明治二〇年、高等文官試験制度が発足するとこの「条規」は廃止され、かわって「特別認可学校 規則」がつくられる。新しい「規則」は私立法律学校を帝国大学の監督下から、直接文部大臣の統 制下におこうとするもので、「特別認可」を受けた私立学校の正規の課程の卒業生には、行政官僚の 任用試験だけでなく、司法官の任用試験についても、また徴兵令の上でも、各種の特権が認められ ていた。特権と引きかえに、教育内容にまで政府の介入権限を認めることになるこうした法律に対 しては、反対の動きがなかったわけではない。しかし、学生集めのためにどうしても「特典」の欲 しい有力私学は、こぞって特別認可学校になる道を選んだ。関西大学の学校史によると、「特別認 可」のえられなかった同校の場合、「学生の中には失望の余り東京の特別認可学校に移るものが相 次」ぎ、存亡の危機に立たされたという ( 6 ) 。「特典」にあずかれるかどうかは、経営基盤の弱い私学 にとって、死命を制する問題だったのである。 「大学」への願望 学歴戦争を展開する上で、私学側の最大の弱点は、教育条件の劣悪さ、高等教育機関としての質 の不十分さにあった。わが国の私学の大部分は当時 ( 今もそうだが、 ) 学生の支払う授業料を事実上 唯一の収入源にしていた。しかも学生集めのことを考えれば、官公立学校よりも高い授業料をとる のはむずかしい。非常勤の講師を雇い、中学校の卒業証書の有無を問わず学生を入学させ、貧弱な 施設で。ハ ートタイムの専門教育を行うという、国家試験の予備校まがいのところがほとんどだった。 争高等文官試験に合格者を出しているとはいっても、教育機関としての質は帝国大学をはじめとする 私 官公立学校のそれに、どうみても及ばなかったのである。そしてそのことは誰よりも、私学関係者 官 自身の十分に認識しているところであった。 211
私立大学の撲滅策か このようにみてくると、「学歴戦争」は、私学の一方的な勝利のうちに進んできたように、思われ るかも知れない。しかしそうではない。政府はここでもまたたくみにアメとムチを使いわけ、官学、 とりわけ帝国大学の優位を守った。すなわち、「大学」名称を認める一方で政府は抜け目なく、帝国 大学以外の官公私立の専門高等教育機関を一括して規制する法律、「専門学校令」を用意していたの である。 専門学校を対象とする法律を制定しようとする動きが、具体化しはじめたのは、早稲田が「大学」 設置の構想をうち出した明治三三年の末頃であり、実際に専門学校令が成立、実施されたのは、明 治三六年の四月であ「た。つまり、早稲田に先導された私学の「大学」設立の動きと、専門学校令 の制定の動きとは、時間的にほば重なりあ「ていたことになる。この二つの動きは、たがいに無関 係であったのだろうか。 専門学校令の制定が噂されはじめた頃、当時の有力教育雑誌『教育時論』の論調は、好意的・積 極的なものだった。政府の政策がこれまで「多年私立学校撲滅の傾向を有」っていたことは疑いな ところが最近は「官の教育事業は、到底駸々たる世間の進展に伴」って増加してきた人材への 「需要を満足せしむること能」わないことがはっきりしてきて、「漸く私立学校に依頼せんとするの つまびらか 傾向を生」じてきた。「専門学校令の如き、吾等いまだ其内容を審にせずと雖も、世間の風説を真 なりとすれば、之によりて、私立学校卒業者に公の資格を認め、たとへば、無試験を以て教員に採 用するが如き、利用法を講じたるものの如」くである。「吾等は、教育事業のために、この私立学校 尊重の新傾向を喜ぶもの」である。大体、上は大学から下は小学校まで、教育事業の全体を国家が しんしん 216
っていった人たちであったとみていいだろう。 第二に就業状況のわかっているものについては、東京帝大の法科大学と同じで、官庁就職者が多 数 ( 五六 % ) をしめている。違っているのは、私学出には司法官が多く、行政官のうちでは「その他」 のカテゴリ 1 に入る中級官僚が多数をしめている点である。また「開業」専門職である弁護士も多 く、司法官を上まわっている。法律系についてみる限り、私学が官学の補完的な役割をはたしてい たことを、端的に示す数字といえるだろう。 第三に民間企業への就職者の数の、きわめて少ないことが注目される。三百余名という数は卒業 者全体のわずかに六 % 、就学状況のわかっている二千余名のなかでも一五 % をしめるにすぎない。 民間企業の発達がまだ緒についたばかりという時代状況もあるが、明治三〇年代のはじめにはまだ、 若者たちの目は、実業の世界、企業の世界にむけられていなかったのである。明治と早稲田が、法 律系私学の先頭を切って商学部を開設したのは、明治三七年のことである。 早稲田・稲門閥 その早稲田だが、表には法学部の卒業者の数字だけがのっている。「専門学校」という名称が示 唆しているよ、つに、 この時期の高等教育機関のほとんどが、専門一科の職業教育機関であり、総合 的な教育機関といえば、六つの分科大学をもっ東京帝大は別格として、政・法・文の三学部をもっ 早稲田、それに理財・法・文の三学部をもっ慶応義塾が例外的な存在であった。しかも看板学部は 早稲田が政治学、慶応義塾が理財学 ( 経済学 ) で、いずれも高度の「教養」教育に主眼があったこと は、すでにみた通りである。しこ。、 / カって、その活躍する領域も、帝大出はもちろん、他の法律系私 学とも著しく異なっていた。 250
発足当初から、早稲田は「政治青年」のたまり場であった。「当時の〔東京〕専門学校は、明治〔法 たと 律学校〕や専修学校などより法律は劣って居たかも知らぬが、政治経済は盛んである。設令法律科 に籍を置くものでも、政治家を気取「てゐる。全校の生徒約二百人は、総て是れ年少気鋭の政治家 であった」 ( 四 ) その早稲田の創設者は大隈だが、直接学校の運営にあたったのは、東京大学文学部の卒業者たち である。帝国大学発足以前の東大文学部は、アメリカのリべラル・ア 1 ツ・カレッジの影響を強く ト大学出身で、のちに日 うけており、政治学や経済学もまたこの学部で教えられていた。ノー 本美術の紹介者として知られるようになるフ = ノロサが、政治学と理財学、さらには哲学や論理学 まで教えていたという時代である。その教え子たちの組みあげたカリキラムもまた「一科専門」 の枠にこだわらない幅の広いものであった。 ッションの設立によるものが リべラル・アーツといえば、キリスト教系の私学は、アメリカのミ いっそうその影響が強い。同志社の創設者である新島襄は、アマ 1 スト大学の卒業生 多いだけに、 アメリカの歴史の中心で培われてきた、人類の智 であり、かれの理想とした大学は「ヨ 1 ロ 恵ともいうべきリべラル・エデ = ケ 1 ション ( 自由教育 ) を中心としたリべラル・ア 1 ツ・カレッ ジであ「た」とされている。明治一九年に入学した深井英五の回顧でも、当時の「同志社には、 一般に高等の 普通学校と神学校」があり、「普通学校は神学校の予科として設けられたのではなく、 普通教育を授けることを目的」とし、実際にも「普通学校を卒業後神学校に入るものは少数」で、 ミッションによって設立された立 学「大概は直に何かに就職」して行ったという ( 邑。また聖公会系の 京教大学校 ( 現・立教大学 ) も、「其模型を全く米国のカレージ組織に取り、予備科二年、本科四年の高 等普通教科を教え」ていた。
9 身を立るの財本 その試験だが「規則」には、きわめて重要な免除条項が規定されている。すなわち「法科大学文 科大学及旧東京大学法学部文学部ノ卒業生」については高等試験、「官立府県立中学校又ハ之ト同等 ナル官立府県立学校及帝国大学ノ監督ヲ受クル私立法律学校及旧司法省法学校ノ卒業証書ヲ有スル 者」については普通試験を免除して、それぞれ試補または見習に任用するというのである。 さらに、高等試験についてはその受験資格を「文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ依リ法律学政治学 又ハ理財学ヲ教授スル私立学校ノ卒業証書ヲ有スル者」、「高等中学校及東京商業学校ノ卒業証書ヲ 有スル者」、さらには外国の大学校の卒業者など、一定の学歴を有するものに限るという各項が設け られていた。つまりこの「規則」は全体として、官僚の任用制度と学校制度とを直接結びつけ、特 定の学校の卒業証書が高い社会的威信をもち、羨望の的になっている官僚の地位を手に入れるため の、いわば「ビザ」であることを、人々にはっきり示すものだったのである。 学校制度の大改革 二つの制度を結びつけるためには、学歴の発行所である学校制度の方も整備されていなければな らない。伊藤の信望が厚かった森文相に期待されたのは、まさにそうした学校制度の整備の役割で あった。森は前年の明治一九年に「諸学校令」とよばれる一連の教育法規を制定し、「学制」の公布 以来くり返し改革され、混乱を続けてきた学校制度を再編し、安定的な発展の軌道にのせることに よって、その期待にこたえようとした。 制度の再編にあたって森がとくに重視したのは、帝国大学の創設である。それまでの東京大学に、 他官省立の諸学校の大半を吸収・統合する形で発足したこの大学には、法・医・エ・文・理の五つ の分科大学がおかれ、のちに農科大学がこれに加えられた。その名の通り、新興の日本帝国の威信Ⅲ
官僚の任用試験制度が定められたのは、明治二〇年のことである。それ以前には、なにを条件に たれを採用するかについて、はっきりした規定はなく、藩閥による情実人事が横行していた。伊藤 博文を総理大臣とする最初の内閣は、それを改めるべく、試験と学歴による高級・中級官僚の任用 制度をつくったのである。官僚の任用はあくまでも実力本位に、公平無私のやり方で行われなけれ ばならない。そのために試験制度を導入し、その試験の受験資格を教育制度と、つまり学歴と結び つける。それが伊藤の考えた、新しい公平無私な官僚任用制度だった ( 四。 この考え方は、伊藤が国家体制のお手本と仰いでいたドイツ・プロイセンの官僚任用制によって いる。ただ伊藤は、特定の学歴、しかも学校歴としての学歴をもったものに試験免除の特権を与え るという、プロイセンにはない条件を重要な修正として加えた。日本の社会の学歴社会化のタネは、 この時にまかれたといってよ、 明治二〇年の「文官試験試補及見習規則」によると、その特権はこうなる。まず「法科大学文科 大学及旧東京大学法学部文学部ノ卒業生ハ高等試験ヲ要セズ〔高等文官の見習である〕試補」になる ことができる。また「官立府県立中学校又ハ之ト同等ナル官立府県立学校及帝国大学ノ監督ヲ受ク ル私立法律学校及旧司法省法学校ノ卒業証書ヲ有スル者」も、「試験ヲ要セズ〔中級官僚である〕判任 官見習」に任用される。つまり、帝国大学とその前身校卒業の「学士」たちは高級官僚に、それ以 外の官公立の中等学校以上の学校の卒業生は中級官僚に、いずれも無試験でなれるというのである。 これに対して、私立学校の場合には「帝国大学ノ監督ヲ受クル私立法律学校」の卒業生だけが、し かも中級官僚についてのみ、無試験任用の特権にあずかることができた。高級官僚について、かれ らが認められていたのは受験資格だけであった。 官公立学校の卒業証書の優位は明らかである。官僚の任用制度に関する限り、私学の卒業証書は 200
発生的に生まれ、発展してきた学校だ「たのである。すでにみたように明治一九年、当時の森有礼 文相は小学校令、中学校令、帝国大学令、師範学校令という四つの法律を定めて、戦前期の日本教 育の基本的な骨組みをつくりあげた。しかしそれ以外の実業学校、高等女学校、それに専門学校に ついては長い 1 、 それを対象とする法律は存在しなかった。 井上毅文相時代の明治二七年、それまで中学校の一種とされてきた、帝国大学進学者のための予 備教育機関である、高等中学校を独立させ、専門教育中心の学校とすることをねらいとする「高等 学校令」が制定された。高等中学校にはもともと大学予科の他に医学部、法学部、工学部が附設さ れており、こちらの方を教育の主体とする構想がたてられたわけたが、それが実現されれば、高等 学校は専門学校と変わるところがなくなってしまう。当時の『教育時論』は、高等中学校は「高等 教育の部にも属せず、中等教育の部にも数へ難き、奇怪の学校」である。それを「専門学校と為さ んとするは、大によし」とすべきだろう。しかしながら「是と階級を同くする私立の専門学校には、 慶応義塾大学部あり、早稲田専門学校あり、西京の同志社あり、其他尚少」なくない。大いに「其 ふんどし 褌を固くして着手」しないと、「官立の学校、却て私立の専門学校の後に瞠若たるに至る」ことに なろう。「御用心あるべし」と、皮肉を交えて書いている ( 2 ) 。 すでにみたように井上が高等中学校の専門学校化を考えたのは、なによりも帝国大学が、人材の 養成機関として、あまりに高価すぎたからである。中学校から専門学校をへて帝国大学まで、金だ けでなく時間もかかる。とても近代化に必要な人材の大量養成はできない。それならいっそのこと、 帝国大学は研究中心の大学院にまつりあげ、かわりに高等中学校を専門的人材の養成機関に改組し たらどうか。その専門教育機関としての「高等学校」を、時期をみて「大学」にしていく。それが 井上の描いた構想であった。だが、この構想は一〇年もたたぬうちに完全に挫折してしまった。井
るところは、本校生徒中には、多くは普通の智識を有せざるが故に、〔同一水準の専門教育をうけて も〕其れ丈けの効果も顕はれざる次第」なのだ朝というのが、関係者の認識だったのである。 中学校卒業者を入学させ、予科をおいて「普通の智識」を教えれば、教育の水準でも年数でも、 帝国大学に劣るところはなくなる。としたらなぜ「大学」を称してはいけないのか。慶応義塾の 「大学部」も、早稲田の「英語専門科」も、応募する学生が少なく、明治二〇年代を通じて不振を続 けたが、明治三〇年代に入るとあらためて正式に大学としての地位と名称を獲得すべく、積極的な 努力が展開されることになる。 私学の「大学」化 ~ の突破口を開いたのは、早稲田であ「た。当時まだ東京専門学校を称してい た同校が、「大学」設立の具体的な構想を発表したのは明治三三年のことである。教育課程を大学部 と専門部の二つに分け、大学部の方には一年半の予科をおいて、高等学校と同様の高等普通教育を 与え、その上で専門教育をする。また校名も早稲田大学に改める、というのがその骨子であ「た。 官立の高等学校は三年制で二外国語を教えているが、早稲田の大学予科は一外国語だけを教えるか ら、教育の年限は半分だが水準・内容において高等学校に劣るところはない。それが「大学」 ~ の 名称変更を求める早稲田側の言い分であった ( Ⅱ ) 。 法律の不備と盲点をついた、この「大学」化構想について、政府部内でどのような議論がなされ たのかはわからないが、明治三四年一月に設置願が出されてから一年二カ月後に、文部省の許可が おり、明治三五年九月、早稲田大学は無事、「大学」として発足をとげることにな「た。そして多く の私立学校がこれに続いた。明治三七年にはすでに、大学名称をもっ私学が一九校を数えた。 しかしそれで私立大学が帝国大学と、対等平等の地位を獲得したわけではない。当時の『教育時 論』はこう書いている ) ーー・「今や府下の五大法律学校は、悉皆大学組織となり、俄に私立大学の 214
である。官立学校の卒業者が多数官吏になるのは、このように政府が「最モ進歩的ニシテ新知識ヲ 要シ従テ之ヲ登用」するからであり、また「比較的情実ノ弊少ナクシテ能ク卒業者ヲシテ驥足ヲ伸 ハサシメ」てきた結果である。それは「非難スベキコト」なのだろうか ( 7 ) 、と。 確かにそうだろう。行政官僚についていえば、明治二六年に試験制度が改正され、法学士の無試 験任用の特典は廃止された。高級官僚の全員が試験で採用されるようになってから一〇年間の試験 合格者をみると、帝国大学出身以外のものが三分の一強をしめている。しかしそれでも、「官界は赤 門の独り舞台」であり、「赤門は官吏の養成所」であることに変わりはなかった。官費で十分に体系 的な専門教育をうけた学力の高い法学士たちが、しかも法科大学の教授たちが試験委員として出題 する高等試験をうける。公開の競争試験の結果で、かれらが多数派の地位を失うことは、ありえな いことだったのである。ただ同じ官僚でも、司法官の場合は違っていた。 行政官僚について、無試験任用の特権が失われたあとも、司法官については、法学士の無試験任 用制が続いていた。それは司法官をめざす法学士の数が、少なかったからである。行政官にくらべ 司法官に約束された「報酬」は大きいとは言えなかった。社会的な威信は行政官ほど高くはなかっ たし、権力の大きさも比較にはならなかった。それになによりも、経済的報酬が低かった。初任給 にしてからが、司法官は一律年俸三〇〇円。これに対して行政官の場合には、大学卒業時の成績に よって六〇〇円から四五〇円までの開きがあり、しかも最低額でも司法官のそれよりも高かった ( 8 ) 。 そして、そうした報酬の差異から生じた人材の不足を補う役割をはたしたのは、司法官登用試験の 合格者、すなわち私立学校の卒業者たちであった。明治三七年当時、約一七〇〇人の判事検事がい たが、法学士はその二一 % をしめたにすぎず、試験合格Ⅱ私学出身者が圧倒的に多数をしめていた のである ( 9 ) 。 きそく
の慶応義塾の授業料は年額三〇円、早稲田大学の前身の東京専門学校が一九円、明治大学の前身で ある明治法律学校では一〇円であった ( 。 帝国大学よりも高い授業料を徴収することのできた慶応義塾は、私学のなかでも一頭地を抜く存 在だったといってよいだろう。 官学か私学か 官学と私学の間だけでなく、私学間にもみられたこうした授業料の格差は、高等教育の諸機関と、 それを利用した社会層との間に複雑な関係があ「たことを示唆している。つまり、官学が貧乏士族 だけの学校ではなか「た ( なくな「てしま「た ) ように、私学もまた社会の富裕層の子弟のためだけ の学校ではなか「たのである。成立期のわが国の学歴社会の基本的な構造を理解するために、それ はあらためて確認しておくべき点だろう。 明治の四〇年代に入るまで、わが国の義務教育の年限は尋常小学校の四年までであ「た。そこか ら最高学府である帝国大学までたどりつくには、まず四年制の高等小学校に進まねばならなか「た。 尋常中学校には、その高等小学校二年修了のところで接続していたが、実際には学力面での格差か ら、四年修了してようやく中学校 ~ の入学試験に。 ( スするというのが普通だ「た。中学校は五年で、 三年制の高等学校に接続する。しかしこの場合にも、高等学校の要求する学力の水準が高く、さら に限られた入学定員をめぐ「てはげしい受験競争があり、一 ~ 二年の浪人は例外ではなか「た。義 務教育修了後、帝国大学に入学するまでには、最低でも一〇年、長ければ一四、五年かかる計算に なる。中学校入学後の選抜がきびしく、落第・中退により、五年で卒業にこぎつけるものは半数に もみたなかったことも、つけ加えておく必要があるだろう。