ころにはないし、死が実際にわれわれのところにきている場合には、われわれはもはや存在して いないからです。したがって死は、生きている人々に対しても、また死んでしまった人々に対し ても、なんのかかわりもないわけです。生きている人々のところには、死は存在していないのだ し、死んでしまった人々は、彼ら自身がもはや存在していないのですから。 というふうにもいわれている。これはけっして奇弁ではなく、事実そのものの単純明快な陳述である。 人々が死に対していだく恐れは、死それ自体から生まれるのではなく、死についての思いなしから生 まれるからである。しかしこの思いなしが根拠のないものであることが明らかになれば、人々は死の 恐怖から解放されるであろう。 こうしてェビクロスにとっては、この生がなんらのわすらいともならなかったように、生の終末で ある死もなんの悪でもなかったのである。生を避けす、死を恐れず、与えられた現在をじゅうぶんに 楽しむことを知っている自足の人、それが賢者なのであった。 神々への恐怖とはなにか。これは、当時の宗教思想全般に通じるのでなければ、エ 神々への恐怖 一つには大衆の信仰がある。神々は 。ヒクロスの真意は理解できないかもしれない。 人事に干渉し、人々の犠牲や祈願にこたえ、よき人には恵みを、悪人には災いを下すというのが、一 : 、、こ申々の怒りや報復を恐れ、紳々。 般大衆のごく素朴な考え方であった。そして当時の一般大衆力しカ冫彳 の気持をなだめようと努力したかは、たとえば、テオフラストスやプルタルコスの「信心深き人」の 323
の詩人たちには、現実賛美のなかにも一抹のペシミズムの影がさ ン オしているのである。 テ ン さらにまた、アウグストウスの伝統宗教復興の政策も、それは のローマの栄光を古来の神々の加護として感謝する、公共の祭礼や 一行事であったから、人々の内面の宗教的要求を満足させるもので たはなかった。人々は個人としてはやはり、哲学や東方宗教のなか っ に魂の安息を求めるよりほかはなかった。ローマ古来の神々の広 を 大で荘厳な神殿の前にも劣らす、サラ。ヒスやイシス、その他東方 々 のの神々のほこらの前にも人々は群れ集まった。 来 古しかしアウグストウスの死とともに、 この復古と反動の時代も マ 一終わりをつげた。その後のユリウス・クラウデイウス朝、そして ロ 次のフラヴィウス朝の治世では、宮廷生活は腐敗し、権力争いは 絶えず、皇帝も暗愚で横暴な人が多かったから、それに対処して生きるために、ストア派の知恵がも う一度強い魅力をもってあらわれることになるのである。 ーよま " いちまっ 388
ん、当時の政治的、社会的状況のなかにその原因を求めるのが至当だと考えられる。なぜなら、一般 に哲学でも宗教でも、それらが人々にうったえる力をもつのは、現実の社会が人々に与えることので きないなにかを、それらは与えることができるからなのである。 グラックス兄弟の改革からアウグストウスの支配にいたるまでの、共和制末期の約百年間のローマ どんよ′、 の歴史は、周知のように、内乱と抗争、陰謀と暗殺、独裁と戦争の連続であった。それは野心と貪欲 とがうずを巻き、愛と憎しみとが交錯し、名声と失意とがいれかわった、変転きわまりない動乱の時 代であった。この世相が反動的に、魂の平和を約東し、友情のきずなでかたく結ばれた「エビクロス の園」の静けさを、心ある人々に願望させたにちがいない。かくて、エビクロス派の思想は、逆説的 ではあるが、それがローマ人の性格や伝統に反するものであったればこそ、それゆえにかえってうつ たえる力をもっていたとも考えられるのである。だからこそまた、アウグストウスによって「ローマ 艮られた少数の人々のための、単なる「心の平和」で の平和」がもたらされたときには、その平和はド はなくて、ローマ世界の全体をおおう、より実質的で、より安定した平和だったのであるが、エビク ロス説はその存在理由の大半を失って、少なくともローマの上層階級の間では、急速に人気がおちて いったのだと想像されるのである。 この時代のエビクロス派の代表的人物、詩人にして哲学者のルクレテイウス・カ 詩人哲学者 こうまう ルクレテイウスルス ( 前九四頃ー五五年頃 ) は、ひとときあやしい光己を放ちながら、星空をよこ芋 360
四種の成分をもっ薬を人々に与えながら、人々の魂の病気をいや しみは容易に耐えられる」という、 すことをめざした哲学なのであった。それは確かに人類への新しい福音であった。二百年後になおこ の福音を信じることのできた、ローマの詩人哲学者ルクレテイウスの次のことばが、そのことを証円 している。 : かの人こそはまさに神であった、神であったのだ。彼は今日知恵とよばれている人生の理法 をはじめて見いだし、その学問によって、われわれの人生をかくも大きなあらし、かくも深い からひきだして、かほどの静穏、かほどの光明へと導いてくれたのであった。 3 初期ストア派の思想 ェビクロス派とならび、これと対立しながら、ヘレニズム時代の哲学を代表する ストア派の系譜 のはストア派である。前者が開祖ェビクロスの教義を忠実に守り、後代までその 学皃 。に修正も発展もみられなかったのに対して、後者はその学派のおよそ五百年の歴史において、時 代によりその学説には大きな変化があらわれている。したがってエ。ヒクロス派の哲学は、エビクロス 旧人の思想であったのに対して、ストア派のそれは文字どおりに一学派の人々の思想の集成であった。
ため、自分のむすこの肉とも知らず食べさせられた彼の弟テ = エステスののろいにはじまるアトレウ ス家に巣くいつづけるのろい。・そののろいのもとに、トロイア遠征の総大将アガメムノンは悲惨な死 をとげる。その妻クリ = タイムネストラが愛人アイギストス ( テ = エステスの子、したが 0 てアガメムノ ンのいとこ ) の助けをかりて行なった夫殺しの結果である。 しかしこの夫殺しもまたその報いをうける。すなわち、アガメムノンのむすこオレステスが、姉工 レクトラならびに彼の親友ビ = ラデスの助けを得て、父殺しである自分の母クリ = タイムネストラと ふくしゅう その共犯者アイギストスとを殺すのである。そしてそのあげく、オレステスは発狂し、復讐の女神たち ( エリ = = エス ) に追われる身となる。母親殺しの罪は大きいといわれるかもしれない。しかしそれは、 結婚の契りを重視し父権を尊重するアポロン神のたび重なる要求に従「て行なったことであり、それ ひとこま にまた、家代々にまつわるのろいの成就のための一齣として生まれついたオレステスに、 があるといえるであろうか。『供養する女たち』のコロス ( アルゴスの女たち ) は、 のろ ああ、どこまでもおいたわしいこのお屋敷、 / なんという呪われた棟の数々、 / 世の人々にも まみ疎まれ、日差しも通さぬ / 暗闇がこの家々を、お主人がたの / むごい死でおおい包んでる。 と嘆きおそれ、エレクトラも父王の墓の前で、そのあだ討ちをこういっている。 運命できま「たことは、自由な人でも、人の手にこき使われる者でもまた、避けものがれもでき ないのだから。 168
と、三百巻以上あったと伝えられる著作や書簡のあるものはこの時期に書かれたこと、などが知られ よくそ ) っ るだけである。そして前二七〇年頃、世を去ったが、その死の日に、彼は熱い湯のはいった浴槽につ かり、生のままの強いぶどう酒を飲みほして、友人たちに自分の教えを守るようにとっげながら、息 をひきとったといわれている。また、その最後の日に、友人の一人にあてて書かれた手紙には、肉体 の苦痛は激しいけれども、友とかわした対話の思い出で、魂は平安で喜びにあふれている、と記され ている。 ェビクロスの「庭園」は、いわば、航海者のために設けられた一つの避難の港で ェビクロスの園 あった。人生という大海を、狐独と不安におびえながら漂流してきた人々は、こ の港にはいってやっと、現実世界に吹きすさぶ政治のあらしも、きびしい連命の波濤もまぬかれて、 心の平安を見いだすことができたのである。「庭園」の主人であるエビクロスその人は、親切で思い やりが深く、こまかい配慮のゆきとどく人であったし、この「庭園」には男だけではなく、遊女も含 どれい めて女も、さらには奴隷さえもあたたかく迎えいれられて、すべての者が平等に一個の人格としてと りあっかわれた。 そこで彼らは、エビクロスを慈父のごとく、ときには神のごとくにさえあがめ、師に対する共通の 尊敬と愛情とにささえられながら、お互いをも信頼と友情のかたいきすなで結びあって、その師の保 護のもとに身を寄せあって暮らしたのである。そして師のことばは、さながら神の啓示や神託のごと 314
とよはれるものにほかならない。そしてそれを体現しているのがヘカタイオスである。彼は、クロイ ソス王に答えたソロンと同じく、この精神をもって、西はジプラルタル海峡から東はインドに、北は 黒海沿岸から南はアラビア、エティオビアにいたるまで、あくなき地理学的民族学的関心をもやしつ っ旅行したといわれる。さきに引用した彼のことばの背後には、こうした経験的事実の豊富な知識が あったのである。そしてこの経験性に、とらわれぬ理性からの合理的要求が貫いているのである。 彼のしごとがかかる性質のものであればこそ、のちにヘロドトスの歴史書の先駆ともなりえたので ある。また彼に代表されるごとき探求 ( ヒストリア ) があったからこ ス クそ、のちにソフィストたちの間でやかましく論じられた自然 ( ビ、 へシス ) 対人工 ( ノモス ) の問題も成立しえたのである。こうした精神 る すにとって、中店 : 「イ言力いかにたあいないものであることか。英雄ヘラク て と よみ レスが三頭の怪物ケルべロスを黄泉の国からひきつれて来たという 求・ よ どノ、こや え神話を、実は、タナイロンの地に恐ろしい毒蛇がすみ、多くの人々 め し をかみ殺したので黄泉の犬とよばれていたが、この毒蛇をへラクレ を ス スが退治してエウリ、ステウスのもとにもってきたのだ、と彼が解物 ロ レ釈するのは自然である。しかしへカタイオスの本領は、さきにもい ケ ったように、ひろく異国と異民族とに関する豊富な経験的知識を集
たずね、探究した。しかしそのために彼は、伝統的な道徳の破壊者とみなされ、青年たちに悪影響を およばす者として警戒された。こうして、ンフィストたちは徳の説教によって名声を博し、お金をも うけたが、ソクラテスが得たものは誤解と憎悪であり、貧乏と死であった。 さらに弁論家としてのソフィストたちは、正邪善悪がなんであるかを問題にせずに、ただ真実らし くみえること、大衆の気にいることに重点をおいて、人々を説得する技術を教えたが、ソクラテスが 追求したのはただ一つ真実であり、人々にほんとうによいこと、ためになることであった。しかしそ のために彼は、法廷でのかけひきを知らず、生死をかけた裁判に敗れねばならなかった。 またソクラテスは、ソフィストたちと同じように、一問一答の形式による議論の方法を用いて、と きには不正な推論も行なったが、彼の目的は言論の競技で勝利を収めることにあったのではなく、相 手に無知を自覚させることにあった。しかしそのために彼 も、弱論を強弁する者との誤解をうけ、人々を困惑におとた 家 スしいれる者として、多くの人の反感をかわねばならなかっ想 の ス なお、道徳の相対性を主張したり、あるいはこれを否定 したりする道徳的ニヒリストたちに対しては、彼は普遍的 な道徳の存在を確信して、価値の絶対的な基準を確立する
ら世の知者たちよりもまさっているのではないかと、ソクラテスは考えた。そしてこの点に気づいた 彼は、神託の意味するところは、ほんとうに知恵のあるのは神だけであって、人間の知は神のそれに くらべればほとんど無に近いものであること、しかし、もし人間のなかに知恵のある者がいるとすれ ば、自己の無知を自覚している者がそれであること、このことを神はソクラテスを一例として示そう としたのであると、こう解釈したのであった。 さて、神託の意味をこのように解釈したソクラテスは、その後、人々の無知 無知の自覚に徹する を暴露し、無知を自覚させることが神から下された命令であると考えるよう にもなり、批判と吟味のしごとに専念することになった。しかし彼は、単に人々の無知を暴露するだ けにとどまったのではなく、さらにそのうえ、われわれはすべて無知なのであるから、それだけにい っそう知を愛し求めること、つまり哲学することの必要をも説いたのである。こうして彼は、その後 半生の大部分を、アテナイ市民の一人一人と個人的に接触して、哲学することをすすめてまわったの だが、その際、彼が人々に具体的に勧告したことは、一言でいえば、精神ができるだけすぐれたもの となるように気をつかうこと、つまり徳に留意するようにということであった。 神託事件に関して『ソクラテスの弁明』のなかで述べられていることは、だいたい以上のような内 容のものであるが、ソクラテスのいわば「回心」の経過が、事実そのとおりのものであったかどうか は別として、なにかこの話で示されているような一つの精神的転機が彼の壮年時代にあって、それ以 236
皇帝の与えたのは政治的平和と安定なのだ。しかし心の平和を与えるのは哲学者である。そして自山 は外の世界から心のなかの世界へ移され、政治的自由のかわりに、精神の内面の自由が強調される。 だからその自由は、隷属や虜囚の境遇とも両立する自由なのである。つまり、エビクテトスは奴隷で ありながらも主人だ「たのである。ェビクテトスの哲学は、あとで述べるように、自然や政治のよう な自己の外の世界では徹底した服従を説き、他方、自己自身の内面の世界では絶対的な支配と独立と を主張するところの、支配と服従との矛盾した態度が一つに結びついている哲学なのであるが、それ ゆえにまたこの哲学は、少なくともこの現実社会においては、改革者も革命家も生みだすことができ す、ただ殉教者をつくりだすだけだと評されることにもなるわけである。 それはともかく、ドミティアヌス帝の死とともに長い悪夢は終わった。元老院の指名によ「て皇帝 に選ばれた次のネルヴァ帝以後の、いわゆる五賢帝の時代には、皇帝たちはふたたび哲学者を師とし て迎えいれ、哲学者たちもまた皇帝に協力して、ローマの社会には約一世紀間の小春びよりがつづく のである。 いままでわれわれは、一世紀の皇帝独裁下におけるストア派の人々の抵抗をみ 帝制期のストア派 てきた。ここでもう一度ふりかえって、帝制初期のストア派の思想を、代表的 な哲学者たちの生涯と意見をとおして、もう少し詳しくみておくことにしよう。 ストア哲学はこの時代の支配的な哲学であり、その代表者はさきにあげたセネ力、エビクテトスの 396