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検索対象: 新編 人間・文学・歴史
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1. 新編 人間・文学・歴史

針と装置によって、彼は変革に参加しているからである。 起すでしよう。」 大インテリ、トーマス・マンにくらべ、あまりにもイン これは悲痛な事実を語る言葉だ。ウルフ、トラアー、ツ テリ的強固さに欠乏しているという反省は、他のいかなるヴァイク、マサリックが自殺したという事実は我々を打 反省よりもクラウス・マンを悩ましたにちがいない。イン つ。何故ならば、彼等はそれぞれウルフであり、ツヴァイ テリで有ることの心苦しさではなく、インテリとして確立クであったからだ。彼等の自殺に重量をあたえているの できなかったうしろめたさが、彼をしめつけたと想像できは、彼等が自殺するまえに、様々なやり方で自己のインテ る。彼はヨーロツ。ハ各地のインテリの動向、その昏迷と混リ性を実証していたからである。まずインテリの選手であ 乱を巧みにジャアナリスティックに蒐輯して、我々に見せることが先決問題であって、自殺はその結末の一章に過な てくれる。レーニン、印度聖典、。ヒカソ、ハチャトリン、 、。彼等は敗北 ( 或は完成 ) する前に、自己の使命を忠実 その他無数の大インテリの群峰のあちこちに視線を走らせかっ執念ぶかく果している。そのことが知的行為の強烈な ては、神経錯乱的会話を口走らせる疑似インテリの容相を魅惑で、我々を象徴的に照らし、熱し、よびさますのであ 示してくれる。だがそれはあくまでヨーロッパの国際的な る。彼等の死は、彼等がその背後に蓄積した生の緊張によ サロンで、他人の言葉と経験をあたかも自分自身の言葉と って、我々を打っ電流となったのであり、学ぶべきは、そ 経験であるかの如くに語りあう人々の姿であって、真に知の生の蓄電である。 っ的な行為にふけるインテリの映像ではない。 かって右翼テロ団が徘徊したころ、日本にも死のう団が 族 スウェーデンの大学都市で一大学生は彼に語った。「幾生れた。彼等は、宮城前広場や増上寺門前で割腹してみず ヴァージニア・ウルフ、エルン 的百の、幾千のインテリが、 からの生命を絶った。他人の生命ではなく、自己の生命を スト・トラア シュテファン・ツヴァイク、ジャン・マ犠牲にすることによって、変革を成就しようとしたその行 し 新サリックがやってのけたことをやるべきなんだ。一番すぐ為は、たしかに美しく、印象的であった。だが彼等は自分 れた、一番騒がれている人間がその犠牲になった自殺が流たちの善意を過信していたきらいがある。何故なら彼等の 行すれば、諸国民はびつくりしてその無感覚状態から身を死に感激した民衆は、その死が宮城及び増上寺という、大

2. 新編 人間・文学・歴史

た。しかも現実の中に理念を直観する能力に於て、彼等は類劇のしみじみした名せりふになった筈である。ウョウョ と蜜にたかる蟻のむれ、その蜜が経書であったからであ 甚だすぐれていたのである。」これは暗示に富んだ、良い 説明である。中国人が現実の中に理念を直観する能力に於る。そのくらい日常生活的、 h ネルギイのたしになる存在 て、甚だすぐれていることは疑いない。経書を成立させたであったのではなかろうか。黙っていても、周囲に蟻をひ 人々、それを形式理念と化せしめた人々、敢てそれを無視きつける蜜なればこそ、それは最も必要な時に発生し、最 した人々、又それと無関係であった人々、それらすべてのも完成された形をそなえ得たのであろう。そこには「経書 の存在を無視して支那の精神文化を口にすることは不可能 中国人は自己の「理念」を現実の中にしか求めなかった。 経書を成立させた現実もたしかに現実である。経書もそのである」と、数千年あとの異国人が研究論文に書きつけ る、ごく特殊な、片隅の、えらばれたる風景ではなくし 発生にあたり一種の現実感覚を足だまりにしている。そこ から脱却できなかった。中国人ばかりでない、カ作『経書て、平凡にして凄烈、浅ましくもまた抜きさしならぬ全現 の成立』をのされた著者及びそれに関して無用の言を考実の海があ「たと思う。呪い、祈り、おどかし、ひやか 1 ッと歎息する、そんな瞬間の 案する私も、私たちの経書を成立させんとする現実から脱し、チョッと舌打ちし、 ( 却はできない。経書を成立させた現実の裡にいた経書時代表現も「経書世界」に於てのみ行われている人々にとって は、わざわざ「これがなければ、これは不可能である」と 感人は、経書の肌ざわり、手ごたえ、味、匂いを現実そのも 現のの如く感覚していた。彼等は「経書的現実」を無視し言いきかせる必要はない。イヤでもそっちへ顔をむけてい て、自己の精神文化を口にすることはなかったにちがいなるものである。 平岡氏は「支那の精神文化を愛する私は」という言葉を 成い。研究論文の結論あるいは序論としてではなく、喋るに 書も、歩くにも、泣くにも、それをはなれることはなかっ使用されている。「愛する」という言葉は美しく、気持が 『た。もし当時全智全能の神がいられて、古代中国人の世界良い。愛すればこそ研究するのは、正しいと思う。そう言 い切れる人は、うらやましい。私もこの言葉が使えれば使 を眺められ、「経書の存在を無視して支那の精神文化を口 いつも後あじがわるく、占 いたい。 ( 今まで使った場合、 にするのは不可能であるな」とつぶやかれたら、それは人

3. 新編 人間・文学・歴史

おたがいに関係し合っている」という定理とともに存す る。囚縁という言葉は、なにか暗い因果物語のジメジメし た陰気さを感じさせるかもしれない。それなら「縁起ーと いう言葉におきかえてみるとよい。すべての物は変化する からこそ、おたがい冫 こどこかで関係し合うことができる。 過去から未来へ、タテ一本につながった「無常」の関係ば 私は、こと政治に関しては「あきらめ派」にそくしてい かりではなく、ヨコ一面にひろがった「縁起」の関係が、 そこにできあがるのである。自然科学で明らかにしたエネる。或は「忘却派。と言ってもよい。あきらめたり、忘 れたりすることにかけては、多少のオ能がある。第一回の ルギイ不減の法則を想起してみるがよい。「無常」とは、 『岩波資本主義発達史講座』は、これでも熟読したおぼえ 決してはかなく消え去ることではない。 がある。山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎の三先生のも 自己保存、種族保存の本能が与えられている私たちが、 「変化」の法則を忘れがちになるのはやむを得ない。しかのは、おなじ講座の中でも、文章がよく練れていて、論理 し人間が、限界状況におかれる運命をもっているからに がうまくたどられ、読んでいて快感をお・ほえた。美的陶酔 は、たえず、「変化」のはだざわりで、自分自身を目ざめにおち入らせるように、適当の行間や字句の次に方程式の させるチャンスをあたえられているのである。 ・・ N のように同じ用語が、くりかえされたりする。 ( 毎日宗教講座 ) その用語の組合せの技巧的な魅力にとりつかれると、自分 でもやって見たくなるものだ。あの講座は、学者たちがめ いめい理論を秩序だてたり、資料をあつめたり分析したり する、その頭脳のはたらきの竸争みたいなかたちだった。 ただし本をよく読み、よく理解し、おそろしくすじみちの たった論文が発表できるということは、それたけでは政治 私と共産主義

4. 新編 人間・文学・歴史

や平泉博士との会見は、『むらぎも』では特に重要な現象 であり、高麗人形は、中野の美意識を試めす、これは重要 な物件として、この長篇のはじまりを飾っているからであ る。そして小説としての『むらぎも』では、これらの会見 や物体が、これらの記録文章とは、ちがったやり方で描写 されているからである。そして両方読みくらべれば、『む らぎも』の小説としての描写密度が判断できるからであ また上述の「街あるき」にも、やはり『むらぎも』に組 み入れられたのと同一の事実が二つ、記録されてある。 「街あるき」は「芥川氏のことなど」とちがって、小説で あるからして、その二つも、たんなる雑文風記録としてで なく、小説的描写として工夫され、定着されてある。一つ は、春画を見て肉体的影響をあらわすかどうか試験する 段。もう一つは、震災時の上野公園における女人出産の 段。「街あるき」の方では、短篇ながら、それが次のよう に、詳細に描かれている。 ーー・彼等の前に絵本が二つ出ていて、一方の方を安吉 野 中 がしばらく熱心に見ているのに藤堂が声をかけた。 「どうだ ? 大丈夫か ? 」 「大丈夫って何が ? 」 「何が『何が ! 』かい : : : 」 藤堂は露骨な言葉を一ついって、「じゃ、賭けよう」 といい出した。 「一分間だ。わしやここをおさえてるぞ。それで何とも なかったらビール一本のますわ、 しししカ : : : 一分ド けでいいわい」 ( 中略 ) 安吉はあぐらをかいて、藤堂は及び腰になって 安吉の股へ手をあてた。もう一方の手では時計を握っ た。一分間は安吉に長かった。必要がないと知りつつや はり彼は下肚に力を入れた。苦痛とは違う待遠しさで藤 堂がちらちらと時計を見るのを眼の隅へ入れた。 「よし」といって藤堂は手を離した。「おいおい、ビー ル二本持って来て上げなさい」 彼等は、気持の労れた高笑いでビールを飲んだがそれ も続かなかった。 「君等は、性欲生活が荒んでるんだよ。わしらの若い時 にやそんなもんじゃなかったわい : : : 」 藤堂の言葉は何気ないものだったが、安吉にはこたえ この同じ、春画の段が『むらぎも』では四分の一ほどに ちちめられている。つまり長篇の方が、この部分だけは、

5. 新編 人間・文学・歴史

154 その反対の極楽という観念は非常に具合が悪い。芸術のたしずつ書いてゆこうと思った。そうなるとコッケイ化とい めには俺は極楽へゆくなどと叫ぶと、いかにも芸術家らしうか、戯画化というか、後で言葉はなんとでもつけられる くない。それを一つ反対にいやでもやったら前からもやも が、書いている当人に言わせればコッケイは後から出たの やした気持が出るのではないか、と考えついた。たから片で、コッケイどころでなく、戯画化どころでなく、本人は っ方で純粋に芸術を恋い慕っている年輩の男が、「俺は芸真剣に祈る気持で書いているが、後で書いている言葉を見 術のためには地獄へ落ちるんだ」と叫ぶ。するとその時るとなんともいわれないコッケイなところがある。 「私」は ( 実際にいわなかったが ) 「いや、先生は必ず極楽 たとえば、頭を剃るという観念は、剃刀で頭を剃るのた へゆく」という。その先生が「いや、そんなことはない、 からパリカンで刈るのと違って顔と頭の区別がなくなるよ うな、 ( 笑 ) そういうようなことはその時にいやたし、後 ぼくは地獄へ落ちるんた」という。私が「いや、それはも う決っているんですから大丈夫、あなたは極楽へゆくんででも気にするのはいやなのだが、書いてしまった後で、自 す」というと、その人はなんともいわれないような悲しい 分でもこいつはコッケイだと思って、そこまで書くと今度 ような残念な顔をしている。そりやそうなのだ。極楽へ行はそれにもう少しつけ加えて極端にしてやったらいっその っちゃえばなにもすることがないのだし、そんなに芸術の こといいのではないかと思って、「そのとき床屋のおやし ために苦しむ必要がなくなってしまう。そういうように罠は私の顔を、恰も水槽の中で死にかかった蛸を見るように みたいに極楽を投げつけるところを書いたら : : : と思ったみつめた」 ( 笑 ) そういうふうに書くと、なんとなく自分 わけである。 が芸術に参加しているような気がする。この調子でやれば 坊主であったという経験は実に恥すべきことであって、 一応いやなこともつづいて書けるのではないか、という気 ・ほくは小説を書き始めた時から一生涯発表しまいと思った持でやり出した。 が、この気持の悪いのを我慢して今出しておけば小説にあ しかし、それも「私」という書体で書いたのだが、その るいはなるかしれない。これは自己暴露というほど峻烈な「私」があんまりいやらしくても具合が悪い。年は十九歳 ものではないが、感覚的にいやだった。汗の出る思いで少になっているから青年ーー青年はどんなにいやらしいやっ

6. 新編 人間・文学・歴史

記によって明らかである。性愛研究の達人たる川端氏が、 いない。むしろあいまいなくせに押しつけがましい、単純 粗悪な政治主義から身をよけようとしている。氏はこの若その点を読み落す筈はない。その苦渋の念、身につまされ 妻の献身を美しいと感嘆はしたが、これをいわゆる「美た戦慄は、この引用文によくにじみ出ている。川端氏が引 談」として宣伝することは、拒否した。「これは希望と喜用した「愛情というものは起ってしまった以上は、まこと に不思議な数々の美しい行いを続けてゆく。という言葉 悦の書である」という言葉だけ見れば、発見の喜びにのみ は、同じ書物に対する横光利一氏の批評である。川端氏は 酔っているかに誤解され、「これは希望と幸福の、愛のよ ろこびの新生記である」と言を重ねてあるのを見れば「何親友の批評に賛成し、それを引用しながらそれに続けてま もそれほどまで」と反撥を感ずるかも知れない。だが私のるで打ち返すように、「その一方、と、愛情にまつわる醜 さを、言明したわけだ。そればかりではなく、この夫婦の 引用したいのは、次の如き一節である。 夫婦の性愛は、極めて単純で健康なるものであ結合の不安定さを底の底まで思いやって、「この『美談』 の結婚が、よしんば、はからずも、いっか醜聞と化したと る。しかしまた或る人々には、限りなく『複雑怪奇』 ころで、何人が石を投げられよう」と、不吉な感想までも な病苦である。『愛情というものは起ってしまった以 阡け加えている。 上は、まことに不思議な数々の美しい行いを続けてゆ 又、 - 次の如き一節は、『わが愛の記』の美しさをほめそ く。』その一方、愛情というものは起ってしまった以上 は、まことに不思議な数々の醜い行いを続けてゆく。美やしつつ、或はほめそやすことによって、川端氏自身の、 しいか、醜いかは、その時の便宜な道徳の色眼鏡に過ぎ男女関係おしなべてのはざまに喰い入「て行く執念の根強 さを語るものであろう。 成ない。この『美談』の結婚が、よしんば、はからすも、 また、見ようによっては、この愛情と結婚は、決 いっか醜聞と化したところで、何人が石を投げられよ して稀有でも、不健康でもない。世のなかには普通の体 を持ちながら、寄怪に病的な夫婦が数知れすある。異様 この夫婦のあいだでは、正常な性愛は不可能なのであ な悲劇が少くない。『愛苦の濫費』は無論のこと、愛情 る。戦傷の夫が、そのためいら立っていることは、妻の日 239

7. 新編 人間・文学・歴史

作家はめいめいの文学的情緒と理性によ 0 て、言葉を選 び、言葉を並べたてる。情緒と理性は遠慮なく変化して行 くから、拒否の仕方も大幅に変化せずにはいない。「玄関 を拒否した三重吉の潔癖さは、やがて他の新しい潔癖さの 下に没してしまう。かっては、文学的な情緒、文学的な理 性と思われたものが、崩れ去り、無視され、別の文学的言 「日カ男の情緒と理性をつくりあげる。その過程は次第にス 鈴木一一一重吉という作家は、「玄関」という単語を嫌悪し吾。、リ 。ヒードを増しつつあるから、現代の作家は、絶えす価値の て、これを自分の小説に使川しなかった。感能的な美しい 上下する不換紙幣を抱えこんでいるようにして、自分たち 作品を残した作家として、この種の潔癖は当然であろう。 「玄」とは、玄のまた玄、衆妙 0 門と『老子』にあるくらのことばを抱えこんで」なければならぬ。 0 まり、作家は 目盛のちが「たいくつかの秤で、彼の潔癖さなる物を、 いで、きわめて重々しい、哲学くさい文字である。辞典に よると、古くは禅寺の審殿に人る門、或は書院造の正面の同時に試してなければならぬ。言語に対する自分の「潔 入口に使用され、後に一般家庭の正面人口にも使用される癖」を盲信しているあいだに、「け 0 べき」は「ケ ' 〈キ」 り ) と仮となり、やがては「キ〉ペケ」になり終るかも知れないの に至「たと言う。「げんくわん」 ( か使用。編集部注 名がきにすればそれほどでないが、「玄関、という二つのである。 漢字」は、一種 0 も 0 も 0 しさがしみ 0 」て」る。三重 ~ 〕文学的言語 0 はかなさ、あて = ならなさを承知した上 学 〕は、その道学臭、宗教臭をきら「たのであろう。或は、彼で、又その頑固さや執念ぶかさを利用して行かねばなら ぬ。いかなる政治ぎらいの作家も、単語をえらび、文章を 政が当時の日本の街で目撃する家々の入口と、「玄関」とい 文う文字の持「イ , ージが一致しなか 0 たのであろう。いす綴り、小説を書きあげているあいだ、「精神の政治学」か れにせよ、三重吉の文学的情緒、または文学的理性が、こら離れるわけにはゆかない。言語という、この捉えどころ のない大社会で投票権をあたえられる年齢に達し、ひとた の単語を拒否したのである。 文章政治学

8. 新編 人間・文学・歴史

た、無神経に太った、大学の教師の姻戚関係なんそに詳し い官立学校のいやらしい教師がさ。彼がある会の席上で日 くさ。「ロジン先生の言葉は青年のハ ねえ、僕も当時は青春の学生さ。彼がその厚・ほったい脣か らハートと言った時、ウェーツたまらねえと感じたもんた よ。まだ純真にして清潔だったからね。怒りとはずかし もう十数年かね。あいつが死んでから、ロジンが死んでさ。席を蹴って南京路へでも行きたかったね。子供さね、 からさ。あいつ、ひでえ奴だったがね。とうとう死んじま要するに。そんなのに興奮してたら、僕の今日あることは って、今や聖人に近くなったし、僕の恐怖心もいくらかう不可能なんだ。正直、僕はロジンが怖い。毛虫、ゲジゲジ した。たが想い出すと、どうもいけない、飯がまずよりたちがわるい。季節をえらばずむかって来やがる。も うちっと義理人情で何とかならんかねえ。コワイコワイと くなるんだ。え、君はどうかね。ロジンが生きていること の圧迫か、そんなの感じないかね。それはともかく有史以言いふらすと、それロジンだぞと投げて寄越す物好きもい 来の敗北、それもこたえてるし、現代の青年はそりや心乱 るがね。それがたいがい似つかぬしろものでさ。それでも コワがって見せる。それも手かな。この手がいつまで物を れることもあるでしよう。しかし何て言ったってあの種の 一一一口うかさ。 独存在、つまり批判には弱るんだ。こたえるんだ、厭だよ、 者実際。ねえ。文学者でなくなることは、もう僕などになる 目下流行中の自己告白でいくか。「自から奴僕の生活に 庇とたいして恐れんがね。しかし文学者でないことを明るみ安んじ、しかも骨惜しみして、おまけに悲憤を忘れはてし に出されるとなると、これは全くつらくてね。生活の間題奴僕」なんだかイヤな気持だ。「すべての死せる又は生け もあり、僕の ハ 1 トは痛むんだ。それが又、奴のねらい る詐欺漢」生けるサギ漢。「猥劣と腐爛」。全く一々言うこ 9 じゃないカオ / ートか。こんな言葉も僕も平気で使うよ とが気にさわるじゃないかね。いやがらせの名人なんだ うになったか。いっかね、先輩がね、四十がらみの、脂ぎつ ぜ、奴は。「旧社会、旧勢力に対する闘争には、必す堅実 *-Ä恐怖症患者の独白 ートを動かします」。

9. 新編 人間・文学・歴史

分の醜さが客にあたえる悪感をそらし、金額だけの喜びをつと無邪気な消えやすい雪の花のような一句だったかも知 補ってくれるつもりか、一夜明けてから、あかるい、けだれません。ともかくそれに雪子は答えませんでした。答え ようもなかったでしよう。そして、ひけてから船員と食事 るい光線の中でその物語をしてくれたのでした。 彼女は一年前、関西のダンス・ホールにつとめていましに行きました。それはホンの一寸した食事にすぎなかった た。そこの仲間に、雪子という娘がいました。十八で処女のです。その船員も、アッサリした、気まえのよい男でし だったそうですが、どこか冷いところがありました。耳がたから。あくる日、彼女は雪子と風呂へ行きました。風呂 のすぐ裏手で、夏のこと わるいせいもあり、顔は綺麗で、お嬢さんらしいのに、愛と言っても、自分たちのア。ハート 想がない女でした。性質はごく善良で、彼女とは仲が良かですから、腕や胸のあらわな姿でもどって来ました。二階 ったのです。雪子には通いつめてくる若者がいました。まへあがり、雪子の部屋の前まで来ました。 じめな職工で十九歳でした。雪子も若者を好いていました若者が立って居ました。何か挨拶を言い、すれちがいま が、二人の仲はきわめて純情な、子供らしいものに見えたした。そのとたん、雪子はかすかにアッと叫びました。そ そうです。ある夜、一人の船員がホールに来ました。彼はれと同時に、雪子と並んでいた彼女の身体に、なまあたた 二日たっと故郷へ帰るとかで、それまでに思い切り遊びた かい、なまぐさい血液が、ほとばしりかかりました。一瞬 い模様でした。 の間で、彼女は呆然としていました。雪子は無言で、グ ニャリと彼女の方へ倒れて来ました。出歯・ほうちょうで胸 雪子とおどり、雪子が気に入りました。金も沢山有るの で、女におごりたがりました。その夜、若者もホールに来を刺されたのでした。 つました。若者も雪子とおどりました。その時、多分耳がわ若者は自首しました。刑は十五年でした。入獄してか にるいためでしよう、雪子は若者のささやいた言葉を聴きのら、若者は次第に雪子は何等自分に対して悪いことをして がしました。誰にもきづかれぬぐらいごく低く、ごく短く いなかったと気づき、涙を流し、悔みました。船員も、申 ささやかれた若者のその夜の言葉は、ついにその内容を知しわけないことになったと、おどろき悔みました。雪子の るものはありません。約東の時間か、場所か、それともも母親も「死ぬときは、さそ痛かったろうなあ、雪子」と泣

10. 新編 人間・文学・歴史

我アジア人にとって、より重要な言葉を吐いている。「彼れたと敢て私は言わずにいられない。その恵まれた自覚な ら ( ヨーロッパのインテリ ) はほかの大陸のインテリたち くして、破減の域に押しやられねばならなかった、多くの よりも余計に意識的且っ積極的にインテレクチュアルなの アジア種族の運命を目撃している以上、卑賤なる成員の一 だ」、「蓋し彼らはことごとく同一の悲劇的家族に属し、零人たる私は、ここに或るヨーロッパ知識人の死は認めて 落しても誇りの高い高貴な一種族の成員なのだ」と。苦悩 も、全世界のインテリの死の予想を認めることはできない し絶望していると自称しつつも、クラウス・マンは何と自のである。 信にみちた一句を書き記したものではないか。これこそ、 ヨーロッパ知識人を現在おびやかしている不快感と不安 近代国家を形成すべく七つの海をかけめぐり、アジアの各感を、東方の文化人たちがかって甘受し忍耐せずにいたと 地から物質的富を集結し、そのことによって知的繁栄にもでも言うのだろうか。アジアの諸民族は ( 日本と中国だけ 成功した、白人種の子孫の書きつけそうな言葉である。零に限ってもいい ) 、西方からの風圧の下で、欲すると欲せ 落しても誇りの高い高貴な一種族の成員たる彼は、起ち上ざるにかかわらず、憎しみあい、殺しあい、盲目的に反援 りつつも誇り高くない卑賤なるアジアの諸種族の成員にはしあわなければならなかった。ュウラシア大陸の西の一角 一顧だも与えていない。彼は死にひんしつつも、なお近代で、他の大陸の二大勢力の風圧の下で、その知識人たちの 文化の創造者であり、担い手であった自分一族の知性を愛頭上に右往左往せねばならぬ運命が発生しつつあるにして っ惜することができた。彼はアメリカ人の非インテレクチュ も、あれだけ知恵者そろいの西欧貴族が、かってアジア諸 族アぶりを批判することもできたし、ロシア人の野蛮な ( ? ) 地域に彼等自身の手でふりまいた不幸が、自分の身にふり かかって来ることを、どうして予言しようとはしなかった 吶暴力を攻撃することも可能であった。 ( 彼自身はそのどち きらをも敢て実行しようとしなかったが、彼の遺書はその精のか、又その予言を信じようとはしなかったのか。 新神会社の高級社員としての自信のほどを明示している。 ) 「ヨーロッパのインテリが、最もよく危機を意識してい るのも不思議ではあるまい」 彼には愛惜すべき知的遺産 ( たとえそれが亡びつつある にしても ) の継承者たるの、恵まれた自覚があった。恵ま 象徴的な知的自殺者の書きつづったこの一句を、私たち