整然たるシステムになるからである。そして数学だけだと、 他の命題 ( 定理 ) が導出されるという、 このような論理の首尾一貫性だけでたりるわけだけれども、自然学だと、これがまた同時に事物にお ける対応をもたねばならなくなる。ニュートンの『プリンキビア ( 自然哲学の数学的原理 ) 』は、この ような要求にこたえるものであった。これは昔の学者が、まず天文学などについて試みたことの系列 のうえにあるといってもよいだろう。 学問的知識は論理性と事実性の二つの要求を満足させなければならないのであるが、学問によって 多少の偏向がある。数学は論理性だけになってしまうと、人工的言語あるいは碁や将棋のような思考 遊戯に近づく。はたしてそういうものになってしまうかどうか、なにかの事実性が含まれていないか どうか、これが数理哲学の問題点である。他方また経験科学あるいは実証科学のなかには、理論より も事実の収集、あるいは分類整理などに追われて、理由づけのたりないものもある。現代自然科学の 尖端にあるように考えられている物理学などでも、素粒子の数が限られて、その間の関係を規定すれ ばよいと考えられていたのが、素粒子があとからあとから新しいものが発見されてくると、それらの 発見や整理分類に追われることになる。 実証科学を中心に考えると、知識において第一に重要なのは事実であって、理論ではないというこ とになりそうである。しかし事実は無限で、われわれの思考との一致は、必ずしも保証されす、偶然 性がっきまとう。これを克服するためには、論理のシステムにおさめて、そこから全体的につかむと せんたん
ならば、上記二つの比喩が示す矛盾にもそれほどこだわらなくてすむであろう。ストア派は哲学を「神 神と人間に関する事がらの智」であると定義したといわれるが、論理学も自然学も倫理学も一体とな って、哲学の究極の智は形づくられると考えていたのであろう。 ところで、それぞれの学問の内容であるが、まず論理学についていえば、それ ストア派の論理学 は広範囲な領域にわたるものであって、大別すると、じようずな話し方を扱う レトリック ( 弁論修辞の学 ) と、正しい議論のしかたを論じるディアレクティック ( 狭義の論理学 ) とに 分けられるが、後者はさらに、今日の論理学にあたるものと、言語や文法の理論とに分けられる。し かしこれら以外に、真偽の規準を明らかにする規準論、つまり今日の認識論に相当するものも、ひろ い意味での論理学のなかに含まれているのである。この分野におけるストア派の業績は、たとえば、 文法理論の体系化の点でもめざましいものがあるが、特に彼らの命題論理学は、アリストテレスの名 辞論理学と対比されて、その価値が最近の論理学者たちによって高く評価しなおされている。しかし これらの点に言及することは専門的になるから、ここでは論理学に関してはいっさい割愛することに しょ ) つ。 次に自然学であるが、これも多くの分野を包含している。自然学の基礎を問題 けいじじようがく ストア派の自然学 とする形而上学もあれば、宇宙とその生成過程を論じる自然学そのものもある。 またこれに関連して、摂理、宿命、悪の存在、自由意志などの諸問題もそこで論ぜられる。さらに、 334
そのなかの一つ『アテナイ人の国制』は、一八九〇年エジプト出土のパピルス文書のなかから発見さ れて、彼のこの方面での学問研究の方法がいかなるものであったかを示している。 このようにアリストテレスの哲学の特色は、その方法において、事実を重んじる経験主義的な性格 にあるのだが、 それに加えてさらに、その内容においては、多くの学問を含み、そしてそれら諸学問 を体系的に組織化した点に見いだされる。彼によってはじめて今日の学問の多くがその基礎を与えら れたのであり、そして学問の間の境界も明らかにされたのである。彼が「万学の祖」とよばれたのは そのためである。すなわち、まず論理学をはじめとして、自然学 ( そのなかには天体論、気象学、動物学、 けいじじよ 5- が / 、 生理学、心理学が含まれる ) 、形而上学、政治学、倫理学、文芸学、修辞学などの学問は、彼によって基 礎がおかれたのである。 ただし、これらの学問を彼がいかなる原理にもとづいて体系的に組織化したかは必ずしも明らかで はない。ある一つの説明によると、それらの学問は次のようなしかたで分類されたようである。つまこ ります、学問の全体が次の三つの領域に分けられる。 ①知ることをめざす理論学 行なうことにかかわる実践学 3 作ることに関する制作学 しかしこれら三種の学のなかでは、①の理論学のみが厳密な意味で学問の名に値するといわれる。と 28 ) ポリスの思想家ナち
ところで、このストア派の歴史は次の三期に分けられるのが常である。すなわち、まず前三世紀の アテナイを中心とした初期ストア派がある。その代表者は創始者のゼノン、次いでクレアンテス、そ してクリ、シッポスであり、彼らの哲学は論理学、自然学、倫理学を包含する一大体系であって、そ の特色は一言にすれば、唯物論的な一元論にたつ自然学と、厳格な倫理説にある。 次は、前二世紀から後一世紀にかけて、特にロード ス島を中心にした中期ストア派で、その代表者 はパナイティオスやポセイドニオスである。彼らは初期の人々が退けたプラトンやアリストテレスの 思想を積極的にとりいれて、一種の折衷主義になりながらも、ストア派の思想をローマ人にうけいれち やすいように合理化したこと、また初期のきびしい倫理説を和らげて、日常の義務を強調したことに 特色がある。 初期 中期 後期 モ そして最後は、紀元後一、二世紀のローマ帝制 ス コ 期のストア派で、セネ力、エピクテトス、マルク ススススカスス の の ウ譜界 ス ス・アウレリウスに代表される。この時期のスト 系世 ロ レのム ア派では倫理学、それも理論や学説ではなく、教プン テウ派ズ ュ シテドネ アアニ トレ ク 訓や訓戒の形による実践倫理が中心になり、論理キア ュイイ ススへ ン レ ピ ク 学や自然学はそれ自体としては無視された。 レ さて、中期や後期のストア派については、のちゼクク ポセ 工 マ
この二つの比喩では、論理学の位置はだいたい一定している。それは卵のからであろうと、畑の柵 であろうと、要するに、反対派の攻撃から自説を守り、自己の立場を強固にするためのものだからで ある。特にアカデメイア派の懐疑論的批判に対抗して自派の教義を積極的に定立するためには、正し く考え、じようずに語る術としての論理学を、ストア派は哲学に必須のものとみたわけなのであろう しかし自然学と倫理学の関係については、上記二つの比喩が示すものは、一見矛盾 自然学と 倫理学の関係しているようにみえる。一方では自然学が中心におかれているのに対して、他方で は倫理学が学問の成果とされているからである。なるほど、ストア哲学の本質を生活の術とみ・るならら ば、人間に生活目標を与え、行為の規範を示すものとしての倫理学が、究極の学問となるであろう。 ただ、その生活の術は学問的に基礎づけられた世界観を裏づけとしなければならないから、その意味 での自然学を欠くことはできなかったのである。その点で、ストア派の哲学を、そしてまたエ。ヒクロ ス スの哲学を、単なる実践倫理としてのみとらえるのは正しい解釈ではなく、少なくともヘレニズム時 代のものは、自然学を土台にしていたことが忘れられてはならない。 しかし他方、ストア派の自然学世 ム は、ある意味では自然神学なのであるから、摂理の認識とそれへの服従を究極の生き方とした一部のズ レ ストア派の人々にとっては、倫理学よりも自然学のほうが学問の中心におかれたわけなのであろう。 へ だから、ストア派の自然学と倫理学の関係については、われわれがこれを現代の観念で相互に無関 係なものとしてとらえるのではなく、それら二つは互いに密接不可分のものであったことを理解する ひっす
からはなれて独立に存在する純粋形相 ( 神 ) をあっかう。しかしこの学はまた、前二者が存在の一種、 特殊の存在をあっかうのに対して、存在を存在として、存在の全体をあっかうものともいわれている。 今日『形而上学』の名で知られている書物のなかでは、そのような一般存在論と、さきの永遠不変の 存在をあっかう基礎存在論との両面が徴妙にからみあっており、これはアリストテレスの思想の発展 とも関連して、やっかいな問題となっている。 次に②の実践学も、その対象が国家であるか、家であるか、個人であるかに応じて、それぞれ政治 学、家政学、倫理学の三種に分けられるが、『政治学」や「ニコマコス倫理学』などの倫理学書は現 存しているけれども、『家政学』は偽書であるとみなされている。 最後に、③の制作学には、史上最初の文芸理論の書である『詩学』だけが、不完全な形で伝えられ ているにすぎない。 っ しかしこの分類は、彼の現存する著作集の全体をさえおおうものではない。 ことに論理学関係の書 家 物がこの分類からはみだしているが、しかしこれらの書物はのちに「オルガノン ( 道具 ) 」と総称され想 ることになったように、論理学は学問の一部をなすのではなくて、思考の道具として、学問全体へのの なお、『修辞学』の位置も不明であるが、これは制作学のな 予備学と考えられたためかもしれない かよりもむしろ政治学の一部にはいるべきものだったであろう。
このようにして、思想のあり方も必ずしも単純ではないことが知られる。また 無力にみえる思想 したがって、思想の力とか、役割とかいうものも、いろいろに考えられる。 思想も知識も、物体ではないのだから、物理的な力をも「ているわけではない。腕力や物理的なカ に対して、思想がま「たく無力であるというようなことをいうのは、比較しようもないものを比較し ようとするのであるから、まったく無意味というほかはない。思想に物理力や腕力に対抗する力を期 待したりするのは、一種の魔法を信じるようなものである。科学知識の力といえども、このようなも のではありえないのである。知識は客観性をもち、事物のあるがままを教えるから、その前後関係を 推理して、事物のあり方を変えるしかたをもさとらせることがある。知識は直接ものを動かすのでは なくて、われわれが知識の指示に従「て、他の物理的な力なりなんなりを利用して、事物を動かすの である。それが科学知識の力なのであ「て、これによってわれわれは、人工衛星を飛ばせたり、原子 力発電を行なったりするのである。 いわゆる科学技術の発達は、いちいち事例をあげるまでもなく、このような意味における科学知識 の力というものをわれわれに明示している。おそらくそのカの根本は、知識が客観的でありい事物の 知識であることにもとづくものと考えられる。そして科学知識の合理性というものも、事物処理の順想 思 序くふうについて、われわれに多くの暗示を与えるといわなければならないだろう。しかし理論的側 一囲には、 いくつもの可能性が開かれていて、首尾一貫性だけでは、どちらとも決められないから、
確であっても、それが客観的認識となる保証はない。 このような認識と単なる思考との区別は、またカントが特に強調したところであるということがで きる。知識あるいは認識であるためには、単なる論理的首尾一貫性、いわゆる合理性だけではふじゅ うぶんなのであって、事物との対応、あるいは現実性、客観性などとよばれるものが要求されるので ある。われわれが理づめで考えたことが、また事物のうちに見いだされなければならないのである。 そしてこれはわれわれが知識と思想を区別するときに、ます最初に注意しなければならなかったこと なのである。つまり知識は、①そこに考えられたり、いわれたりしているとおりに、また事物がある という真実性、あるいは客観性をもたねばならないのであり、また 同時に、②そのような考えや思いなしは、ただ断片的にそれだけ孤 立してあるのではなくて、他の多くの思いなしや考えと、前提帰結 係 関 ( もし : ・ : ・ならば、 : ・である ) の関係などで、論理的に連結されてい 想 て、そのようなつながりのなかで、なぜそうなのかという理山づけか に 識がされなければならないということになるだろう。 知 このような論理のシステム ( 体系あるいは組織 ) のモデルは、たとと えばエウクレイデスの『幾何学原本』にこれをみることができる。 用語の定義や公理、公準というようなものが与えられて、そこから A 」 観知殊 一亠理羅一 一合理性 AJ の 思人
ほかに、五賢帝の一人であったマルクス・アウレリウスである。ところで、この帝制期のストア派を、 共和制末期のパナイティオスやポセイドニオスに代表される中期ストア派と比較するなら、そこには この時期のストア哲学は、理論的 歴然とした性格の相違がある。ます、まえにも少し述べたように、 な学説体系であることを完全にやめて、実践倫理、つまり生き方としての哲学に徹底した点である。 すなわち、初期ストア派以来の哲学の三部門であった論理学、自然学、倫理学のうち、前二者はほと んど無視されるか、あるいはまったく従属的なものとなって、倫理学だけが重んじられ、しかもその 倫理学は、理論的な学説であるよりも、道徳的訓戒となったのである。そのことはたとえば、「よき 人の本性はなにかということについて、一般的な議論にふけるのはもうやめにして、よき人になるよ る うに努めよう」というマルクス・アウレリウスのことばにもはっきりあらわれている。 ところで、人がよき人になろうとする場合、一般に知性よりも意志の役割が強調に マ 知性よりも意志 されたのが、この時期の倫理説の特色である。デカルトなどの近代思想家に大き一 ロ な影響を与えたストア倫理学は、一種の主意主義として理解されているが、その起源はこの時期のスは トア派の倫理説にあるといってよかろう。この点もたとえば、セネ力の圭い簡の一つのなかにある次のの ような意味のことばから知ることができる。すなわちそこでは、「よき人になるには君にはなにが必ペ 要か」という問いが出され、これに対して、「よき人になろうとする意志があればよい」と答えられ ており、しかもこの意志は . 学ぶことのできないものであることが付け加えられているのである。そし
カルネアテスのこのアルケシラオスにはじまる懐疑的傾向は、その後もアカデメイア派の人によ ップス」論 ってうけつがれていったが、そのなかでも特に著名なのは、北アフリカのキ「一レ ネ出身のカルネアデス ( 前二一四頃ー一二九年 ) である。彼が前一五五年、他の学派の代表者たちととも にアテナイの外交使節としてローマにおもむき、その人間的魅力と卓絶した論争の技量によって、ロ マ人の間にセンセーションをまきおこした点については、あとの章で触れることにする。 彼もアルケシラオスにならって、知識は不可能なこと、真理の規準はないことを説き、判断の保留 、寺こストア派の学説に対する批判は、認識論ばかりではなく、神の存在や摂理、目的ち をすすめたが牛冫 ほくせん 論的自然観やト占の理論などにも向けられ、その批判は激烈なものであった。実際彼は、ストア派の 論理家クリ = シッポスの著作の研究に没頭し、それの論駁を生涯の課題にした人であって、「クリ = シッポスがいなかったなら、わたしもなかったであろう」と告白していたほどであった。しかし、完 全な判断停止は生きている人間には事実上不可能であるから、彼がの がいぜん 独断論にかわるものとしてもちだしたのは蓋然論である。つまり理世 デ論的にも、また実践のためにも、「ありそうなこと」、「信じるにたズ レること」を唯一の原理として主張するわけである。それは「イエス」 。、ハップス」とだけいう理論だと とーも「ノー ともいわないで、「ノ してよいかもしれない。