なくなるであろう。そしてその意味では、イデア論は文字どおりに理想主義一 dea デ m だったのである。 こうして、数学や道徳に関しては、この世に存在するもののほかに、イデアの イテア界の諸領域 存在を認めなければならぬことが理解されたであろう。事実、プラトンがイデ アとしてあげているのも、主として数学や道徳に関するものなのである。 それでは、イデアはそれらのものに限られるのであろうか。もし、「同じ名まえをもっ多なるもの に対しては、それぞれ一つのエイドスを措定するのがわれわれのならわしである」という、 『国家』の なかで語られている原則を徹底するならば、およそ共通の述語となりうるものは、なんであれ、イデ アでなければならぬことになるだろう。たとえば、人間という述語が、太郎にも次郎にも三郎にも、 その他の人にも共通につけられるなら、それらすべての人間に対して、一つの人間のイデアがあるこ とになるだろう。同様に犬のイデアも馬のイデアも、火のイデアも水のイデアもあるだろう。また自 ち 然物だけでなく、机ゃいすなどの人工物にもイデアがあるだろうし、そのうえ、毛髪や泥土や汚物に 家 もイデアを考えなければならぬであろう。 想 しかしイデア論の批判がなされている『パルメニデス』では、これらのイデアのあるものについての ス はプラトンの考えは懐疑的であり、他のものについては否定的である。だがこの点は、他の対話編で いわれていることとの間にも不一致があるし、またアリストテレスの証言との間にもくいちがいがあ るので、はたしてプラトンがイデア界の領域をどこで限ったかについては明確なことはいえない。 でいど
テレスのほうがむしろ天 -1-2 を指さしている人であ「て、プラトンは逆に、「洞窟の比喩」のなかで述 べられているように、洞窟を出て真理の観照を楽しんでいる哲学者に、もう一度洞窟へおりることを 義務として課した人だ「たのである。これはアリストテレスの哲学の根本性格が、行なうことや作る ことにではなくて、ひたすら観ること、あるいは理解することにあったことを示しているものでもあ さてここではアリストテレスの学問の全領域について概観する余裕はないから、 イテアから形相へ プラトンの思想をイデア論に限ってみてきたように、アリストテレスの思想も、 このイデア論に対して彼がどのような態度をとったかを中心にして、その特色の一端に触れるだけに とどめておこう。 アリストテレスは種々の個所で、イデア論の難点を数多く列挙しているが、その批判の根本は要す るに次のことにある。すなわち、イデアは、アリストテレスの術語でいえば、「普遍」なのであるが、 この普遍が独立に存在する、と考えられているところに、イデア論の誤りがあるのである。というの は、彼によれば、独立に存在するのは、「この人」とか「この赤い花 , とかいうような特定の個物だ けなのであって、「人間」とか「赤」とかいうような普遍が、独立に存在することはできないからで ある。したがって、そのような普遍に「そのもの」という語を付加することによって、「人間そのも の」とか「赤そのもの」とかいうようなイデアの存在を、個々の人間や赤いもののほかに考えるとし 292
すでに述べたように、プラトンの初期対話編のなかには、ソクラテスが勇気、節制、正義、敬虔な どの徳について、それらが「なんであるか」をたずねたしだいがいきいきと描かれている。その際、 ソクラテスの期待していた答えは、それぞれの徳の一つの事例ではなく、多くの事例に共通してみら れる、それぞれの徳の本質であった。たとえば、『ラケス』において、勇気とはなんであるかが問わ れたとき、戦場において「隊列のなかにふみとどまって逃げないこと」というような、勇気のある行 為の一つの事例が求められていたのではない。そうではなく、勇気のある行為は、戦場以外にも、病 気、海難、その他多くの機会に示されるわけだから、それらすべての場合において、勇気があるとい われる行為が共通してもっているところの、同じ一つの特性がなんであるかをソクラテスはたずねて いたのである。 ところで、この多くの場合に、またはすべての場合に共通な同じ一つの特性が、 対話編にみるイテア ときには「イデア」とか「エイドス」とかの語でよばれているのをわれわれ はみることができる。アリストテレスの術語でいえば、それが普遍なのである。たとえば、敬虔とは なんであるかを扱った『エウテプロン』のなかで、すべての敬虔な行為は、それらが、敬虔な行為 であるという点では、一つのイデアをもっているといわれている場合がそれである。あるいは、「す べての敬虔な行為をして敬虔な行為たらしめているところの、かのエイドス」というような言い方も なされている。もっともこの場合の「イデア」とか「エイドス」とかいう語は、「姿」とか「形ーと 272
すなわちへラクレイトス派によれば、万物は流転し、感覚されるものは常に変化しているのである から、それについてはほんとうの意味での知識はありえないだろう。なぜなら、あるものを知ろうと しても、そのものはすぐに別のものに変化してしまうからである。しかしそうかといって、その時々 の感覚や知覚を知識と同一視することもできない。ものがある ( 真である ) ということは、感覚される とか思われるとかいうことと同じではないからである。そこで、もし知識がなりたつべきなら、その 対象は感覚されるものとは別の、恒常的で不変不動のものでなければならないが、それこそまさにイ デアとよばれるものだったのである。これは「知る」ということに対するソクラテスの厳格な要求が 生んだ必然の帰結だったのであり、それゆえにまた、ソクラテスの求めていた「普遍的なもの」が、 感覚物から独立に存在するとされなければならなかったわけでもある。 いかなるとキ一に , も こうして、一方には、一つの姿を保ち、常に同じ状態にあり、 イテアの世界と 現象の世界 けっしてどんな変化をもうけないところの、真の知識の対象としてのイデアがあ り、他方には、多くの姿をとり、ときに応じていろいろな状態に変化し、生成消滅するところの感覚 物があることになり、イデアの世界と現象の世界、知性界と感性界という、二世界説が説かれること になった。これは歴史的にはパルメニデスの思想につながるものであるが、このような考え方をプラ きよもう この現象世界を虚妄として退け トンは終生保持しつづけたのであった。ただし、エレア派のように、 たのではない。 2 网
、同一の名まえをもっ多くの主語に対 なお、イデアには、さきほどもいったように 残された問題 する共通の述語としての、論理学的な側面がある。そして共通の述語も、個々の主 語から区別しなければならぬものである。なせなら、太郎が人間と即一であるならば、太郎は次郎と は異なるものである以上、次郎は人間ではないことになるからである。そしてこのような述語づけの 問題についての当時の奇弁を克服するための策として、イデア論は生まれたと解釈される個所もない ではない。 しかしながら、さきほども述べたように、共通の述語となりうるものがすべてイデアであ るかどうかには問題があるだけではなく、共通の述語というような論理学上の普遍を、ただちにイデ アとして認めてよいかどうかにもっと問題があるのである。というのは、イデア論は論理学上のこと であるよりも、まず存在論だったからである。すなわち、イデアはなによりも真実在であり、永遠不 変の独立存在であって、それは単なる意識内容としての観念ではないのと同様に、個物から共通性質 を抽象してつくられた、いわゆる概念のごときものでもないからである。 しかしそれはそれとして、イデア論についてはまだまだ多くの説明が残されている。これまでは主 としてイデアの超越性について語ってきたのであるが、しかしイデアは個物とは無関係に単に超越的 に存在しているのではない。「美しいものが美しいのは美のイデアによってである」といわれるよう なイデアの共有性の問題、すなわちイデア原因説の説明が残っているし、またイデア相互の関係や、 特にイデア界の頂点に位して、「学ばなければならぬ最大のもの」といわれている善のイデアについ 2 ア 8
人をなっかせす、その四年後には暗殺されてしまう。そしてけつきよく、イタリアに逃亡していたデ イオ = = シオス二世は、プラトンの死の年、ふたたびシ = ラクサイに帰って支配することになるので ある。 これらの事件の推移をプラトンは複雑な気持で見まもりながら、ディオンに対しても、その死後に は彼の同志たちに対しても、激励と勧告と訓戒とを与えている。その内容をわれわれは彼の残された 書簡から知ることができるが、そこにみられるのは、きわめて現実的で思慮にとんだ老政治家プラト ンのすがたである。 こうして、プラトンの晩年二〇年間は、シュラクサイの現実政治にまきこまれた生活であったが、 彼の内には猛然たる創作欲がわき、かずかすの重要な対話編が書かれているこ しかし他方ではまた、一 『ソフィステス』、『政治家』、『フィレポス』、『ティマイオス」、『法律」 とも忘れられてはならない。 などのいわゆる後期作品は、この期間に書かれたものである。そしてそのような著作活動をつづけなた がら、前三四七年、八〇歳で彼はその生涯を閉じた。プラトンの目は西方にだけ注がれていたように想 みえるが、北方マケドニアの脅威はしだいに大きくなり、彼の死後一〇年目には、カイロネイアの一の 戦によって、ギリシアは自由と独立とを失うことになったのである。 さて、プラトンの思想については、ここではその全体を述べる余裕はないか 9 フラトンのイテア論 ら、彼の根本思想と目されているイデア論にかぎって、それもごく平易な解
かいうような日常普通の意味に近いものとして使用されているのであって、それらは初期対話編にお いてはまだ個々の事例に内在する共通な特性をさしているにすぎない。けれども中期対話編になると、 これらの語は術語化されて、その意味も単なる姿や形ではなく、感覚物よりひきはなされた、それ自 体で独立に存在する真実在の意味に用いられるにいたるのである。 こうしてアリストテレスもいうように、個物に内在する普遍的なものを、個物からひきはなして独 立存在としたというこの点で、プラトンはソクラテスから区別されるのであり、イデア論はここから はじまるわけなのである。なぜ独立存在としなければならなかったかという、イデアの超越性の問題 についてはあとで触れることにして、ともかく以上によって、イデア論がソクラテスの普遍を定義し ようとするしごとの延長上に生まれたというアリストテレスの証言は、一応確かめられたであろう。 もっと簡単にいえば、ソクラテスの「なんであるか」と、う司、 し尸しに対して、その問いが完全に答え られた場合、ちょうどその答えにあたるもの、つまり「まさにそれであるところのもの」が、プラト ンのいうイデアであったといってよいかもしれない。 想 ところで、アリストテレスの証一言には、もう一つ、ヘラクレイトス派の思想がの ヘラクレイトス派 ス の影響 間接的にイデア論の形成に寄与したことがいわれていた。そしてこの点につい ても、われわれは『クラテ = ロス』や『テアイテトス』などの対話編によって、アリストテレスの証 言を確かめることができる。
6 万学の祖アリストテレ 9 ス・ アカデメイアの頭脳 リュケイオンの創設 プラトン対アリストテレ ス 彼の学問の特色 遍歴時代 学問体系の分類 ヘレニズム世界 2 魂の医師ェビクロス アカデメイアの開設 のコスモ。ホリー 生涯のあらまし シュラクサイ事件 の運命 晩年のプラトン 2 工。ヒクロスの園 哲学者から科学者へ プラトンのイデア論 イデアから形相へ 哲学の目的は心の平静 アリストテレスの証一 = ロ素材と形相 誤解を生んだ快楽説 対話編にみるイデア 思想史上のアリストテレ 1 ヘレニズム時代の開幕自然研究の意義 ヘラクレイトス派の影響ス = の死の恐怖 イデアの世界と現象の世 アレクサンドロス以降の神々への恐怖 界 「星の神学」批判 政治地図 道徳の場合 ポリスからコスモポリス へ イデア界の諸領域 残された問題 3 初期ストア派の思想 「東洋の復讐」 コスモポリスの観念 たよれるのは自分だけストア派の系譜 運命ととりくむ諸思想「エジプトのぶどう蔓ー とよばれたゼノン 秘儀宗教の流行 その後のペ リバトス派拳闘家出身のクレアンテ ス 注釈が伝統に ストア体系の完成者クリ アカデメイア派の場合 ュシッポス 哲学の三つの部門 「アリストテレス著作集」 326 312
であるから、したがってイデア論とは一般的にいえば、感覚によってとらえられるこの現象世界の、 雑多で、不完全で、生成消滅する諸存在のほかに、それらから独立して、知性の対象であるところの、 完全で、永遠不滅の、絶対的な真実の存在があるという考え方なのである。 アリストテレスそれでは、このような考え方はどうして生まれたのであろうか。それについては の証言 プラトン自身はほとんど説明していない。むしろ、イデアの存在は自明のことと けいじじようがく して前提されているだけなのである。そこで一般には、アリストテレスが『形而上学』のなかで述べ ていることが、イデア論の成立の由来を明らかにするものとして利用されている。そのアリストテレ スの説明というのは、要約すれば次のような内容のものである。すなわち、ソクラテスは倫理的な事 がらについて普遍的なものを求め、これを定義することに意を用いたが、。 フラトンもこのしごとを継 承したのであった。しかしその定義は感覚的なものについてではなく、それとは別の存在についてな されるというふうに彼は考えた。というのは、ヘラクレイトス派の人たちのいうように、感覚的なもた のは常に変化しているのであるから、それについては普遍的な定義はありえないからである。そこで の 彼はこの定義が可能となるような、感覚的なものとは別の存在をイデアと名づけたというのである。 ス このアリストテレスの証言は、抽象的ではあるし、それに彼自身の術語によって言いなおされても いるから、これだけでは理解されにくいかもしれない。そこでわれわれはこの証言をプラトンの対話 編に即してもう少し具体的に裏づけてみよう。
在することはできないわけである。 こうして、普遍としてとらえられたイデアの独立性は否定されたのであるが、しかし 素材と形相 イデア論の考え方そのものまでがまったく捨てさられたのではない。。 フラトンの超越 的なイデアは、アリストテレスにおいては個物に内在する形相として生かされることになるのである。 それはもう一度ソクラテスの立場にまでひきかえすことを意味する。というのは、すでに述べたよう に、プラトンのイデアは、ソクラテスの「なんであるか」という問いの、ちょうどその答えにあたる ものとして、「まさにそれであるところのもの」であったわけであるが、それは本来、ある個物をし てそのものたらしめている本質なのであった。そしてこの、ものの本質を定義の形でことばにいいあ らわしたものが、そのものの形相だからである。 しかしこの形相をそれだけひきはなして考えるのではなく、それは常に素材とともに相関的にある ものとして、つまり個物を形相と素材の合成体として考えるのがアリストテレスの立場なのである。 えんご たとえば家を説明するのに、「雨露をしのぐ掩護物」というふうにだけいわないで、「石や材木で作ら れているもの」という素材の面をもつけくわえることを忘れないのである。このように、数学を思考 の範型としたプラトンが、ものの形相だけを抽象して考える傾向があったのに対して、常に自然学者 の目でものを観ていたアリストテレスは、いつも素材をつけくわえて考えていたわけである。 そしてこの素材ー形相という対概念は、さらに、可能ー現実という対概念こ、 . ~ しいなおされることに 294