る。 そうしてそれが再び小さくなって行って終いに消える。すると今度は、言葉では何とも言い表わ せぬほど綺麗な路が何処までも遠く目の前に現われる。萱を編んだような物が共路に敷かれてあ 語り、其処へ自分の十歳の時に亡くなった母が来て、二人が道連れになって行くうちに、美しいー 物の辺に出る。其川には輪形の橋が架かって居るが、見たところそれは透明でもなく、また金や銀 野 で出来て居るのでもない。其輪の中を母はすうっと潜って、お前もそうして来いと言う様に、向 う側から頻りに手招ぎをするが、自分にはどうしても行くことが出来ない。其のうちに段々と本 気に返って来るという。斯うした経験の一番はじめは、此人が子供の時に鍋倉山の坂路を駈けく だる際、ひどく転んで気絶した時が最初だと言った。倒れたと思うと、絵にある竜宮のような綺 麗な処が遠くに見えた。それを目がけて一生懸命に駈けて行くと、先に言ったような橋の前に行 き当り、死んだ母が向う側で頻りに手招ぎをしたが、後から家の人達に呼び戻されて気が附した じきわ のだと言う。同君が常に語った直話である。 みち さんず 一五八死の国へ往く途には、日 , を渡るのだと謂われて居る。是が世間で謂う三途の河のことで 137 この ほとり みらどこ こら かや これ
138 すく 日に障えられて戻って来たという類の話が尠なくな あるかどうかは分らぬが、一旦は死んだが、 かったようである。土淵村の瀬川繁治という若者は、急に腹痛を起してはぐれることが屡くあっ おっか たが、十年程前にもそんな風になったことがあって、呼吸を吹き返した後に、ああ布なかった。 し」にノだ、 . わ おれは今松原街道を急いで歩いて行って、立派な橋の上を通り掛かったところが、唐鍬を持った さえぎ とらじい 小沼寅爺と駐在所の巡査とが二人でおれを遮って通さないので戻って来たと語ったそうである。 そうそふ 此若者は今は頗る丈夫になって居る。また佐々木君の曽祖父も或時にまぐれた。蘇生した後に語 いしがき った話に、おれが今広い街道を歩いて行ったら大橋があって、其向うに高い石垣を築いた立派な 寺が見えた。其石垣の石の隙間々々から、大勢の子供達の顔が覗いて居て、一斉におれの方を見 物こと。 野一五九是は佐々木君の友人某という人の妻が語った直話である。此人は初産の時に、産が重く て死にきれた。自分では大変心持がさつばりとして居て、何処かへ急いで行かねばならぬ様な気 がした。よく憶えて居ないが、どこかの道をさっさと歩いて行くと、自分は広い明るい座嗷の中 に人って居た。早く次の間に通ろうと思って、襖を開けにかかると、部屋の中には数え切れぬほ ど多勢の幼児が自分を取巻いて居て、行く手を塞いで通さない。併し後に戻ろうとする時は、共 児等もさっと両側に分れて路を開けてくれる。こんなことを幾度か繰り返して居るうちに、誰か が遠くから自分を呼んで居る声が微かに聞えたので、否々後戻りをした。そうして気が附いて見 ると、自分は近所の人に抱きかかえられて居り、皆は大騒ぎの最中であった。この時に最初に感 おき じたものは、母親が酢の中に燠を入れて自分に嗅がして居た烈しい匂いで、其後一月近くもの間、 これ すこぶ いったん すきま みち すま ふさ にお たぐい
汝の身に大なる災あるべし。書き換へて取らすべしとて更に別の手紙を与へたり。これを持ちて 1 」と 沼に行き教の如く手を叩きしに、果して若き女出でて手紙を受け取り、其礼なりとて極めて小さ いしうすく き石臼を呉れたり。米を一粒入れて回せば下より黄金出づ。此宝物の力にてその家梢く富有にな しきり つひ りしに、妻なる者慾深くして、一度に沢山の米をつかみ入れしかば、石臼は頻に自ら回りて、終 には朝毎に主人が此石臼に供へたりし水の、小さき窪みの中に溜りてありし中へ滑り入りて見え かたはら ずなりたり。その水溜りは後に小さき池になりて、今も家の旁に在り。家の名を池の端と云ふも 其場なりと云ふ。 * 此話に似たる物語西洋にもあり、偶合にや。 つくもうし やまみち 物ニ八始めて早池峯に山路をつけたるは、附馬牛村の何某と云ふ猟師にて、時は遠野の南部家人 野部の後のことなり。其頃までは土地の者一人として此山には人りたる者無かりしと。この猟師半 もち ある 分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋を作りて居りし頃、或日炉の上に餅を並べ焼きながら食 ひ居りしに、小屋の外を通る者ありて頻に中を窺ふさまなり。よく見れば大なる坊主也。やがて 小屋の中に入り来り、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、終にこらへ兼ねて手をさし延べ て取りて食ふ。猟師も恐ろしければ自らも亦取りて与へしに、嬉しげになほ食ひたり。餅皆にな りたれば帰りぬ。次の日も又来るならんと思ひ、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじへ て炉の上に載せ置きしに、焼けて火のやうになれり。案の如くその坊主けふも来て、餅を取りて 食ふこと昨日の如し。餅尽きて後其白石をも同じゃうにロに人れたりしが、大いに驚きて小屋を 飛び出し姿見えずなれり。後に谷底にて此坊主の死してあるを見たりと云へり。 なんぢ ・こと にゆう
っちぶら 七四栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。何れのカクラサ ぶかっこう マも木の半身像にてなたの荒削りの無恰好なるもの也。されど人の顔なりと云ふことだけは分る なり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したまふべき場所の名なりしが、其地に常いま す神をかく唱ふることゝなれり。 はなれもり 七五離森の長者屋敷にはこの数年前まで燐寸の軸木の工場ありたり。其小屋の戸口に夜になれ さび ば女の伺ひ寄りて人を見てげた / 、と笑ふ者ありて、淋しさに堪へざる故、終に工場を大字山口 まくらぎきりだしため に移したり。其後又同じ山中に枕木伐出の為に小屋を掛けたる者ありしが、夕方になると人夫の はうぜん 者何れへか迷ひ行き、帰りて後茫然としてあること既、新なり。かゝる人夫四五人もありて其後も 物絶えず何方へか出でて行くことありき。此者どもが後に言ふを聞けば、女が来て何処へか連れ出 野すなり。帰りて後は二日も三日も物を覚えずと云へり。 ぬか , もり あと 七六長者屋嗷は昔時長者の住みたりし址なりとて、其あたりにも糠森と云ふ山あり。長者の家 の糠を捨てたるが成れるなりと云ふ。此山中には五つ葉のうつ木ありて、其下に黄金を埋めてあ まれまれ ありか りとて、今も其うつぎの有処を求めあるく者稀々にあり。この長者は昔の金山師なりしならんか、 おんどく かす 此あたりには鉄を吹きたる滓あり。恩徳の金山もこれより山続きにて遠からず。 * 諸国のヌカ塚スクモ塚には多くは之と同じき長者伝説を伴へり。又黄金埋蔵の伝説も諸国に限なく 多くあり。 七七山口の田尻長三郎と云ふは土淵村一番の物持なり。当主なる老人の話に、此人四十あまり おのおの の頃、おひで老人の息子亡くなりて葬式の夜、人々念仏を終り各く帰り行きし跡に、自分のみは いづかた その
202 近代の模写品ながら下野の狩の絵が六幅あるのを見て、感動したことに基づいている。その絵に は獲物の数が実に夥しい上に、侍雑人に到るまでの行装が如何にも美々しか 0 た。その年々の狩 は、阿蘇神社の厳重の神事で、遊楽でも生業でもなか 0 たが、世の常の遊楽よりはるかに楽しい ものであ 0 たことが、この絵を見て納得された。そのかっての神事の名残である狩の慣習と作法 とを、椎葉村の生活は今において伝えていた。それをありのままに伝えることに、柳田氏の興趣 は動いたのだが、それは何も辺境の希風殊俗〈の好奇心というに止まらず、も 0 と広く日本人の 原初の生活を少しでも明らかにしたいという願いからである。下野の狩の絵は、弓矢を以てする 狩の黄金時代の記録であるのに対して、椎葉の狩詞の記録は、鉄砲を以てする狩の白銀時代の記 物録であり、そこに記された慣習と作法とが、黄金時代の楽しい神事の姿を垣間見させてくれるの である。柳田氏自身、この狩詞の採録を通して、かって厚い尊崇を捧げられていた山の神に、激 野 しい興味を掻き立てられているさまを覗うことが出来る。 椎葉村を訪れた年の十一月、氏は佐々木喜善に会い、東北の遠野郷の話を聴いた。『後狩詞記』 に次いで、『遠野物語』が、氏の自費による第二の出版となる。「西南の生活を写した後狩詞記が 出たからには、東北でも亦一つは出してよい。三百数十里を隔てた両地の人々に、互いに希風殊 俗というものは無いということを、心付かせたいというような望みもあ 0 た。幸いにこの比較研 究法は、是が端緒とな 0 て段々と発達して居る。それから今一つは前々年の経験、味をしめたと 謂「ては下品にも聴えるが、人には斯ういう報告にも耳を傾ける能力があるということは、あの 時代としては一つの発見であ 0 た。現にそれから後、急に美人や風景や名物の土産品以外に、若
今は此人と夫婦になりてありと云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を 変へて泣きたり。死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在 をうら りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追 ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰 りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。 きり、り 一〇〇船越の漁夫何某、ある日仲間の者と共に吉利吉里より帰るとて、夜深く四十八坂のあた ひとり りを通りしに、ト 川のある所にて一人の女に逢ふ。見れば我妻なり。されどもかゝる夜中に独此 ひつじよう うをきり・ほうちょう 辺に来べき道理なければ、必定化物ならんと思ひ定め、矢庭に魚切庖丁を持ちて後の方より差し しばら さすが 物通したれば、悲しき声を立てゝ死したり。暫くの間は正体を現はさゞれば流石に心に懸り、後の 野事を連の者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事も無く家に待ちてあり。今恐ろしき夢 を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅か されて、命を取らるゝと思ひて目覚めたりと云ふ。さてはと合点して再び以前の場所へ引返して 見れば、山にて殺したりし女は連の者が見てをる中につひに一匹の狐となりたりと云へり。夢の 野山を行くに此獣の身を傭ふことありと見ゅ。 とよまわ * さいはひ 一〇一旅人豊間根村を過ぎ、夜更け疲れたれば、知亠日の者の家に燈火の見ゆるを幸に、人りて 休息せんとせしに、よき時に来合せたり、今タ死人あり、留守の者なくて如何にせんかと思ひし せんばん 所なり、暫くの間頼むと云ひて主人は人を喚びに行きたり。迷惑千万なる話なれど是非も無く、 囲炉裡の側にて煙草を吸ひてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見れば床の つれ この わづら みちなか きつね
1 七一この権蔵は川狩りの巧者で、夏になると本職の鍛冶には身が入らず、魚釣りに夢中であ やまみち った。或時山川へ岩魚釣りに行き、 ( キゴに一杯釣って、山路を戻って来た。村の人口の塚のあ くさむら る辺まで来ると、草叢の中に小坊主が立って居るので、誰であろうと思って見ると、するすると 大きくなって雲を通す様に高い大入道となった。驚いて家に逃げ帰ったそうな。 しんまち しんせき 一七ニ遠野新町の紺屋の女房が、下組町の親戚へ病気見舞に行こうと思って、夜の九時頃に下 横町の角まで行くと、そこに一丈余りもある大人道が立って居た。胆を潰して逃げ出すと、其大 そでだた 入道が後から袖叩きをして追い掛けて来た。息も絶える様に走って、六日町の綾文と謂う家の前 まで来て、袖叩きの音が聞えないのに気が附いたのでもう大丈夫であろうと思い、後を振返って 拾 語見ると、此大入道は綾文の家の三階の屋根よりも高くなって、自分の直ぐ後に立って居た。また すねは 物根限りに走って、やっと親戚の家まで行き着いたが、其時あまり走ったので、此女房は脛が腫れ 野 上がって、死ぬ迄それが癒らなかったそうである。明治初年頃にあった話だという。 一七三佐々木君の友人中館某君の家は、祖父の代まで遠野の殿様の一の家老で、今の御城の一 番高い処に住んで居た。或冬の夜、中館君の祖父が御本丸から帰宅すると、何処から何処まで寸 いず 分違わぬ姿をした二人の奥方が、玄関へ出迎えに立って居た。い くら見比べても孰れが本当の奥 方か見分けが附かなかったが、家米の者の機転で、其処へ大きな飼大を連れて米ると、一人の方 の奥方は狼狽して逃け去ったそうな。 かちゅう 一七四遠野の家中の是川右平という人の家で、冬の或晩に主人は子供を連れて櫓下の芝居を見 Ⅷに行き、夫人はただ一人炉傍で縫物をしながら留守をして居ると、其側に居た虎猫が突然人声を こん やぐらした とられこ
等学校 ( 第一高等中学校改称 ) 卒業。九月、東京帝明治四十年 ( 一九〇七年 ) 三十一一歳一一月、イプセ ン会始まる。 国大学法科大学政治科入学。 明治三十一年 ( 一八九八年 ) 二十三歳七月、田山明治四十一年 ( 一九〇八年 ) 三十三歳五月下旬よ 花袋と伊良湖岬、伊勢を旅する。この時の見聞が最り約三カ月、九州四国地方を歩く。四月、新潮社刊 後の著『海上の道』の端緒となる。 の『二十八人集』に『遊海島記』を収録。 明治三十三年 ( 一九〇〇年 ) 二十五歳七月、東京明治四十ニ年 ( 一九〇九年 ) 三十四歳八月、遠野 帝国大学卒業。卒業論文は三倉の研究である。卒業に行く。 っちのかりことばのき 後、農商務省農務局に勤務。早稲田大学にて農政学『後狩詞記』 ( 二月、自刊 ) を講する。 明治四十三年 ( 一九一〇年 ) 三十五歳この年、新 物明治三十四年 ( 一九 0 一年 ) 一一十六歳柳田家を嗣渡戸稲造博士を中心に郷土会を設立。 『石神問答』 ( 五月、聚精堂刊 ) 野明治三十五年 ( 一九〇一一年 ) 二十七歳九月、専修『遠野物語』 ( 六月、聚精堂刊 ) 遠学校にて農業政策を講ずる。この頃、和洋の農政学『時代ト農政』 ( 十一一月、聚精堂刊 ) の書物と西洋の文芸書をよく読む。 大正三年 ( 一九一四年 ) 三十九歳四月、貴族院書 明治三十六年 ( 一九〇三年 ) 二十八歳二月、小作記官長となる。 騒動視察のため岡山県北部を歩く。内閣所蔵の諸国『山島民譚集』 ( 七月、甲寅叢書刊行所刊 ) たん・こ・、 しり 雑話を耽読。 大正五年 ( 一九一六年 ) 四十一歳この頃、折ロ信 明治三十七年 ( 一九〇四年 ) 一一十九歳日露戦争勃夫、はしめて訪ねてくる。 発。横須賀の捕獲審検所の評定官となる。 大正六年 ( 一九一七年 ) 四十二歳三月一一十日から 明治三十九年 ( 一九〇六年 ) 三十一歳八月、北海二カ月あまり、台湾、支那、朝鮮を旅行。 からふと 道樺太視察旅行。十月帰京。 大正八年 ( 一九一九年 ) 四十四歳十二月、貴族院 210
まっ は即ちこの母巫女の霊を祀った祠であるという。 あそぬまけ ますざわ ニ九鱒沢村のお鍋が淵というのも、やはり同じ猿ケ石川の流れにある淵である。昔阿曽沼家の めかけ この 時代に此村の領主の妾が、主人の戦死を聞いて幼な子を抱えて、入水して死んだ処と言い伝えて その いしよう 居る。淵の中に大きな白い石があるが、洪水の前などには其岩の上に、白い衣裳の婦人が現われ て、髪を梳いて居るのを見ることがあった。今から二十五年前程の大水の際にも、之を見た者が 二三人もあった。 かみあゆかい 三〇小友村字上鮎貝に、上鮎貝という家がある。此家全盛の頃の事という。家におせんという 下女が居た。おせんは毎日々々後の山に往って居たが、其うちに還って来なくなった。此女には ふもと 物まだ乳を飲む児があって、母を慕うて泣くので、山の麓に連れて行って置くと、折々出ては乳を 野飲ませた。それが何日かを過ぎて後は、子供を連れて行っても出なくな 0 た。そうして遠くの方 じやたい から、おれは蛇体になったから、いくら自分の生んだ児でも、人間を見ると食いたくなる。最早 二度と爰へは連れて来るなと言った。そうして乳飲児ももう行きたがらなくなった。それから二 十日ばかりすると、大雨風があって洪水が出た。上鮎貝の家は本屋と小屋との間が川になってし すがくら まった。其時おせんは其出水に乗って、蛇体となって小友川に流れ出て、氷ロの淵で元の女の姿 になって見せたが、忽ち又水の底に沈んでしまったそうである。それから其淵をおせんが淵と謂 じやどう おせんの入った山をば蛇洞と謂う。上鮎貝の家の今の主人を浅倉源次郎と謂う。蛇洞には今 なお 尚小沼が残って居る位だから、そう古い時代の話では無かろうとは、同じ村の松田新五郎氏の談 である。 すなわ おとも たちま ちのみご これ