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検索対象: 遠野物語
175件見つかりました。

1. 遠野物語

あまおち 話好なれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落の石を枕にして仰臥したる男あり。よく見 れば見も知らぬ人にて死してあるやうなり。月のある夜なれば其光にて見るに、膝を立て口を開 きてあり。此人大胆者にて足にて揺がして見たれど少しも身じろぎせず。道を妨げて外にせん方 も無ければ、終に之を跨ぎて家に帰りたり。次の朝行きて見れば勿論其跡方もなく、又誰も外に 之を見たりと云ふ人は無かりしかど、その枕にしてありし石の形と在どころとは昨夜の見覚えの 通りなり。此人のく、手を掛けて見たらばよかりしに、半ば恐ろしければ唯足にて触れたるの みなりし故、更に何者のわざとも思ひ付かすと。 語 七八同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁にて生存す。曽て夜遊 物びに出でて遅くか〈り来たりしに、主人の家の門は大槌往還に向ひて立てるが、この門の前にて ゆきがつば 野浜の方より来る人に逢〈り。雪合羽を着たり。近づきて立ちとまる故、長蔵も怪しみて之を見た るに、往還を隔てゝ向側なる畠地の方へすっと反れて行きたり。かしこには垣根ありし襷なるに まさ と思ひて、よく見れば垣根は正しくあり。急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事 を語りしが、後になりて聞けば、此と同じ時刻に新張村の何某と云ふ者、浜よりの帰り途に馬よ り落ちて死したりとのことなり。 七九この長蔵の父をも亦長蔵と云ふ。代々田尻家の奉公人にて、その妻と共に仕〈てありき。 若き頃夜遊びに出で、まだ宵のうちに帰り来り、門のロより人りしに、溿前に立てる人影あり。 懐手をして筒袖の袖口を垂れ、顔は茫としてよく見えず。妻は名をおつねと云へり。おつねの 町所〈来たるヨパヒトでは無いかと思ひ、つか / \ と近よりしに、裏の方〈は遁げずして、却って ゆる おそ にひばり

2. 遠野物語

赤なるが冊で来れり。若者は気軽にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立 ちはだかりて上より見下すやうなるを面悪く思ひ、思はず立上りてお前はどこから来たかと問ふ に、何の答もせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思ひ、カ自慢のまゝ飛びかゝり手を掛けたり と思ふや否や、却りて自分の方が飛ばされて気を失ひたり。夕方に正気づきて見れば無論その大 男は居らす。家に帰りて後人に此事を話したり。其秋のことなり。早池峯の腰 ~ 村人大勢と共に 馬を曳きて萩を刈りに行き、さて帰らんとする頃になりて此男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねた れば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死して居たりと云ふ。今より二三十年前の ことにて、此時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多く居ると云ふことは昔よ あだな にかじよう 物り人の知る所なり。 野九一遠野の町に山《の事に明るき人あり。もとは南部男爵家の鷹匠なり。町の人綽名して鳥御 前と云ふ。早池峯、六角牛の木や石や、すべて其形状と在所とを知れり。年取りて後茸採りにと て一人の連と共に出でたり。この連の男と云ふは水練の名人にて、藁と槌とを持ちて水の中に人 り、草鞋を作りて出て来ると云ふ評判の人なり。さて遠野の町と猿 , 行既を隔 0 る向山と云ふ山 より、綾織村の続石とて珍しき岩のある所の少し上の山に人り、両人別れ / 、になり、鳥御前一 人は又少し山を登りしに、も秋の空の日影、西の山の端より四五間ばかりなる時刻なり。ふと 大なる岩の陰に赭き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢ひたり。彼等は鳥御前の近づ くを見て、手を拡けて押戻すやうなる手つきを為し制止したれども、それにも構はず行きたるに 女は男の胸に縋るやうにしたり。事のさまより真の人間にてはあるまじと思ひながら、鳥御前は だんしやく

3. 遠野物語

たいや ニ三同じ人の二七日の逮夜に、知音の者集りて、夜更くるまで念仏を唱へ立帰らんとする時、 門ロの石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。其うしろ付正しく亡くなりし人の通りなりき。此 あまた ゅゑ は数多の人見たる故に誰も疑はず。姙何なる執着のありしにや、終に知る人はなかりし也。 だいどう * ニ四村々の旧家を大同と云ふは、大同元年に甲斐国より移り来たる家なればかく云ふとのこと あら なり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに非ざ るか。 びたちのこくし * 大同は大洞かも知れず、洞とは東北にて家門又は族といふことなり。常陸国志に例あり、ホラマへ と云ふ語後に見ゅ。 物ニ五大同の祖先たちが、始めて此地方に到着せしは、歳の暮にて、春のいそぎの門松を、 野まだ片方はえ立てぬうちに早元日になりたればとて、今も此家々にては吉例として門松の片方を しめなは 地に伏せたるまゝにて、標縄を引き渡すとのことなり。 ニ六柏崎の田圃のうちと称する阿倍氏は殊に聞えたる旧家なり。此家の先代に彫刻に巧なる人 ありて、遠野一郷の神仏の像には此人の作りたる者多し。 はやちね すなはしもへ ニ七早池峯より出でて東北の方宮古の海に流れ人る川を閉伊肝と云ふ。其流域は即ち下閉伊郡 なり。遠野の町の中にて今はのと云ふ家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、此川の漿台 の淵と云ふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を撼す。遠野の町の後なる物見山の中腹 たた あてな みちみち にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人出で来べしとなり。此人請け合ひはしたれども路々心に ろくぶ 四掛りてとつおいっせしに、一人の六部に行き逢へり。此手紙を開きよみてく、此を持ち行かば ふち たんぼ みやこ この かひのくに つきまさ なり これ

4. 遠野物語

っちぶら 七四栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。何れのカクラサ ぶかっこう マも木の半身像にてなたの荒削りの無恰好なるもの也。されど人の顔なりと云ふことだけは分る なり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したまふべき場所の名なりしが、其地に常いま す神をかく唱ふることゝなれり。 はなれもり 七五離森の長者屋敷にはこの数年前まで燐寸の軸木の工場ありたり。其小屋の戸口に夜になれ さび ば女の伺ひ寄りて人を見てげた / 、と笑ふ者ありて、淋しさに堪へざる故、終に工場を大字山口 まくらぎきりだしため に移したり。其後又同じ山中に枕木伐出の為に小屋を掛けたる者ありしが、夕方になると人夫の はうぜん 者何れへか迷ひ行き、帰りて後茫然としてあること既、新なり。かゝる人夫四五人もありて其後も 物絶えず何方へか出でて行くことありき。此者どもが後に言ふを聞けば、女が来て何処へか連れ出 野すなり。帰りて後は二日も三日も物を覚えずと云へり。 ぬか , もり あと 七六長者屋嗷は昔時長者の住みたりし址なりとて、其あたりにも糠森と云ふ山あり。長者の家 の糠を捨てたるが成れるなりと云ふ。此山中には五つ葉のうつ木ありて、其下に黄金を埋めてあ まれまれ ありか りとて、今も其うつぎの有処を求めあるく者稀々にあり。この長者は昔の金山師なりしならんか、 おんどく かす 此あたりには鉄を吹きたる滓あり。恩徳の金山もこれより山続きにて遠からず。 * 諸国のヌカ塚スクモ塚には多くは之と同じき長者伝説を伴へり。又黄金埋蔵の伝説も諸国に限なく 多くあり。 七七山口の田尻長三郎と云ふは土淵村一番の物持なり。当主なる老人の話に、此人四十あまり おのおの の頃、おひで老人の息子亡くなりて葬式の夜、人々念仏を終り各く帰り行きし跡に、自分のみは いづかた その

5. 遠野物語

野原に棄てさせた。すると其翌日家の者が起きて土間の地火炉に火を焚こうとして見ると、昨日 の犬が赤くなって来てあたたまって居た。驚いて再び殺し棄てたが、其事があって間も無く、続 けさまに馬が七頭も死んだり、大水が出て流されたりして、家が衰えて終に滅びてしまった。豪 家の没落には何かしら前兆のあるもののように考えられて居る。 一三五青笹村大字中沢の新蔵という家の先祖に、美しい一人の娘があった。ふと神隠しにあっ ゆくえ て三年ばかり行方が知れなかった。家出の日を命日にして仏供養などを営んで居ると、或日ひょ かえ ろっこうしやまぬし つくりと家に還って来た。人々寄り集まって今まで何処に居たかと訊くと、私は六角牛山の主の 拾 ところに嫁に行って居た。あまりに家が恋しいので、夫にそう言って帰って来たが、又やがて戻 語って行かねばならぬ。私は夫から何事でも思うままになる宝物を貰って居るから、今に此家を富 物貴にして遣ろうと言った。そうして其家はそれから非常に裕福になったという。其女がどういう 風にして再び山へ帰って往ったかは、此話をした人もよくは聴いて居なかったようである。 なべさか 一三六遠野の豪家村兵の家の先祖は貧しい人であった。或時愛宕山下の鍋ケ坂と云う処を通り かかると藪の中から、背負って行け、背負って行けと呼ぶ声がするので、立ち寄って見ると、一 これ まっ 体の仏像であったから、背負って来て之を愛宕山の上に祀った。それから此家はめきめきと富責 になったと言い伝えて居る。 一三七遠野の町の某、或夜寺ばかりある町の墓地の中を通って居ると、向うから不思議な女が 一人あるいて来る。よく見ると同じ町でつい先頃死んだ者であった。驚いて立留って居る処へつ これ かっかと近づいて来て、是を持 0 て行けと言うてきたない小袋を一つ手渡した。手に取「て見る ちから ほとけくよう

6. 遠野物語

ことばた 四九土淵村字栃内の山奥、琴畑という部落の人口に、地蔵端という山があって、昔からそこに おおむかい 地蔵の堂が立って居た。此村の大向という家の先祖の狩人が、或日山に入って一匹の獲物も無く びつこ て帰りがけに、斯んな地蔵がおらの村に居るからだと謂って、鉄砲で撃って地蔵の片足を跛にし た。其時から地蔵は京都へ飛んで行って、今でも京都の何とかいう寺に居る。一度村の者が伊勢 いきあ 参宮の序に、此寺へ尋ねて行って、其地蔵様に行逢って戻りたいと言うと、大きな足音をさせて 聴かせたという話もある。今の地蔵端の御堂は北向きに建ててある。それは京都の方を見ないよ うにという為だそうなが、其わけはよく解らない。 にしもんだて 五〇綾織村字新崎の西門館という小さな丘の上に、一本の老松があって其根もとに八幡様だと かけはとけ 語いう祠がある。御神体は四寸まわり位の懸仏であるが、御姿が耶蘇の母マリヤであるという説も 物ある。此神像は昔から、よく遊びあるくので有名である。 ばとうかんのん 五一土淵村栃内の久保の観音は馬頭観音である。其像を近所の子供等が持ち出して、前阪で投 そり べっとう げ転ばしたり、又橇にして乗ったりして遊んで居たを、別当殿が出て行って咎めると、直ぐに 其晩から別当殿が病んだ。巫女に聞いて見たところが、折角観音様が子供等と面白く遊んで居た さわ のを、お節介をしたのが御気に障ったというので、詫び言をしてやっと病気がよくなった。此話 をした人は村の新田鶴松という爺で、其時の子供の中の一人である。 かしわざきあしゆらしゃ 五ニ又同村柏崎の阿修羅社の三面の仏像は、御て五尺もある大きな像であるが、此像をやつば り近所の子供等が持ち出して、阪下の沼に浮べて船にして遊んで居たのを、近くの先九郎どんの 祖父が見て叱ると、却って阿修羅様に祟られて、巫女を頼んで詫びをして許してもらった。 ほこら ため じぞうばた

7. 遠野物語

142 一六九佐々木君の知人岩城某という人の祖母は、若い頃遠野の侍勘下氏に乳母奉公に上 0 て居 あるよふ た。或晩夜更けてから御子に乳を上げようと思って = チコの〈行くと、年ごろ三十前後に見え る美しい女が、エチコの中の子供をつげつげと見守って居た。驚いて隣室に寝て居た主人夫婦を 呼び起したが、其時には女の姿は消えて見えなかったと謂う。此家では二三代前の主人が下婢に 通じて子供を産ませたことがあったが、本妻の嫉妬がはげしくて、其女はとうとう毒殺されてし まった。女には其前から夫があったが、此男までも奥方から憎まれて、女房の代りだからと言っ て無慈悲にこき使われたと謂う。岩城君の祖母が見たのは、多分殺された此下婢が怨んで出て来 うわさ た幽霊であろうと噂せられた。また或時などは、此人が雨戸を締めに行くと、戸袋の側に例の女 物が坐って居たこともあったそうである。 野一七〇ノリ「シと謂う化け物は影法師の様なものだそうな。最初は見る人の目の前に小さな坊 主頭となって現われるが、はっきりしないのでよく視ると、その度にめきめきと丈がのびて、遂 まで に見上げる迄に大きくなるのだそうである。だからノリコシが現われた時には、最初に頭の方か ・こんぞう ら見始めて、段々に下へ見下して行けば消えてしまうものだと謂われて居る。土淵村の権蔵とい かじゃ う鍛冶屋が、師匠の所へ徒弟に行って居た頃、或夜遅く余所から帰って来ると、家の中では師匠 の女房が燈を明るく灯して縫物をして居る様子であった。それを障子の外で一人の男が隙見をし あとずさ て居る。誰であろうかと近寄って行くと、其男は段々に後退りをして、雨打ち石のあたりまで退 いた。そうして急に丈がするすると高くなり、とうとう屋根を乗り越して、蔭の方へ消え去った レ」田月っ -0 みおろ しっと この いんげ すきみ

8. 遠野物語

かへ 還れりと云ふ。 * 糠前は糠の森の前に在る村なり、糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森糠塚多くあり。 七上郷村の民家の娘、栗を拾ひに山に入りたるまゝ帰り来らず。家の者は死したるならんと思 とりおこな まくらかたしろ ひ、女のしたる枕を形代として葬式を執行ひ、さて二三年を過ぎたり。然るに其村の者猟をして いはあな ごようざん 五葉山の腰のあたりに人りしに、大なる岩の蔽ひかゝりて岩窟のやうになれる所にて、図らす此 女に逢ひたり。互に打驚き、如何にしてかゝる山には居るかと問へば、女の日く、山に人りて恐 いささかすき ろしき人にさらはれ、こんな所に来たるなり。遁げて帰らんと思へど些の隙も無しとのことなり。 たけきは 語 其人は如何なる人かと問ふに、自分には並の人間と見ゆれど、たゞ丈極めて高く眼の色少し凄し あら 物と思はる。子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子には非ずと云ひて食ふにや殺すにや、皆 野何れへか持去りてしまふ也と云ふ。まことに我々と同じ人間かと押し返して問へば、衣類なども ひといちあひ * 一市間に一度か二度、同じゃうなる人四五人集り来て、 世の常なれど、たゞ眼の色少しちがヘり。 どちら 何事か話を為し、やがて何方へか . 出て行くなり。食物など外より持ち来るを見れば町へも出るこ とならん。かく言ふ中にも今にそこへ帰って来るかも知れずと云ふ故、猟師も怖ろしくなりて帰 りたりと云へり。二十年ばかりも以前のことかと思はる。 * 一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間は即ち五日のことなり。 よそ たそがれ 八黄昏に女や子供の家の外に出て居る者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。松崎村の ぞうり ゆくへ さむと 寒戸と云ふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまゝ行方を知らずなり、三十 年あまり過ぎたりしに、或日親類知音の人々其家に集りてありし処へ、極めて老いさらほひて共 おほ に あつま すなは

9. 遠野物語

たそうである。是は大正の始め頃のことで、見たという本人は其頃五十位の年配であった。 よぎくさ 一 0 五同じ頃の話だと謂うが、松崎村字駒木の子供が西内山で一人の大男に行逢った。罠草刈 ふじづる 時の或日の午過ぎのことであった。其男は普通の木綿のムジリを着て、肩から藤蔓で作った鞦の へび 様な物を下げて居た。其中には何匹もの蛇がぬたくり廻って居たそうである。子供は驚いて、路 くさむら 傍の草叢に人った儘すくんで居ると、其男は大急ぎで前を通り過ぎて行ってしまった。それでや っと生きた心持になり、馳出して村に帰り着いたという。正月遊びの夜、若者たちから聞いた話 である。 つくもうし 語 一 0 六土淵村栃内和野の菊池栄作と云う狩人が、早池峯に近い、附馬牛村の大出山中で狩り暮 物し、木の間から洩れ人る薄明りをりに自分の小屋へ帰「て来る途中で、突然一人の男に出逢っ 野た。其男は目をきらきらと丸くして此方を見守りつつ過ぎるので怪しく思って、どちらへと言葉 まきば をかけて見た。すると其男は牧場小屋へ行きますと言って、密林を掻き分けて人って行ったと謂 う。佐々木君は此狩人と友人で、是も其直話であったが、冬期の牧場小屋には番人が居るはな いと言うことである。其男の態は薄暗くてよく分らなかったが、麻のムジリを着て、藤蔓で編ん たけ だ鞄を下げて居たそうである。丈はときくと、そうだなあ五六尺もあったろうか、年配はおら位 だったと言う答えであった。大正二年の冬頃のことで、当時此狩人は二十五六の青年であった。 しもへ 一 0 七下閉伊郡の山田町へ、関口という沢から毎市日の様に出て来ては、色々な物を買って戻 ひげ る男があった。顔中に鬚が濃く、眼色が変って居るので、町の人はあれはただの人間ではあるま いと言って、殺して山田湾内の大島に埋めた。其故であったか、其年から大変な不漁が続いたと びる この かけだ これ そのゆえ にしないやま その おおいで

10. 遠野物語

おおづちはま 或時大槌浜の人たちが船にしようと思って、此木を所望して伐りにかかったが、いくら伐っても 翌日行って見ると、切屑が元木に附いて居てどうしても伐り倒すことは出来なかった。皆が困り きって居るところへ、ちょうど来合せた旅の乞食があった。そういう事はよく古木にはあるもの 上うや だが、それは焼伐りにすれば難無く伐り倒すことが出来るものだと教えてくれた。それで漸くの さか つほギりふち ことで此栃の木を伐り倒して、金沢川に流し下すと、流れて川下の壺桐の淵まで行って、倒さに そのまま 落ち沈んで再び浮び揚がらす、其儘その淵のぬしになってしまったそうな。この曲栃の家には美 しい一人の娘があった。いつもタ方になると家の後の大栃の樹の下に行き、幹にもたれて居り居 語 りしたものであったが、其木が大槌の人に買われて行くということを聞いてから、斫らせたくな きちがい 物 いと譿って毎日毎夜泣いて居た。それがとうとう金沢川へ、伐って流して下すのを見ると、気狂 野の様になって泣きながら其木の後に附いて往き、いきなり壷桐の淵に飛込んで沈んで居る木に抱 なきがらつい き附いて死んでしまった。そうして娘の亡骸は終に浮び出でなかった。天気のよい日には今でも 水の底に、羽の生えたような大木の姿が見えるということである。 きとく おおがま おしよう っ ~ 、・もうし ニニ附馬牛村東禅寺の常福院に、昔無尽和尚の時に用いられたという大釜がある。無尽は碩愆 かゆ うんすい の師であって、不断二百余人の雲水が随従して居たので、いつも此釜で粥などを煮て居たもの はじめ であるという。初には夫婦釜と謂って二つの釜があった。東禅寺が盛岡の城下へ移された時、此 釜は持って行かれるのを冊がって、夜々異様の唸り声を立てて、本堂をごろごろと転げまわった。 と ) とうかっ 愈く担ぎ出そうとすると、幾人がかりでも動かぬ程重くなった。それでも雌釜の方だけはとうと おおはぎ う担き挙げられて、同じ村の大萩という処まで行ったが、後に残った雄釜を恋しがって鳴出し、 ころ