被害者 - みる会図書館


検索対象: 新編 人間・文学・歴史
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1. 新編 人間・文学・歴史

ぶりを発揮しつづけたとすれば、その奇妙な心理法則は何 東条について考えて見ましよう。 彼が世界的裁判によって死刑に処せられた以上、「悪人」のうたがいもなく保存されていったにちがいないのです。 であることはうたがいありません。イエスは星きらめく天つまり東条的支配カより、史に強力な民主国家の支配が出 上に於て、彼をもその御手の下に救いあげられたかもしれ現して、彼を打ち負かさなかったならば、その当時の狂心 ませんが、地上の人類は彼を「悪」の行為者として抹殺し的国民心理にとって、彼は依然として善そのものの如く存 ました。 在し得たのです。彼が最善者であるという迷信は、彼より だがこのおおうべからざる現実とともに、かって日本国強力なるものの出現によって、ただそれのみによってはじ めて消え去ったのです。ほかの何物でもなく、ただそれの 内に充満していたあの心理的現象もまた現実であります。 : 。そして今や全く新しい強力者、第二第三 東条はかって、日本国の最大の強力者でありました。彼はみによって : の強力なる絶対者が、善の神と化しつつあります。 日本国民を支配した絶対者でありました。牢獄の片隅に、 善悪を考える場合、強弱をも考えあわせねばならないと ・または生き残りの自由主義者の心理のひだの下に、わずか いうことは、たとえ一時的現象にしても何となく暗い、悲 な反抗はありましたが、彼はたしかに戦時中、あたかも自 己が最強者であるとともに最善者であるが如くふるまい得しげな雰囲気を持っています。もし東条が唯一善として今 なお支配力をふるっていたとしたら ? そう想像すると何 たのであります。そして国民もまた彼がたんなる強者でな く、日本的善なるものの代表者であるがごとき魔術的印象かしら今の冷静な常識では、堪えられぬ暗さが影のように をうけとっていました。自分たちを栄光と幸福へみちびく降りて来ます。最強者が「悪」であったという印象は、痛 勇気りんりんたる指導者として彼を信じているかの如き興烈であるとともに乂、じめじめと陰気なものを私たちにあ たえます。明るい前進とともに、暗澹たる沈下を感じさせ 奮状態におち入りました。彼の命令は善であり、その逆は ・悪であるかのようでさえありました。イヤ、そのような心ます。それは東洋的な勧善懲悪ばなしの、あの色彩と、も 理法則が存在していたと言ってもいいくらいです。そしての音に似ています。 もしあの場合、日本が勝ちつづけ、彼がますますその強者私は十年ほど前に、泉鏡花の小説を映画化した『白鷺』

2. 新編 人間・文学・歴史

104 。それにもかかわらず、科学者たちの「思いあがってい 司祭職と見なすべきだ」とものべています。 る」熱中、子供らしい工夫や発想、いくつかの宇宙的な壁 この手紙はなかなか暗示や比喩にみちていてわかりにく に頭をぶつけて行く勇敢な態度に感服し、あこがれずにい いが、詩人として彼が異国の市民にあたえる警告とおびや られない。そこには文学を読む側ではなく、創り出す側かしは、軽妙であると共に深刻でもある。高度の近代社会 の、つまり文学者の創造の情熱と執念とよく似た、未知な における詩人の役割が、軽妙かっ深刻である以上、自然そ るものへの没頭があります。貧血した知性、センチメンタ うなるでしよう。ことに面白いのは、人間は暗闇と、深層 ルな形式主義のかわりに、火を発見し野獣とたたかった単に棲む怪物どもに占領されている。人間はその深層まで降 純な古代人の野性と本能さえ、その科学者の冒険のうちに りて行くことはできないが、その暗夜からは、ときどき詩 うけつがれています。 人たちを仲介にして、怖ろしい使者がやってくるとのべて いることです。この怖ろしい使者というものが何であるか 昨年の一月に書かれたジャン・コクトオの『アメリカ紀 行』 ( 「中央公論」五月号 ) は、発表された部分だけでは、漠然としてわからないのですが、ともかく常識世間の外部 アメリカ人に対する手紙のかたちをとっています。いつもに在り、市民たちが無自覚でいるどこかの深層からやって ながら、ヨーロツ。ハの詩人たちの自己の使命に対する自覚くる徹底的批判力を持った幽霊のことでしよう。彼によれ ば、詩人はその霊媒であります。 の強烈さ、アメリカ人に対するウィットに富んだ自信ある 話し具合にはおどろきます。 コクトオが特に提出した、 : ホオが代表している狂気、つ その中に「君たちは武器や富によって救われはしない。 まり詩人、娯楽供給者でない司祭職、怖ろしい使者の仲介 君たちは物を考える人々の中の少数者によって救われる。者などという概念に、私は上にのべた物理学者の場合をあ アメリカのかくれた人たち、君たちの貧乏、エドガア・ポてはめたくなります。これらの科学者もまた霊媒であり、 オが代表している狂気によって、つまりインクの種類は何狂気を保有し、司祭者的であるからです。彼等は芸術家と であれ、詩人によって救われるのだ」 ( 佐藤朔氏訳 ) とい ならんで、或はそれ以上に「物を考える人々の中の ( えら う言葉があります。「君たちは芸術を娯楽と考えないで、 ばれた ) 少数者」にちがいないのです。そして世界が原爆

3. 新編 人間・文学・歴史

任な予言者、無関係な報告者の位置に身を置いて、描写を に、哀れであった。観客も探険隊員も、これらの異人に同 指導することができる。 〃情すべきか、憎むべきか判断もっかぬ間に、二人の科学者 ハックスレーは未米小説『猿と本質』 ( 早川書房刊 ) に が彼等のために殺される。知能と勇気では地球上の代表者 たる優秀な科学者が、石に頭を砕かれ、石斧に首すじを刺於て、この位置に自分を立たせている。 される。 『一九八四年』でも、『宇宙戦争』でも、未来小説はす て、映画的な視覚の中へ、読者を導き人れることに成功し それは諷刺とも皮肉ともうけとれる箸だが、映画では事 態をあれこれ批判分析している瑕はない。「火星人の投げた。奇怪な事態を奇怪と感じさせないように、完全に目撃 た石が、科学者の頭部に命中する。科学者、倒れる。他のさせること。そのための努力苦心が、未来小説執筆者の根 一人が抱き起す。岩山の火星男、下をうかがい見る。石斧本的な動機であると言 0 てもさしつかえない。暗示し警告 し、予言し審判するのが役目であるにしても、その意図の を投げる。別の科学者も倒れる。首すじに突き刺さった 新しさが、意図のままに目撃せしめ得る表現上の操作の新 、、、ド青こ命令する通り、事はきわめて簡単明 斧」シナリオカリ↑冫ー しさをともなわなくては、小説として無意味である。未来 瞭にとり行われ、観客はそれをあれよあれよとⅡ撃する。 物質文明の崩壊を予言する企劃たとしても、石斧の大写しを問題にしたから新しいのではなく、未来を見させ感じさ には、それだけでその企劃以止のなまなましさがある。事せたから新しいのである。未来小説の場合は、それ故、 ( 件はまざまざと、画面に起りつつある。疑いもなく継続し者は事態を描写するばかりでなく、読者自身にその描写を つつあるこの奇妙な現象は、シナリオの中絶せぬ限り、消手助けさせるよう、指示し指導してやらなければならな 、。不可知の対象を前にして描写の限界が身にしみるか 、えようとはしよ、。 シナリオは「ロケット火星を出発」と一行だけ書き記せら、勇躍して工夫をこらさざるを得ないのだ。 『猿と木質』は、「タリス」と「シナリオ」の二部分カ ばよい。あとは監督と観客が互いに協力して、それを ら成る。 に熟視しようと努力する。製作側と見る側か状態と それはガンジー暗殺の日であった。 その興奮を造りあげて呉れる。シナリオ作者はいわば無責

4. 新編 人間・文学・歴史

衆的信仰の中心を。ハックにして行われたことで、ことに興熟な知性を支配するための知性を駆使している。 奮せずにいられなかったからである。彼等は無意識に自分社会のあらゆる階層から、新しい知能的権力者が輩出し たちの「生の蓄電」ではなくて、大衆的盲信を利用して成つつある事を、もう一度よくよく考えて見る必要がある。 功した結果になっている。その意味で彼等は充分にインテ マルクスが彼のプロレタリア絶対説を案出するために、ロ リ的で有り得なかったと言えよう。 ンドン図書館で、万巻の資料を読破したこと。レーニンが 試みに、スウェーデン大学生の言葉を次の如く改めて見その論争にあたって、いかなる大学者も及びもっかぬ、知 よう。「ーー・幾百の、幾千のインテリが、太宰治、田中英的な手れん手くだを使用せねばならなかったこと。この二 人はもともとの「インテリ」出身であるから、問題にする 光、原民喜がやってのけたことをやるべきなんだ。」 太宰、田中、原の生に匹敵する生を実現することは、そまでもない。だがスタアリン、毛沢東、チャーチル、ヒッ れだけでも困難なことであり、彼等の死がそれ故に貴重で トラア、トルウマンのインテリ性に関しては、今後調査研 あることは言うまでもない。だがヨーロッパ的意識を以て究すべき課題が無尽蔵である。労働者も農民も商人も、動・ 叫ばれた言句が、固有名詞をアジア文化人ととりかえただ かされるものではなく動かすものであるためには、インテ けで、いかに変色してしまったか、おわかりのことと思 リであらねばならない。単なる労働者農民、単なる人民以 外の何者かであらねばならないのだ。 これらの先行者たちの伝記は、確固たるインテリ性を持 インテリは、マルクス主義的実践者から、そのひ弱さを続するために、いかに彼等が悪戦苦闘せねばならなかった かを物語る。漠然たるインテリ論を、店頭から買いとって 攻撃される。たまたま変革的集団に仲間入りしたインテリ ・フラン から、脱落者や変節者を出していることが、この種のイン来たのでは、インテリ性の保証にはならない。 ク著『アインシュタイン』 ( 岩波書店刊 ) を読まれた方は、 テリ非難に油をそそぐ。その非難は堂々とテ工ゼ化され、 一科学者がインテリであろうとする素朴な行為の記録に、 多くの未完成なインテリたちをおびやかす。だが真のイン テリは、そのようなインテリ論などにおかまいなしに、未ほとんど聖なる物さえ感じとるにちがいない。

5. 新編 人間・文学・歴史

もインテリ小人にはその意識があり、しかもガリヴァ的善す。テスト氏はそれを創造したヴァレリイの強靱な知性の 者を夢想するか、あこがれるか、予感するか、ともかくそ結品です。そしてテスト氏の私たちにあたえる一種微妙な 詩は、よく発育した知恵の肉体の瑞々しい強さにあると言 の存在にひっかかって居り、なおかっ、ガリヴァだって大 人国へ漂著すれば自分たちと同一運命だと推定していまえましよう。彼があまりの知的強者であるために、つまり す。聖なる統一者をどこかに認めながら、それが信。せられ彼の「存在」があまりに明確であるために、私たちが手近 に持っている「善悪」のあやふやな物指や秤では、彼の善 ず、人間のガリヴァ的善をのそみながら、それがただ小人 国に於てのみという限定からはなれることができないので悪ははかりにくいようです。彼が善悪を超越しているから ではなく、彼が暗示する善悪の形が、あまりに知的で、あ す。 まりに根本的で、あまりに未来性に富んでいるため、私た 知識人が強者になり得るか ? これは知識人、文化人が 善悪に関し想いなやむ場合、まず考えて見るべき問題でちはそこに全く他のものを見てしまうか、或は何物をも見 ることができません。 す。 小林秀雄氏の訳によると、『テスト氏』の中には、悪の 私たちは、古典を残した文学者たちが強者だったことを 知っています。そして彼等が真の文学者であったことが、 問題にわかりやすくふれている部分が少くとも一箇処あり 何かしら彼等がその善を守りつづけた証明であるような感ます。テスト氏の夫人に向って、夫人の敬愛する牧師が、 じをあたえます。文学者にとって真に文学者であることテスト氏のひととなりを批評するくだりです。彼はテスト 氏にくらべては鈍くても、なかなか頭の良い牧師であり、 が、そのままこの世の善であるのか ? これはもう難しい 前途を予想させる推論です。偉大な文学者はつねに強者でかっ牧師であることによって、我々知的弱者に親しい言葉 あった、ことは認めてもいいでしよう。しかしその文学者を口走ります。 の強さとは何であったか、それが明確でなければ、彼の善牧師の考えではテスト氏はまず「孤立と独特の認識との についてとやかくのべることは不可能です。 化物」であります。そしてテスト氏の所有している倨傲 が、彼をそんな不可解な物にしてしまったと言うのです。 私は文学的強者の実例として『テスト氏』をあげて見ま

6. 新編 人間・文学・歴史

第一部「タリス」は、このようなさまざまな政治的間題一部の「私」の世界批判が拡大された・ものであゑこのオ ンボの早い脚本は、劇の進展が面白く、恋愛冒険物らしき、 を暗示する、やや悲愴的な一句で始まる。 。ハックスレ , ーはアメリカ映画の面白 「私」はハリウッドの映画会社に勤務するシナリオ・ライ一本通った筋もある さをよく承知して、これを逆用したのだろう。たたし内餮 タアである。「私」はガンジ 1 を暗殺せねばならなかった 現代を、鋭く批判している。彼は、その日、焼却場所行きが悽惨にすぎるし、後半にかなり難解な議論も出るから、・ のシナリオを一つ拾いあげる。偶然手にしたシナリオの作作者が上映を期待していないのは明かた。 ( ックスレーは・ : 」勺、 + 新勺こ、 ( 或は科学的に ) 視覚を自山に操る脚 者の名がタリスである。「私」は、『猿と本質』という題名意誌白言卩白冫 を持つ、そのシナリオに興味を持ち、タリス訪問を思いた本の形式を借用したと見てよい つ。カリフォルニヤの砂漠の寒村に、彼は友人とともに到 人間は高慢な怒れる猿である。というのが解説者の根本 この本質 着する。だが孤独者タリスはすでに病死し、墓地の下に埋思想である。彼等は自分の本質に気がっかない。 葬されている。「私」はこの未知の作の遺稿を発表しよう ははかない権威を帯びた猿群をどのような状態へみちびく・ と、決心する。 か。破減。これは別に新説ではない。スクリーンには、本 、、ハックス物の狒々や猩々やゴリラが現れる。この自己満足した猿た この第一部がすでに、知性過剰と称してよし レーらしい文体である。先を急ぎキビキビした解説風の文ちに囲まれた科学者ファラデーも現れる。クローズ・アッ 章が、幻想と理知で複雑に構成され、立体的な感じをあたプされたファラデーの顔には、驚きと嫌悪と怒りが刻ま , 説 える。タリスの家と墓をとりまく荒涼たる風景は、第二部れ、涙さえ流れている。やがて猿群に酷使される二人のア インシュタインが登場。その表情にも、同様に羞恥と苦情 未の内容をあらかじめ物語っている。シナリオの舞台は南カ ルフォル = ヤであり、そこには砂原と墓があるだけであが見られる。科学者と権力者の対立、或は対立も何もでき。 る。 ない科学者の運命が、このシナリオのテエマであること 第二部「シナリオ」では、解説者の堂々たる言葉が重要が、戯画的に示される。 やがて本映画の主人公たる、ニュージーランドの植物学 , な役割をする。これは一種の予言であり、宣言である。第

7. 新編 人間・文学・歴史

311 あとがき るし 『過去日本共産党の三十年をかえりみて、もっとも痛感することは、マルクス・レーニン主義によって武装し、平 和の旗手であり、勤労者の偉大な指導者であり、教師であるヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スタアリンの指導原則 を厳格にまもることが必要欠くべからざることであるということである。』 徳田は、決してネイ臣でも奸臣でも、ありはしなかった。だが、何らかの形で『御真影』を温存させ、禄高の御 安泰をはかろうとする『忠臣』が、しばしばこの種の文章を無神経に書きたがるものであるから、そのような『忠 臣』ではなかったと立証するためには、彼も、こう書かなかった方がよかったのではなかろうか。」 「お前は、何派であるか」と問われれば、「 ( イ文学派でございます」と答えるより仕方がない。「文学派」なるも のの正体は、私自身にもっかめるはずはないのであるから、こう答えたからといって、真の意味で答えたことにな らないであろう。ほかに答える術を知らないから、そう答えるだけであって、私自身が文学信者であるか、どう か、きわめて信用がならないのである。「政治家の文章」発表以後、私は新聞その他のジャーナリズムによって、政 治的な問題に対する発言を要求されることが多い。その十分の九はお断りしているけれども、十分の一ぐらいはお つきあいをしている。たたし、その場合にも私は文学について発言しているつもりである。 私の文学者としての半生は、中国文学研究会なる一小グループとともに始められたのであるから、私にとって中 国問題は、ぬきさしならぬ夢であり、難題である。これは私のみならず、世界各国の文学者たちにとっても、やが ては同じ夢と難題としてのしかかってくるにはちがいないが、まず、何よりも日本の文学者にとって、中国、ある いは中国文学について、思いめぐらすということが、あまりにも生ま生ましい、息苦しいほど密着した事件なので ある。かっての日本の漢学者が、儒学や漢文を学びとろうとしたときの心のおののきとは、またちがった戦慄がわ れわれにおそいかかる。このような戦慄は、戦後の日本の作家として、戦前の日本の作家の業績について思いめぐ らすときにも、同様に、驟雨の如く、霖雨の如く降りかかってくる。のしかかってくる。 「中国の小説と日本の小説」や、「魯迅とロマンティシズム」を書いたときも、「谷崎潤一郎論」や「吉川英治論」

8. 新編 人間・文学・歴史

武者小路氏はおそらく、戦後派の小説家の誰よりも農業 たがやしたりしていられた」と書く。「自分達が飯を運ぶ を知っている作家だ。短篇『土地』や自伝小説『或る男』 ようになってからは、師は自分の土地を近処の一番貧しい ものに与えてしまわれた。時々手つだわれることはあったのその部分を読んだ者なら、氏が農民の土地に対する執 が、一人で方々歩きまわられることが多くなった」と書く。着、そこに割りこむ知識人の前によこたわる抵抗と矛盾 農民作家なら、耕作、土地、村民の問題について語る場を、身にしみて知っていると判断するのは、まちがいのな 、所だ。にもかかわらず『幸福者』に於て、氏があれほど 合、こう簡略に単純に通りすぎることはできないにちがい よい。しかし武者小路氏は、ただこう書いただけで、すぐあっさりと耕作者としての師の問題を、すどおりしてしま った ( 或はすどおりできた ) のは何故だろうか。 さま師の発言の記録の方にとりかかる。 志賀氏は、現実を見る達人である。感覚的に、具体的に ドストエフスキイが『カラマーゾフ兄弟』に於て、肯定 的な人物、ゾシマ長老を、小説中の一人物として確立する見ること。あらゆる起伏を微細な点まで正確に見つづける こと。それが志賀氏の小説の堅固さを保証している。武者 ために、どれほど苦慮し熟考したかを想起してみるがよ 、 0 小路氏は志賀氏のように、見はしなかった。だが自己を この一宗教者をありありと浮びあがらせるためには、 ドミトリイの情熱、イワンの知性、ア「見る者」として信じている点では、志賀氏に劣らないの 氏フョオドルの慾望、 リョオシャの純愛、そして父親殺しと誤断された一大惨劇である。と言うより、信することによって見る人、信じた 場所に対象を見る人と称すべきか。それ故、氏はよい意味 武の全部を必要としたのである。しかもゾシマが死するや、 て屍体の発する臭気は、信仰ぶかい人々のあいだにさえ動揺で、目的のためには手段を選ばぬ小説家である。見たくな し い物は見ないでいられる作家、現実のある部分を強調せね をひき起している。 A 」 ばならぬと信じた瞬間に、現実の他の部分は「素通り」で 説以上の諸点を考え合せると、『幸福者』に於て氏の採っ た方法は、あまりに簡略、あまりに単純にすぎるように見きる、たぐいまれなる小説家である。氏にあっては、信念 える。だが、『幸福者』の師なる人物は、不思議なことに、 に燃え上らなければ、現実は存在しないのだ。そして「ま ず情熱を発見せよ」とすすめるアランの意見によれば、或 我らに勇気と平安をあたえる。 245

9. 新編 人間・文学・歴史

みちびいてくれる。有機物と無機物、植物と鉱物、動物とたのである。私たちは、敗戦を知らぬ国民には、とうてい 岩石の区別さえっきかねるような、奇怪な絶対平等のすが味わえないものを味わった。「アジアの指導者 , から、一 たを私たちに見せつけてくれる。極微なものへの突入が、人間にひきもどされた。そしてはじめて、地球上で自山な 私たちの人間論をゆりうごかすばかりではない。天文学者権利を主張できるのは、日本人ばかりでないことを骨身に や地球物理学者は、ますますはて知らぬかなたまで極大のしみるまで、知らされたのである。それは、あらためて自 字宙を膨脹させようとしている。私たちがよりどころとす分を発見し他人を発見することによって、傲慢な孤立か る大地は、無数の銀河の一部のまた片すみに存在する一地ら、ゆったりした平等観に移行できる絶好のチャンスでも 球にすぎず、その地球の生命も一個人の生命とおなし、生あったはずだ。その意味では、敗戦の経験は、単に政治的、 成流転をするものであること。地球に熱と光をあたえる太経済的なものであったばかりでなく、むしろ宗教的なもの だったはすなのである。 陽でさえ、気体のかたまりにすぎないこと。学者たちは、、ハ ラバラなように見える宇宙の星たちの大運動のあいだに、 名誉ある、犠牲的な行為と信じていたものが、実は他者 平等な関係を、ますます精密に予感し計算しようとしてい を認めない罪悪の行動にすぎなかったこと。この種の反省 る。 をしいられるのは、私たちにとって実につらいことだっ カらりと逆転し下落 いわば、現代の自然科学者、社会科学者のすべては、また。こうだと思いつめていた価値が、 : るで聖職者のように、人間の限界を明らかにしようとしすれば、だれだって驚き迷わすにはいられない。軍部の宣 て、いっせいに手さぐりしているかのごとくである。かく伝を、まるのみに信じていなかった者でも、その命令にし たがっていれば、どうしても同じ価値判断におちいってい して、限界がひろがるにつれ、平等観もひろがる。 かまど たわけだ。「日本帝国」と呼ぶ竈がこわれて、その中で燃 敗戦は、日本国民の大部分にとって、「もうこうなって は」という決定的な事実だった。軍事力において破れたばえさかっていた狭くるしい火烙の熱が消えるとともに、 かりでなく、戦争中の生きがい、緊張、倫理のよりどころ「人間世界」と呼ぶ広大な風が、私たちの全身を吹きさら を全く失った。すなわち「精神の戦場」においても敗北ししにしたのである。

10. 新編 人間・文学・歴史

れた種族保存の本能のおかげで、このような不吉な真理をでないものが存在し、しかもその存在がひろく認められ、 いみきらい、またその本能の日常的なはげしさによって、 その者たちが元気にあそびたわむれていることが堪えがた 減亡の普遍性を忘れはててはいるが、しかしそれが存在し いのだ。たとえその者たちが、自分の存在に気づき、自分 ていることはどうしても否定できない。世界自身は自分の のそばに歩みより、やさしく声をかけてくれたところで、 肉体の生理的必要をよく心得ている。それ故、彼にとってこのあわれな小学生はソッポを向き、涙をながすまいと歯 は、自分の胎内の個体や民族の消減は別だん、暗い、陰気をくいしばりながら「チェッ」と舌打ちするだけである。 くさい現象ではない。 ( 誰が自分の食べた食物が消化する減亡を考えるとは、おそらくは、この種のみじめな舌打 のを悲しむだろうか ) 。むしろきわめて平凡な、ほがらかちにすぎぬのであろう。 な、ほとんど意識さえしないいとなみの一つである。 それはひねくれであり、羨望であり、嫉妬である。それ 私はこのような身のほど知らぬ、危険な考えを弄して、 は平常の用意ではなく、異常の心変りである。しかしその わすかに自分のなぐさめとしていた。それは相撲に負け、 ような嫉妬、そのような心変りに、時たまおそわれること 百米に負け、カルタに負け、数学で負けた小学生が、ひと なくして一生を終る人はきわめてまれなのではないか。 り雨天体操場の隅にたたすんで、不健康な眼を血走らせ、 私自身の場合、かって自分と同年の双葉山が優勝をつづ 元気にあそびたわむれる同級生たちの発散する臭気をかぎけている間、心やすらかでなかった記憶がある。彼が日本 ながら「チェッ、みんな大みたいな匂いをさせてやがるく 一であり、不敗の強者であり、しかもソッがなく、堂々と せに」と、自分の発見した子供らしからぬ真理を、つぶやしていること。自分と縁のない彼に対して、私はただその くにも似ていたにちがいない。 ためにのみ嫉妬したものであった。その時の私は、国技館 その時の彼にとっては、したがって又私にとっては、絶の炎上、双葉山の挫折、つまりは絶対的なるものに、もろ 対的な勝利者、絶対的な優者、およそ絶対的なるものの存き部分、やがて崩れ行くきざしを見たいと、どれほど願っ 在が堪えがたいのだ。自分がダメであり、そのダメさが決たことであろうか。優勝者、独占者にとっては、ごくわず 定され、記録され、仲間の定評になってしまったのに、ダメ かの失敗、一歩の退却でも、それは彼の生命の全的減亡を