ヘロドトスもいっているように、ホメロスやヘシオドスの手を経て、あるいは修正され、あるいは整 理統合され、われわれの知る形の神話に集大成されたのである。しかし、神話の神話たるゆえんは、 とい一つとこ 人間の頭のなかで考えだされ、事実と対立するフィクションの物語としては意識しない、 ろにある。今日、科学の解明するものが自然の本体であると普通考えられるように、神話の世界に生 きた人は、 話が事実そのものをあらわしていると考えていたのである。経験的な検証を許し、とら われない理性の活動とその要求から結果するものはロゴスであるが、神話は上述のようにそれとはま ったく異質のものである。現実 ( 真理 ) 、ロゴス、神話がまだ分離せす、ロゴスはまだロゴスだけで発 動せす、現実が神話に無意識に一致させられているのが、その特質である。それは理性の反省を欠く、 素朴な、文明最初期の意識の産物である。 神話とロゴスのしかし、人間は理性的動物である。人類の進化は、理性の展開の歩みである。神 かみあい 話の権威は、それが太古から伝えられ、人々の心と日々の生活万般を支配してきめ ているという「事実」にもとづくのみであり、理性に基礎づけられたものではない。理性がめざめ、 し をの結果ロゴスが形成されていくとき、必然的に神話はロゴスにさらされる。現実 ( 真理 ) と神話との 素朴な、即自的な一致は、当然ロゴスの批判をうけなければならない。 大きくいって、神話とロゴスは本質的に敵対的なものであり、神話に冷厳な批判を加えるものとし てのロゴスは、あとからあらわれるものである。理性がものの真理を把握し、その結品であるロゴス
3 「生きる」ための哲学から自然哲学へ プラトンの「プロタゴラス』という対話編に、ギリシアの七賢人の話が出てくる。 七賢人の登場 そして彼らに関係づけて、「なんじ自身を知れ」とか「度をすごすな」という道徳を しんげん し に一一口が述べられている。この七賢人がだれであるかは、所伝によって多少のくいちがいはあるが、 だいたい前六世紀の人々である。そしてそれは、前六世紀というロゴスのはなばなしい勝利の第一期 にあたる世紀である。 いうまでもなく、神話に対するロゴスの勝利は、いろいろな局面で行なわれる。そしてこのロゴス というらうにいろいろな知的分野にわたるものが、彼冫リ こ帚されている。それは、クセノフアネスとは また違った色あいではあるが、基本的な意味での「知恵ある人 ( ソビステス ) 」と考えられていたので ある。このことは、この期のロゴスなるものを象徴している。それはロゴスの胎動期であり、生成期 であり、神話の紫斑はまだ消えさらないのである。とはいえ、ロゴスの世界は開け、ロゴス的人間は 歩きはじめた。彼らはこの世界のはじめを究極的に一なるものに求めた。その延長線上にその後の間 題は当然展開亠。・るわけである。
幻の世界にとどまって、共通の客観的世界に出られない。 ヘラクレイトスがいちばん問題にし、いちばん強調したのは、人間理性のこの理法の認識であり、 理法として客観的に存在するロゴスが理性認識 ( ロゴス ) として人間の精神に内在し、かついいあらわ されるロゴスに転化することである。これが、ほかならぬ彼のいう「真なる知」なのである。 知は一つのみである。すなわち、すべてのものが残るくまなく貫かれ、あやつられているその源 の英知を知ることである。 と。そして、 わたしにでなく、ロゴスに耳を傾け、万物は一なることに同意するのが賢明である。 という彼の、このことばにおけるロゴスの用法に注意していただきたい。あの、客観から内在へのロ ゴスの展開に。そして、当然のことながら、人間のあるべきすがたの生として、彼はこう結論する。 、そして 知恵をもっことは最大の徳である。知恵とは、ものの本性にそって理解し、真実をいし 行なうことである。 こうみてくると、彼の思索の指向するところは、人間の魂であり、精神である 9 わたし自身の探求 そしてその場合、すでに説明してきたような二重性のロゴスがキー・ポイント となっているのである。ロゴスを挺子にして、人間の理性はこの世界の理法に拡大する。また、ロゴ スを媒介にして、理法は人間の理性に凝縮する。理性のなかに沈潜し、理性認識を探求することは、 2
が真理を表現するというのは、文明の進歩による実績がまのあたり人間に示すところである。だとす れば、理性がめざめていくとき、神話と現実の素朴な一致が、ロゴスの衝撃によ「てつぎつぎに崩壊 していくのは、当然のことである。つまり、神話とロゴスのかみあいは、神話の権威と神通力をロゴ スが剥奪していくことであり、より端的にいえば、神話そのものの否定であり、かわ「て、ロゴスが 積極的に自己を主張し、自己を呈示することである。 ギリシア語で「真理」をあらわす語はアレティアであるが、このことばはもと、おおいをとりのけ られた状態、明るみに出された状態を意味している。 ( ラクレイトスの筆法をも「てすれば、自然は 隠れることを好むものである。真理は努力のうえにはじめてかちとられていくものであり、神話をは じめとするもろもろのおおいにおおわれていた「ものの本体」が、理性の活動により、ロゴスによ「 て明らかにされたものである。この「真理 ( アレティア ) 」ということばに語源的に含意されているも の、それが神話からロゴスへの道行きである。 ヘロドトスは自分の民族についてこう語っている。 ギリシア人たちは、彼らよりも歴史の古い異邦人たちからぬきんでている。 ・もうま ギリシア人は、その精神の優秀さと、単純蒙昧を克服している点とで、それら他の民族とは異な っている。 、すなわち地理的経済的に恵まれたギリシア人が ' 神 このような知的にすぐれた資質をもち、外的
次いで自己を主張する、それがとりもなおさすクセノフアネスの本領である。 テアゲネスのさきにも述べたように、神話からロゴスへの進展に、クセノフアネスは最高峰をな 寓意的解釈しているけれども、独立峰ではない。その背後には、それほどのみごとさは示さな くとも、彼とはまたおのずから違った色あいのかずかすの業績があった。 ます、ホメロスの神話は真理を寓意的に表現しているのであって、実は神話の外被のなかには真理 そのものが蔵されているとなし、それをロゴス的に抽出し、表現すべきである、という態度をとる一 群の人々があった。たとえば、前六世紀後半のレギオン出身のテアゲネスは、こうした動きのうち、 トロイア側とギリシア側に分かれて 今日知られている最初の人物である。「イリアス』第二〇巻の、 こおけるかわいたものと湿ったもの、あたたかいものと冷たいもの、 の神々の戦いに第し、実は、自然を 、神々を倫理的観念におき 輝くものと暗黒なものの相克をあらわしているのである、と考える。また、「 かえることをし、たとえばアテネはど慮、アレスは無田 5 慮、アフロディテは欲望というぐあいにみる のである。そしてもともとこの運動が、ロゴスという新しい皮袋に人れることによって、神話を擁護 しようとする好意的意図から出たにもかかわらず、結果的にはかえって神話の破壊の方向にすすんだ ことは、この連動のロゴス的性格からいって、皮肉な成果ではあるが当然といわなければならない。 アクシラオスと神話がその本性上、現実 ( 真理 ) と素朴に一致していることは、まえに述べた。 へカタイオスの一致を、ロゴスの立場からラディカルに打破する運動があった。ホメロスやヘ
われわれはこの「ミレトスの哲学者たち」に、不均衡なほどのページをさい ミレトス学派の役割 これらミレトスの哲 てしまった。しかしそれもいわれのないことではない。 学が突如として完全なロゴスのすがたをとってあらわれたのではないこと、どのようにして神話から ロゴスへの離脱と後者の勝利が獲得されたか、またそれは神話のどの局面からの展開であるか、つま り、その主たる問題意識はなんであったか、を明らかにしたかったからである。 そしてそれに加えて、これらミレトスの哲学者たちによってすすめられたロゴスの局面と進行方向 は、その後、ソフィストたちやソクラテスの異質の哲学が主流となるまで、ギリシア哲学を規制しつ づけたものであるからである。ミレトスの哲学はひと口にいえば始原の探求であるが、それにつづく もろもろの哲学思想も、その主軸において、自然哲学としてこの探求の線上に並んでいる。そしてこ の探求のうちに含まれ、そこから必然的にあらわれるいろいろな不完全性の吟味、その反省による新 しい解釈の提起というぐあいに、一種論理的な展開の連鎖のなかで、その頂点とみなされる原子論に 到達するのである。 ミレトスの哲学者たちの歩んだ・道は、新しいロゴスのそれであり、た 今までにも説明したように、 しかに哲学の誕生にふさわしいものである。とはいえ、それを真空のなかに突然あらわれた奇跡のよ うに考えるのは、致命的な誤りである。 早い話、タレスは七賢人の一人にかぞえられ、あるいは数学、天文学、工学、さらには政治的識見
ばに、「たたかいは普遍的なもの」というのがあった。この世界の秩序、彼のいう調和をなりたたしめ ている原理は当然普遍的でなければならない。彼はその著述の冒頭にいう、 ここに述べられるロゴスは永遠に存在するにもかかわらす、人々はそれを聞かぬうちも、それを・ 聞きはじめたのちにも、依然理解しえざる者として終生おわるであろう。 : 万物はこのロゴス に従って生じるものでありながら : この世界を「電光 ( ゼウス ) があやつる」ように支配する「理法 ( ロゴス ) 」は、彼のい の」すなわち普遍的なものである。 しかし、われわれは感覚によって普遍的なものはとらえられない。 もちろん普遍 知恵は最大の徳 的なものは無数の個別的なもののうえになりたっているのであるから、普遍的な ものにいたるには、「黄金を搜す者がたくさんの土地を掘りおこし、わすかなものをしか発見しない」て ように、いわゆる博学でなければならない。だがロゴス的人間の本領は、この世界の究極的な真理を求 認識することによってはじめて完成する。普遍的な究極原理を把握するには、当然理性の最高活動がめ 中心とならなければならない。認識されない理法は人間にとってなきにひとしく、他面、それに盲目 の な者は真に人であることはできない。客観的な理法は、人間理性に把握され、人間理性は理法よりそ物 の内実を得るとき、はじめて理法であり、理性である。そのとき人は真に人として生きる。そこにい たらす、無明の境に彷徨する者は、彼自身いうように「夢みる者」である。夢みる者は自分一個の夢 「共通なも
積し、それに合理的考察を加えるということであ「た。そしてそれが結果的に神話を否定し、ロゴメ の大道をひらいたのである。そこに支配するものは、クセノフアネスに通じ、ミレトスの自然哲学者 たちにも通じているあのイオ = ア合理主義精神の、あらわれにほかならないのである。 2 ミレトスの哲学者たち 読者には迷惑であるが、前節でとりあっかった時代からまた逆もどりして、いま 『神統記』の成立 一度神話の世界にはい「ていただきたい。それは、〈シオドスの『神統記 ( テオ ゴニア ) 』の世界である。 神話からロゴス〈の道は複雑であり、神話の内部に、部分的漸進的なロゴス化が行なわれている。 たとえば、現存する祭祀の山来を語る神話は、それなりに一つの理由づけを試みているのである。し かし、こうした神話内でのロゴス化は、もっと大規模な形でもなされる。 たいせぎ 神話の世界は、個々の神々や英雄 ( 半神 ) や怪物などの散発的な物語の堆積であるにとどまらず、や いたる。総括は一種の組織と関係づけを要求する。そしてこ がてそれらの総括的な把握を意図するに の要求にこたえる最も素朴なものは血縁的系譜である。しかも神は、もと神的力である「ナが純化対
人は神の支配のもとにあるので 「人がらは人間にとって ( 彼を導く ) ダイモンである」と彼はいう。 なく、運命の無常に翻弄される存在でもない。自分の運命は自己自身によるのである。そしてその「自 己自身」とはさきに述べた「一なる知」をもっ理性的なわれ、ロゴス的人間なのである。 「わたしはわたし自身を探求した」とは、彼の重大な告白である。そのとき、彼自身は理性的存在 として、ロゴスにより、ひろく世界全体を包括する。とともに、果てしない理性的われの内に沈潜す る。よし彼の哲学はまだ天界にとどまっているとしても、彼のこの独白は、はるかかなたソクラテス を指向してはいなかったであろうか。 144
話からロゴスへの道を最も典型的な形ですすんだことは自然であり、われわれにとってはがたく貴 重である。 時代順を無視し、最初の哲学者といわれる前六世紀はじめのタレスよりかなりあ 遍歴詩人 クセノフアネスとの、クセノフアネスという人物を最初にも「てきたのには、それなりの理由が ある。それは彼が、今述べてきた神話からロゴスへの道の頂点にたち、それを劇的な形であらわして いるからである。 この、イオニアのコロフォンに生まれた人物は、ギリシア世界のうちで最初にロゴスの道を歩んだ イオニア文化のなかに育てられた精神の持ち主である。そしておそらく前五四六年か五年のメディア 人によるコロフォンの陥落を機に、旅に出、以後自作の詩を朗唱しつつギリシアの各地を歴訪したが、 主たる舞台はシケリアであったといわれる。その生年はだいたい前五七〇年とされているから、ほほ しよう力し 五五年にわたる彼の長い生涯は、そのほとんどが旅にあったといいうる 彼は、のちに述べるタレス以下の自然哲学者とも異なるが、他方、また特異な性格をもった初期ビ ュタゴラス派の哲学者タイプとも異なるのである。彼は一種の遍歴詩人であるが、ホメリダイとは違 って、知的関心、ことに神の観念に対する関心をもち、イオニア合理主義精神に開眼された者であつ物 た。つまり、世界、自然について一つの新しい哲学体系を創始するというよりも、それまでに支配的 であった考えに対する冷徹な批判者に、彼の本領はある。ということは、彼を必然的に紳話に対立す