被害者 - みる会図書館


検索対象: 新編 人間・文学・歴史
293件見つかりました。

1. 新編 人間・文学・歴史

されている文学者、たとえば郭沫若と茅盾の如きは、か ない以上、あるいはそれを打開する運動に参加しない以 って共産党員であったことはないし、その非合法運動に 上、彼等は文学者としての生命を、その瞬間から消失しな ければならなかった。林語堂を中心とする小品文一派 ( 軽参加して入獄した経験もないのである。ウルトラから脱 落者の刻印を打たれかかった魯迅を、よく最後まで理解 妙な諷刺的ェッセイストの集団 ) が国民党官僚の腐敗やこ したのは毛沢東であった ) わばりを、かなり冷嘲的に分析し攻撃したにもかかわら 両国文学者の創作心理の底流を比較するために、やや気 ず、魯迅及びその系統をうけつぐ青年作家群から批判をう けねばならなかったのは、彼等のグループが明朝末期、清短かに私小説の問題をとりあげてもよい。 朝初期の文人たちの個人的な虚脱と達観と反逆とを、消極 日本国内の留学生のあいだに企てられた創造社の文学連 的な抵抗の面、主として自由なる精神というヨーロツ。 ( 文動は、その初期にかなり多量の私小説的作品を生み出して 芸復興期に似かよった面でばかり発揚させようとこころみ いる。今次大戦中、南洋で悲惨な死をとげたと伝えられる たからであった。彼等の皮肉な文人風な咏嘆よりはるかに 郁達夫は、『沈淪』によって代表される頽廃生活を自然主 エネルギッシュな抵抗が、湖南江西の農村に発生してい 義的に告白した一連の私小説短篇で自己の創作活動を開始 た。やがて発生地を遠くへだたる西のかた陜西省に移動しした。それらは自虐的で誠実一点ばりである点、或る種の 説 日本の私小説と酷似していた。創造社の系統ではないが、 て、その山岳地帯の非近代的生活の中にそれは保たれてい 本た。そのネルギイを良しとするのは、あながち、一主義ま「さきに中共地区入りした女性作家丁玲も、唯美的な個 日 を最高とみとめてその線に沿うという、セクト的政略とは人生活の記録を、すぐれた感能的描写で記録した作品を残 A 」 説 より広範な、それ故にごく平凡な明している。創造社の主要分子たる郭沫若に至っては、彼の むすびついていない。 の 日の暮しをおもんばかる貧しく無知な主婦の気のくばりに主要作品の大半は自伝小説から成りたっている。幼年時 国 中甬じていた。 代、日本留学時代、上海時代、北伐従軍時代、すべて忠実 な私小説的作品として記録をとどめている。中国歴史に材 ( 共産主義者の独裁下にある一九五〇年の中国に於て、 もっとも政治の中枢部に近く、もっとも重要な発言を許をとった詩劇風な作品、及び狂暴なまでのロマンティック

2. 新編 人間・文学・歴史

が、生存するために国土から国土へ渡り歩く人々は増加し つつあることを想起しただけでも、生の形式のめざましい 複雑化は明らかである。明治維新の志士たちは、封建的領 土から脱藩することによって、新しい政治ならびに精神的 〒ネルギイに転化したが、現在の知識人は、肉体を移動さ せていない時刻にも、何物かに引寄せられて脱藩しようと もはや一人の不幸なインテリの「死の物語」は、瞬間的している。集団を裏切り集団に絶望して死ぬ青年は、たし にしか我々の興味を惹かない。世界に散在して生きつづけかに悲話の主人公たりうる。しかしそれだけでは、もう一 る強力な知識人の、興味津々たる「生の物語」がそれそれ度裏切りなおすために生き、絶望と希望を掌中で転がす老 結末の見通せない巨大なロマンの一章一節として、我々を人の物語ほど、現代的ではない。 二十世紀は事実の世紀であるという名言は、個人の無力 緊張させつつあるからである。強固な知能的一人物が或る のみを教えさとしているのではない。事実の世紀にあっ 日呼吸を停止したという事より、多数の彼等がどのように して生き、又生きつつあるか、その独創的な手段方法が絶て、なお生きようとする人々の執念物語の舞台こそ、津々 て 、よ浦々まで巡業可能な興行であると、語っているのである。 えず我々を驚かし、目ざまし、活気づけてくれる。いカオ こる突飛な自殺行為、いかなる深刻ぶった自殺宣言より、も この執念の代表者はインテリである。この現代的執念劇 族っと豊富にして、怪奇な不慮の死が、我々を押しつけてい は、土地にしがみつく農民、機械に密着するエ人だけで 的る。自殺に関する発明発見はさして進展しよ、 オしが、殺人に は、精彩を欠く。もっと新しい執念の対象を握って、もっ き関する新趣向は日夜試験されつつある。したがって各々のと色めの変った執念の烙を燃やす人々が、劇を進行させて 新生を選ぶ可能を与えられた人びとは、意識するとしないに いる。たとえば原子物理学者、成層圏航空士、密使、国立 かかわらず、常に自己の生のために、とてつもない工夫を銀行総裁、新聞の派遣員、その他あらゆる意味の権力者た こらさねばならない。自殺するために国籍を移す者はない ちがそれである。しかも現代に於て、これらの伝達者革新 新しき知的士族について あやまれるインテリ論を駁す

3. 新編 人間・文学・歴史

って出発したころのロシア独自の後進性からきたものか、 指導者となると、これは一応、未来の代表者であり、最後 国の政治のみそれともコンミュニズム全般に必然的につきまとう何もの の審判の立会人である。彼の一挙一動は、小 ならず、片隅のインテリの内心の琴線をも見逃さない、支かからきたものかは、現在、次第に判明しつつあるところ 記力にみちみちたものである。その「彼」が、どんな恰好だ。ス氏自身も、一九二三年には、ワンマン的支配を、理 論的には、はっきりと否定しているぐらいだから、少くと ・をして、どんな形容詞とどんな拍手をうけ、どんな額をか ・ざられるか、かざられないかは いくら三ザルをきめこんも政治理論の上で、ソヴィエットの指導者たちが、集団指 導を忘れたことは、一度もないわけだ。理論の全くない国 でも、。ヒリリと来るのである。 彼直感は、そのぐらいにするがよいであろう。君のうで、理論と実際のくいちがいが起ることはありえないが れしがりそうなデエタを、まず最初に呈上しておいてか理論のある国で理論と実際のくいちがいができることぐら ら、ゆるゆると君の錯乱を、とりしずめてやることにす い、別にあやしむに足りんだろう。強大な権力をにぎり、 る。 闘争に熱中したさいの指導者が、どんなヒステリカルな心 スノウのソ連研究によれば、四ペエジの新聞に、スタア理状態におち入るかの一番よい実例は、ヒットラア氏であ リンの名前が五十七カ所でた日があったという。一九四四る。それにくらべれば、ス氏の如きは、ますまず冷静すぎ るほど、自己抑制のできた人物と称すべきだ。一九四五 年、十二月には、十節よりなる「スタアリンに捧げる詩」 が、あらゆる新聞の、まる一ペエジをうずめた。ホイヒト年、対独戦に勝ったあとの、赤軍大祝賀会で、ス氏はもち ワンガアが、スタアリン自身に「あなたの肖像が至るところん「オオミイズノモト」などと演説はしなかった。きら 対ろ使用されている事実をみとめるか」とたずねた。すると星の如く立ち並ぶ将軍たちを前にして、彼は大元帥、元 とス氏は「民衆がのそむなら、別に害はないと思う」と答え帥、大将をほめそやすことなく、「名も知れぬ無数の歯車」 ' マ ( こ 0 のために乾杯しようと言った。芝居がかっているにせよ、 ロシア国民が、ある時期に「革命を人格化した誰か , をなかなか政治を心得た、アジなせりふを吐く名優ではない 、 0 必要としたことはあきらかだ。その要求が、社会主義に向

4. 新編 人間・文学・歴史

して奴隷船に積みこんでしまう。同じ奴隷として、同じ船なぜならば、彼らはまだまた、自分たちが所有者であり使 の底に、同じ鎖につながれてからはじめて、彼ら両部落の用主であり、この世における強者であるという自信 ( それ 黒人たちは、あんなにも別物と考えていたおたがいどうしはあさはかな誤解にすぎないのであるが ) からぬけ出して : 、実は平等だったということに気がつく。 いないからだ。この場合の彼らは、人間の限界の恐ろしさ に気がついていない。自分たちもまた、いっ限界に直面す 危機と矛盾がぎりぎりの所まで来る、つまり限界状況に なってはじめて、彼らは、自分たち捕われたものが平等でるかわからぬという予感がやってくるまで、彼らは強者 あったことを発見する。敵部落の黒人を見る見方が変った ( それもホンの一時的の成功者 ) のみが、人間であるかの ように、ふるまっている。 ばかりでなく、自分の部落の自分たちを見る目が、すっか り変ってしまったのである。「部落」からむりやり引きす : 、はかないうぬ・ほれを持 この血の気の多い彼らばかりカ りだされ、大海上の船底におしこめられた彼らには、もは ちつづけているのではない。私たちはだれでも、みつとも や部落という境界は消えうせている。彼らにはすでに、船 ないことではあるが、宗教的平等観にたどりつくことがで 底につながれた人間全体を見る新しい目が生れている。思きないのた。 っても見なかった状況におかれて、やっと、思っても見な 生物学は、人間の肉体がさまざまな細胞のかたまりにす かった自分を発見する。新しい他人を見なおして、他人とぎないと教えてくれる。心理学者は、私たちの精神が性欲 人自分とに共通した、今までは考えっかなかった「人間」と衝動そのほか無意識のやみにとりかこまれた、あやふやな いうつながりを見いだす。自分が人間であること、他人が存在であることを証明してくれる。医学や薬学は、人体の に人間であること、このきまりきった事実が、突如としてい いとなみに、外部からメスや注射針を入れることによっ 状きいきと目にうかんでくる。 て、神か悪魔のごとく自山にはたらきかけようとしてい 限奴隷船の船長、船員、奴隷狩りの商人、奴隷の販売者とる。歴史学者は、人間社会のあらゆる権威、あらゆる城壁 使用主には、まだそのとき、黒人同士の胸にうかんだ仏教は、、 力ならず消減するものだと説きつづけている。物理学 的 ( あるいはキリスト教的 ) 平等観は、理解されていない。 者は、細胞よりも、もっと徴小なものの世界に、私たちを

5. 新編 人間・文学・歴史

我アジア人にとって、より重要な言葉を吐いている。「彼れたと敢て私は言わずにいられない。その恵まれた自覚な ら ( ヨーロッパのインテリ ) はほかの大陸のインテリたち くして、破減の域に押しやられねばならなかった、多くの よりも余計に意識的且っ積極的にインテレクチュアルなの アジア種族の運命を目撃している以上、卑賤なる成員の一 だ」、「蓋し彼らはことごとく同一の悲劇的家族に属し、零人たる私は、ここに或るヨーロッパ知識人の死は認めて 落しても誇りの高い高貴な一種族の成員なのだ」と。苦悩 も、全世界のインテリの死の予想を認めることはできない し絶望していると自称しつつも、クラウス・マンは何と自のである。 信にみちた一句を書き記したものではないか。これこそ、 ヨーロッパ知識人を現在おびやかしている不快感と不安 近代国家を形成すべく七つの海をかけめぐり、アジアの各感を、東方の文化人たちがかって甘受し忍耐せずにいたと 地から物質的富を集結し、そのことによって知的繁栄にもでも言うのだろうか。アジアの諸民族は ( 日本と中国だけ 成功した、白人種の子孫の書きつけそうな言葉である。零に限ってもいい ) 、西方からの風圧の下で、欲すると欲せ 落しても誇りの高い高貴な一種族の成員たる彼は、起ち上ざるにかかわらず、憎しみあい、殺しあい、盲目的に反援 りつつも誇り高くない卑賤なるアジアの諸種族の成員にはしあわなければならなかった。ュウラシア大陸の西の一角 一顧だも与えていない。彼は死にひんしつつも、なお近代で、他の大陸の二大勢力の風圧の下で、その知識人たちの 文化の創造者であり、担い手であった自分一族の知性を愛頭上に右往左往せねばならぬ運命が発生しつつあるにして っ惜することができた。彼はアメリカ人の非インテレクチュ も、あれだけ知恵者そろいの西欧貴族が、かってアジア諸 族アぶりを批判することもできたし、ロシア人の野蛮な ( ? ) 地域に彼等自身の手でふりまいた不幸が、自分の身にふり かかって来ることを、どうして予言しようとはしなかった 吶暴力を攻撃することも可能であった。 ( 彼自身はそのどち きらをも敢て実行しようとしなかったが、彼の遺書はその精のか、又その予言を信じようとはしなかったのか。 新神会社の高級社員としての自信のほどを明示している。 ) 「ヨーロッパのインテリが、最もよく危機を意識してい るのも不思議ではあるまい」 彼には愛惜すべき知的遺産 ( たとえそれが亡びつつある にしても ) の継承者たるの、恵まれた自覚があった。恵ま 象徴的な知的自殺者の書きつづったこの一句を、私たち

6. 新編 人間・文学・歴史

判断で、いきなり事を起すから、はたの者は大いに迷惑すの親玉たちが何を今後やり出すかを、少しく解説して、そ る。君自身、そのように行動していることを想起せよ。しの君のちつぼけな疑問を解く鍵にしてやろう。 たがって、彼らはイギリスの支配階級の如き理智的な態度 政治は風俗小説とはちがうんだぞ をとることが永久に不可能になる。と言うことは、支配さ れる日本人の側から見ると、イギリス労働党が達成したよ フ氏の演説で、平和勢力と平和地帯を区別しているこ うな福祉国家をつくるためにさえ、議会だけに頼ってはい と、これがまず大切だ。「平和勢力ーというのは、ソヴィ ェッ .-t. 、 られぬことを意味する。 中国、その他の社会主義国及び人民民主主義国だ 私すると、やるのかね。 x x 革命を ? ね。これはハッキリしているが、これら平和勢力の他に、 彼何も xx にする必要はないよ。ここしばらくのあい第三勢力、すなわち中立主義をとっているアジア、アラブ だ、暴力革命など起りうる見透しなどありはしないのだかの諸国があるな。今までの理論では、この「第一二勢力」に ら 0 対する考え方があいまいだった。日本のコンミュニストな ども、一時は、第三勢力および中立主義を、手ひどく排撃 私だが、君、待てよ。君の意見によれば、バカはとか したよ。ところがフ氏演説では「両プロックに参加しない く衝動的、直接的な行動をしかけてくる、と言うんだろ。 ことをもって外交政策の基本とするという宣言をした、一 日本の支配者がもし永久に力でありつづけるとすれば、 当然自分らの暴力行為によって、コンフリクトをひきおこ群の平和愛好国家がアジアに出現した」と、のべている。 すことになるわけだろ。すると被支配者の方だって、イヤかかる第三勢力の出現によって、平和勢力は非常に力を増 した。「その結果、社会主義国と非社会主義国とを問わす、 でも x x を行使することになるんしゃないのか。 ヨーロツ。、、 / アジアの平和愛好諸国を網羅する平和愛好地 彼それで、僕をやりこめたつもりなのかね。哀れなる かな。あの両演説を読んだからには、もう少し両指導者の帯が世界に出現した」。な、わかるかい。だから「平和地 遠謀深慮を学んだらどうかね。なみなみならぬ政治のリア帯」が大きくあって、「平和勢力」はその中にあるわけだ。 リズムを発揮した、ソヴィエットの新政策、つまり口シア 私それがどうしたんだい。日本から、だんだん離れて

7. 新編 人間・文学・歴史

局ダメだったと悔いてばかりいた ) 。研究所の人々は愛情愛情と技術なくしては、学者にも通訳にも、また文士に この二つを兼ねそなえた誇りと自信は文化人 四に発した古典主義を拠りどころとされているように見受けもなれない。 には不可欠である。それを研究員諸氏は持っていられる。 られる。古典主義も私は好きだ。悠遠なるもの、象徴的な るもの、完結せるもの、整斉なるものにふれるのは楽しそれに対して多分、私が二つとも持っていない。感覚の相 、。それは浪漫主義文芸の路に通するものである。しかし異はここに山来するのかもしれない。 研究所の方々は同時に、一種の合理主義を信奉されている支那の精神文化に対する愛情、支那人の生活に対する愛 模様である。吉川氏は「そもそも僕が学問の対象として支好の念が、自分にはないのかなとしすかに考えてみる。も 那を選んだのは、支那人の生活を好むからであります」とし無いとしても、研究員諸氏の抱懐する形でないとして 明言され、且つ、「私は私自身の仕事の分野に於ても、むも、私は少しもつらくはない。経書に関する技術、支那の しろ工人であり通訳であることを望んでも、文士たること精神文化に関する技術が、研究員諸氏の意味する内容で私 を望みませぬ。従ってまた、文士を通訳以上と尊敬する気に恵まれていなくても、私はやはり悲しくはない。しかし にはなれないのでありますーと言い、又「学術を尊敬する私には何か他の欠如によるつらさ、悲しさ、漠然たる不安 ものに取っては、創作さえも手段であります、と言われてがある。それが私の愛情を混乱させ、ほとんど喪失させ、 いる ( 『洛中書簡』 ) 。技術者的精神の強烈なること感嘆のまた技術者たるの誇りと自信を動かし、ゆさぶり、消し去 ってしまう。私には自分自身の裡に在る、この混乱や喪 他はない。平岡氏の著書にも同様、技術者たるの誘りと自 信がみちている。経書に関する技術、支那の精神文化に関失、動かされ消え去る状態を棄てることが、できない。 する技術は、十二分に発揮されている。愛情に発し、技術「現代経書」という大それた望みはない。ただ何かが、生 で分析する。それは鬼に金棒的なつよみである。そのつよれようとする際の怖れ、期待、惑乱に似たものが有って、 みと誇りと自信が「経書の存在を無視しては」云々の論をあの支那学的な言い方、あの誇りと自信にみちた言い方 生んだのである。そしてその論に対して、私が不愉快にな が、全くよその国の言葉のようにきこえるのだ。ある研究 者は戦死し、ある学者は精神分裂症でたおれ、ある教授は る。とすると結局、問題はどうなるのか。

8. 新編 人間・文学・歴史

であろうか。私には、彼等の芝居をほめそやす以外に、与るのも、衒学やハッタリであろうとは、思われなかった。 える物は何一つ無かったのだが。 この係長と私の友人は戦友で、戦地では、底の底まで知り・ 翌年の春、私と友人は、国文学の教授を連れて、再び美つくした仲である。二人は遠慮なく、相手をからかい、か 唄を訪れた。又もやクラブで、大学の食堂や外食券ではおっ批判し合った。 目にかかれぬ、ゆたかな晩餐を御馳走になった。昨年と同「先生方は講演に来られたんだが、お前さんは一体、何し じ労働係長が、私たちに同席した。その係長は、監督者と に来たんだ」と係長は友人をきめつける。「ただで酒飲み いうよりは、むしろ組合の闘士風の、三十代の人物であっ に来たんだろう」「戦地のことを考えろよ。あまり社会主 た。重量拳闘選手デム。フシイに似て、体格もすぐれ、考え義者面はできねえぜ」くやしがった友人は、親しげに反駁 深げな話し方をした。彼は経営者側に対して、批判的で、 した。悪口は投げ合っても、男二人を結んだ信頼の厚さ : 、私たちには感ぜられた。 会社の内情を宣伝することなく、ひかえ目に、石炭増産の 困難を語った。鉱夫たちの体当りに、毎日直面している、 三十畳敷はある広間には、長い板机に沿って、鉱山の人 責任者らしく、軽薄な点が全く見えないのが、たのもしか 人が行儀正しく居並んでいた。国文科の教授が婦人問題を っこ 0 論じ、私は『小説、映画、その他』という、漠然たる題名 火力発電の必要から、北海道炭の増産が、日本経済の再で、とりとめのない講話をやった。この題名は友人の発案 ・建に、 いかに重大な作用を及ぼすか、うかつな私にも多少で、私たちが到着する前から、坂路の各処に貼り出されて は推察された。 「数字の上では予定を突破したようでも、なかなか実際は 「日本は敗けました。敗けたことの良し悪しは別間題とし そうはいかんので」 て、日本は明かに戦争に敗けました」 神経質な泣きごとは述べたてないが、その緊張した表情自分で驚く名調子で、私は結論の予定されぬ談話を開始 が、机上プランと現場の実情の並々ならぬ喰い違いを、正した。軍隊の作業衣をつけた三十男、学生服の臨時傭い、よ 直に物語っていた。「資本論を読み返している」と打明けそ行きの帯をしめた主婦、明るい単色セイタアの乙な、そ

9. 新編 人間・文学・歴史

意味するものであるが故に、私たちは絶対者たちがただ第て、文学的に結品され、悲壮の美のある種の典型をなして 一等者でなくなることを、ホンの一寸ゆずることを、無意 いる。豪族の減亡、城廓の廃減の記録は、谷崎に二つの盲 識的に希望しているのである。 目的物語を創作せしめ、戦国の女性の哀切をきわめた運命 を、あわれともいたましとも、物語り出さしめている。 減亡の真の意味は、それが全的減亡であることに在る。 それは黙示録に示された如き、硫黄と火と煙と毒獣毒蛇に外の理智や、潤一郎の構想力や、古くは平家物語の琵琶法 市の咏嘆は、それそれ減亡の意味を自分流に分析し、表現 よる徹底的減亡を本質とする。その大きな減亡にくらべて自 現実の滅亡が小規模であること、そのことだけが被滅亡者したものにほかならない。これらの作者たちは、いずれも の慰めなのである。日本の国土にアトム弾がただ二発だけ減亡のはるか後方に、あるいは減亡と隔絶した心理の中 しか落されなかったこと、そのために生き残っていること、 で、これらの減亡をとりあっかっている。たとい同じ運命 それが日本人の出発の条件なのである。もし数十発であつを自己に想定したとしても、現にその物語を完成するゆと り、つまりは安定した時間と場所に於て生きていられたの たとすれば、咏嘆も後毎も、民主化も不必要な、無言の土 灰だけが残ったであろう。「世界」の眼から見れば、日本のである。亡国の哀歌をうたう者ではなくて、やはり亡国の ごく部分的な滅亡、したがってそれを免れた残余の生存は、 哀歌をきく側に在ったようである。それは日本の文化人に たとえば消化しきれないで残っている、筋の多い不愉快なとって、減亡がまだまだごく部分的なものであったからに 食物にあたる物かもしれないのである。しかしこれだけのすぎない。彼等は減亡に対してはいまだ処女であった。処 破減たけでもそれは日本の歴史、日本人の滅亡に関する感女でないにしても、家庭内に於ての性交だけの経験に守ら て 覚の歴史にとって、全く新しい、従来と全く異った全的減れていたのである。 こ亡の相貌を、減亡にあたえることに成功している。 これにひきくらべ中国は、滅亡に対して、はるかに全的 滅日本の減亡の歴史のなかで、とりわけもてはやされるの経験が深かったようである。中国は数回の離縁、数回の姦 は英雄の減亡であり、一族の減亡であるように見うけられ淫によって、複雑な成熟した情慾を育くまれた女体のよう る。義経の死や阿部一族の死が、その死のもつ意義によっ に見える。中華民族の無抵抗の抵抗の根源は、この成熟し

10. 新編 人間・文学・歴史

イル、数千「イルはなれた大学の教授がその異種ウラ = ウです。それは従来の秩序にいどみかかり、不可能を可能に ムについて実験を行う。まだしかし壁は無数にある。そのし、勢力の平衡をおびやかし、昔ながらの安定をゆりうご かし、権威を瓦礫と変えるような、ほとんど無謀な行為と 純粋ウラ = ウムを大量に得る手段、爆発を起させずに更に 大がかりな実験を継続して行くための方法、それにもましもうけとられるのです。それはたしかに原始土人の瞳にう て、工場主に説得し、議会及び大統領を、この常識家にとつる法使いの色どられた顔面のように、ある意味では奇 っては危険きわまる、つまり必要とも不必要とも判断がっ怪な行為なのです。 今年の元旦の放送座談会で、志賀直哉氏は、「どうも人 かない事業に自発的に投資させるようにひきずって行かな ければなりません。それをあえてした科学者たちの内心の間が思いあが 0 ているような気がする」と現在の事態に対 烙の恐ろしいまでの熱度と色と、それが噴出するさいの異する不安と困惑を率直にのべられました。「昔の方が今よ りのんきだった」とものべられていることで、氏の大体の 様な形と音響が私の心をとらえるのです。 私は ( アシイの『ヒロシ「』や、永井隆の『長崎の鐘』考えは想像できます。そのような無理のない見方はたしか の読後にもひどく感動をお・ほえました。そこには近代科学に発生せすにはいないでしよう。それを少しそれてつきっ 戦の悲惨が即物的に記録され、世紀のも 0 とも大きな火花めれば氏のように、「絶対平和を生きぬくために、近代 ・、パッと眼を射ました。ただ『ゼロの暁』のあたえる感動生活的慾望を放棄する信念と決意」にまで固ま 0 て行くで は、それらとは異っているようです。それは科学のてひどしよう。 の 私自身としては、「正にアジアは一つである」と今だに もい作用をうける側と、その作用を生み出す側との相違とも な言えましよう。原子物理学者と一般市民、科学者と一般社断言して近代を否定しようとする氏の自信にみちた言葉 には、どうしてもついて行けないのですが、志賀氏のとま 宙会人の各々ちがった人生角度を見せられているわけです。 工場労働者が農作どった一平凡人としての感慨はすぐわかります。 もしかしたら、農民が穀類をつくり、 機具をつくるようには、これら科学者の行為は一般的な意物理学の企んでいる極徴の世界の探究が、この世につく 味では、過去の地盤の上では、必要でないかもしれないのり出すであろう極大の変貌は無知な私にと「ても息苦し