の育英社に対しても前田家は、くり返し多額の寄附を行っている。防長教育会にくらべれば、士族 救済的な色あいはずっとうすいが、実質的には、それがこの、わが国の育英団体の嚆矢ともいうべ き育英社の主要な役割であったことは、疑いない ( 間 ) 。 育英事業の起源 育英団体をつくり、あるいは学校を設置して旧藩士を中心に、旧藩民の教育の振興をはかろうと いう動きは、維新後、長州や加賀のような大藩に限らず、藩主と藩士、あるいは藩士間の結びつき の強かった諸藩に共通したものであった。 育英団体についていえば、大正六年に文部省が行った調査によると、旧藩主や藩士を設置者とす る育英団体は、全国で四三にのばっており、そのほとんどが、たとえば「旧前橋藩士子弟奨学ノ為 士族に対象を限定して創設されたものであることがわかる。明治維新から半世 メ」とい、つよ、つこ、 紀近くをへてなおこれだけの育英団体が存続し、活動をつづけていたことを知るとき、あらためて ハンの伝統が、わが国の教育に残した遺産の大きさを痛感させられる。 ンの伝統をそのまま残しているものは、明治の末にはすで これに対して、中等以上の学校で、 に皆無であったといってよい。先にみたように、山口高等学校が防長教育会の手をはなれて官立の 山口高等商業学校になったのが、明治三八年。鹿児島の造士館の方はもっと早く、明治二九年に廃 校となっている。それは中学校の場合にも同様であ「た。旧藩関係者によ 0 て設立された私立ない 産し準公立の中学校は、明治二〇年代まで少なからぬ数にのばったが、明治三〇年代に入ると、ほと 育んどが県立に移管されている。先にみた育英団体の多くが、明治三〇年代に正式に発足をみている ンの持ち続け つまり明治維新から三〇年をへて、 のはこのことと関係しているのかも知れない。
りわけ、「頭のよい」子どもたちにとって、自尊心を満足させ、競争心や向学心をかき立てる仕組み をもっていたのである元 ) 。 かきたてられた自尊心は、かれらをムラの外へと押し出す力になる。しかし実際にかれらがムラ の外に出て、学歴の獲得にむかうには、さらにさまざまな力が必要とされる。本多と喜田の場合が そうだったように、教育費の負担能力はきわめて重要な条件であった。本多は「学僕」として働い たが、「苦学」は明治のある時期まで、有力な教育費調達の方法であった。 それと同時に、あるいはそれ以上に重要だったのは、日本社会の人と人とのつながりの、おそら くはいちばん基底にある「縁」である。血縁、地縁、そして同じ学校で教えられ学んだという「校 縁」。人々は、そうしたエンを頼って移動していった。このエンは同時に、情報の流れてくるルート であり、またカネが流れてくるル 1 トでもあった。士族と違って、何百年にもわたって、ムラに定 住してきた農民の場合には、ムラの小学校から、東京の官立学校までの距離は、途方にくれるほど 本多が住み込ん 大きなものであったに違いない。その距離をわずかなエンをたどって埋めていく。 だ先の官僚は、かれの兄の漢学の元教師というだけのエンだった。本多はそこで最低限の生活の保 証を与えられ、また官費学校についての情報を教えられた。 なんの面識もないのに、同郷の先輩だというだけのエンを頼りに上京して、そこに書生や学僕と して住みこむという例も多かった。すでにみたハンの育英制度も、大きな役割をはたした。長州の 防長教育会も、加能越 ( 加賀能登越前 ) の育英社も、士族による育英団体ではあったが、士族のた めだけのものではなかった。旧藩意識にうらづけられた「地縁」は、とくに農民の子弟にとって、 1 トだったのである。 移動の重要なル 農民の学歴取得の意味について論じた論文のなかで、浜田陽太郎は、「常にその人間の能力に応じ
によ「て設立された当時の明治法律学校 ( 現・明治大学 ) では、学生からわずか三〇銭の月謝しかと別 らず、「創立者は何等の報酬を受けざるのみならず、自ら負債して学校の費用に充て、他の講師も、 一二の人を除いては全く無報酬で教鞭を執「てゐた」 ( というのが実状であ「た。 東京専門学校 ( 現・早稲田大学 ) では、もともと安い「月謝の滞納者が非常に多くて、其の = 一分の 一も取り立てられない。此の月謝滞納者のために学校では非常に困難して、之がために大隈伯の救 助を仰いだことが幾度だか知れない程」であ「た。そこで明治一九年にな「て、一円の授業料を一 円八〇銭に引きあげ「非常の英断を以て月謝徴収を励行」し、「滞納者はドンドン停学を命ずるこ と」にしこ。ゝ、 オカそれでも三分の一は支払わない。そこで「凡そ二百名の滞納者に向「て停学処分を 励行」したところ、「非常に激昂して幹事を叩き殺すなどといふやうな騒ぎにな」「たという ( 。 いまでは考えられない話だが、それほど授業料、しかも高額の授業料を徴収することは、むずかし かったのである。 新しい学問を学びたいと考える若者たちは沢山いた。しかしかれらのなかには、 社会的な失業者 とでもいうべき士族の子弟をふくめて、貧しいものが少なくなか「た。そしてそれ以上に、学問を 学ぶのに、とくに私学でそれを学ぶのに、高い授業料を支払うのが当然だとは考えないものが沢山 いた。慶応義塾のような学校は例外として、大方の私学が対象としなければならなか「たのは、そ うした学生たちであった。 、圧 ①『福沢論吉選集』第一巻 ( 岩波書店、昭和一一六年 ) ~ 九頁。 / 盟同、九一 ~ 二頁。 / ③同、九二頁。 ④『福沢諭吉全集』第一二巻 ( 岩波書店、昭和三五年 ) 六二頁。 ノ、
教育の価値 このことは、在学率をせきとめる役割をはたしていたものが、なによりも上級学校へ進学し、学 歴を取得することへの「動機づけ」であったことを示唆している。ゆたかな商人の家に生まれた鳥 居竜蔵は、学校というのは「立身生活の保証のための所」であり、「家禄を失い困難してい」る士族 の子弟のための場所であると考え、「学校卒業証を所持しないものは、生活は出来ない」と教師から いわれて強く反撥したことを、その自伝のなかに書いていた ( 5 ) 。現状に満足しており、別の世界 官僚に代表される俸給生活者や専門的職業人からなる「近代セクター」への移動を希望するの でなければ、趣味・教養としての学問は必要であっても、「学校卒業証」を手に入れるための学問は いらない。それがゆたかな家産や、安定した家業をもった「富裕な平民層」の間で、明治二〇年代 にも依然として支配的な考え方であったといってよいだろう。 そのことを間接的な形ではあるが裏づけているのは、中・高等教育機関の在学者や卒業者の族籍 別の構成である。人口比でいえば華士族は最大限にみても全体の六 ~ 七 % 程度をしめるにすぎず、 残りはすべて平民である。その平民が公立中学校在学者に占める比率は、明治二三年にようやく五 と人口比を大きく下まわっていた ( 6 ) 。 二 % と、五割の線をこえたが、三一年になってもまだ六八 % 、 高等教育となると、平民の比率の低さは、さらにはっきりあらわれる。表 2 は、各学校の卒業者 のうち、平民出身者の占める比率をみたものだが、それによると明治二三年の時点では、平民が五 〇 % 以上を占めるのは、帝国大学の医学、官立専門学校の医・商・農、それに私立専門学校の法・ 医だけであり、それ以外の学校・学部では、依然として士族出身者が圧倒的多数をしめていたこと 124
がない筈である」 ( 5 ) とのべている。 それを裏づける具体的なデータとして、かれは大正三年現在で、全国の新聞総数約三二〇、早稲 田出身者は四六〇名という数字をあげている。主要新聞の集中する東京では「社長、主筆編集長主 幹等四十四名、一般記者二百十七名計二百六十一名」 ( 6 ) という数字も示されている。また地方につ いても、「早大出身者にしてこれら新聞事業に従事する者多きは寧ろ中央のそれに倍して居る。而 かもその大多数が所謂幹部の職にあるは注目の価値があらう。思ふに一度高等教育を授けられた地 方有力者の子弟が再び自己の故郷に帰「て、比較的興味あるこの種事業に従事せんとするの結果だ ら、つか」 ( 7 ) この時期新聞と政治が強い結びつきをも「ていたことは、よく知られている。「官途」につくこと をいさぎよしとしなか「た「稲門」出身者は、なによりもジャーナリズムと政治に、その活動の場 を求めたのである。 慶応義塾・三田閥 もうひとつの有力私学、慶応義塾について『大学と人物』は、こう書いている 「近時各種の大学は雨後の筍の様に簇生した」が、「創業時代が古くて巨人傑才を輩出せること慶応 義塾の如きものは稀である」。これは「創立者その人を得たると義塾の方針が当時の我が社会に適 合せるためではなからうか : : : 〔福沢〕先生の教育は最新欧米の文明を輸入し、主としてこれを我が 国民情の実際に融和せしめたものであったから、当時西洋文明の如何を欲求して止まなか「た我が 社会の趨勢は、官私の別なくこれを喜びこの新教育ある青年を聘用するに務めたものだ : : かくて 慶応義塾の創立後五十有余年の歳月を経過し、多数私立大学の間に立「て、嶄然頭角を現はすに至 そうせい ざんぜん 252
雪嶺の指摘にもあるように、東京大学以外の各官省立の諸学校は官費生が主体であり、それが魅 力で進学する士族の子弟も多か「た。授業料がタダというだけでなく衣食住すべて保証され、その うえ小遣いまでもらい、卒業すれば「官員様」になれるのである。官費学校は、まさに貧乏士族の ための教育授産の場であり、事実上の「士族学校」であった。 のちに総理大臣になる若槻礼次郎も、そうした官費学校の恩恵にあずか「た一人である。松江の 貧乏足軽の次男に生まれたかれは、、 学校を優秀な成績で卒業して中学に進むが「家が貧乏で、学 資が続かない。学資を受けるどころか、私はいくらかでも収入を得て、家計を助けなければならな い境遇であ「た」。それで一年足らずで中退し、代用教員になり家計を助けたが、同窓の連中が中学 を卒業して、上京遊学するのが羨ましくてたまらない。 「明治一六年だ「たと思うが、士官学校の生徒募集があ「て、軍人が島根県に来て試験をした。こ れは官費で学資が要らんから、私はさ「そくその試験を受けた。ところが第一日の体格検査ではね られた : : : するとその翌年、司法省の法学校が生徒を募集する。これは官費だという。私は飛びた っ思いであ。たが、試験場は東京で、東京まで出て行かなければならない。その費用がない。百方 苦慮の末、叔父に : : : 今この官費の学校へ入らなければ、自分は東京 ~ 出て学問をする望みはない。 このまま田舎でくすぶ「てしまうのも残念だから、東京へ出る旅費だけ貸してもらいたい。 卒業し て給料を貰うようにな「たら、必ずお返しするからと云って頼んだ」 ( 4 ) 若槻は、こうして三〇円借り出して上京し、友人の下宿に転がりこんで試験をうけ、なんとか合 格するのだが、なにぶん、中学も卒業していないのだから成績はよくない。官費生にはなれず、私 費生にまわされてしま「た。「官費のアテが外れたので、私は非常に困「た。しかし私費にも、文房 具や本などは皆学校から出るので、下宿料だけ工面すればよいのたが、その工面がっかない」。また
勉強するのだが、かれの場合にも給費制度の廃止と授業料の値上げは、大きな打撃であ「た。 この制度改革の際に「大学総理より全国の旧藩主に対して、各其の藩出身の大学生の為に : : : 学 費を補助せられ度し、との勧誘状を発せられるに至った」という。それと、在京の旧藩士の有志に よる旧藩主松平家への働きかけもあ「て、明治一九年から「旧臣の子弟」で「文武学生」にな「て いるもの一〇名に、月五 ~ 一〇円の育英資金の貸与が決まり、岸はその第一回の受給生となり、よ うやく生活の安定をみた。明治三一年には、この松平家の貸費制度を継承・発展させる形で、出雲 こ中心的な役割をはたしている信 ) 。 育英会が発足するが、岸はこの会の創設。 身分としての学歴 士族と教育の問題に、いささか深入りしすぎたかも知れない。しかし、学歴を手に入れ、学歴に よって社会的に高い地位を手に入れた、いわば学歴社会の第一世代とでもいうべき人たちが、士族 出身者、しかも官立学校の出身者であったという事実は、わが国の学歴社会の成立の過程や、その 基本的な性格を考える上で、きわめて重要な意味をもっている。 廃藩置県や秩禄処分の行われたあとの士族は、いってみれば社会的な「失業者」であ「た。金禄 公債の利子だけで食「ていけるものの数は限られている。士族たちは、なんとか生計の道を見出さ なければならなかった。吉川秀造が旧広島・福山両藩の士族を対象とした調査結果を整理したとこ 、商業一一 % 公務・自由業一、 ろによると、この「失業者」たちの新しい就職先は農業二八 校工業一〇 % 、この他に雑業が一五 % 、無業者一二 % などとなっている。「士族の商法」というが、商 学 族業に「転業」したものは、さほど多いわけではない。農業がもっとも多く、公務・自由業がこれに 次いでいる。
ひろ 出来ぬ時には、必ず縄を三十尋づつなはされる。時には農事の手伝をもやらされる。小学校高等科 卒業の十四歳までに、農事一通りは仕込まれたものだ「た。小学校を終「たなら、専ら農事に従事 して、あ「ばれ一人前のお百姓になる覚悟だ「たのだ。殊に二三男と生れた者は、必ず他家 ~ 養子 に行かねばならぬ。養子に行けばどんなつらい辛抱をせねばならぬかしれぬ。それに椹 ~ るだけの 訓練が必要だといふのが、我が両親の教育方針だ「たのだ。殆ど日雇人と同様の待遇を受けて、扉 謂『次男の冷飯喰ひ』をつくづく経験したものだ「た」 ( 6 ) 。徹底して農民になるための教育をうけ たのである。 わざわざ そんなかれが「図らずも中学校に進む事にな「たのは、 一に先生が態々家庭を訪れられて、父兄 に対して熱心に勧誘して下さ「た為である。『こんな小さい子 ( 喜田は虚弱体質であ「た ) が百姓に な「たとて、どうで人並の仕事も出来まい。今の時勢は百姓の子でも、学問次第でどんな偉い人に もなれる。一人位は櫛淵 ( 喜田の生まれ育「た地 ) から、日本の人間として活動するものを出さうで ーないか』と言はれたのだ」。この「先生の熱意に動かされて、それならばともかく出して見様とい ふ事にな「たのが、自分の学界に一歩を踏み出す門出であ「た」 ( 7 ) 。 「中学校 ~ 入学したのは明治十七年 = = = すでに小学校高等科をも履修して居たので、選抜試験も 楽々と通過して、無事に入学はしたものの、学校中に知「た人は一人もなく、田舎から始めて都会 ~ 出たいぢけ者の悲哀を、つくづく味ははされたものだ「た」 ( 8 ) 。「田舎の農家の生れとして、時に は士族の子弟どもから『百姓 ! 』の語を以て罵られた。又城下の者からは何かにつけて『郷中者』 として賤しまれたものであった」 ( 9 ) 親からは一ヶ月三円という学資をもら「ての寄宿舎生活だ「たが、「土曜日には大抵四里の道を 郷里に帰「て、百姓の手伝ひをさせられる。中学校に入学して後にな「ても、どこまでも農家 ~ の
学生は書生風と商人風には「きり分かれていて、寮などでは「士族の子弟が大に勢を張り、平 民の子は flat と称して同室を許さ」なかった ( 7 ) というが、士族出身の「書生派は寧ろ少数で、商法 講習所を流れてゐる空気は商人風」であり、「この型の生徒は大家の若旦那風、或はお店もの然と唐 桟の着物に、縞の羽織を着流しに、前垂れがけのこしらへであった。甚しきは丁稚に弁当箱を持た せて通学した者もあった」 ( 8 ) 。のちに東京高等商業学校をへて一橋大学へと発展をする学校の、こ れが創設当時の姿である。 このあと、東京と大阪の商法講習所は、ことなる方向へと発展をとげていく。 つまり東京の方は、 次第に「月給取り」の養成学校になって いくのに対して、大阪の方は「自家営業」にたずさわる人々 の養成が中心になっていくのである。大阪商業学校時代の明治二六年に入学したある学生は、その 頃になると、この学校では「大阪の商売人の息子」が多くなり、かれらは無試験で優先入学を認め られていたと書いている。当時は「商権恢復」が重要なスローガンになっていて、外国人商社の手 をかりず、自分の手で外国と商売をしたいと考える商人が多くなり、そのため「息子を皆学校へ優 先的に入れようとしたのではないか」。「大阪の人は卒業すると自分の家に入り、自分の家の商売を やった」。こうしてようやく商人たちも、専門的な職業教育の必要にめざめたのだが、ただ入学した 学生の方は勉強にあまり熱心ではなかったらしく、入学時には圧倒的に多かった大阪人が、「さて卒 業となると少数になってゐる。途中で落第するものが多いのだ。二年に進級した時、元の二年の人 が大分前方に座ってゐるといふ有様」であった ( 9 ) 。 教鳥居竜蔵と牧野富太郎 商 商人たちが、あとつぎになる子どもたちに高い教育を与えることに不熱心だったのも無理はない。
それだけではない。高等学校、中学校はいうまでもなく、高等小学校ですら数が限られており、 自宅からは通学不能という場合が少なくなかった。和辻哲郎は兵庫県の姫路近郊の農村に生まれた が、明治三二年、郡に一校しかない高等小学校に、親戚の家に下宿して通学したことを回顧してい る ) 。教育費には授業料だけでなく、こうした生活費、さらには義務教育を終えるか、せいぜい高 等小学校二年を終えれば就労するのが普通という時代に、二〇歳をすぎるまで働かないで勉強をす ることから生ずる「マイナスの所得」もふくめなければならない。正規の学校段階をきちんと踏ん でくることを要求される官立学校は、授業料の額面でみるよりも、はるかに高価な教育機関だった のである。 私学のなかでも慶応義塾は、はっきりと富裕層の子弟のための学校であった。「生徒から毎月金 を取ると云ふことも慶応義塾が創めた新案」だと、福沢は自伝のなかに書いている。「従前日本の私 塾では : : : 生徒入学の時には束脩を納めて、教授する人を先生と仰ぎ奉り、入学の後も盆暮両度ぐ らゐに生徒銘々の分に応じて金子なり品物なり熨斗を附けて先生家に進上する習はしでありしが、 ・ : 教授も矢張り人間の仕事だ。人間が人間の仕事をして金を取るのに何の不都合がある、構ふこ とはないから公然価を極めて取るが宜いと云ふので、授業料と云ふ名を作」って、生徒から毎月、 ソレを始めて行うた時は 金をとることにした。「今では授業料なんぞは普通当然のやうにあるが、 実に天下の耳目を驚かし」貊 ) たという。明治二年のことである。教師が教師としてメシが喰え、学 校が学校として成り立つだけの金を、授業料としてとる。そのあたり前のことが、出来にくい時代 だ「たのである。「教育も銭なり」と割り切「て考えることのできない他の私学には、それは、なお 育さらむずかしいことであった。 たとえば明治一四年、東京大学法学部のひとつの前身である司法省法学校を卒業した岸本辰雄ら