よってその所持金をうばうことを目的として行為する。そに拡大され、開放されている。 して彼はこの老婆を殺した。しかしその直後に、他の女、 ラスコルニコフが斧を使用したことは、あの殺しの場に みしめな善良な同居人が帰宅したため、その女をも殺すの悲惨悽愴の観をあたえる。斧によって頭蓋をぶちわられ、 である。彼にとって、この女の殺害は、全く予想外であ血みどろになって老婆が倒れるあたり、残虐な印象をあた り、良心に反し、自己の弁明で守られぬ行為である。彼に える。しかし斧によって行われたこの殺人にはまだあの時 とって、あの老婆以外のものの殺害は全く無意味である。 代の犯罪の単純性、つまり犯人の持っていた一対一的必死 許すべからざることでさえあるのた。ラスコルニコフは考さ、 いいかえれば殺人の人間らしさが表現されている。人 えぬいたあげく、老婆一人、この特定な一人物の生命を絶を殺すことの重大性、危険性、困難、苦しさが、あの斧の っことを敢てするに至った。それが彼の殺人許容のギリギ一撃にはこもっている。犯人の筋肉の疲れ、骨身にこたえ リの極限であった。彼は自己の全生命のおののきと共に、 る緊張、顔面の汕汗や手のふるえが、そこには認められ この特定の被害者と結びついていたのである。それ故、こる。全霊全力をふりしぼった、あわれむべき哲学学生のせ の意識され注目された老醜物以外のもの、あの同居女の殺つなさが感ぜられる。 害は、その無意味さは彼には堪えがたい。 しかし、毒液をビンから茶椀にうっし、銀行職員たちに しかるに帝銀事件の犯人にとっては、特定の被害者は意のませることは、おとなしやかな日常行為である。そこに 図されていない。彼は相手をえり好みはしない。彼の計画は斧をふりあげる瞬時的殺気や、筋肉的緊張がない。表情 の中には、無意味な無関係な殺人が、最初からいくらでも から態度まで、おそらくは平静な、なにくわぬものだった 是認されているのである。彼は被害者に対して非情であにちがいない。婦人にでも、子供にでも、もしその非人間 、ヒに目」 ョ人的であるばかりでなく、殺人そのものに対して性があり、その方法さえ知っていれば可能だった挙動であ 非情であり、非人間的である。殺人の無意味さはまるで問る。ことに液体はまだあまっていたと言われるから、場合 題にされていないため、ラスコルニコフにとって一人でも によってはあの倍、数倍の人数にもそれを分ちあたえ、飲 堪えがたかった無意味な殺人は、ほとんどここでは無倒限ませおおすことができたのである。あの犯行では、一人諱
これらの手記の執筆者が、告白しないよりしたほうが千 間のあいだには、見えない壁があって、絶対平等の真理に 倍も万倍もよかったことよ疑、よ、。ど ; 、 。しオしナカこれらの告白到達できないのである。感覚というもの、感情というもの 体の文章に、人の心を打っ力がなかったのは、なぜだろう は、本来は人間と人間を結びつけるためにあるものである か。それは限界状況におちいっているくせに、その状況の この二つが人間と人間を引きはなす働きをすること 意味を、うまくつかめなかったからではなかろうか。あま が多い。 りに簡単に機械のギャやスイッチを入れるように、自分た ちの状況から脱出できるという、はやのみ込みが鼻につく 職場の人間心理 のである。これらの手記にくらべ、平凡な死刑囚の手記の ほうが説得力をもっているのは、どこにも逃れる途のない 限界に直面したものの「充実した素朴さ」があるからであ 戦場における人間は、日常生活における家庭人とはまっ ろう。 たく違った生きものになる。これは戦場に立った体験のな もちろん、私が戦犯収容所に入れられたとして、はたし い世代の人には、容易にのみこめないおそろしいことであ てこれらの旧軍人諸氏よりり「ばな文章が書けたかどうる。常識をよくわきまえた健全な家長であったはずの自作 か、それは保証のかぎりではない。その場になってみない 農が、戦場では、鬼畜のような悪をやってのけることがあ と、わからないことが人間には無数にある。被害者の心は る。戦場とは、ある人間を生かすために、ある別の人間を 加害者にはなかなか理解できないし、被害者も同様、加害殺さなければならない犯行現場である。はじめから、戦場 者がなぜ自分に害を加えるようになったか、その「囚縁」 とは矛盾のかたまりなのだ。ヒュー マニスティックになる を察することがむずかしい。もしも宇宙や社会の因縁がすために、アンチヒュ ーマニズムの仕事を引きうけねばなら つかり明らかにされ、人間がその因縁を自分のカで上手に よい。常識では許されないことが、そこでは奨励される。 操作できるようになれば、罪悪も、怨恨も、差別もなくな裁判官や警察官がロやかましく禁止している行為が、競い るにちがいない。だが、それまではどうしても、人間と人あって実行される。
は、これらの人々の性格なり生活なりを知 0 ている我々に我々の生み出した文明の裡に、内包されている予感さえさ は滑稽である。しかもこれらの人物の固有名を知らず、本れるのである。 あの犯人と被害者たちの間には、妙に非情な無関係さが 質を知らないで、只たんに五十前後の男の一人として目前 にすえれば、それを犯人と疑うことは、他の者を疑うのとあること、これがまず注意されなければならない。あの犯 人はあの銀行に働く人々の全部を殺そうとしたのである。 同様、不思議ではない。 あの銀行にでかけて行き、あれほどめんだうな計画を実又は、及びではなく、それがでありであり 行し、あれだけの人数を殺すのは、たしかに特異な行為でであることとは無関係に、ただ全部を、そこにいあわせた ある。それはあらわれたものとしては、日本中に一人、世全部を殺すことを必要とした。それらの人々は、只彼が必 界中に一人しかいない者の行為である。あの犯人にかぎら要な対象としたこの「全部」の中にふくまれていたがため れた、実に個性的な、独創的な、それ故また運命的な行為に、殺されたのである、自分の所有している金のためでも である。また伝染病の発生を口実にしたこと、青酸カリをなく、銀行の金を守ろうという意志を示したからでもな 、彼に反抗するそぶりを見せぬ間に、現金など常に手を 予防液として服用せしめたこと、銀行員の全減を企てたこ とで、近代というより現代の特殊日本を前提とした、ひどふれたことのない者までが殺されている。ただそこに居あ く現代的な、ある意味では未来的な行為である。金をとるわせたこと、毒液を分ちあたえられたこと、ただそのため に被害者と化している。殺されたことの無意味さ、偶然 ために、あれほど時間をかけ工夫をこらした複雑な殺人行 ソ為をなしたこと、又それを必要ならしめたことには、現代性、無意識性、それ故に犯人とこれらの人々の無関係さは ボの複雑さが土台をなしている。そしてその複雑さの中からはなはだしいのである。 これは『罪と罰』のラスコルニコフの殺人の場合と考え 「彼」が出現していることは、前にのべた、誰でも彼とし 無て疑われることと共に、この事件に何か新しいぶきみさを併せると、よく理解される。ラス「ル = 「フは老婆殺害に 色づけている。「彼」にと「て個性的であり、独創的であ対して、自己独特の哲学的弁明を保持している。彼はこの 弁明に守られながらこの老婆を殺すこと、この老婆の死に 、運命的であったものが、案外ひろく我々の身ぢかに、
ンをおす行為、つまりその殺人行為は、通常の意味の殺人 も、すべて消え失せてよい。そこには全く平凡な一市民、 ただ列車に乗り得る男、映画館に入り得る男と、その男の行為のあらゆる情景や心理と無関係であり得るにちがいな 、。犯人は犯人らしくなく、殺人は殺人らしくなく、犯行 誰にも気づかれない、自分自身でさえ忘れかねないほど簡 単な動作だけが必要なのである。彼はその眠にとまらぬ瞬の自覚はきわめて不明瞭なものと化するであろう。戦争の 目前 時の無感覚な動作によって、その犯行、その殺人と結びつ場合を例にとれば、これは仮定たるにとどまらない。 くのである。これをあのラスコルニコフの、全身全霊をおに迫る一人の敵兵士を銃剣で刺殺するのは、ラスコルニコ フ的一対一行為である。しかし最新式の長距離砲、或は > ののかせる、原始的な、大げさな、それ故人間的な挙動と くらべたらば、両者の心理、両者の倫理、両者おのおのの弾で国境を越えて、多数の見えざる住人を殺す場合には、 前述の無感覚、及びボタン式無自覚さがありうる。また無 ・犯罪との結合の相異が明かになるであろう。 ( 帝銀毒殺事件が発表されてまもなく、私は太宰治氏の線電波で操縦する航空機に、強烈な爆弾をつみ、目的地の 『犯人』をよんだ。そしてその軽妙な筆のもとにおどる上空に達してからそれを落下させるためには、事実、一つ 善意の青年の、おろかしいが、必死な犯行と、その少しのボタン或は一つのスイッチをおし、ひねれば足りるので く悲壮な、少しくみじめな最後に感心しつつも、小説ある。戦場の戦場らしさ、血なまぐさくもすさまじき光景 よ、つこ 0 を目撃することさえなく、叫びも音も光も、すべて起りつ 『犯人』の古風さを、お。ほえぬわけこよ、 つある悲惨事にふれることなしに、簡単に、それはおわる それは帝銀事件の暗示する犯人の無感覚、そしてそれに ともなう現代の無感覚が、この小説にはなく、しかも現のである。被害者の人数、被害の結果の無意味さ、被害者 ・実には充満してくる予感が、私に迫っていたからであろの容貌、性格、運命などとは全く無関係に、ただ莫大な破 壊がボタン一つで行われる。犯行者と被害者の間には、大 うか ) もしここに、殺人ボタンなるものが在ると仮定して見よきな空間があり、科学的機械という非情な物体があり、光 。殺人の現場に姿をあらわすことなく、ただボタン一つ線や原子や、その他一般人には原因不明、抵抗不可能な作 , おすだけで、犯行が完成すると仮定する。するとそのボタ用があって、すべてのことは複雑な間接的なだんどりで、
ナのも、二人殺すのも、十人以上を殺すのも、ほとんどちて、ほとんど何等の気づかい、何等の恐怖を感じなかった 冫、刀し がわないカの使用で、しかも茶椀の数をますことだけで為かも知れぬ。もっと完全な無感覚状態を保ち得たこち・、 され得たのである。犯人の心理には、被害者の数が多少増ない。彼の如き人物は、おそらく、もし店頭の品物を盗む すことは、或は倍加することでさえも、さして影響をあた ごとき瞬時の行為ですむならば、絶対に発覚しない方法が えはしなかったであろう。彼に必要なのは、また気がかり発見されるや否や、数百人をも殺す可能性がある。たとえ なのは「全部」であって、全部の内容やそのふくむ人数でば、トンネルや映画館のなかに、精妙な仕掛のガス弾や、 はなかったのである。ここには、ラスコルニコフの場合の時限爆弾を遺棄することだけで、数十万円の金が手に入る ・如き、殺人の困難さのあたえるおそろしさのかわりに、殺として、そのために数千人の死傷者がでるにしても、それ 人のたやすさのあたえるおそろしさが有る。被害者をえらをなす際の緊張は、彼にとって帝銀毒殺事件に於ける緊張 。はぬこと、人数に無関心なこと、殺人の無意味さを問題に の何十分の一にしかすぎないのである。彼は欣然たる無感 せぬこと、何気なくなしうること、これらの犯行のたやす覚を以てそれをなす。その殺人の実に莫大な無意味さ、そ さ、この犯人の無感覚状態は我々に何を教えるのであろうの被害者たちとの徹底した無関係さにもかかわらす、彼は 無類のたやすさを以てそれをなすであろう。彼は手にした あの毒殺事件の犯人にもし困難があったとすれば、それごく軽い物体を疾走する列車の連結機の下方の闇へ、或は はあの日あの銀行の内部に入り、かねての計画通り、説明映画館の平和な空気の中に並ぶ観客の椅子の横に、自己の シし、納得させ、飲みおわるのを待っ間の心理的緊張にえ 指をかすかにゆるめ、そこからはなち落すことによって、 ポることだけであったであろう。会話がすみ、液体をとりあ彼の犯行を完成してしまう。その場合には、陰険な知恵 つかい、金を入手するまでには、たとえわすかな時間でもや、綿密な計画、、この犯人の特徴とした、ごくあいまいな 無一種の恐怖状態が持続したにちがいない。犯罪の自覚、犯才能と性格のあらゆるものは不必要となり、たたそれをな 行のおそれが存在したはずである。だがもし、それが数すという非人間的決意たけが、残されてあれば充分なので 秒、数分ですむ手続であったなら、彼はこの犯罪につい ある。ラスコルニコフの斧も、都衛生係の腕章も赤ゴム靴
矛盾ばかりではない。命を何よりもたいせつにするはずマニズムを説くだけでは、見物人を感動させられないと自 の個人が、そこでは自らすすんで生命を危険にさらす。そ状していることだ。ヒュ ーマニズムが、美しい、願わしい れゆえに、戦場は、人間がそろって危機を感。せねばならぬものであることは中すまでもない。だが、ヒュ 1 マニズム 試験管でもある。そこで、私たちは、自分たちを今まで守が、殺し合いの現場においては、どんな矛盾と危機にぶつ っていてくれた常識なるものが、いかにたよりない、しし からねばならぬか。それをシネスコの大スクリーンに再現 . かげんなものだったかを悟るのである。 して見せなければ、製作者の良心を買ってもらえないとこ 最近のアメリカの戦争映画を注意して見ていると、次のろまで、精神商売はむずかしくなっているのである。たと ことがわかる。商売じようずなハリウッドの製作者たちえ、たくましい商魂から発した商法にすぎないとしても、 は、自分の軍隊だけが、ヒュ ーマニスティックに、正義の「絶対にわれわれだけが正しいんだ」とどなりつける国威・ ために戦ったと宣伝しただけでは、もはや世界各地のファ 宣揚映画より、はるかに進歩している。 ンを満足させられないことを、よく承知している。彼らは アメリカとソ連は、いまのところ世界の支配者である。 一歩すすんで、たとえ、もっとも民主的なアメリカの軍隊毎日の新聞は、この巨大な二つの支配者が、支配者であり でも、それが軍隊であるからには、軍隊としての矛盾と危つづけるために、どれほど自分たちの矛盾と危機になやま 機をはらんでいると主張する。敵の中にも、人間らしい人ねばならぬかという記事で埋まっている。支配者になると 人 間がいる。味方のなかにも、人間らしからぬ人間がいる。 いうことも、また人間が限界に直面することなのだ。 ( 被 る サ戦場に悪が満たされているからには、自分たちの兵士も、支配者になるということが、そうであるのは、わかりきっ このように、 それからのがれることはできないはずだ た話だが : : : ) この二つの支配的な強国の内部にも、支配 状戦争中の日本の宣伝映画や、スタアリン時代のソ連映画で者と被支配者、加害者と被害者がいる。それゆえに、たと 限は考えもっかなかった、賢い戦術を用いている。自分だけえ世界無比の強大国にのしあがっても、絶対平等の未来が が絶対正しいのだと愛国映画を輸出していたのでは、間にやってくるまでは、強大国の国民たちも、われら弱小国の あわなくなっている。それは、哲学的に考えれば、ヒュ 1 国民とおなじ厚い壁と向かい合っているはずである。同し・
な探偵小説から、丘は脱れられない。彼が被害者であるこれらスズキが第一のボタンを押し、一号の刻印を打た か、加害者であるか、それを決定したと安堵した時には、 れて以後、遭遇する品々は、私にとって、いささかも奇怪 既に新しい別の屍が、き 0 と天井裏に置かれていることだでない。又、神秘的でもない。風俗小説に気軽に出場す ろう。私が殺人事件を度々持ち出すのは、営業上の術策もる、紳士淑女の方が私にと 0 て、はるかに奇怪、不可解で あ「て、別だん深刻がか 0 たつもりはない。花鳥風月を詠ある。何故、風俗作家には、あんなに沢山の彼氏と彼女さ ずるに異らない。それを異常な深刻好みと解釈していられまが必要なのか、小説界の宏大無辺に、茫然と佇なのみ。 る、恵まれた人があったら、そのひとの安定以上に異常な 私は責任感が薄い方ではあるが、自分の本質と多少なりと 深刻さを痛感させるものはない。 直結しない品物を、作品に盛り込むほど、小説道に熟達し 小説『第一のボタン』・は、評論『無感覚なボタン』の、 ていないから、せめてそれをわが身の幸せと考える。 物語風な展開である。まことに当人が ( ラ ( ラする、脚も 小説が、娯楽やリクリエイションに利用されることに、 との定まらぬ未来諷刺小説 ( ? ) であるが、百万分の一司反対するいわれはない。小説が内包する緊張は、スポーツや 馬遷の、微妙なる全体が、多少は勝手きままに、手さぐり竸輪に負けるほど、、 弓しものではない。作中の一人物がわ されてもいいではないかと言う、裏も表もない、手品曲芸ずかに椅子をきしませただけでも、空気の厚みが切り裂か にさえならぬ、体操の一種である。どだい諷刺などできるれる。そのような緊張が小説の周辺で、利用されるのは当 達者な柄ではない。私に自慢できる物と言 0 たら、恐怖心然である。だが作家は、すでに利用され、馴らされ、保証の と、それを忘却する寝わざ位のものだ。恐怖心が激しけれレッテルを貼られた緊張を、自己の小説に盛り上けただけ ば、ダルな繰り返しは消減する。彼は、歩きながら考えねでは、創作の喜びはない。既定の思想を盛り込むために、 ばならなくなる。忘却のために寝ころんでも、それが寝わ風景と人物の組み合せを色々と工夫しても、作家の欲す ざとなって、彼の手足を休ませない。彼は忘却の名人である、作家の発見した緊張は生れない。 一つの作品は、生れ る自己に対して、無感覚ではいられない。私は、この二つ かかった秩序、生れかかったフォルムを持っ筈だ。作家の を有効に使用したい、 と思う。屍工場や猿人や万能パス。 掌は、揺れている乳房に向って、未知の空間に延ばされて
心理上の変移は、しかし根本的事態をいささかも変更させ もうここまで来れば、意識的に採用した面白さ、滑稽さ 幻は消減している。もはや、地理学も植物学も、抜きであはしない。新人物は登場したが、幕は閉しも開きもしない のである。ここにおいてか、二匹の動物の ( 作者によって る。下駄の歯で朽土が抉れたのは、男の脛に女の体重が加 わ 0 たという、物理的作用の一種である。友人の屍を前に巧に工夫された ) 間答が、致しかたなさそうにとりかわさ して、ある一点に到達せんとする氏の観察は衰えていなれる。作者の工夫は、両者の言葉の含有する成分を、適当 に加減することに注がれる。 い。むしろ鋭さが増している。 空腹で動けない相手に、山椒魚は、「それでは、もう駄 第一の方向は、現実を冷い刃が削り出そうとする。その 刃は、そのまま野放しにすれば、私小説的厳格さのはざま目なようか ? 」とたすねる。「もう駄目なようだ」「お前は に導くかもしれぬ。氏はそのために、暖く粘土を盛り上げ今どういうことを考えているようなのだろうか , 「今でも べつにお前のことをおこってはいないんだ」 る、ヘらを別に一本用意しなければならなかった。 この重量のある最後の会話は、井伏氏の愛好する諸人物 この第二の方向は、第一と同様、小説なるものの本質に の会話に共通した、特殊な構造を与えられている。「お前 ついて、我々にゆっくりと語りかける。この方は、創作に は今どういうことを考えているようなのだろうか」の「よ 於ける空想のはたらき、構成の発生に関係している。 この三つの 山椒魚は、哀れな同類として、一匹の蛙を発見する。誰う」は、通常の会話にはあまり使用されない。 「ようは、性急な表面的断言を嫌って、底にこもった苦 にも知られない被害者が、もう一人の被害者を発見するの 悩をひかえ目ににじみ出させる、触媒の作用を持たされて は、発展性のあるテエマである。彼は蛙を外に出られない 、音響ならびに光線の屈 る。スラスラした雄弁には無い ようにする。この間の主人公の微妙な変化を井伏氏は「悲い 歎にくれているものを、いつまでもその状態に置いとくの折が含有されている。農民の方言、老人のおどけ言葉、児 は、よしわるしである。山椒魚はよくない性質を帯びて来童の片こと、奇妙な意志表示の凹凸の真実性を愛用する氏 たらしかった」と解説している。この解説が、すでに粘土の傾向が、すでにここに認められる。時には、もたれかか べら的な役割を持っていることに注意せられよ。主人公のるほどの偏愛である。
114 行するヨーロツ。 ( 文学への追随と物真似であると考えてし まいたくない。 ( 「人間」一一六年八月号 ) 私は、敗戦後知り合うようになった新しい作家たちに、 限りない親しみを感する。彼等は互いに相手とは違ったや り方で、違った場所で現実を摸索する。時には、相手にた まらなく厭な臭気を嗅ぎつけ、相手の価値をゼロと認めた りするが、それでも彼等は、次第に仲間どうしの理解を深 めて行く。「日本が戦争に敗けなかったら、お前たちは生 れなかったのだそ」という、叱責の声が彼等の耳をかすめ る。或はさまざまのレッテルが巧妙なすばやさで、彼等の 「肉体」に貼りつけられる。しかし、その時、彼等はお互 いに共通の被害者ぶって、相手と同じ防火頭巾をかぶろう とはしない。そのような便利な頭巾がないからこそ、彼等 は、言葉による表現という厄介な火烙の中に一人々々が自 分流に身を投じたのだ。育ちと性格を異にする才能たち は、突如として自分たちが各々の場所から駆り出され、自 分とは全く別種の表情や言葉づかいを持つ「仲間」と邂逅 戦後作家の並立について
ないで、展望のひろい農業小説まで発展できないためであ る。喜劇的な心理にしろ、悲劇的な哲学にしろ、我々が書 けるもの、書かねばならぬものは、日本人のそれである。 要するに、日本を知らないままで生きていること。これが 政治ならびに文学の貧困の、根本原因ではなかろうか。 平和の会、反戦の会、友好の会が続出するのは、たのも しい現象である。だが、規約も会場も会費も必要としな新興宗教には、次の如き美点がある。 「日本を知る会」の心ぐみが、各個人の胸に根を張るこ ( 一 ) かくも興味ふかき宗教が流行することによって、 とは、もっとのそましい。某出版社は、政治学者、新聞記 その流行を許すほど、日本の各政党の文化的あるいは精 者、作家を一堂に会させて、話しあうチャンスをあたえて 神的エネルギイが衰弱していることを、興味ふかく露出 してくれること。 いる。これは、営業上の企画としても、すぐれている。だ がそのように四角ばった苦心をしないでも、「日本を知る ( 一 D 大蔵省の如き官庁や、各大銀行の如き金融機関の 会」の柔軟な戦術は、すでに日本人一人々々の心のうち からくりは、複雑にして理解しにくいためその作用を絶 に、新緑の如く芽ばえているのではなかろうか。 対視したいような錯覚におちいるが、新興宗教のからく ( 「朝日新聞」一一八年七月五日 ) りは、それに比べて見抜きやすいため、被害がはるかに 少くてすむこと。 ( 三 ) いかに援助ずきの外国でも、さすがに援助したい 気持を抱きかねるため、純国産品として、保存しうるこ ( 四 ) 思いがけぬ人物 ( たとえば押しの強い中年婦人 ) が、権力をにぎることも有りうることを示すことによっ 新興宗教について