氏 - みる会図書館


検索対象: 遠野物語
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1. 遠野物語

田氏を喜ばせるに違いないという期待を持って、柳田家に伴ったのだと思われる。 佐々木が柳田氏に近づいたのは、当時の藤村・花袋等第一線作家たちのきわめて近くにあった 柳田氏への好奇心もあ「たろう。だが、氏は彼が遠野郷の伝説・信仰・風俗・昔話など、珍しい 民間伝承に通じているのを知って、何かば 0 と自分の興味に灯がともされたような気持がした。 佐々木はおそらく、不思議な伝承型の頭脳で、次から次へと限りもなく彼が繰り拡ける話題に、 まだ見ぬ遠野郷とそこの住民たちの世界が、眼前にまざまざと躍動して来るように思われた。氏 の脳裏に描き出されたその小盆地は、まるで氏のために存在したのではなかったかと思えるほど、 氏の関心する風景に充ち充ちていた。 たくわ 佐々木自身は、志は文学の創作にあり、自分が胸に蓄えている郷土の伝承が、姙何に価値のあ るものであるかは知らす、それを自分の名において採集し、記録し、研究しようという気持はな かった。だから柳田氏が、彼の語るところを筆録したいという申人れを快く引受け、毎月二日の 夜柳田邸に出掛けて口述した。その間の事情は、戦時中に山下久男氏が、ガリ版の小冊子として あて 刊行した柳田氏の佐々木宛の書簡集によって知ることが出来る。 ( これは書簡一〇八通を取め、 後に『定本柳田国男集』別冊第四に収録された。 ) この書物は、簡潔な文語体で書かれている。佐々木の話がどの程度に簡潔であ 0 たかは知らな いが、これは氏が思いき 0 て枝葉末節を苅りこんで、事実の記録だけに止めたものと思う。主観 を圧えて、記録の客観性だけに終始しようとする氏の文脈の中に、圧えても圧えきれぬ氏の学間 的昻奮の渦を、見出すことが出来る。私たちはこの小冊子を読み、そこに浮彫りにされた遠野郷 説 解

2. 遠野物語

解 して学び得べきもの。物の名称から物語まで、一切の言語芸術は是に人れられる。是が又土俗 誌と民間伝承論との『境の市場』であった。 わず 第三部は骨子、即ち生活意識、心の採集又は同郷人の採集とも名づくべきもの。僅かな例外 もはや を除き外人は最早之に参与する能わず。地方研究の必ず起らねばならぬ所以。」 ( 『民間伝承論』序 ) 氏が椎葉村での採集は、第一の「旅人の採集」であるが、氏の言う「しんみりと歩く」とか 「細かく見て歩く」とかいった方法によって、第二の「寄寓者の採集」によほど近づいていると 一一一口えよう。だが、佐々木喜善の遠野郷での採集は、第三の「同郷人の採集」に属する。全国に散 らばる氏の協力者は、氏が苦心して養成したかけがえのない人たちで、もちろん「同郷人の採集」 であり、彼等が行うきめのこまかい「心の採集」には、旅人や滞在者などのよそものは参加する ことが出来ないのである。 だから『遠野物語』は、佐々木喜善あって始めて書かれたものであり、柳田氏も『後狩詞記』 とともに、「精確には私の著書ということは出来ない」 ( 『予が出版事業』 ) と言っている。だが、佐 佐木の草稿に氏の筆が加わっている『遠野物語拾遺』が、氏の執筆でないとして『定本柳田国男 集』から省かれているのと同じではない。正篇の方は飽くまでも氏の執筆にかかり、その文体は 氏のものである。ということは、遠野の伝承の記録を通して、遠野に住む人びとの人生の哀愁を、・ あれほどきめこまやかに描き出すことが出来たというのは、佐々木喜善の採集もさることながら、・ それへの柳田氏の共感の深さであり、その筆の力なのである。 たとえば、山口孫左衛門の家には童女の神 ( ザシキワラシ ) が二人いるという久しい言い伝えが すなわ

3. 遠野物語

遠野物語 208 すいこう ろに持ちこまれたが、氏がその整理や推敲を加えているうちに、佐々木が待ちかねて『聴耳草 紙』を出したので、氏も拍子抜けして仕事を中絶してしまった。佐々木の死後、『遠野物語』の へんしゅう 重版を出す時に、鈴木脩一氏の編輯になる拾遺の原稿をも加えて出したのである。その事情は、 柳田氏の「再版覚書」と折ロ信夫の跋に記す通りである。柳田氏の執筆ではないとしても、その 意図は十分に生かされていて、遠野郷の実態がいっそうわれわれに親しいものとなって来るので ある。 昭和四十八年八月 山本健吉

4. 遠野物語

い人たちの知りたがる地方事実が増加したのである。」 ( 『予が出版事業』 ) がつば ふったち 『遠野物語』には山の神、里の神、家の神、山人、山女、雪女、河童、猿・犬の経立などについ ての怪異な話が充ち充ちている。『後狩詞記』で興味を抱き、胸にひそかに問題として蓄えてお いた山の神について、『遠野物語』はその疑問に答えるかのように、その豊富な資料を提供して じゅじゅっ いる。常民の生活意識をその根底において規制するものは、その信仰 ( 原始的な呪術を含めて ) であり、氏の学問的追求の根本には、神の問題を解くという願いがあった。 農政学から民俗学への転換の契機は何かということが、論者たちにいろいろと問題にされてい る。『遠野物語』執筆の前後には、両方の仕事が混交しているが、氏の農政学が経世済民の志を こうず 基にしているのに対して、民間伝承の採訪は如何にも好事的、趣味的に見えた。たが、これを政 治的な関心からの脱落と見るのは、柳田氏の真意をあまりにイデオロギッシ = にしか解しない者 の言であろう。もともと氏には、経世済民の志と並んで、文学への情熱があったが、それ以上に ちょうくう 宗教的心情の持主であったことを考えないわけには行かない。折ロ信夫の心の底に潜む「迢空的 暗黒」には人も気づくが、柳田氏の心にも底知れぬ「渾沌」が存在することに、人はあまり気づ これは氏が、客観的、合理的な思考者であったことと矛盾しない。神の問題は氏の心に 最初から宿っていた。そのことが、氏を単なる農政学者であることに満足せしめない。農民をも 含むところの日本の常民全体の心に宿る神とは何かという問いかけが、氏の学問的追求の根底に はあった。 いままで 「一口に言えば、 ( 柳田 ) 先生の学問は、『神』を目的としている。」「今迄の神道家と違った神を

5. 遠野物語

200 柳田氏は東京帝国大学法科大学政治科を卒業して、すぐ農商務省農務局農政課に人り、かたわ ら早稲田大学で農政学を講義した。氏は『故郷七十年』の中で、幼少年時代を振りかえ 0 て、十 一歳のころ饑饉の実態の悲惨さを経験し、十三歳のとき地蔵堂の絵馬によって、産褥の女が生れ せいさん 語 たばかりの嬰児を抑えつけている凄惨な絵を見て大きなシ , ' クを受け、それらの印象が自分を 物農民史研究に導く動機にな 0 たと言 0 ている。氏の学問につきまと 0 ている経世済民的思想は、 野その基づくところが遠い。農政課では、産業組合と農会法との啓蒙のために、旅行の機会が非常 に多かったが、この旅行好きは氏の終生の性向とな 0 た。「しんみりと歩く」という表現を氏は しているが、主として草鞋ばきの旅で、農民たちの生活外形の観祭に止まらず、その意識の底に 眠る渾沌とした徴妙なものに至るまで、膚で感じ取りたいと願う。このような旅行に、無類の読 書を加えて、それは氏を農政学や農民史の研究に止まらず、広く日本の常民の生活意識の根源に 横たわるものの探求に向わせたのであった。 氏の文学者とのつきあいは少年時代から始ま 0 ているが、明治三十五年ごろからは、花袋・独 歩・藤村らと談話会を開き、これが後の龍土会、またイプセン会の前身となった。あたかも柳田 家が彼等のサロンのような形となり、氏は巧みな座談で、いち早く外国の小説・戯曲の内容を紹 の生活と自然とにひたることによって、日本民俗学の成立という一つの事件に、まさに立ち会っ ていることになるのである。

6. 遠野物語

先生は求めていられる。」 ( 『先生の学問』 ) と、折ロ信夫は言っている。そして、柳田氏の学問と平 あったね 田篤胤の学問との類似点を、彼は挙げている。それは篤胤が、妖怪や仙人のことを調べ、神隠し とらきち にあった虎吉という少年を自分の家で養 - って、いろいろ実験し観察したことなどをいうのである。 あれほど客観的記述を重んじた柳田氏が、不思議なことに、少年時代に神隠しの経験を持ったよ うな、不思議な感受性を持っていた。氏の父君松岡操もまた、平田学派にかかわりがあって、中 へんげ 年から神官となった。神や祖先や魂や妖怪変化などは、氏の民俗学の中にはっきり位置づけられ、 それは民俗学の限界を逸脱しても追求された。そのことが、経世済民の志と並んで、常に氏の心 裡にあった。そしてその追求のいとぐちが、椎葉村や遠野郷が語り出す言葉の中にあった。農政 ひろが 物学を超えることで、柳田氏の世界はあの見事な拡りの世界を獲得することが出来た。 204 柳田氏にとって、諸国の民間伝承の採集は独力では限りがあり、多くの採集者を養成すること は、まず第一の課題であった。そのような同志の糾合をはかる前に、まず最初に見出した同志が 佐々木喜善だった。佐々木は遠野郷の伝承の採集者としては、願ってもない適任者であった。 後に柳田氏は、日本の民間伝承の採集を次のような三段階に分けている。 これ 「第一部は生活外形、目の採集、旅人の採集と名づけてもよいもの、之を生活技術誌というも いわゆる これ 可。在来の所謂土俗誌は主として是に限られ、国々の民間伝承研究は通例之に及ばなかった。 第二部は生活解説、耳と目との採集、寄寓者の採集と名づけてもよいもの。言語の知識を通 きぐうしゃ

7. 遠野物語

198 うしごめ 明治四十一年十一月四日、牛込加賀町の柳田氏の家へ、水野葉舟がはじめて佐々木喜善を連れ ぐんっちぶちむら て来た。佐々木は岩手県上閉伊郡土淵村の生れで、同郡山口村の農、佐々木家の養子となった。 物 このときは数えて二十三歳、早稲田大学の文科にはいり、文学に志を持ち、『芸苑』その他の雑 野誌に幾篇かの短篇小説を発表していた。号は鏡石。交友が広く、後にみずから希望し教師として しのぶ 遠野の学校へ赴任した折ロ信夫門下の民俗学者山下久男氏によれば、当時前田夕暮、水野葉舟、 三木露風とことによく往来していたという。 葉舟はそのころ歌人、小品文作家また自然主義小説家のひとりとして活躍し、古くから土曜会 ぶんご の常連で、柳田氏とも親しく、その文章にもあちこちに登場する。豊後の吉吾話 ( キッチョム話 ) の面白さを氏に説いたのも葉舟で、また氏の『遠野物語』が出た一、二年前に、東北旅行から還 よなまき って来て、花巻の某家で多量の郷土誌の写本を所蔵していることを、氏に告げたりもしている。 この東北旅行の縁で、彼は佐々木と知り合ったのだろう。柳田氏の民俗学への興味に傾いて行く のに、いちばん関心を寄せていた文学者仲間の一人で、佐々木喜善が語り出す郷里の奇聞が、柳 解説 かみへ ようしゅう

8. 遠野物語

幻 1 介したり、自分の見聞を彼等の小説の題材として提供したりした。日本の近代文学の主流に近く じゅうえもん 位置しながら、自分は創らず、彼等の創造力の鼓吹者となった。花袋が『重右衛門の最後』を書 ふとん いた時は、わざわざその家を訪ねて自分の感動を伝えたが、『蒲団』を書いた時は、不愉快で不 潔な小説として、面と向って激しく罵倒した。だがその『蒲団』が日本の自然主義の勝利を不動 のものにした記念碑的な作品で、その後日本文学の私小説への傾斜を不可避なものにしたのだか ら、その時の氏の姿勢が、当時の文壇と氏とを大きく背馳せしめることになったのである。 その後の文壇文学から氏の気持が離れたのは、それが自分の身辺記録にばかりこだわって、う その面白さを喪失してしまったということもあるが、根本はそれが都会の一部の知識人の世界に ばかり執着して、大多数の常民の世界を忘れてしまったからであった。 文壇に志を断ったことは、氏の専攻した農政学、農民史の研究へ打ちこむきっかけとなったは ずだが、そうはならないで、民間伝承への興味を次第に心の中でふくらませて行く。そのはずみ のちのかりことばのき をつけたのは、明治四十一年五月から八月へかけての、『後狩詞記』の採集を行なった九州旅 ひゅうが 行であった。この時は熊本を手はじめに五木から鹿児島県下をまわり、日向椎葉村から大分へ出 たが、奥深い山地の椎葉村では一週間ほど滞在して、村長中瀬淳から、ロまたは筆で伝えられて 来た狩の故実の話を聞いた。 この旅は、自分でも「九州の舎を細かく見た」 ( 『遊海島記』附記 ) と言われる旅だが、その頂 点に椎葉村行があった。椎葉へ行くきっかけは、熊本である人から日向奈須 ( 椎葉 ) の話を聞き、 あそだんしやくけ 興味を抱いて訪ねることを思い立ったのだが、その前に、同じく熊本の阿蘇男爵家へ招かれて、

9. 遠野物語

202 近代の模写品ながら下野の狩の絵が六幅あるのを見て、感動したことに基づいている。その絵に は獲物の数が実に夥しい上に、侍雑人に到るまでの行装が如何にも美々しか 0 た。その年々の狩 は、阿蘇神社の厳重の神事で、遊楽でも生業でもなか 0 たが、世の常の遊楽よりはるかに楽しい ものであ 0 たことが、この絵を見て納得された。そのかっての神事の名残である狩の慣習と作法 とを、椎葉村の生活は今において伝えていた。それをありのままに伝えることに、柳田氏の興趣 は動いたのだが、それは何も辺境の希風殊俗〈の好奇心というに止まらず、も 0 と広く日本人の 原初の生活を少しでも明らかにしたいという願いからである。下野の狩の絵は、弓矢を以てする 狩の黄金時代の記録であるのに対して、椎葉の狩詞の記録は、鉄砲を以てする狩の白銀時代の記 物録であり、そこに記された慣習と作法とが、黄金時代の楽しい神事の姿を垣間見させてくれるの である。柳田氏自身、この狩詞の採録を通して、かって厚い尊崇を捧げられていた山の神に、激 野 しい興味を掻き立てられているさまを覗うことが出来る。 椎葉村を訪れた年の十一月、氏は佐々木喜善に会い、東北の遠野郷の話を聴いた。『後狩詞記』 に次いで、『遠野物語』が、氏の自費による第二の出版となる。「西南の生活を写した後狩詞記が 出たからには、東北でも亦一つは出してよい。三百数十里を隔てた両地の人々に、互いに希風殊 俗というものは無いということを、心付かせたいというような望みもあ 0 た。幸いにこの比較研 究法は、是が端緒とな 0 て段々と発達して居る。それから今一つは前々年の経験、味をしめたと 謂「ては下品にも聴えるが、人には斯ういう報告にも耳を傾ける能力があるということは、あの 時代としては一つの発見であ 0 た。現にそれから後、急に美人や風景や名物の土産品以外に、若

10. 遠野物語

る。蓮台野という地があって、昔は六十を超えた老人はすべてこの地へ追い遣る習いだったとあ ならやましこう る。まるで『相山節考』のような習俗だが、老人はいたずらに死ぬことも出来ず、日中は里へ下 のり り農作して口を糊したという。 ( 一 こういう話が、淡々と、さりげない筆致で書かれているので、かえって感動が大きい。そして さる いしがわ つく・もうし ろっこ . うし この一冊を読むと、この人煙稀な小盆地の中の、早池峯山とか猿ケ石川とか附馬牛とか六角牛と おそ かいった地名が、この上なく親しいものとなり、ここに営まれる村人たちの自然を怖れ親しみそ けいけん れと一つに融け合った、敬虔でひっそりとした、・ サシキワラシやオシラサマや河童などとの共な ほうふつまぶた る生活が、彷彿と瞼に浮んでくるのである。 四 佐々木喜善がその後自分の名で『遠野雑記』を書き出したのは、明治四十五年以降のことであ そうしょ る。最初の著書は大正九年に炉辺叢書の一冊として刊行された『奥州のザシキワラシの話』であ るが、この時は彼の長い執心であった創作から全く心を断っていたようだ。そのことは私に、 田氏が一人の民俗学者、あるいは民間伝承採集者を育て上げるのに、どれほどの歳月と根気とを えさしぐん ろうおんやたん 要したかを想像させる。佐々木にはその後、『江差郡昔話』『東奥異聞』『老媼夜譚』『聴耳草紙』 などがある。後には村長になったが、ある事件で郷里にいられなくなり、仙台に移住し、昭和八 年九月二十九日に不遇のうちに死んだ。 鰤『遠野物語』はその後も続篇が計画された。柳田氏が彼に執筆をすすめ、大部な草稿が氏のとこ - 解 説 まれ はやちねさん