彼自身 - みる会図書館


検索対象: 新編 人間・文学・歴史
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1. 新編 人間・文学・歴史

したことに、いぶかしさを感ぜずにはいられない。突如と に理解しあっても、 ( 否、むしろ理解が深まるにつれ ) 、彼 して、彼等は見なれない武装と裸身をそこに見出したの等は、お互いの元素が絶対に転換しあえない、別々の化学 式によって運命づけられているのを悟らねばならない。 一堂に会した彼等は、自分自身が何ものであるかを、 自己紹介するより先に、選ばれた仲間たちを眺め廻して、 試みに、昭和二十一一一年十一月「序曲」第一号の、『小説 愕きと不安、やすらぎと自信に、こもごも襲われるであろの表現について』なる座談会の記事を読み返されるとよ 。文学的宇宙に向って発射されたさいの過熱、そして気 、。その席上に於ける発言者、或は沈黙者は、次の八名で 体の層を突きぬけて行くぶ厚い抵抗を全身で支えているたある。埴谷雄高、三島山紀夫、野間宏、中村真一郎、梅崎 、にー ' 鳶。一見きわめて混乱し め、彼等の姿勢はそれそれぎごちなく、かっ秘密くさく見春生、寺田透、椎名麟三一日 / 〕、イ よ、四年後の今日発表された える。おまけに彼等は、相手の存在をこの地球上に許してたかに見えるこの座談会記事冫 置いては、自分自身が生きながら消減しなければならぬよ方が、その複雑怪奇な元素のからみあいを、よりよく一般 うな、物理的方角で向い合っている。彼等は自己の存在に理解され得たであろう。「リアリズムの現在形と過去形」 が、互いに相手の贋のまばゆさと共に、本物の輝きをも消に開幕して、「革命的ロマンチズムと永久革命の問題」に よって、下げられない幕をむりやり降したこの座談劇の、 してしまおうとする、一光源であること。そしてス。ヘクト いルの色彩分析で、何千光年の距離にある星の構成物質を推登場人物たちを看客のまえでうまくとりさばいて行ける司 会者などは、有り得なかったのだ。そこで無意味に投げ交 に定できるように、彼等自身の放射する光線の一閃によっ 立 並て、相手方に自己の文学元素を探りあてられること。それわされ、目標をそれて衝突し撥ね返っている主張の断片 家をよく承知している。 ( 私はもちろん、ここでは、まだ埋は、やがて当の発言者自身の作品或は生活によって立証さ 没している昭和炭層の、無数のオクタン価高き資源に関しれるまで、たんなる放言と恣意としか認められなかったで ては、触れることはできないのである ) 。彼等は各々、「仲あろう。この意欲の沸騰と、意識の断層をみそなわして、 間」一人々々の構成元素の作用を、その効能をよく理解し真の理解者として徴苦笑できたのは、その外観上の混乱を あっている。燃焼の速度まで理解しあっている。だがいかひき起させた「神」のみであろう。相異っているのが思

2. 新編 人間・文学・歴史

た反対に一個ないし無数の生物あるいは神と化して、そこれほど運命的なものなのである。 から創作者にたちむかってくる。このようにして、「私」 は私をおそい、おびやかし、いやでも新しい出発、新しい 動揺へと誘うのである。かくして、作家にはたらきかけ、 又は彼から逃れ出し、その眼前に目くるめくばかりの人間 性の原野をくりひろげ、変幻する可能性の霧でつつもうと する「私」。そのような「私」を持っ作家こそ、作家とし て生きることができるのである。 作家が彼自身であろうとする努力と、そこから脱出しょ うとする努力。これら作家の苦しいいとなみが、ただそれ のみが、彼をして「私」を生み出させる。作家が自己の生 み出した多数の「私」にとりかこまれている姿は、福々し い老翁が多数の子孫にとりまかれている状態よりは、全身 の傷口からはい出した蛆を自ら眺めている負傷者の形に似 ているかもしれぬ。おそらくは作家は、自己の作品中の 「私」たちから、この負傷者の感ずる如き戦慄をうけとる めであろう。しかしその戦慄によ「て、彼はふたたび眠をひ をらき、腰をもちあげ、重き手をとりあげて、彼の苦しいい 私 となみをつづける。そしてその彼のいとなみを最後までは げまし、強く、ひきだし、見守るものは、彼の傷口から生 れた「私」たちなのである。「私」とは、作家にとって、そ ( 「文芸首都」一一三年八月 )

3. 新編 人間・文学・歴史

真に自分が何者として生きていられるかを示してくれるのど、彼はそのはげしさその豊富さを感ぜぬわけこよ、 い。したがって近ごろやかましい「如何に生くべきか。の は、常に「女。なのである。そしてそれなくしては、作家 は永久に、たんなる小説つくりに終り、文学者として出発問題なども、女の肌の色、息づかい一つ描写するだけで、 することはできない。まして救われることはない。 その作家なりの解決を見せたがる。ほかでどのように堂々 と主張し、弁明していても、その解決が彼自身の全神経を 作家は、ます自分を書き、自分以外の人間を書かねばな どの程度に緊張して得たものにすぎぬか、それが女につい らないが、この二つの事業は、女を書くことによってはた ての一寸した表現でレてしまうのである。 される。何故ならば、女は女自身、すべての悪なるもの、 作家は、何ごとかを発見し得た、何ごとかの本質に入り 善なるもの、人間的なるものであり、またそれらを呼びさ ますものだからである。女は空気のように男の周囲に充満こみ得たと思う瞬間に筆がすすむにちがいない。もしかし している。女というものが男以外の唯一の人間形態としてたらその何ごとかのために、この瞬間に自分は変貌してし 存在していることは、おそるべき真実であるが、それに気まう、少くもゆり動かされているという意識、そのような づかぬのは、又は気づいても平気なのは、それが空気の如意識ほど彼を勇気づけるものはない。傾斜し、まっさかさ く、あまりにもドンヨリと、平凡に充満しているからであまに落ちこみ、うす明るい青みがかった、水の底から、肺 る。女はときたま野獣のように徘徊し、男にこすりより、 の空気の欠乏を感しつつ水の表面に浮かびあがって行くと つかみかかり、噛みころしさえする。しかしそのような野きの、あの自分の全身を、その四肢や腹や内臓の形と重み 回よりは、むしろ空気のような充満が作家をはぐをなまなましくとりもどす意識。それは男のうちにあり、 獣的な徘彳 、くむ。というより、作家を苦しめる。彼の鼻さきにも、背又そとに在り、男にとってあまりにも異物でありがちな、 っ あれほどに自己の本質にぬきさしならず人り組まれている 麦こも、睡眠中も、病気中も、彼女たちは生きつづける。 こ / ィー、い 女 生きつづけることによって、彼をめざまし、おびやかす。 「女」の水の層を、くぐりぬけて行くときに、男の皮膚の しかも、そのめざまし方、おびやかし方は、無限にはげし 孔ことごとくからしみ人り、脳中枢をしびらせ、よみがえ く、無限に豊富である。作家が真に作家であればあるほらせるあの不思議な充実した意識なのでないだろうか。

4. 新編 人間・文学・歴史

146 作家は美と醜とに敏感である。女の肉の美しさ、女の心て、作中の女のとりあっかい方は異るであろう。しかしど の美しさを書きたがるあの子供らしさは、作家として定めのような立場にあっても、彼女たちを生きさせるために られたときから、彼にあたえられた資質である。本能であは、彼は自分の一時の小才からでなく、自分の保ちつづけ り、知恵であり、また自分に課した試煉である。人生が彼た生そのものからそれをうみ出さねばならぬ。葛西善蔵の の前に女の美を置いたように、文学は彼の内奥に女の美を私小説の登場人物おせいは、醜悪の如く、下劣の如くにし つきつける。女の美、ひいては人間の美とは何であるか、 て、しかもよく私たちの心を打つ。その鮮明さ、その真実 一般人にとって普遍的にではなく、その作家自身にとってさ、したがってその「美」において葉子と同等である。そ 何であるかを、文学は何回も何回も彼に問いただす。そのれは、おせいも葉子も、作家たちの生の本質にかかわりあ 問いは次第に強烈にかっ複雑になり、ついには彼の瞳の中るものだからだ。「女 , が作家にとって救いであるという で美と醜とがくるめき錯綜し、その七色を一色と化すばか意味は、狭く、気みしかに、妙に理論的に片づけてしまう 、ー、ー . し、刀ュ / しメ りの白色光線の照射によって、彼はやがてまざまざと自分わけこよ、 、よ、。殺人犯ラスコルニコフにとって、売春 自身の倫理がどのような形相をしており、自分自身の感情婦ソーニヤは救いであった。それはソーニヤの心の美しさ が、また感覚がどのように歪み、かたよっているかを知ら によってである。ドストエフスキイ自身も、ソーニヤをラ される。そしてそんな自分自身をつかみ得た彼は、彼独自スコルニコフの前に出現させ、なすびつけることによっ の人間論に腰をすえて、彼の子供らしい資質を深くして広て、自己の一つの救いを示した。しかし「女」が作家にと い創造へと役立たしめるのである。 って救いであるのは、「女」がただ一種の天使、女丈夫、 女を動物として眺めようが、神として接しようが、それ妖女、女獣、あるいは人間典型ではなく、無限に開かれる は作家の自由である。しかし女の動物性が彼の動物性を、 のを待つ人間実存であり、男である作家が次から次へと未 女の神性が彼の神性を通過し、それによってたしかめられ知の自己を開いて行く、無数の鍵だからである。しかもそ ていないならば、彼は動物としての女も、神としての女もの鍵は、彼が作家として生きること、女と共に生きること 創造することはできない。作家の性格により、境遇によっをやめた瞬間にそれが存在したこともわからぬように消え

5. 新編 人間・文学・歴史

る。しかも、この断言が不可能なことは、彼自身よく承知に、相手の勇気と才能を認めている。彼は相手を不幸な男 しているのだ。他民族の圧服によって、ドイツ民族の幸福と思うから、憎みはしない。又卑怯な男と思わぬから、軽 が永久に獲られると信じたヒットラアとは、この点で全く蔑もしない。只カリギュラが有害な人間であるが故に、消 異っている。 減してもらいたいのである。ケレア ( 或は若き詩人シ。ヒオ ン ) と会話するとき、カリギュラが一番すばらしい、美し カミュが三八年に、『カリギュラ』を書き終っていると い、高潔とさえ言える言葉を吐いていることに注意せねば すると、彼にはまず二つの発想が有ったと推定できる。他 の実在の独裁者とは全く異った思想を堅持する真の ( 徹底ならぬ。その時、二人の会話がそのまま、カ。 : 自身の内 心の対話ではないかと思われるほどだ。一方では異常な論 した、自分自身をよく意識した ) 独裁者を創造すること。 その独裁者に、彼自身の思想を盛りこむこと。もう一つ理追求者であろうとし、又一方では健全な常識的な反抗者 は、そのような権力者の出現が現実となった場合、自分のであろうとする、一芸術家の二つの鼓動が聴きとれそう とるべき態度である。カミュが『カリギュラ』の製作者でだ。そして全幕を通じて、もっとも重要、もっとも印象的 ある以上、彼はこの人物を、誰よりもよく理解し、時には な人物は、カリギュラである。彼にくらべれば、ケレアで 同情さえするのは当然だ。だが同時に、カミュは、皇帝に さえ、きわめて影がうすい。カリギュラは明らかに思索 反抗するケレアの中に、自分の一市民としての意志を代表し、行動し、生きているのに、他の諸人物は、ようやく生 させねばならない。 フランスの危機が、彼にそんなケレアかされている感じである。 的な自分を予想させる筈だ。 ケレアは仲間に「欲得を離れた悪事 ( と戦う ) には計略 「同じ様な魂と自尊心を持った二人の人間が、一生に一を用いねばならぬ。思いのままに悪事を恣にさせ、しまい 度でもいい、すっかり心を打明けて話し合うことが出来にその論理が錯乱してしまうのを待っことだ」と言う。彼 ると思うかな」 は待ち、そして目的を達する。これは一つの行為にはちが カリギュラはケレアに、こうたずねる。皇帝は反抗者の いない。だが論理を錯乱して、減亡するのはカリギュラ自 勇気と才能をみとめ、敢てこうたずねる。ケレアも同様身の内面的必然であり、ケレアは実は最後の瞬間まで、一

6. 新編 人間・文学・歴史

がしくもないし、性急でもない。悲劇の原因は、「頭が出である。彼の生態だけで彼の孤独が表現できるなら、彼の 幻口につかえる」と簡単明瞭に規定されてある。痛々しくは独白も彼の会話も、敢て記録するまでもなか 0 たである あるが、どこか無遠慮な悲鳴を聴かせて、気色をわるくさう。山椒魚の思想を紹介し、これを検討しても何の役に立 せないですむ、時間的ならびに空間的なゆとりを残してい っと言うのか。彼の思想は「頭が出口につかえる」という る。押しつけがましさを嫌う、礼儀正しい作家が、ほかな困った出来事に支えられて居り、その思想の形式内容は、 らぬ山椒魚の悲しみを発見したのは、偶然ではない。 出口につかえる現状の具合の悪さ、そのものである。自分 自身がうつかり、如上のような思想らしき独白を自分らし 山椒魚はます「何たる失策であることか : : : 」と驚き、 次に「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考くもなく漏らしたことさえ、彼にとっていまいましき限り だ。それはおそらく、彼の柄でないことを身にしみて悟っ 、えがあるんだ」と呟く。「くったくしたり物思いに耽った りするやつは、莫迦たよ」と得意けに言ったりする。そしているのだから。 て「ああ神様、何うして私だけがこんなにやくざな身の上 短篇『山椒魚』は、鈍重な怪魚と自己の悲哀を結びつけ でなければならないのです ? 」と懐疑哲学風に叫び、「あ た発想が非凡である。象徴的にして詩的なこの小品は、そ あ寒いほど独り・ほっちだ ! 」と結論的な歎息をもらす。 の後の井伏氏の作風と甚しく異っているようでいて、すで に充分それを予言している。充分すぎる程、あらかじめ将 だが山叔・ 4 、、叫んだり呟いたりするのは、 卩椒魚らしく ない。それにその声が ( たとえ有ったにしても ) 、水中で来を規定してしまったとさえ、一一一一口える。氏は鈍重な怪魚で はなく、むしろ俊敏な小説家である。この小品が運命的、 も水面でも聴きとれる筈はない。頭が出口につかえるた め、岩屋から出られないという、悲痛にして滑稽な一事実予言的であると言うのは、氏自身或は文学者なるものの存 にくらべれば、彼自身の叫びや呟きの内容の如きは、問題在が山椒魚的であると、予想し発見したことではない。山 「椒魚的連命を目撃するさいの、氏の眼のつ にならぬ気まぐれ的現象に過ぎないのである。彼の独白椒魚的存在、日 は、彼を、まだ生きている人間らしき生物であると、読者け所が、この作品でもはや或る一点に定着しているからで に思い込ませるために不可欠な、小説作法上の手順の一つある。文章、つまりは作家の才能と性格の化合結晶であう

7. 新編 人間・文学・歴史

政治的暴力が知性を抹殺しようとする。それが多くの文者を自由に集合させ分配し、活気づけることはできる。そ 化人の悩みであると言い伝えられる。だが、悩まぬもの の意味で生産に参加する。だがやはり結局、彼等は生産者 は、インテリ性の喪失者であって、文化人を誇称する権利その者ではあり得ない。 はない。知性を抹殺されることに反抗している人種は、大 彼等は強力な事務家として、絶えす異常な緊張のうち・ 都会の寄棲者ばかりでなく、鍬を打ち、槌を振う、肉体労に、工場農村以外の場所、つまりインテリの根拠地たる首 働者の中にもいるのだ。彼等の知性があまりに現実的 ( っ都と結びついている。彼等自身がそれを希望すると共に、 まり生の蓄電 ) であるために、空想的 ( したがって大いな国家がそれを要求する。どれほど良心的であろうと、彼等 る空想力を持たぬ ) 疑似インテリには、「知性、として感は権力と直接的に結合している。縛りつけられていると称 得できないだけの話である。 してもよい。民主的な彼等は、権利の配合をできるだけ公 社会主義国家の指導者、それもまずまず理想的なモデル平にしようと努力する。その熱狂的な工作のために、自分 としての社会主義国家の支配者たちを想定して見よう。彼自身が権力者であることすら、忘れかけている。だが、彼 等はその「天国。に於て、いかなる機能を発揮するか。彼等は権力なしには、一刻も存在を保ち得ない。その中央権 等は労働者農民の幸福を希望しつつも、自分自身は単なる力を下から支えてくれているものは、彼等より知的に鍛錬 V 労働者農民ではあり得ない。 一般水準をぬきんでなければされていない、地方的 ( 地理的ばかりでなく精神的に、中 つならぬのみならず、農工的な心理状態にとどまっているこ央から距離をもっ ) 農工者である。地方的住民は、時に思 族とは許されない。それ以外の何者かでなければ、存在でき鈍であり、衝動的であり、退嬰的であり得るが、彼等の方 的ないのである。彼等は常に計画者であり、指導力であり、 は二六時中、鋭敏であり計画的であり、前進的であらねば ならない。その負担に耐えるため、限を血走らせねばなら き行政官吏であり、検察官であらねばならぬ。もしも彼等が 新国民の大多数を知的に統制し、手なずけ、動員しなけれない。 ば、彼等は上位者であり得ないのみか、国民でさえあり得彼等は自ら選んだ苦難を甘受せねばならない。彼等はジ なくなる。彼等はもちろん自己の知能と意志のカで、生産。フシイ的妖婆でもないし、幻覚に富む妄想狂でもないが、

8. 新編 人間・文学・歴史

作家は、人類という乳房の傍で、自分が乳首からどれほ ど距離があり、どのような角度で乳液の源泉と向い合って いるのか、嗅覚か、手ざわりか、何かもっと微妙な感覚 で、自己の横たえられた位置と恰好を発見する。丁度うま く乳百が彼のロにあてがわれていることは稀であるから、 一彼は泣き叫び、もがく。顔の向きが正反対なら、首をねし 作品は作家にとって、常に発見でなければならない。 0 の世界、一 0 の自然を発見し得る予感が、作家に筆を執向けようと努力する。この努力が不必要な場合、 0 まり彼 らせ、その新しい世界、新しい自然を支えるために必要なと乳液との結合が中断することなく、その吸収が絶対に保 手段を考案させる。人間は宇宙の一生物であり、社会の一証されている場合は、彼は自己の位置と恰好を自覚する必 構成員であるから、どのような微小薄弱な個人でも、宇宙要はないのであるから、彼には作品を生む動機は全く無 い。乳房との位置的関係の変りやすさ、危険性、それが彼 及び社会の一点として存在し得る。又、存在せざるを得な い。彼はいっ如何なる時にも、巨大なるものの一部に棲息に彼独自の決定的な姿勢をとらせる。彼はそれ故、作家た るためには大いなる乳房の存在を感知しながら、而も餓え しつつある。彼には生れながらにして、ある一定の位置が あたえられている。それ故、あらゆる生活人にと「て、発ているという状態に置かれていなければならない。 この不安定な状態は、嬰児一般に共通する状態であっ 見は必ず彼自身の位置の発見から開始される。巨大なるも のの何処に自分が場所を占めているか、その自覚が、彼にて、何ら特殊な条件ではない。職業的作家は少数の異例で 動き出す可能性をあたえる。嬰児は飢えによ 0 て、泣きなあ 0 ても、作品発生の可能性は万人にあまねく分ちあたえ がら手脚を動かすが、同時に、母の乳房に近く、又ややそられている。私自身が、才能の欠如 ( 例えば、作家にと「 れから距 0 ている自己の位置を知覚する。その位置の知覚て、致命的な欠陥である、文章のますさ ) をまざまざと身 にしみながら、敢て創作を試みるのは、きわめて平凡な、 は、嬰児の裡に、目的に達するための意欲と意志をよびさ 作家と作品

9. 新編 人間・文学・歴史

れた種族保存の本能のおかげで、このような不吉な真理をでないものが存在し、しかもその存在がひろく認められ、 いみきらい、またその本能の日常的なはげしさによって、 その者たちが元気にあそびたわむれていることが堪えがた 減亡の普遍性を忘れはててはいるが、しかしそれが存在し いのだ。たとえその者たちが、自分の存在に気づき、自分 ていることはどうしても否定できない。世界自身は自分の のそばに歩みより、やさしく声をかけてくれたところで、 肉体の生理的必要をよく心得ている。それ故、彼にとってこのあわれな小学生はソッポを向き、涙をながすまいと歯 は、自分の胎内の個体や民族の消減は別だん、暗い、陰気をくいしばりながら「チェッ」と舌打ちするだけである。 くさい現象ではない。 ( 誰が自分の食べた食物が消化する減亡を考えるとは、おそらくは、この種のみじめな舌打 のを悲しむだろうか ) 。むしろきわめて平凡な、ほがらかちにすぎぬのであろう。 な、ほとんど意識さえしないいとなみの一つである。 それはひねくれであり、羨望であり、嫉妬である。それ 私はこのような身のほど知らぬ、危険な考えを弄して、 は平常の用意ではなく、異常の心変りである。しかしその わすかに自分のなぐさめとしていた。それは相撲に負け、 ような嫉妬、そのような心変りに、時たまおそわれること 百米に負け、カルタに負け、数学で負けた小学生が、ひと なくして一生を終る人はきわめてまれなのではないか。 り雨天体操場の隅にたたすんで、不健康な眼を血走らせ、 私自身の場合、かって自分と同年の双葉山が優勝をつづ 元気にあそびたわむれる同級生たちの発散する臭気をかぎけている間、心やすらかでなかった記憶がある。彼が日本 ながら「チェッ、みんな大みたいな匂いをさせてやがるく 一であり、不敗の強者であり、しかもソッがなく、堂々と せに」と、自分の発見した子供らしからぬ真理を、つぶやしていること。自分と縁のない彼に対して、私はただその くにも似ていたにちがいない。 ためにのみ嫉妬したものであった。その時の私は、国技館 その時の彼にとっては、したがって又私にとっては、絶の炎上、双葉山の挫折、つまりは絶対的なるものに、もろ 対的な勝利者、絶対的な優者、およそ絶対的なるものの存き部分、やがて崩れ行くきざしを見たいと、どれほど願っ 在が堪えがたいのだ。自分がダメであり、そのダメさが決たことであろうか。優勝者、独占者にとっては、ごくわず 定され、記録され、仲間の定評になってしまったのに、ダメ かの失敗、一歩の退却でも、それは彼の生命の全的減亡を

10. 新編 人間・文学・歴史

我アジア人にとって、より重要な言葉を吐いている。「彼れたと敢て私は言わずにいられない。その恵まれた自覚な ら ( ヨーロッパのインテリ ) はほかの大陸のインテリたち くして、破減の域に押しやられねばならなかった、多くの よりも余計に意識的且っ積極的にインテレクチュアルなの アジア種族の運命を目撃している以上、卑賤なる成員の一 だ」、「蓋し彼らはことごとく同一の悲劇的家族に属し、零人たる私は、ここに或るヨーロッパ知識人の死は認めて 落しても誇りの高い高貴な一種族の成員なのだ」と。苦悩 も、全世界のインテリの死の予想を認めることはできない し絶望していると自称しつつも、クラウス・マンは何と自のである。 信にみちた一句を書き記したものではないか。これこそ、 ヨーロッパ知識人を現在おびやかしている不快感と不安 近代国家を形成すべく七つの海をかけめぐり、アジアの各感を、東方の文化人たちがかって甘受し忍耐せずにいたと 地から物質的富を集結し、そのことによって知的繁栄にもでも言うのだろうか。アジアの諸民族は ( 日本と中国だけ 成功した、白人種の子孫の書きつけそうな言葉である。零に限ってもいい ) 、西方からの風圧の下で、欲すると欲せ 落しても誇りの高い高貴な一種族の成員たる彼は、起ち上ざるにかかわらず、憎しみあい、殺しあい、盲目的に反援 りつつも誇り高くない卑賤なるアジアの諸種族の成員にはしあわなければならなかった。ュウラシア大陸の西の一角 一顧だも与えていない。彼は死にひんしつつも、なお近代で、他の大陸の二大勢力の風圧の下で、その知識人たちの 文化の創造者であり、担い手であった自分一族の知性を愛頭上に右往左往せねばならぬ運命が発生しつつあるにして っ惜することができた。彼はアメリカ人の非インテレクチュ も、あれだけ知恵者そろいの西欧貴族が、かってアジア諸 族アぶりを批判することもできたし、ロシア人の野蛮な ( ? ) 地域に彼等自身の手でふりまいた不幸が、自分の身にふり かかって来ることを、どうして予言しようとはしなかった 吶暴力を攻撃することも可能であった。 ( 彼自身はそのどち きらをも敢て実行しようとしなかったが、彼の遺書はその精のか、又その予言を信じようとはしなかったのか。 新神会社の高級社員としての自信のほどを明示している。 ) 「ヨーロッパのインテリが、最もよく危機を意識してい るのも不思議ではあるまい」 彼には愛惜すべき知的遺産 ( たとえそれが亡びつつある にしても ) の継承者たるの、恵まれた自覚があった。恵ま 象徴的な知的自殺者の書きつづったこの一句を、私たち