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検索対象: 思想の歴史1 ギリシアの詩と哲学 田中美知太郎編
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1. 思想の歴史1 ギリシアの詩と哲学 田中美知太郎編

アラビア た。東方へ遠征したローマの政治家や軍人のなかには、ギリシ , ヾレ一丁ィアテキ、ーー′′ ア文化の愛好者、崇拝者が多かったこともあって、ギリシア人「 ' ′′リ、 0 一ア ス - 丁 の教師や文人、学者が続々とローマへ移り、ローマ人に新しい ラま夘 1 、キ ・学芸を教えた。こうして武力で征服した者は、やがて文化や思」 ン 0- ア 想のうえでは、征服される者になるのである。もともとローマ 彼らは建国以来、 人は農民であり、兵士であるにすぎなかった。一 アヒサア 近隣諸部族との戦争に明け暮れて、政治や軍事の知恵だけは身帝国、、、、 ( プ安。。。 ス帝 ウマ につけたけれども、文化的にはほとんど未開の状態に近かった。 スロ いくらか学ぶところはあったけグの なるほどエトルリア人からは、 ウ下 れども、その他のイタリア本土の諸部族からも、また西方世界ア治 の原住民からも、なに一つ学ぶことはできなかった。あれほど の繁栄を誇ったカルタゴ人も、不思議なことではあるが、文化 的にはなに一つすぐれたものを創造していなかった。カルタゴ 人はいわば根っからの商人だったのである。しかし東方のヘレ 」ズム世界では、事情はまったく別であった。ローマ人はそこ に、自分たちの知らない高度な文明、学問、宗教、芸術を発見 ′コロニア・ アグリ・・ビ、 プルティガラ マッシ ) アローマ コルシカ タコラ。一 ンチリア . るサルディニア カルタゴ 5(X)km シラクサ アレクサンドリア キレナイカ

2. 思想の歴史1 ギリシアの詩と哲学 田中美知太郎編

行為の目標とするストア派の倫理説は、コーマ古来の美徳とされた重厚、剛毅、堅忍、大度などの諸 徳目を重んじるローマ人の気風に一脈通じるものがあ「た。また、無神論ではないまでも、神々の人 事に対する無関心、無干渉を説くエビクロスの説よりも、宇宙の秩序に神の摂理を認め、これに帰一 しようとするストア派の宗教観のほうが、ローマ人の伝統的な宗教感着に抵抗することが少なかった。 さらに、ストア派の教義では、家庭生活を営み、公生活に積極的に参加することが期待され、推奨さ れていたから、その点でも、政治を拒否したエビクロス派よりも、一般のローマ市民には親しみやす い感じを与えたであろう しかしながら、ストア派の教義のすべてが、なんの抵抗もなしにローマ人にうけいれられたわけで はない。なかでもいちばん反発をよんだのは、人々が「ストア派の。 ( ラドックス」とよんだところの、 厳格な倫理説である。 いっさいの悪しき情念から解脱して不動の心境にある賢者の理想像といし / だ徳のみを唯一の善として、世上一般によきものと考えられている健康も富も権力も名声も、すべて 善悪に無関係なものとして退けた点といし 、また人間を徳をもっかもたないかで二分して、有徳者以 外はすべて悪人であり、その中間に進歩向上の段階を認めなかった点といし 、すべてこれらは通常の 人間にはとうてい実行不可能な、その意味で非人間的な説とも思われたからである。 そこで一般的にいえば、共和制末期のパナイティオスやポセイド = オスに代表される中期ストア派 は、ゼノンをはじめとする初期ストア派の教義がも「ていた見解の狭さや厳格さを、ひろげたり和ら 3 / 0

3. 思想の歴史1 ギリシアの詩と哲学 田中美知太郎編

2 ヘレニズム文化の受容と抵抗 さて、以上みてきたように、前一世紀には、伝統的なローマふう教育はすっかり ギリシア的教養 のうけいれ方過去のものとなっていた。教育は、東方世界からの職業教師、あるいは教養ある どれい 奴隷の手にゆだねられ、家父長みずからが教えるというカトー式のやり方は、もはや通用しなくなっ た。むろん、家庭生活のなかでも、市の広場においても、ローマ古来の信仰や道徳や風俗、習慣はな お厳然と存続してはいたが、しかしそれらはローマ人の感情にうったえるだけで、少なくとも知的なじ 形成は、ギリシア的教養に依存せざるをえなかった。とはいってもそれは、ローマ人がすべての教養に マ と知識の源泉をギリシア人に仰いだという意味ではない。政治の知恵も、軍事に関することも、また一 ロ 法律についても、ローマ人はヘレニズム諸国からなに一つ学ぶ必要はなかった。帝国の建設までの長は い歴史の経験が、彼らにそれらをじゅうぶん教えていたからである。また、ローマ人がギリシア文化の を受容し、模倣し、借用したといっても、それは彼らがローマ人としての主体性をまったく失って、 す すっかりギリシア化したという意味ではない。そのようなことは、どの国の場合でもおこりえないこ とである。ローマ人もローマ人らしく、自分たちの国民性にかなったものを、自分たちの流儀でうけ

4. 思想の歴史1 ギリシアの詩と哲学 田中美知太郎編

する。そこでわれわれはまず、アウグストウス時代の思想の特色を簡単にみておくことにしよう。 アウグストウス時代の思想界は、一言にすれば、復古と反動を特色としていたということができる だろう。共和制末期のローマの知識人の目は、ギリシアの 学問や思想に向けられ、一般にローマの過去や伝統には無 関心であるか、あるいはこれをけいべっしていた。それが 今、ローマ帝国の確立とともに、この偉大な帝国を生み、 養い、育てた母なるローマへ、人々の思いはよせられるこ とになる。ローマ人としての民族性が自覚され、国民精神 の作興が叫ばれ、「ローマの伝統へ帰れ」が時代のスロー しつほく ガンとなった。愛国心が強調され、簡素質朴な古きよき時 祭 代のローマ人の生活が賛美され、ローマの歴史や地方に残 る故事来歴が熱心に研究された。これはローマ人の軍事的 政治的優越にもとづいた自負心の表現ともいえるが、逆に みれば、ヘレニズム諸国の先進文明に対する長年のつもり れはともかく、この風潮はアウグストウスの伝統宗教の復

5. 思想の歴史1 ギリシアの詩と哲学 田中美知太郎編

こうしてローマは前二世紀以降、 ギリシア文化の輸入 東方のヘレニズム世界へ進出する ことによって、ギリシア文化と直接に接触することになる。 むろんそれ以前にも、ギリシア文化の一部は、南イタリア やシチリアのギリシア人都市を経由して、ローマへ流人し ていた。例を文学にとれば、タレントウムで捕虜になった どれい ギリシア人の奴隷、リヴィウス・アンドロニクスが翻訳し た『オデュッセイア』は、ローマ人にひろく愛読されてい たし、またギリシアの新喜劇はローマで翻訳、翻案され、 上演されて、人気を博していた。さらにナエヴィウス、そ して特にエンニウスは『イリアス』を手本にした叙事詩や、 エウリビデスにならった悲劇を書いた。これらすべての作 品は、ローマ人に彼らの知らなかった新しいタイプの人間 性格や英雄像を紹介したのである。 しかし今、ローマの武力が東方へ伸びるにつれて、逆に ヘレニズムの文化は直接にローマへ輸人されることになっ 六五ビソの陰謀に加わり、セネカ自 殺し、ルカヌス殺される 七一ストア派ローマから追放される ドミティアスス帝即位 ドミティアスス帝により、エ。ヒ 八九 クテトスらストア派ふたたびロ ーマから追放される 九六ネルヴァ帝即位、五賢帝時代に はいる 一三五この頃ェビクテトス死ぬ マルクス・アウレリウス帝即位、 最後の五賢帝 二三五軍人皇帝時代はじまる 二六九この頃プロティノス死ぬ 二八四ディオクレティアスス帝即位、 専制君主制はじまる 三〇五この頃ポリフュリオス死ぬ 三コンスタンテイヌス大帝キリス ト教を公認する 三九五ローマ帝国、東西に分裂する 四七六西口ーマ帝国滅亡する 五二四ポエテイウス死刑になる 五二九東ローマ皇帝ュスティニアヌス 一世、新プラトン派のアカデメ ィアを閉鎖、財産を没収する 354

6. 思想の歴史1 ギリシアの詩と哲学 田中美知太郎編

いれたにすぎない けいじじようがく たとえば、ギリシアの哲学にしても、実際家的な気質のローマ人には、形而上学のような理論的思 弁は無用であったし、またアレクサンドリアの科学にしても、理論そのものではなしに、その一部の 応用技術をうけいれただけである。ローマ人のなかからは、真に独創的で理論的な哲学体系をうちた てた人は一人も生まれなかったし、また、ローマ時代の偉大な科学者は、本来のローマ人ではなく、 すべて東方世界の出身者であったという事実が、そのことを裏書きしている。 それでは、ローマ人が学んだギリシア的教養の中心をなすものはなんであったのか。 弁論術と哲学 それは弁論術と哲学 ( おもにストア派とエビクロス派の哲学 ) 、この二つであったといっ てよいだろう。その頃ローマに来往したギリシア人教師の多くは、文法家でなければ、この二つのど ちらかの専門家であった。そしてこの二つが教養の二本の柱であったことは、これまた古典期ギリシ ア以来の伝統でもあったのだ。 ただこの二つを比較してみるとき、弁論術のほうは、比較的スムースにうけいれられた。それの学 習は、法廷や議会で目に見える効果をあげえたからである。それにこの術は公共的、公開的な性格の ものであり、教師の間で意見のくいちがうことも少なく、純粋に技術的なとりあっかいが可能である から、容易に教育課程の一部になりえたのである。これに反して哲学のほうは、うけいれられるのに より困難な条件をもっていた。まずローマ人自身が知的な研究になじまぬ気質の国民であったのに加 362

7. 思想の歴史1 ギリシアの詩と哲学 田中美知太郎編

われわれはここに、キケロの人格の二つの面をみることができる。彼のなか ギリシア的教養と ローマ的伝統の共存には、ギリシア的教養とローマ的伝統とが共存しているのである。彼はむす こにあてた一つの手紙のなかで「哲学の教えは知るべきだけれども、生きるのはローマの市民らしく」 と教えた。しかしこの二つのもの、ギリシア的教養とローマ的伝統、言いかえれば、学問と生活、あ るいは哲学と政治は、彼の人格のなかでいつも矛盾なく共存していたわけではない。むしろその二つ は分裂し、対立し、抗争していたとみるのが正しいだろう。彼はローマの歴史と故事を研究していた 学者ヴァルロにあてて、「自分は祖国のなかにありながら異邦人である」と嘆きのことばを書かざる をえなかった。もっと卑近な例をあげれば、彼は大多数のローマ人と同じく異常な名誉欲をもった人 る であったといわれるが、一方では哲学者としてそれのけいべっすべきものであることを力説してやま し なかった。しかしながら、キケロのなかのこの矛盾と不一致は、文明開化期におけるローマ知識人の あり方を象徴するものであったろう。その意味でも彼は、時代の思潮を代表する典型的存在だったの一 である。 の 彼がもし小カトーのように、哲学をストア派の倫理思想に限ることができたとすれば、それはロー て マの伝統に抵触することは少なかったから、哲学と生活とは彼においても矛盾することなしに、幸福ペ しかしキケロの学問はひろく、それに小カトーとは資質を異 な結合を見いだしていたかもしれない にしていた。小カトーは哲学に従って生き、かっ死ぬことができたが、キケロのほうは、哲学につい

8. 思想の歴史1 ギリシアの詩と哲学 田中美知太郎編

ーマン世界の誕生 イタリア半島の中部、ティベル河畔の七つの丘からおこったローマは、前三世紀の ローマの登場 前半までには、ほばイタリア全土の平定をなしとげた。次いでローマは、当時、西 部地中海に君臨し、強大な海上帝国であった北アフリカのカルタゴと国家の興亡をかけた二度の大戦 争を行ない、半世紀以上の苦闘の末に、その世紀の終わりにはこれを征服して、西部地中海における 支配権を確立した。その後、前二世紀のはじめ頃から、ローマの勢力は方向を転じて東方世界へ向か うことになる。しかしローマ人には、少なくとも最初の間は、アレクサンドロスがいだいたような、 東方世界行服の意思も野望もなかった。当時の東部地中海周辺の政治情勢は、すでに前章の最初のと ころで述べたように、アレクサンドロスの後継者たちの三つの君主国、マケドニア、シリア、エジプ すべての道はローマに通じる 1 グレコ・ロ 3

9. 思想の歴史1 ギリシアの詩と哲学 田中美知太郎編

しよう で歌ったヴェルギリウス ( 前七〇ー一九年 ) をはじめ、『頌 歌』や『風刺詩』などの作品で名高いホラテイウス ( 前 六五ー八年 ) 、そして愛の詩人として知られたプロベルテ イウス ( 前五四年頃ー ? ) など、偉大な詩人たちが続々 と輩出した。これらの詩人たちは、皇帝アウグストウス とスの側近マエケナスをパトロンにして、程度の差はあれ、 神ウ いずれもアクテイウムの勝利を祝い、ローマの平和をた のギ たえ、アウグストウスを神格化し、偉大なローマの歴史 叙ヴ と伝統を歌った愛国詩人なのである。 なお、これらの詩人たちのほかに、愛国的な歴史家リヴィウ ス ( 前五九ー後一七年 ) を加えることができるだろう。彼もまた ス一四二巻の『ローマ史』のなかで、アエネイスの建国伝説には 、、を、宀テじまるローマの発展と興隆を雄大な叙事詩の調子で記述した。 そしてこの人たちは、確かに、ローマ人の胸底深くひそんでい た感情を表にとりだして、高らかに歌いあげたのであって、け っして庇護者に迎合したのではなかったであろう。しかしとに 386

10. 思想の歴史1 ギリシアの詩と哲学 田中美知太郎編

した。彼らは軍事的、政治的な優越心をすてて、ギリシ ア人から虚心に学ぶよりほかはなかったのである。 しかしながら、一つの国が、自 旧式と新式の教育法 己のもっ文明とは異質の、自己 のものよりすぐれた他の文明と接触した場合、歴史上い 。っわれは前二世紀 づでもみられる反応の二つのしかたが、この時代のローマ人の間にもみられる才 のローマ人が、ギリシア文明に直面してどのような反応を示したかを、反発と受容の二つの型に分け て、それぞれその代表的な例をとおしてみることにしよう。 その二つの反応のしかたは、卑近な例ではます、当時のローマの名門家庭の子弟教育において、教 育法の旧式と新式とのあざやかな対照となってあらわれている。そして旧式な教育法を代表する者と しては、あの有名な大カトー ( 前一一三四ー一四九年 ) がいる。彼がローマ古来の遺風を尊び、祖宗の伝統 がんめいころう をあくまで維持しようとした、保守的で頑迷固陋な人物であったことは、よく知られている。ローマ の東方征服とともに、東方の富とおごりとがローマの上流階級の生活のなかにしみこみつつあったと き、彼は中小農民の立場にたって、簡素な生活にあまんじ、質実剛健の気風を守ろうとしたのである。 だから、子どもの教育にあたっても、当時の上流家庭では、子弟の教育をギリシアから来た専門の教 師や奴隷にまかせるのが一つの流行となっていたのに、彼カトーは、自分自身で読み書きから、ロー 大カトー 3 う 6