り、無意味もあるのです。未成年にとって、つまりドスト 精神を結びつけたのでしようか。未知な不可解なものにつ エフスキイにとって、賭は賭場に足をふみ入れることによ かみかかろうとする時の混乱動揺をそう名づけたいので ってなされるのではありません。最初の人生のめざめからしようか。 はじまっているのです。ドストエフスキイは、その小説に もしドストエフスキイの文学に、賭の名に於て、不正確 たびたび賭の場面をとり入れますが、彼は決してそれを後な、あいまいな、私たちを魅惑し、欺瞞し、漠然とっかれ 生大事に利用しているのではありません。ルーレ , トの盤はてさせる物を見出そうとするなら、それはまちがいで 面などより、も「と複雑豊富なものが、別の場所で、彼をす。文学とはいかなる場合にもそのようなものではないで 「賭 , へ押しやっているからです。その点、私は日本の しよう。一見、複雑で、デ工モニッシな、度はずれた事 説が最近、ルーレ , トやその他賭らしきものを小説の上で件に富む彼の小説が根本に於て求めていたものは、やはり 安易に利用していることに賛成できません。そこには、私正確さであります。彼よロ、、、、 : ノ冫 / ししカけんなところで割切 が戦場や留置場で見た日本の賭博者たちのあの、うす汚な 、部分的に自分の説を立証したのでは気がすまないの さだけが認められます。 で、つきつめつきつめ醜怪なまで思索的な人物、落ちると 編輯者が「ドストエフスキイと賭」という題を想いつい ころまで落ちてまだ生きている人物などを描きました。そ たのは、彼の一生及び作品の示す異常な = ネルギイ、まるれは佐々木基一氏がチホフを評したことば、「人に何か でおおいかぶさ 0 てくるような、重苦しい思いつめた眼っ強いるのでなく、人にあらゆる解釈を許すような、しかし きなどからでしようか。何事も自分の全身を風雪にさらしそのものとしての精緻さは、物自体の堅固さにまで達して 勢て見きわめねば承知できないひと。悪魔に魂を売「ている いるようなリアリズム」を、彼は彼流に念願したからにす ののではないかと、偽善者や形式主義者がうたがうまでに、 ぎません。ャケクソに金貨をある番号の上に投げ出した 賭独立した自分にしがみつき、それをさらけ出して神を求めり、 流行しそうな観念に一か八か体あたりするような、ヨ た人。無邪気さや冒険、極端な言動や無制限な懐疑不安をタ者的刹那主義とはちがいます。 克服しては又それを深めひろげるやり方、ここに「賭」の それ故、ドストエフスキイとヴァレリイ、この全く異質
び自己の周囲に対して、厭でもその暗い否定的な面を感し とり、先進国の文明光線によってあからさまに照し出され た、こちら側の皮膚の醜さに敢てふれて見る。一般人に先 だって一種の「うしろめたさ」を自己の創作衝動の底に凝 固させ安定させていた。この「うしろめたさ」から出発し たことでは両国の作品は一致している。ただその「うしろ 中国と日本、アジアに於けるこの二つの国のそれそれのめたさ」の内容が異 0 ていたのである。 文学者がつくり出しているそれそれの小説作品を比較して漱石と魯迅を比較してみるがよい。漱石のみならず荷 見て、まず最初に感ぜられるのは、両国の文学者の心理状風、潤一郎等も、後進国から先進国にむりやりのしあがろ うとする日本社会の焦燥、それにともなうよじくれた姿勢 態のはなはだしい喰いちがいである。もちろん両国文学者 に、駐えがたい不安と不満を感じた。彼等は自分たちの夢 たちの様々な個性は、これを同一の枠にはめこんで性急に 論断するのはむずかしいが、彼等の複雑な心理状態の底を想し希望する文化的な近代と全く性質を異にした「近代」 流れるものが一つだけ、互いにかけはなれていた。この喰が、眼前にで「ちあげられて行くのに反感を抱いた。近代 説 いちがい、かけはなれは、その時々の両国各々が胎内にはの美のかわりに、擬似近代、あるいは偽近代の醜を見せつ 卞らむ国内状勢によ「て多少その度合に変化を見たが、日本けられ、日本に於ける近代の形成そのものに失望した。そ とがかっての中国と同様な状態におちこもうとする今日におの結果、政治、経済的な日本の拡張発展に同調するかわり 説 に、古き美、冷き心理、孤立した個人の内部へと歩み去っ いても、依然としてつづいている。 てしまった。 国文学者はいずれの国に生れても、美について倫理につい 中 魯迅の場合も ( 『阿 c 正伝』に示されるように ) 非近代 て人一倍敏感であり、自分という個人、その自分の属する 的な中国生活の愚劣さに対するはげしい怒りが、わが身の 民族、社会、国家の現状について徹底した観察をせすにい られない。殊にアジアの後進国に生れた文学者は、自己及腫物をながめるような身ぶるいとな「て、噴出した。 中国の小説と日本の小説
平気で忘れてしまうロ調だ。夜学に通って給仕から叩きある。 げた、私の友人は『宮本武蔵』が何より好きだという。そ 冗談でなく、私は自分の子供が十代になったら、吉川文 れは、新文学の進歩性や、発明発見、不可解なものに対す学を。せんぶ通読させ、『太陽の季節』などが、いかにお坊 る怖れなどを後生大事にして破減するより、とにかく一段ちゃんの無為無能の代弁であり、おひとよしの文学である でも苦しい階段を上ろうとして汗をながす庶民に安心感を かを身にしみてもらうつもりだ。 抱かせる、古典とも伝統ともすぐさまなれあえる、しつか 「古人を観るのは、山を観るようなものである。観る者 り者の調子のような物の魅力にひかれるのである。 の心ひとつで、山のありかたは千差万別する。無用にも 漱石はわが子に、長塚節の『土』を読めとすすめたらし有用にも。遠くにも身近にも」 貧農の実状を、リアリスティックにつかませようとし 「山に対して、山を観るごとく、時をへだてて、古人を マニスティッ たのだ。私だったら、あまり不必要にヒュー 観る興趣はっきない」 「過去の空には、古人の群峰があ「を クになりたがる子供がいたら、まあまあ、そう性急に人民 に同情しなさるな。どうしてどうして、相手はしたたか者 これは昭和十四年、「随筆・宮本武蔵」の序文である。 なのだ。徹底した現実主義者は、文学上のリアリズムなど吉川氏の社会教育者としての自信が極点に達した時代の文 糞くらえ ! というほど、現実的に苦労し生活しているの章であるから、何となく堂々として、山上から、もうろう だ。だから彼らは、インテリのリアリズム文学など、本心と暗示的に垂訓している気配がある。これを現代式に翻訳 ではまるで赤ん坊のわがまま程度にあしらっていて、一せすると、どうなるか。 、こ吉川文学を愛読するのた。狡智とも、ずぶといとも、 治し冫 「死ンデシマッタ人物ハ、山ヲ眺メルョウニシテ観察シ 無神経とも批判されたって、結局こっちが勝ちたという、 夕方ガョロシイ。人間ノ、いナドトイウモノハ 、、ンナ別 目に見えない自信こそ、吉川文学から学びとらねばならぬ 別ナノデアルカラ、山ダッテ見方ニョッテハ、チガッテ のだと説教したい。道徳なるものが安定し利用されるため見エルノデアル。山 ( 山デア化 ( カリデナク、アルトャ には、これらのしつかり者の作家と読者が必要なのであ マタ、役ニタタナイ山デアルコト ハ役ニタッ山デアリ、
272 ことで、安吉は敵しがたく脅迫されたのであった : 『むらぎも』において、あんなにまで沢山の東京の町の名・ 東京育ちの私は、同一の光景に出会 0 ても、かほどまでを、偏執狂的なと形容したくなるほど、し 0 かりと書き込 の感慨をもよおすことはできなかった。 ませたのである。 安吉は街を歩く。よくも歩いたと言いたくなるほど、歩東京は、安吉の数年間の大学生生活に、強い強い印象を いた。「街あるき」においても『むらぎも』においても、 残す。さして華やかでも痛烈でもなかったその数年間が忘 歩きつつあると感じながら歩いた。ただ歩いたのではなれがたく、あざやかに、彼の青春の心に刻みつけられる。 く、感覚することのきわめて多い新しき街として、歩い 彼は、東京を知った。そして今さらに、決定的な意味で、 た。彼の感覚の敵と、感覚の味方が、待ち伏せし、誘いか もう一度知りなおそうとしている。彼は大学生でなくなる ける街として歩いた。 うとしている。彼にはまさに、一ペんに色々のことがわか ある一つの原つばへ出る。すると、もう「それは不思議ろうとしている。彼は独立した社会人にならねばならぬ。 な光景だった」 ( 「街あるき」 ) 「夢に出て来た一廓かのよう 知識人と労働者の問題、文学者と一般人の間題が、卒業ま な気味わるい窪地たった」 ぎわの安吉の前に、不思議な、気味わるいものとして置か れている。 何が一体、そんなに不思議で気味わるいのか。 平屋はみな安つぼい日本建てだったが、どれもペ 東京育ちであり、社会主義者でもなかった芥川竜之介に ンキが塗ってあった。その上それらの家はお互いに直角とって、卒業まぎわは安吉の如きものではなかった。もっ でも平行でもない関係で建っていた。ある家とその隣り と前の連中、志賀直哉や谷崎潤一郎は東京育ちたし、卒業 とが三十度位で交っていると、少し離れた別の家が、そもしなか「たし、社会主義者でもなか「たから、安吉のよ してこの間に不整形な空地の部分が入りこんでいたりしうな「卒業まぎわ」を持たなかった。 たが、今度は十五度位で相対しているのだった : 「冬の宿」にいた阿部知二は、安吉のような感覚の所有者 このような不思議がりかた、気味わるがりかたは、梶井ではなか 0 たし、安吉よりはるかに東京ずれしていたにち 基次郎や内Ⅲ百閒のそれを想わせる。このような感覚が、 、力し / しー月 1 、林秀雄には、安吉が直大視したような「卒業ま
止し、その代りに出来るかぎり最良の子孫を得るため に、統治者の命令にもとづく出産統制を行うことである」 これはまことに手きびしい主張であるが、誰もプラトン の『国家』から、血なまぐさい危険を感じない。それは彼 が、哲人の支配を求めたからである。権力者が聖者たちば かりで、支配者が自分たちの欲望を制御すること、修道院 の内部の如くであってくれたら、まことに僕らは安心でき るのであるが。何もこれは、「赤い坊さん」の弁護のため にひねくり出した理くつではないのだ。 ( 「中央公論」三一年八月臨時増刊号 ) 善玉と悪玉 僕の父は坊さんであり、僕の母は坊さんの女房であり、 したがって僕ら一家はお寺に住んでいた。父が死んでか ら、僕は父のあとをついで住職にはならなかった。僕には とても、父や法然上人のように「善い人」になれる自信が なかったし「善い人」でないのに善い人ぶるのは、い力に も恥ずかしかったからだ。住職のほうは父の弟子に譲った けれども、僕はあいかわらす、寺の二階に住んでいる。東 京にはめずらしく景色がいい所で、家賃がタダだからだ、 住職になるのが恥すかしいくらいなら、寺の二階を独占す るのもやめてしまえばいいのだが、そこが僕の善人とも悪 人ともっかぬあいまいなところなのである。 に て
た反対に一個ないし無数の生物あるいは神と化して、そこれほど運命的なものなのである。 から創作者にたちむかってくる。このようにして、「私」 は私をおそい、おびやかし、いやでも新しい出発、新しい 動揺へと誘うのである。かくして、作家にはたらきかけ、 又は彼から逃れ出し、その眼前に目くるめくばかりの人間 性の原野をくりひろげ、変幻する可能性の霧でつつもうと する「私」。そのような「私」を持っ作家こそ、作家とし て生きることができるのである。 作家が彼自身であろうとする努力と、そこから脱出しょ うとする努力。これら作家の苦しいいとなみが、ただそれ のみが、彼をして「私」を生み出させる。作家が自己の生 み出した多数の「私」にとりかこまれている姿は、福々し い老翁が多数の子孫にとりまかれている状態よりは、全身 の傷口からはい出した蛆を自ら眺めている負傷者の形に似 ているかもしれぬ。おそらくは作家は、自己の作品中の 「私」たちから、この負傷者の感ずる如き戦慄をうけとる めであろう。しかしその戦慄によ「て、彼はふたたび眠をひ をらき、腰をもちあげ、重き手をとりあげて、彼の苦しいい 私 となみをつづける。そしてその彼のいとなみを最後までは げまし、強く、ひきだし、見守るものは、彼の傷口から生 れた「私」たちなのである。「私」とは、作家にとって、そ ( 「文芸首都」一一三年八月 )
しかも国民のために ( 或いは自己保存の本能のために ) 予知的士族が発生しつつある。封建時代の士族とは一風異 言者でなければならなくなる。人類はかくあらねばならぬった服装に身を固めて、新しい士族が発生しつつある。 と、たった一つだけに限定した針路を予言する。彼等が決『葉隠論語』の著者は、「全部の歯を噛み折るまでの覚悟を 定した通り、未来は運行するであろう。それ以外の事態はしなければ、武士道は成り立たぬ」と戒めたけれども、精 発生し得ぬと断言する。彼等はそれを、彼自身の集積した神的な歯をことごとく噛み折る人々が生れつつあること 「科学」によって、統計と宣伝力によって、圧倒的に人民は、疑うべくもない。私自身は卑賤なる奴隷の一員ではあ の耳に鳴りひびかせて置く。彼等は絶えず討論し、批判るが、ガリガリと噛みしめられる強靱な歯音は感得でき し、改訂し、粛正する。そして自分たちの「科学」の絶対る。 に正しいことを、立証し、説得し、承認させようと必死に 私はインテリを、そのインテリ性の故に畏怖し感嘆す 努めねばならない。彼等が無知だからではなく、知的である。インテリ性を失ってインテリの名のみとどめた人々 ればあるほど、必然的にそうなるのである。 は、インテリとして失格者であるから、知的士魂からは縁 この種の事態は知的政治力の将来について、何か暗い影 遠くなり論するに足りない。 クラウス・マンは近世の大芸 を投げかけるかの如く想われるかも知れない。おそらくク術家の異常性を指摘し、彼等の運命を悲劇と認め、その一 ラウス・マンの絶望は、この暗い影の予見によって、色濃つ一つが、文明の基礎をゆるがせつつある全般的危機の先 くなていたかも知れぬ。だが種々の不安と不満の影を羅触れであるとしている。彼等が示すものは、果してそれの 列して、それ以上一歩も踏みだそうとしない絶望者と、最みであろうか。ドスト = フスキイの病的な恍惚状態と恐る 後まで知的努力を棄てすに精神的宇宙に身体を賭けた実験べき自己虐待、ランポオのアフリカ原野への逃避行、詩人 者と、いずれが興味ある登場人物であろうか。いずれが罪失格宣一一 = ロ、怖るべき悪意を秘めたその沈黙、ファン・ホッ 深き者であるかを問おうとするのではない。い・ すれが生をホの狂気への逃亡。これらはなるほど危機の先触れではあ 蓄電し得たか。いずれが神の御前で、「私は生きました。 るが、決して精神的エネルギイの衰弱ではなく、むしろ活 そして死にました」と告白できるであろうか。 力の噴出ではないか。彼等の異常性は陰気な歪み、邪悪な
静な計画や、合理的な判断があってのうえの犯行である。持している無反省な強力者には、だれでも反感をいだく = 犯人たちが今まで、この社会をどうやらこうやら、じようし、また一方、事件のため自殺した犯人に対しては「やっ ずに泳ぎ抜いてきた人生の知恵、日常のやりくりさんだんばりあの男も良心が有ったんだよ」と同情する。汚職とい の延長線の上に、そのまま乗っかって、いつのまにか犯しうあいまいな「犯罪」のことは忘れて、自殺という決定的 ・てしまった罪なのである。汚職は国民の目から見れば、地な解決法に感動するわけだ。 ・位を利用した悪であるけれども、罪を犯した当人の精神状 汚職をやったあとでも、代議士に当選し、大臣までっと 一態は、むしろ常識的な危険性の少ないものである。 める「犯人」にとっては、汚職の罪を犯しても、それは極 犯罪であるからには、危険性が少ないわけはない。しか 限状態におかれたことにはならない。あとはあいかわら ず、自己の罪を自覚しないで、常識的な成功を、あいまい し、汚職の場合は、国民の目、国民のさばきが存在してい ることを、よく承知しているほど、希静な社会人が、まずなままにして、けっこう自信まんまんと生きていられる。 この程度なら発覚しないだろう、発覚しても刑罰はこのく しかし自殺した犯人にとっては、汚職は決してあいまい らいだろうと、常識人の判断に守られて犯している。 な失敗ではなくして、決定的な罪だったのである。汚職が それゆえ、汚職のチャンスなどまったくありえない人々発覚してからの彼の精神は、まさに極限状況におかれてい は「おれたちが苦しいのをがまんして、まじめに暮してい たわけだ。自殺者が成功者より弱かったことはまちがいな 人るのに、また、ずるいやつがずるいことをやった」、「あの 、。また、自殺者は「もうこうなっては世間に対して顔向 サ若さで、何十万、何百万という金を自分のモノにしちまつけができない」、「もうこうなっては、自分に月給をくれる て、一年や二年の刑ですむならば、こちとら、おとなしく職場がないから絶望だ」と、自分の生きる細い道が壁にぶ 状しんぼうしているのがばかばかしくなる」などと憤慨すっかった思いで、性急な判断により自殺したにすぎないか 限る。つまり自分の日常生活と同じレベルで比較もし、検討もしれない。罪の自覚よりは、無能力のいいわけのほうが もして、怒りを感する。 濃厚だったかもしれない。ただ彼が「もうこうなっては一 したがって汚職事件の後にも平然として、高い地位を保と感したことは、依然として、無反省でいられた強力者よ
永遠のものになった。その横顔は時間に永遠の形態をもた 悠一の精神と交合した。 ( 中略させて下さい。 ) その夢み らし、或る時間の完全な美を定着することによって、それ がちに半ばひらいた青年の脣は、彼が思いえがいた彳自 自身不朽のものになったのである」 身の美しい脣にふさがれた」 だらしない夫であるポー。フが、急に哲学者的な沈思にお 自分の精神が、もう一人の自分の「精神」と交合したり ち入ったのも、怪しむことを止めよう。彼が是が非でもするのは、よくある例だ。ただし悠一が、ポ 1 。フのささや 「美」を手に入れなければならぬ必死さも、察してやらねきを聴きながら、男男関係の最中に、その種の精神状態に ばなるまい。ただし、同じとき、悠一の方はどんな状態におち入 0 ている所が見ものなのである。全登場人物のなか な 0 ているのだろうか。くすぐ 0 たいとか、あさましいとで、悠一こそ、完全無欠の美肉体の所有者である。しか か、何かしら生理的な違和感はなか 0 たのだろうか。三島も、彼が、男性の美肉体にしか執著しないとすれば、彼に 氏はこのすぐれた長篇で、いやがらせの戦術を見事に駆使は、彼自身の肉体としか交合する必然性がないわけだ。し して、読者をひっきりなしにおびやかし、おどろかせつづ たがって、彼は、このような「容易に説明することのでき けたはずだ。ところが、ここではその戦術とあ「さり手をない」状態にたち到 0 たのだ。どんな思いあが 0 た、凡庸 切「て、底ぬけの「恍惚」を描き出してくれる。すなわな女性愛好者でも、こうまで自己の美を確信することはで ち、 きない。女を抱く男は、まちがいなく官能の上にまどろ 「信孝の言葉がえがき出した画像は、鏡から抜け出してむ。そして、自分たちの官能的な狂気を、今さら「精神は 論悠一の上に徐々に重なった。長椅子の背に凭れた悠一の精神の上にまどろむ」などと、理くつで言いなおそうとは 髪にその髪が重なった。官能が官能に重複し、官能がたしない。「何ら官能の力を借りずに」などと、そこまで自 島だ官能をそそり立てた。この夢のような合体の感じを平己弁護しようとはしないであろう。コトはそれで、日常の 易に説明することはできない。 ( まさに、その通りだ ) 雑事の一つとしてすむ。しかし、幸か不幸か、悠一は、男 精神は精神の上にまどろみ、何ら官能の力を借りずに、 色の美的代表者で、あらねばならない。故に悠一は ( した 悠一の精神は半に ま既にそれと重複しつつあるもう一人のがって作者は ) 、女色者の凡庸な交合が、あさはかな官能 267
にすがっている、その非精神性を攻撃し、一方では、何とれを下から笊でうけとめる。白人は得意そうに、尻をまく % かして、男色者の、官能的ならざる美意識を保存しておか り、羽ばたきをし、奇声を発した。そんな悽惨なおもむき ねばならなくなる。たんに官能的だったら、男女秩序に向は、悠一にはない。また、ドイツ系のアメリカ人は自動車 って、男男秩序をさしつける意義が、消え失せてしまうでの中で、悠一を強姦する。悠一は力すくで、下著とアロ はないか。「禁色」の読者が読みつづけているあいだに、 ・シャツを脱がされる。それのみならず、白人は悠一の 一体、批判者になれとすすめられているのか、それとも恍裸の肩に獣のようにかみつき、血まで流させる。そのあと 惚者になれと命令されているのか、とまどう時があるので白い巨漢は、すすり啼き、銀の十字架に接吻したりす は、三島氏の立場の、この種の困難さから来ている。 る。車のハンドルにとりすがって、祈ったりする。そのあ いだ彼は、自分が裸体になっていることにすら気づかな 『禁色』の絶妙の面白さは、悠一や俊輔や信孝、男たちの 白人を描いてこれほど冷酷になりえた作者が、なぜ悠 徹底した背徳にあるのではない。むしろ、悠一の立場のあい。 いまいさにあるのだ。もしこの小説に背徳がありとすれ一の男色恍惚を、あれほど甘やかせたのであろうか。 『禁色』の圧巻は、第二十八章「青天の霹靂」と、次の ば、徹底した行為とは、うらはらな、主人公の位置のあい まいさから発生したものだ。小説冫、 こ導人された「男色」の「機械仕掛の神」の章である。 魅惑は、悠一の内心のうごきなどには全く関係ない。魅惑徹底した反抗者になりえない悠一は、今だに健全な家庭 はもつばら、彼のあいまいな立場が、彼の母や妻や愛人の孝行息子であり、善良な夫でもある。彼にはまだまだ、 ( 女性 ) にひきおこす、困惑と動乱にあるのだ。男色者の男女秩序にそくする一員として、ふるまえるゆとりがある すさまじさは、悠一ではなくて、むしろスケッチ風に、或ばかりか、かなり恵まれた有望な一員にのしあがる可能性 は挿話として描かれた二人の白人の方にある。一人の白さえある。それ故、悠一の母が息子の異常性を発見するく 人、金髪のフランス人は己の直腸のなかに五つの鶏卵を、 どりは、すばらしく劇的となる。 押しこむことができた。彼は屋根に上って、一つまた一つ 坂口安吾に「母の上京」という短篇がある。たしか、男 と、ほんものの鶏のよテに卵を生んでみせた。弟子が、そ色の男を自分の下宿にひき入れて、めちゃな騒ぎをやって