鮭を食わぬ家 鮭の皮 酒呑 篠権現 座敷ワラシ 座頭部屋 語猿 猿の経立 物 三角 三月三日 三途の河 遠三途の河の渡し銭 サンヅ縄 三人の姉妹 産婦の食物 産婦の枕 三本鍬 三面一本足の怪物 三面大黒 三面の仏像 一三 0 穴 = 六・三 塩鮭三本 塩へしり 鹿 発鹿オキ 鹿の肉 シゲ草 邑・爺石婆石 獅子踊 一兊獅子踊の歌曲 死助権現由米 七月七日 死神 一九・七九蛇洞 蛇の鱗 一七五 十一月十五日 一一七十一月二十三日 十一面観世音 一一一六十王様 碧十王堂 し 十二月五日 十一一月八日 十二月九日 一発十二月十日 十一一月十二日 ・三三・四 0 十二月十四日 一 = 三十一一月十五日 一 0 九十二月十七日 一四 0 十一一月二十日 0 十二月一一十三日 套十一一月一一十四日 套ー翌十二月二十五日 三一一十二月一一十八日 一九一十二月一一十九日 十一一月三十日 七五三縄 九 0 九一常居 正月三日 一会 正月十一日 一会 正月十五日 正月十六日 究・一 0 三・ l<ll 正月一一十日 九 ^ ・一 0 三・一へ一 1 会 1 会 一会 一会 一会 一会 一会 一会 一会 一会 一会 一会 一会 一会 哭ー五 0 一会 一会 一言・六 0 ・一へ三 一兊
おんだ なり 日の御田の神、八日の薬師様、九日の荷様、十日の大黒様、十二日の山の神、十四日の阿弥に 様、十五日の若恵比寿、十七日の観音様、二十日の陸の神鼠 ) の年取り、二十三日の聖徳太子 ( 大工の神 ) の年取り、二十四日の気仙の地蔵様の年取り、二十五日の文殊様、二十八日の不動様、 二十九日の御蒼前様等が其で、人間の年取りは三十日である。 ニ七六十日の晩の大黒様の年取りには枝大根を神前に供える。伝説に大黒様が或時余り餅を食 べ過ぎて死にそうになられた時、母神は早く生大根を食べる様に言われたが、生大根が無か 0 たので道みち尋ねて行かれると、胖協で一人の下婢が大根を洗「て居るのに行逢われた。大黒様 拾がそれを一本くれと言われると、女は是は皆主人から数を調べて渡された物だから上げる訳には 語行かないと答えた。それで大変落胆して居られると、下女が言うには、君さま心安かれ、爰に枝 物大根があればと言 0 て、折「て差上げたので、大黒様は命拾いをされたと言い伝えて居る。 ニ七七正月は三日が初不祥の悪日であるから、年始、礼参りなどは一日二日で止め、此日は何 もしないで居る。そのほかの正月の行事、又は七草などの仕方は、他の地方とあまり変らない。 七草を叩く時にとなえる唱えごとは、 とら どんどの虎と、 いなかの虎と、渡らぬさきに、なに草はたく、七草はたく。 というのであった。 よさくじお ニ七八以前遠野の町では正月の十一日に与作塩と言 0 て、各戸で多少に打らず塩を買うことが あ「た。昔与作という塩商人が或年の正月十一日に塩を売りあるくと、それを買 0 た家では家毎 に塩の中に黄金が人「て居た。それから吉例とな 0 て、此日には塩を買う習慣が出来たのだそう かひ
を、此小刀を以て剥いでやろうと言って来るのである。是が門のロで、ひかたたくり、ひかたた くりと呼ばると、そらナモミタクリが来たと言って、娘たちに餅を出して詫びごとをさせる。家 で大事にされて居る娘などには、時々はこのヒカタタクリにたくられそうな者があるからである。 はげ さおさぎかま ニ七ニ春と秋との風の烈しく吹き荒れる日には、又瓢簟を長く竿の尖に鎌と一しょに結び附け ゆる て軒先へ立てることがある。斯うすると風を緩やかにし、又は避けることが出来ると謂って居る。 ニ七三此郷の年中行事はすべて旧暦によって居る。十一月十五日にタテキタテということをす るのから始めて、二月九日の弓矢開きまで、年取りの儀式が色々とあって、一年中で最も行事の 語 多いのも此期間である。正月の大年神に上げる飯をオミダマ飯と言うが、此飯を焚く為の新しい わかしょ き 物木を山から伐り出して来るのが十一月十五日で、此日伐って来た木は夕方に立てて、其上に若漿 けが 野で造った弓矢を南の方に向けて附ける。これは此木が神聖な木であるから鳥類に穢されぬ為に斯 うするのだと言われて居る。 はいぜん あずきがゆはぎはし だいしがゆ 一遠 ニ七四十一月二十三日は大師粥と謂って、小豆粥を萩の箸で食べる。此食べた箸で灰膳の上に じようず 手習をすれば字が上手になると謂う。灰膳とは膳の上に灰を載せ、是を揺すって平にならしたも のを謂うのである。亦此日には家族の者の数だけ団子を造り、其中の一つに銭を匿して人れて置 いて、此金の入った団子を取った者は来年の運が富貴だと言って喜ぶ。大師様のことはよく分ら ふぶきあ ないが、多勢の子供があった方で、此日に吹雪に遭って死なれたと言い伝えて居る。 ほとん ニ七五十二月は一日から三十日までに、殆ど毎日の様に種々なものの年取りがあると言われて すなわ 居る。併し是を全部祭るのはイタコだけで、普通には次のような日だけを祝うに止める。即ち五 おおとしがみ これ もち
214 昭和三十ニ年 ( 一九五七年 ) 八十一一歳 = 一月、国立テビ「此処に鐘は鳴る」に出演。故郷兵庫県 国語研究所評議員を辞す。 = 一月二十二日、放福崎町名誉町民になる。五月三日、成城大学にて、 送文化賞を受賞。この月、民俗学研究所解散。九月、日本民俗学会主催の米寿祝賀会が開かれる。この日、 柳田国男賞設置が発表される。八月八日、心臓衰弱 民俗学研究所の書籍を成城大学に移す。 のため死去。享年八十七。八月十二日、青山斎場に 『少年と国語』 ( 七月、創元社刊 ) て日本民俗学会葬がとり行われる。川崎市春秋苑に 『史料としての伝説』 ( 十月、村山書店刊 ) 埋葬。九月、遺言により蔵書は成城大学に寄贈され 昭和 = 一十三年 ( 一九五八年 ) 八十三歳一月より、 一一百回にわたり神戸新聞に『故郷七十年』を連載。た。 語 『炭焼日記』 ( 十一月、修道社刊 ) 物昭和 = 一十四年 ( 一九五九年 ) 八十四歳四月、相模 民俗学会にて「子墓の話」を講演。 野『故郷七十年』 ( 十一月、神戸新聞社刊 ) 遠昭和三十五年 ( 一九六〇年 ) 八十五歳一月四日、 で「旅と私」を放送。五月十八日、学士院会 に出席。十月、慶応大学地人会にて「島々の話」を 講演。 昭和三十六年 ( 一九六一年 ) 八十六歳五月末より 仙台旅行。朝日新聞に『柳翁閑談』連載。 『海上の道』 ( 七月、筑摩書房刊 ) 昭和三十七年 ( 一九六二年 ) 八十七歳一月、『定 本柳田国男集』 ( 筑摩書房 ) 刊行始まる。三月、 z さみ 本年譜は、鎌田久子氏編の年譜 を参照して編集部で作成した。
あさどり よんどりほい。朝鳥ほい。よなかのよい時や、鳥こもないじゃ、ほういほい。 という歌を歌ったり、又は 夜よ鳥ほい。朝島ほい。あんまり悪い鳥こば、頭あ割って塩つけて、籠さ人れてからがいて、 えぞ 蝦夷が島さ追ってやれ。ほういほい。 と歌って、木で膳の裏などを叩いて廻るのである。 ニ九 0 二十日はヤイトヤキ、又はヨガカュ。フシと言って、松の葉を東ねて村中を持ち歩き、そ へび れに火を附けて互いに燻し合うことをする。これは夏になってから蚊や虫蛇に負けぬようにと言 う意味である。 ョガ蚊に負けな。蛇百足に負けな。 かぎ 物と歌いながら、何処の家へでも自由に人って行って燻し合い、鍵の鼻まで燻すのだと謂う。 野 一九一猶此日は麻の祝いと謂って、背の低い女が朝来るのを忌む。若し来た時には、此松葉で 燻して祓いをする。 わらっと ニ九ニ正月の晦日は馬の年取りで、餅を小さく四十八に切って、藁苞に人れて家の中に吊して 置き、是を翌月の九日に出して食う。二月九日は弓矢開きで、此日田植踊の笠を壊し、これで正 月の儀式が全く終るのである。 むしひなまつり ニ九三此地方では、三月の節句に子供達が集まってカマコヤキと言うことをする。寧ろ雛祭に 優る楽しみとされて居て、小正月が過ぎてからは学校の往還にも、カマコヤキの相談で持ち切り であった。先ず川べりなどの位置のよい処を選んで竈を作り、三日の当日になると、朝早くから 189 まさ みそか むかで こわ
かわ の水切り餅を包んだもので、餅が乾かぬうちに食べると、草の移り香がして、何とも言えぬ風味 がある。薄餅の由米として語り伝えられて居る話に、昔或所に大そう仲のよい夫婦の者が居た。 夫は妻が織った機を売りに遠い国へ行って、幾日も幾日も帰って来なかった。其留守に近所の若 そば 者共が、此女房の機を織って居る傍へ来て覗き見をしては、うるさいことを色々としたので、女 ちょうど 房は堪りかねて前の川に身を投げて死んでしまった。恰度旅から夫が帰って来て此有様を見ると、 しかばね 女房の屍に取りすがって夜昼泣き悲しんで居たが、後に其肉を薄の葉に包んで持ち帰って餅にし て食べた。是が五月節句に薄餅を作って食べるようになった始めであったという。此話は先年の おば 五月節句の日、佐々木君の老母が其孫達に語り聞かせるのを聴いて、同君が憶えて居たものであ へびごとむ 物ニ九七六月一日に桑の木の下に行くと、人間の皮が蛇の如く剥け変ると謂って、此日だけは子 野供等は決して桑の実を食いにも行かない。 わら うまつな ニ九八また此日には馬こ繋ぎという行事がある。昔は馬の形を二つ藁で作って、其ロのところ しとぎ うぶすな みなくち に粢を食わせ、早朝に川戸の側の樹の枝、水田の水口、産土の社などへ、それそれ送って行った それ ものだと謂う。今では藁で作る代りに、半紙を横に六つに切って、其に版木で馬の形を二つ押し て、是に粢を食わせて矢張り同じような場所へ送って行く。 すじぶとそうめん ニ九九七月七日には是非とも筋太の素麺を食べるものとされて居る。其由来として語られて居 る譚は、五月の薄餅の話の後日譚のようになって居る。夫は死んだ妻の肉を餅にして食べたが、 其うちから特別にスジハナギ ( 筋肉 ) たけを取って置いて、七月の七日に、今の素麺の様にして食 191 0
もち おそ つの年の祭にも、必ず降ることになって居ると謂い、此日には村人は畏れつつしんで、水浴は勿 ろん 論、川の水さえ汲まぬ習慣がある。昔此の禁を犯して水浴をした者があったところ、それまで連 日の晴天であったのが、俄かに大雨となり、大洪水がして田畑は云うに及ばず人家までも流され た者が多かった。分けても禁を破った者は、家を流され、人も皆れて死んだと伝えられて居る。 いがわ 三四遠野郷の内ではないが、閉伊川の流域に腹帯ノ淵という淵がある。昔、此淵の近所の或家 どこ で一時に三人もの急病人が出来た。すると何処かから一人の老婆が来て、此家には病人があるが にわまえこへび それは二三日前に庭前で小蛇を殺した故たと言った。家人も思い当ることがあるので、詳しく訳 その をきくと、実は其小蛇は、淵の主が此家の三番目娘を嫁に欲しくて遣わした使者であるから、共 物娘はどうしても水の物に取られると言う。娘はこれを聞くと驚いて病気になったが、不思議なこ なお 野とに、家族の者はそれと同時に三人とも病気が癒った。娘の方は約束事であったと見えて、医者 の薬も効き目が無く、とうとう死んでしまった。家の人達は、どうせ淵の主のところへ嫁に行く ひそ そば ものならばと言って、夜のうちに娘の死骸を窃かに淵の傍に埋め、偽の棺で葬式を済ました。そ むくろそこ うして一日置いて行って見ると、もう娘の屍は其処に見えなかった。其事があってからは、此娘 の死んだ日には、たとえ三粒でも雨が降ると伝えられ、村の者も遠慮して、此日は子供にも水浴 びなどをさせぬと謂う。、此娘が嫁に行ったのは、腹帯ノ淵の三代目の主のところで、二代目 とっ の主には、甲子村のコガョとかいう家の娘が嫁いだのだそうな。 ほこら 5 ・ねどり 三五遠野の町の愛宕山の下に、卯子酉様の祠がある。其傍の小池には片葉の蘆を生ずる。昔は がん 爰が大きな淵であって、其淵の主に願を掛けると、不思議に男女の縁が結ばれた。又信心の者に かっし にわ ふち そば にせ ある
新よ。 よそ ニ七九小正月は女の年取りである。此日は家の中の諸道具も年を取る日であるから余処に貸し てあった物等も皆持って来ておくようにして餅を供える。鍵に供えるのを、鍵鼻様の餅といって、 わずみ 夜これを家族の者が食べれば丈夫になると謂われて居る。そのほか蔵や納屋の鼠には嫁子餅と一「ロ わらっと おおかみ って二つ餅を供える。また狼の餅と言うのは藁苞に餅の切れを包んで山の麓や木の枝などに結び きつね 附けておく。是は狼にやる餅で、ほかに狐の餅と言うことをもするのである。 ます からすよ ニ八 0 鴉呼ばりと言うことも、小正月の行事である。桝に餅を小さく切って人れ、また日のあ あちこち るうちに、子供等がこれを手に持って鴉を呼ぶ。村の彼方此方から、 物鴉来う、小豆餅呉るから来うこ。 野と歌う子供の声が聞えると、鴉の方でも此日を知って居るのかと思われる程、不思議に沢山な鴉 の群が何処からか飛んで来るのであった。 ニ八一やがてタ日が雪の上に赤々とかげる頃になると、家毎にヤロクロと謂うことをする。豆 じようまえ の皮や蕎奏の皮等を人れた桝を持ち、それを蒔きながら家の主人が玄関から城前までの間を、三 度往復する。其時には次の歌を声高に歌うのである。 ャロクロ飛んで来る。銭こも金こも飛んで来る。馬こ持ちの殿かな、べココ ( 牛 ) 持ちの殿か な。豆の皮もほがほが、蕎麦の皮もほがほが。 はらのヘ ャロクロとは遠野弥六郎様という殿様のことだそうで、其殿様が八戸から遠野へお国替えになっ て入部された時に、領内の民がお祝いをした行事が、今のヤロクロの元であると伝えられて居る。 語 ら なや ふもと
三一前にいう松崎沼の傍には大きな石があった。其石の上へ時々女が現われ、又沼の中では げんろく を織る梭の音がしたという話であるが、今はどうか知らぬ。元禄頃のことらしくいうが、時の殿 せき 様に松川姫という美しい姫君があった。年頃になってから軽い咳の出る病気で、兎角ふさいでば かり居られたが、或時突然と此沼を見に行きたいと言われる。家来や侍女が幾ら止めても聴人れ え ずに、駕籠に乗って此沼の岸に来て、笑みを含みつっ立って見て居られたが、いきなり水の中に じゃうろこ ただ 沈んでしまった。そうして駕籠の中には蛇の鱗を残して行ったとも物語られる。但し同じ松川姫 の入水したという沼は他にもまだ二三箇所もあるようである。 だいじゃ 三ニ橋野の中村という処にも昔大きな沼があった。其沼に大蛇が居て、村の人を取って食って 拾 たむらまろ 語ならなかった。村ではそれをどうともすることが出来ないで居ると、田村麿将軍は里人を憐れに おそ しかばね まっ 物思って、来て退治をしてくれた。後の祟りを畏れて其屍を里人たちはを建てて祀った。それ 野 が今の熊野神社である。社の前の古杉の木に、其大蛇の頭の形を木の面に彫って懸けて置く習わ たちあらいがわ しがあった。社の前の川を太刀洗川と謂うのは、田村麿が大蛇を斬った太刀を、爰に来て洗った からである。 三三橋野の沢の不動の祭は、旧暦六月二十八日を中にして、年によって二日祭と三日祭の、中 中盛んなる祭であった。この日には昔から、たとえ三粒でも必ず雨が降ると謂って居た。其わけ さめさんけい たぎつば は昔此社の祭の前の日に、海から橋野川を溯って、一尾の鮫が参詣に来て不動が滝の滝壺に入っ かわ たところが、祭日に余り天気がよくて川水が乾いた為に、水不足して海に帰れなくなり、わざわ ざ天から雨を降らせてもらって、水かさを増させて帰って往った。その由来があるので、今尚い さ小のほ あわ
かへ 還れりと云ふ。 * 糠前は糠の森の前に在る村なり、糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森糠塚多くあり。 七上郷村の民家の娘、栗を拾ひに山に入りたるまゝ帰り来らず。家の者は死したるならんと思 とりおこな まくらかたしろ ひ、女のしたる枕を形代として葬式を執行ひ、さて二三年を過ぎたり。然るに其村の者猟をして いはあな ごようざん 五葉山の腰のあたりに人りしに、大なる岩の蔽ひかゝりて岩窟のやうになれる所にて、図らす此 女に逢ひたり。互に打驚き、如何にしてかゝる山には居るかと問へば、女の日く、山に人りて恐 いささかすき ろしき人にさらはれ、こんな所に来たるなり。遁げて帰らんと思へど些の隙も無しとのことなり。 たけきは 語 其人は如何なる人かと問ふに、自分には並の人間と見ゆれど、たゞ丈極めて高く眼の色少し凄し あら 物と思はる。子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子には非ずと云ひて食ふにや殺すにや、皆 野何れへか持去りてしまふ也と云ふ。まことに我々と同じ人間かと押し返して問へば、衣類なども ひといちあひ * 一市間に一度か二度、同じゃうなる人四五人集り来て、 世の常なれど、たゞ眼の色少しちがヘり。 どちら 何事か話を為し、やがて何方へか . 出て行くなり。食物など外より持ち来るを見れば町へも出るこ とならん。かく言ふ中にも今にそこへ帰って来るかも知れずと云ふ故、猟師も怖ろしくなりて帰 りたりと云へり。二十年ばかりも以前のことかと思はる。 * 一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間は即ち五日のことなり。 よそ たそがれ 八黄昏に女や子供の家の外に出て居る者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。松崎村の ぞうり ゆくへ さむと 寒戸と云ふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまゝ行方を知らずなり、三十 年あまり過ぎたりしに、或日親類知音の人々其家に集りてありし処へ、極めて老いさらほひて共 おほ に あつま すなは