アメリカ - みる会図書館


検索対象: 学歴の社会史 : 教育と日本の近代
13件見つかりました。

1. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

教養教育のかたち この時期ヨーロツ。 ( 社会で中産階級に属する人たちが共有していた「教養」といえば、それはな によりも、ギリシャ・ラテンの古典学である。リセやギムナジウムはそれを学ぶ場所であり、それ を共通に学んだものとして、かれらはひとつの社会階級としてのアイデンティティを保「ていた。 そのヨ 1 ロ ツ。 ( の古典学にあたるものは、わが国では何であるのか。この点で明治二五年に、立 教大学校 ( 現・立教大学 ) の校長ティングが、アメリカの伝道局に書き送。た報告書は、興味深い内 「日本のカレッジは若干の点においてアメリカのそ 容をふくんでいる。かれはこう書いている れと違わなければならない。漢学がラテン・ギリシャにと「て代わる必要がある。日本文学・語学 及び歴史の場合、英語民族におけるそれらの諸学と同様の価値をもつ、いな、より重要である。そ れは普通教育に欠くべからざるものであり、あらゆる教養は終始それに基くことが要求される」 ( 4 ) ティングの指摘するように、ギリシャ・ラテンの古典学に相当するものを、わが国の伝統的な学 問のなかに求めるとすれば、それは「漢学」ということになる。実際に、明治維新以前の社会の中・ 上層をしめた、武士や富裕な町人、農民が、共通にも「ていたのは、漢学の素養であ「た。ただ士 農工商の身分制度のもとで、それを共通の「教養」として意識し、自分たちが同じ階級に属してい るのだなどとは、少しも考えていなか「ただけである。その身分制度が廃止され、新しい「ミツ。 ルカラッス」の創造が問題にな「たとき、伝統的な共通の教養としての漢学を、新しい中等教育の 教なかにどう位置づけるかは、当然真剣に検討されて然るべき問題であ。た。 ところが、わが国の教育関係者たちは、この問題に、アメリカ人宣教師ほどにも考慮を払わなか 「た。中等教育のカリキラムは、完全に西洋近代の学問を基礎にしたものでなければならない。 101

2. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

任命され、さらに慶応二 ( 一 八六六 ) 年には幕府留学生に選ばれ、中村正直、菊池大麓らとともにイ ギリスに留学するのである。外山はロンドンでユニヾ シティ・カレッジに入学するが、明治維新 のため、この留学は正味一年余りで中断を余儀なくされた。 帰国後、旧主に従って静岡に帰った外山は、そこで静岡学問所の教授として二年余りをすごした ありのり あと、森有礼の推挙で外務官僚に任用され、書記官として森とともにアメリカに渡ることになった。 明治三 ( 一八七〇 ) 年である。しかしかれは官僚の身分に満足せず、あらためて大学に学びたいと考 え、明治五年に辞職してミシガン州で再び学生生活に入った。初めから大学に入るのは無理だと思 ったらしく、一年半ハイスク 1 ルで「普通学」を学んだあと、ミシガン大学に最初の日本人留学生 として入学した。しかしどのような理由からかはわからないが、外山は正規の学生にはならなかっ た。つまり学士号をとらない「選科生」になったのである。 選科生としてミシガン大学でかれが何を勉強したのかもよくわかっていない。当時のアメリカの 大学教育はいわゆるリべラル・アーツ中心で、専門性が低かったが、選科生であるから、なおさら ひとつの学問を体系的に勉強したとは思われない。主として学んだのは化学とされており、事実帰 国後、開成学校 ( のちの東京大学 ) で最初に教えたのも化学であった。 外山はのちにミシガン大学から「名誉修士号」をもらっているが、頭脳明敏であるとはいえ、系 統的に学問を学んだことはない。それがアメリカ帰りだというだけで、はじめ化学の教師になり、 やがて英語、英文学、論理学、心理学、西洋歴史などを教え、ついには社会学の講義を担当し、明 治二六 ( 一八九一一 l) 年、帝国大学に講座制が導入されるとともに、社会学講座の初代教授になってい る。明治という時代の面白さ、おおらかさを象徴するような経歴である。因みにソシオロジーは、 初め「世態学」の名で、フ = ノロサによって教えられていた。それを「社会学」としたのは外山だ

3. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

発足当初から、早稲田は「政治青年」のたまり場であった。「当時の〔東京〕専門学校は、明治〔法 たと 律学校〕や専修学校などより法律は劣って居たかも知らぬが、政治経済は盛んである。設令法律科 に籍を置くものでも、政治家を気取「てゐる。全校の生徒約二百人は、総て是れ年少気鋭の政治家 であった」 ( 四 ) その早稲田の創設者は大隈だが、直接学校の運営にあたったのは、東京大学文学部の卒業者たち である。帝国大学発足以前の東大文学部は、アメリカのリべラル・ア 1 ツ・カレッジの影響を強く ト大学出身で、のちに日 うけており、政治学や経済学もまたこの学部で教えられていた。ノー 本美術の紹介者として知られるようになるフ = ノロサが、政治学と理財学、さらには哲学や論理学 まで教えていたという時代である。その教え子たちの組みあげたカリキラムもまた「一科専門」 の枠にこだわらない幅の広いものであった。 ッションの設立によるものが リべラル・アーツといえば、キリスト教系の私学は、アメリカのミ いっそうその影響が強い。同志社の創設者である新島襄は、アマ 1 スト大学の卒業生 多いだけに、 アメリカの歴史の中心で培われてきた、人類の智 であり、かれの理想とした大学は「ヨ 1 ロ 恵ともいうべきリべラル・エデ = ケ 1 ション ( 自由教育 ) を中心としたリべラル・ア 1 ツ・カレッ ジであ「た」とされている。明治一九年に入学した深井英五の回顧でも、当時の「同志社には、 一般に高等の 普通学校と神学校」があり、「普通学校は神学校の予科として設けられたのではなく、 普通教育を授けることを目的」とし、実際にも「普通学校を卒業後神学校に入るものは少数」で、 ミッションによって設立された立 学「大概は直に何かに就職」して行ったという ( 邑。また聖公会系の 京教大学校 ( 現・立教大学 ) も、「其模型を全く米国のカレージ組織に取り、予備科二年、本科四年の高 等普通教科を教え」ていた。

4. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

「雲母」を始め幾多の俳誌・句集に眼円 現代俳句の面白さ飯田龍太 を通し、自在な心で選した六百句。定 魯迅に始まる現代中国文学の歴史を価円 中国文学この百年藤井省三 作家と作品を通して明らかにする。定 5 の文 史 ~ 滕野月銅と出会。てから八千年。素材に取価 り組む人々の姿を追い、歴史を辿る。定 障害児、健常児共にこの一冊で発育価円 精神科医の子育て論服部祥子 過程の問題解決が分かる読の書 ! 定 8 各界で最も活躍した人物で語られる価円 アメリカ文化のヒーローたち本間長世 アメリカ文化の成立過程と発達史。定団 漱石、幾多郎らが模索した " 近代 % 今価円 日本的なもの、ヨーロッパ的なもの大橋良介 求められるハイテク時代の思想は ? 定 円 今、絶望の淵にたつ日本の教育を救価 0 教育と自由西尾幹二 うには根本的な大学改革しかない , ー中教審報告から大学改革へー 円 聞の歴史 情報を独占しようとする権力側、公価 0 小糸忠吾 権力とのたたかい 開を迫るメディア側とのたたかい に割礼や四人妻の理由からコーランの価円 やわらかなアラブ学田中四 白い真髄まで、軽妙アラブ学一〇〇項。定 8

5. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

中等教育と中産階級 わが国の教育問題はこれまで私学の存在を無視して、官学中心に語られることが多かった。その ために見落とされてきた重要な問題は少なくない。「教養」の問題も、そのひとつである。そしてわ が国の学歴主義や学歴社会の、基本的な性格を知るひとつの重要な手がかりは、この問題にかくさ れているように思われる。 帝国大学を初めとするわが国の官立学校がもつばら専門教育の場としてつくられ、発展してきた ことは、すでにみた通りである。それは現在も変わらない。国立大学の学部編成をみれば、そのこ とがよくわかる。学部数でもまた在学者数でも、圧倒的に多いのは工学部を中心に、理工系の学部 と学生であり、教員養成をのぞけば、法文系のそれは意外なほど少ない。そうしたなかで例外的な 存在は、戦前期の高等学校、いわゆる「旧制高校」であ「た。この学校は、しばしば教養教育を目 的とする、アメリカ独自のリべラル・アーツ・カレッジになぞらえられ、人間形成に大きな役割を はたしたとして、いまでも高く評価されている。しかしそれは本当に戦前期の、とくに明治期の高 等学校のはたしていた役割であったのだろうか。 明治一九年、創設当初のこの学校は、高等中学校とよばれており、その名の通り、中等教育の一 ハンと教養

6. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

論理と哲学の世界吉田夏彦 文明が衰亡するとき高坂正堯 暦と占 の科学永田久 生命科学の現場から岡田節人 物語数学史小堀憲 ソ の科学長友大 昭一 病いと人間の文化史立 科学技術は人間をどう変えるか石井威望 サラブレッド野村晋一 日常会話から宇宙論まで様々な問題価円 を例に未来の哲学の世界を説く。 定 円 古代ローマから現代アメリカまで文価 0 明衰弱の跡を辿る壮大な史的文明論。定 暦と占いの生い立ちや仕組を科学的価円 に面白く解き明かす《数 ) の教養案内。定団 コピー生物誕生や遺伝子操作の成功価円 は私達の未来に何をもたらすのか。 定 円 古今東西の多彩なエピソードと明快価 0 な図版により、数学を易しく説く。 定 8 「幻世紀の食糧・ソバ」のあらゆる生価 0 態を探ったソバ学四十年の成果。 人間社会は病いから何を学んできた価円 のか。病気を通し文化の裏面を探る。定 0 科学技術の現状を歴史の中で捉え、価円 現代人の生き方と考えを示唆する。 定 「馬」五十年の " お馬の先生 ~ が語る、価円 定 走る芸術品サラブレッドのすべて。

7. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

し、経営が安定したという。 個性派の私学 このように上京遊学してくる若者たちは、すべてが「一科専門」の学問を学び、それを手段に、 官僚や専門的職業人になることをめざしたのではなか「た。同様に、私立専門学校についても、そ のすべてが予備校的な専門的知識の切り売りの場であ「たわけではない。私学のなかには、福沢の 慶応義塾、大隈の早稲田 ( 東京専門学校 ) 、新島の同志社、それにいくつかのミッシ = ン系の私学のよ うに、官学とも他の私学とも著しく異なる教育の理念や内容をも「た、個性の強い学校が、少数だ が存在していたからである。 これまでも度々ふれてきた福沢の慶応義塾は、幕末期の洋学塾のうち近代学校 ~ と成長をとげた、 ほとんど唯一の例である。それは欧米諸国の教育の実状をよく知る福沢が、慶応義塾の教育内容を、 たんなる英語の教授から、アメリカ的な高度の普通教育へと、いちはやく切りかえたことによる。 ( イスク 1 ルになら「たとされるその中等レベルの普通教育をかれはさらに経済学 ( 当時は理財学 とよばれていた ) を主体とする高等レベルの教育ーーーかれのいう「実学」へと発展させ、それによ「 て法律系の私学とは異なるタイプの若者たちをひきつけることに成功した。先にとりあげた武藤山 治や松永安左ヱ門のような、これら富裕な商工業者層の子弟を、法律系私学に集ま。た「法律青年」 に対して、「実業青年」とよぶことにすれば、理財学主体の教育は、まさに「実業青年」ーー将来の 実業人のための教育であったといってよい これに対して「大隈〔重信〕の政治学校」といわれた早稲田は、政治学 ( より正確には政治経済学 ) 中心の教育を特色とする学校であ「た。この学校には法律科もおかれていた。しかし明治一五年の いかに「遊」学生が多かったかがわかる。

8. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

円 にプラトンの哲学を根柢にすえながら価 0 哲学談議とその逸脱田中美知太 ・只現代の諸現象を批判する哲学談議。定 8 円 ドストエフスキーを本格的に愉しむ価 0 卓 謎とき『罪と罰』江 ために、種明かしする小説の舞台裏。定 マインドウォッチンク & ・アイゼンク心理学上最も重要で有名な二〇の実価 田村生ロ訳験から探る人間の心と意外な行動幻定 日ーー / ィー イギリスは日本人に何を教えるか ? 価円 アングロサクソンと日本人渡部昇一 日本人の鏡としての英国文化小史。定 0 円 「モモ」「銀河鉄道の夜」等の物語から価 0 ファンタジーの発想 ′ 4 ー " 現代を生きる ~ ヒントを読み解く。 定 8 心で読む 5 つの物語 ・カヴ・ア工「音楽する」ことの初心と歓びを語り 価 0 日本人の音楽教育 西・Ⅲ士風音楽大国日本の音楽教育を考える , 哲学がわかる快感ーー七人の哲学者価円 哲学からのメッセージ木原武一 の書を分かり易く読み解く入門書。定 8 円 アメリカのシー ハワーとペリー来価 0 ペリーは、なぜ日本に来たか曽村保言 ィー航の真意を世界地図の中でさぐる。定 8 維新前夜に来日、和英辞書編纂と聖価円 へポンの生涯と日本語望月洋子 書和訳に努めた宣教医の多難の道。定 5

9. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

慶応義塾の教育はまだ学歴のための教育ではなく、教育をうける側も、学歴取得を目的にしては いなかったのである。 「電力の鬼」といわれた松永安左ヱ門は、壱岐の豪商の家に生まれ、将来の「大実業家」をめざし て明治一三年、一五歳の時に慶応義塾に入学した。「慶応を中途で止め亜米利加の学校 ~ 遣「て貰 ふ考 ~ 」 ( で、英語学校にも通うなど、その準備を進めていたのだが、一八歳の折、父の死にあい 「アメリカ留学どころか、学校の方もやめなければならぬことにな「て、学校をやめて父の後を嗣い だ」 ( 為 ) 。しかし、どうしても再度「東都遊学」をしたいと考え、早稲田に行「ていた「弟に学校を 一時やめて貰ひ、留守を頼ん」で、明治二八年、二一歳の時に慶応義塾に復学した。 「世の中を知らなか 0 た頃は、学校ほど良いところは無い、とおも「たもの」だが、一家の主人と して家業をあずかる身にな「てからの復学だから、「一向学科の勉強にも気が入らず、毎日ブラブラ 新聞なんか見たりしてゐた」元 ) 。松永がはじめ在学していたのは「正科」ではなく「別科」である。 「別科は〔授業が〕二時間くらゐであ「たから、まことに楽で、ただ土曜日に作文を書いて、それで 点数を貰ふので、そのくらゐのことが骨だ「たのだが、嫌ひな数学は別科には無か「たので、えら い楽だ「た」 ) 。その後正科に移り、大学部にまで進学するのだが、「併し目出度く卒業したのでは ない。感ずるところあ「て、あと一年余を残して中途退学してしま「た」。「学校の卒業といふこと も、さう大した事のやうに思 ~ ぬし、今後一ヶ年学校に居たからとて、格別利益があるとも考 ~ ら れない。それよりも寧ろ世の中に早く出た方が将来の為めになると思 0 て」、福沢のもとに相談に 育行くと、言下に「学校の卒業などといふことは詰らないことだ」と言われたという ) 。 人 商

10. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

学歴稼ぎの教育 こうしてわが国には、ギリシャ・ラテンの古典学中心の、ヨーロツ。 ( 的なオ 1 ソドックスな教養 教育はいうまでもなく、アメリカ的なリべラル・アーツ型の新しい教養教育も成立しなか「た。ア メリカ的なリべラル・ア 1 ツの教育をわが国に根づかせようと試みた、キリスト教系私学の試みは、 同志社や立教大学校のそれをふくめて、いずれも失敗に終「ている。それでは、伝統的な教養とし ての漢学を、新しい教育のなかに生かそうという試みがあ「たかといえば、それもなか「た。 あえて機能的に、欧米諸国の教養教育にあたるものをさがすとすれば、それは法律学、それに政 治学や経済学とい「た「社会科学」系の専門教育がも「ていた「両面性」ということになるだろう。 しかし、経済学中心の慶応義塾や政治学主体の早稲田は別として、も「とも多数の学生を集めてい た法律学の私学が、そこでの専門教育の「教養」教育的側面をどこまで自覚し、重視していたかと なれば、きわめて疑わしい。そして、この点で例外的な慶応義塾や早稲田も、更にいえばキリスト 教系私学も、次第に、法律系私学と同様に、教養教育的側面から専門教育の側面 ~ と、教育の重占 を移していくことになるのである。 このように、欧米的な「教養」重視の学校が、中・高等教育に支配的な位置をしめるに至らなか 0 たことは、一面ではわが国の教育と社会にと「て、幸せなことであ「たといえるかも知れない。 有閑階級を主体とする強力な中産階級があり、それが閉ざされた独自の教養と文化をもち、それを 教前提に学校がつくられていたとしたら、教育をうける機会は、その階級の人たちに限られ、独占さ れてしま「たに違いない。教養や人間形成よりも、専門教育を重視する官学や私学は、教育の機会 を、さほどゆたかではないが、才能があり、野心にもえる若者たちに、おし広げ開放する役割をは