三年 - みる会図書館


検索対象: 学歴の社会史 : 教育と日本の近代
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1. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

りばっかりしてて試験に行かなかったです。ほいで免状もらわなかった。もう三年になったから学 校止める言うたら、校長先生が来てくれはりまして『そんなこと言わんと、三年にするから来なさ : 』ちゅうて。お父さんも、『まあ四年まで行って仮名字でも覚えといたら、遠くに行っても何 でも知らせられるから』ちゅうて言いましたワ」 ( 3 ) 「なにしろ、その時分、高等小学校は月謝二十銭くらいとられましたね。尋常小学校でも月三銭い るんですよ。日割りにすると一厘です。 : そやから、おなごはあまり学校へ来ていまへなんだ。 おなごによ日 ) 、 ( 学しらんという時代ですからね、ええ。高槻の高等小学校へ行ったのは、わたしの小 学校から六、七人です。二十銭でもですねえ、その時分には、子どもを学校へやるのにつらい家が ぎようさんありますのや。もう小学校 ( 尋常 ) へも行かんと、大きな百姓とか何とかの家へ年季 ( 奉 公 ) に行くのがおりましたで」 ( 4 ) 前者は、明治二六年生まれの老女。生家は半農半ェで、綿つくりと糸よりの仕事をしていた。後 者は明治二二年生まれの老人。父親は理髪職人だった。どちらも、それほど貧しいわけではない。 学校に行かせる気も、行く気もあまりなかったのである。明治二五年生まれの農家出身の老人によ ると、男の子は「尋常小学校の時代は、小さいよって百姓に使うたかてあまり間に合いまへん。と ころが、高等小学校になると体大きうなってまっしやろ。苗担うたり、たんご ( 肥たご ) かついたり できますよって、親も使う気になりまんね。 : 一年で五か月は百姓仕事のために学校休まされま してん。そやよって、高等小学校四年行ったけれどもだんな、半分ほどよか行かれなんだ : ・ : ・」 ( 5 ) 。 界 世女の子の方は、小さくても子守り役がっとまるということもあるが、「学校あがった時、上の学校 うて父親にせがんだんですけれども、『男が学校へ行かへんのに、女のなりして学校へ ~ 行きたいい そない行くことあるかいな』言うて行かしてくれまへんでしてん。弟が学校嫌いで、学校へ行った 137

2. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

育を受けた男子である。そのうちの二三 % は、 学校に行「たことがなく、かれらの四分の三は自分 の名前すら書けなか「た。二年以下しか教育をうけなか「たものが二六 % 、 うち名前の書けないも のが二割、名前しか書けないものは三分の一をこえている。完全な読み書き能力をもつものが九割 をこえていたのは、全体のわずか九 % 足らずの七年以上の教育をうけた人たちだけだ「た。 学歴無用の世界 この「壮丁教育程度調査」は、文部省統計だけからではわからない、当時の庶民の学歴や学力の 実態を教えてくれる。政府は、就学率を高めるために、さまざまな努力をはら「たが、庶民、とく に多数をしめる農民は、なかなか子どもを学校にやろうとしなか「た。や「ても、子どもが学校を 休むことに平気だ「た。明治三一年に二〇歳にな「た男子の学歴と学力は、そのことを端的にあら わしている。初等義務教育の就学率は、数字の上では明治一六年に五〇 % をこえた。しかし就学し ていた子どもたちの出席率は、六五 % 程度でしかなか「た。つまり、実質的な就学率は三〇 % 程度 でしかなか「たのである。出席率を考慮に入れた実質就学率が五〇 % をこえるのは、明治の三〇年 代に入る頃からである。学歴を重視する社会層が形成されていくなかで、学歴にはま「たく無関係、 無関心な社会層が広く存在していたのである。 だれが学歴に無関心であ「たのか。藤本浩之輔が、明治二〇年代から三〇年代生まれの老人や老 女を対象に聞き書きした『明治の子ども遊びと暮らし』は、それをは「きりと教えてくれる。 「わたしはも、つしよっちゅ、つ、 学校休んで子守りしてました。 : わたしらのお友だちで、まあ十 人のうち三人か四人よか学校に行「てません。その時分、貧乏人はあまり学校 ~ 行「てませんでし た。学校 ~ 行「ているのは金持ちの人ば「かりですネン。 : わたしも二年から三年になる時、守 136

3. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

。たら最高の学歴である「学士」号を手に入れて、卒業することができるのか。明治三〇年代は、 そのことが問題にされはじめた時代でもあ「た。 「現行制度に於きましては、小学が六年中学が五年、大学の予科が三年大学が三年か四年である。 学校に在ること十七年か十八年である。此間落第もせず疾病事故のため欠席もせずして無事に参り ますれば、二十四五歳にして卒業する筈でありますけれども、小学を卒 ~ て中学 ~ 入るときに既に 競争試験で一二年も費 ~ 、又中学より高等学校 ~ 這入るときに競争試験で一両年間を費さなければ ならぬ。さう致しますると無事に二十四五歳で卒業する者は誠に有数なものであ「て、多くは二十 七八歳若くは三十歳以上にな「て始めて大学を出ると云ふやうなことであります。元来此早熟早衰 の日本人にして三十歳前後まで蛍雪の為に歳月を費す其得失は如何、一の是は疑問であります。四 十を初老と云ふ其日本人にして三十歳前後で学校に在りと致しますれば、其社会に出て実際に働く 所の年数は果して幾でありますか。学生の精力は即ち学校生活の中に消磨される恐れがあるので ございます」 ( 9 ) 明治三五年、衆議院に「大学校及中学校改正建議」を提出した議員の原田赴城は、趣旨説明にあ た「て、そうのべた。教育に要する年数が、あまりに長すぎる。なんとか学校教育の年限を短縮し、 また無駄な受験競争を排除しなければならない。そうした考え方が、関係者の間に急速に強くなり はじめたのである。文部省も、無関心ではいられなくな「たのだろう。明治三三年からあと、毎年、 帝国大学入学者の年齢を調査して『文部省年報』に公表しはじめる。それによれば、東京帝国大学 入学者の平均年齢は、医学部の二五年二月を筆頭に、文学部二四年八月、農学部二四年一月、法学 官部二四年、工学部一三年一一月、理学部二一年六月であ「た。これにさらに最低でも三年ないし という原田 四年の専門教育が続くのである。三〇歳近くにならなければ「学士」号がえられない、 193

4. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

摘するように、「『身分的』なものを獲得するための最有力の手段としての学歴」は、こうして、そ れ自体がきわめて「身分的なもの」として、登場してきたのである ( 四 ) 。 、圧 ①『日本帝国文部省第六年報』 ( 明治一一年 ) 三三一 大町桂月・猪狩史山『杉浦重剛先生』 ( 政教社、大正一三年 ) 九六 ~ 七頁。 3 三宅雪嶺『大学今昔譚』 ( 我観社、昭和二一年 ) 一一三頁。 ④若槻礼次郎『古風庵回顧録』 ( 読売新聞社、昭和一一六年 ) 一一四 ~ 五頁。 / 同同、六頁。 ⑥『日本近代教育百年史 3 ・学校教育田』 ( 国立教育研究所、昭和四九年 ) 一二四三頁。 ⑦安田三郎『社会移動の研究』 ( 東京大学出版会、昭和四六年 ) 二九八 ~ 三〇二頁。 ⑧『教育時論』第八号 ( 明治一八年 ) 一八頁。 ⑨前掲『古風庵回顧録』八頁。 『大日本教育会雑誌』第号 ( 明治一三年二月 ) 一四二 ~ 五頁。 圓喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』 ( 私家版、昭和八年 ) 六四 ~ 五頁。 町田則文『明治国民教育史』 ( 昭和出版社、昭和三年 ) 二〇七頁。 前掲『還暦記念六十年之回顧』六五頁。 『岸清一伝』 ( 岸同門会、昭和一四年 ) 三二 ~ 四頁。 / 鬮同、二四九 ~ 二五〇頁。 冊吉川秀造『明治維新社会経済史研究』 ( 日本評論社、昭和一八年 ) 二三八 ~ 二五八頁。 聞『日本帝国統計年鑑』第四回、および第六回。 冊前掲『還暦記念六十年之回顧』五一 ~ 二頁。 園田英弘「学歴主義の歴史的起源」 ( 麻生誠・潮木守一編『学歴効用論』有斐閣、昭和五二年、所収 ) 六二 ~ 四頁。

5. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

難であった。なぜなら、高等小学校第二学年までに形成・獲得される学力と、中学校の側が入学者 に要求する学力との間には、ゝ 力なりの開きがあったからである。 哲学者の安倍能成は、明治一六年、松山の医師の家に生まれ、明治二九年に高等小学校二年修了 で中学校に入学しているが、当時の様子を次のように記している。「明治二八年の私の高等小学校 二年のあたりから、中学の入学試験を受けられるやうになったらしく、私も明治二九年三月に入学 試験を受け、多分二番で中学一年に入学した : : : 高等四年を卒業したり、卒業後年を経たりして、 入学した者が多かったから、私は入学者中では年少の方で、ちゃうど十二歳と三ヶ月であった。私 の小学校の同級生で一緒に中学にはいったのは : : : 三人と記憶してゐる」 同様の話は、東京の下町育ちの仲田定之助 ( 明治二一年生まれ ) の自伝にもある。「そのころ中学 に進学するのは、高等小学校二年を修業すれば一応資格を得るのであるが、大抵は高等四年を卒業 してから進学するのだった。特にわたしのいた下町の小学校では、商家の子弟が多かったから、そ の三割くらいが中学や商業学校に進み、残りの七割くらいは家に止まって商売を見習うものや、大 商店に住込みの小僧となるものが圧倒的だった。上級学校に進むにしても、府立中学は入学試験も むずかしく、その入学率は少なかった」 ( Ⅱ ) 出身階層の違い その入学の困難な中学校に安倍能成も、また和辻哲郎も、苦労なく入学している。自伝のどこに も、中学進学をめぐって親との意見の喰い違いがあったとか、反対にあったという話は書かれてい ない。かれらは学力も高かったのだろうが、経済的にも、また教育的にも、子どもを上級学校に送 ることを当然視する階層の出身者であったのである。和辻は「わたくしたちの仲間のうちでは、わ 156

6. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

ら = 一年 ) 修了が義務年限であり、その上に四年制の高等小学校がおかれていた。その高等小学校は、 この時期まだ、性格のたい ~ んあいまいな学校であ「た。というのは、高等小学校は、初等教育の 一部として完成・普通教育を与える場であると同時に、中学校進学者のための準備教育の場として の性格をも、持っていたからである。 高等小学校のなかには、尋常小学校に併設されたものと単独のものとがあ「たが、生徒数の少な もくつかの町村が共同して設置するものや郡立のものが多く、した い地方の、とくに農村部では、、 が「てその数は限られていた。明治二八年当時、高等小学校は、尋常小学校を一〇〇として、併設 校で九、単独校が五、明治三三年にな「ても、それぞれ一七、六にすぎなか「た。尋常小学校にも 満足に行けない、あるいは行きたがらない時代に、高等小学校に行くのは、一般の庶民にと「ては、 大変なことだったのである。 たとえば、講談社の創設者である野間清治は没落士族の息子で、明治一一年生まれ。群馬県の桐 生近郊の農村で育「たが、「当時一般の家庭は今ほど教育に熱心でなか「たので、尋常科だけで廃め る者が多く、高等科 ~ 進む者は、十人の中一人といふくらゐで、それも、或は一年で廃め、或は二 年で廃め、或は三年で廃めて、満足に四年を終 ~ る者は至「て少なか「た : : : 当時高等小学校の生 徒とい ~ ば、まるで今の ( 戦前期の ) 大学生位の気持であ「たでせう。私の村からの同級生は、高等 三年の時は、二人か三人しかゐなか「たので、非常に偉い教育を受けてをるものと、自分でも思ひ、 世間からもさう見られてを「た」 ( 1 ) とのべている。明治二七年、新潟県柏崎市近郊の、これも農村 に生まれた猪俣浩 = 一 ( のちに社会党代議士 ) は、明治三七年に高等小学校に入学しているが、「村では 進学するものが少なか「た。あの当時は、高等、高等と呼んでね、現在の新制高校ぐらいの値打ち があ「たものだ。ほうー、お宅の浩三さんは、高等に通「ていら「しやるのですか、とい「た調子

7. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

、圧 ~ 二三頁。 ①野間清治『私の半生』 ( 千倉書房、昭和一一年 ) 一二 図山下恒夫編『聞書き猪俣浩三自伝』 ( 思想の科学社、昭和五七年 ) 二七頁。 / 3 同、二八頁。 ④和辻哲郎『自叙伝の試み』 ( 中央公論社、昭和三六年 ) 二四五 ~ 六頁。 / 同、二四四頁。 ⑥山川均『ある凡人の記録』 ( 朝日新聞社、昭和二六年 ) 一五四 ~ 一六一頁。 / ⑦同、一八〇 ~ 一八一頁。 ⑧西村直次『「ト聞書三浦家の系譜』 ( 三浦権四郎家版、昭和五二年 ) 七五 ~ 六頁。 ⑨『壮丁教育調査概況 1 』 ( 『近代日本教育資料叢書史料篇四』宣文堂書店、昭和四七年復刻 ) ⑩安倍能成『我が生ひ立ち』 ( 岩波書店、昭和四一年 ) 一八七頁。 圓仲田定之助『下町「子』 ( 新文明社、昭和三九年 ) 一二九頁。 1 前掲『自叙伝の試み』二四四頁。 苦瓜恵三郎『私の教育遍歴』 ( 理想社、昭和三三年 ) 一〇 ~ 一三頁。同、一三頁。 前掲『聞書き、猪俣浩三自伝』三四頁。 158

8. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

19 学問・学校・職業 、圧 ①『日用百科全書第九編勤学と処世』 ( 博文館、明治二九年 ) 。 / 図同、一三 ~ 三頁。 3 『日用百科全書第三七編就学案内』 ( 博文館、明治三三年 ) 五頁。 ④『日用百科全書第三七編改訂就学案内』 ( 博文館、明治三七年 ) 一 ~ 二頁。 / ⑤同、一四 ~ 五頁。 ⑥錦谷秋堂『大学と人物各大学卒業生月旦』 ( 国光印刷株式会社出版部、大正三年 ) 一頁。 『教育ノ効果ニ関スル取調』 ( 文部省、明治三七年 ) 一六 ⑧『法学新報』明治二五年七月号。 前掲『教育ノ効果ニ関スル取調』五一頁。 奥平昌洪『日本弁護士史』 ( 復刻版、巌南堂、昭和四六年 ) 二九三頁。 は『岸清三伝』 ( 岸同門会、昭和一四年 ) 六一頁。 日本科学史学会編『日本科学技術史大系医学 1 』 ( 第一法規、昭和四〇年 ) 三四四頁。 0 前掲『教育ノ効果ニ関スル取調』五五頁。 243

9. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

13 中等教育 、圧 菊池城司「近代日本における中等教育機会」 ( 『教育社会学研究』第集、東洋館出版社、昭和四二年 ) 一三四 ~ 五頁。 『安積に学びし人々』 ( 同編纂所、昭和一六年 ) ③佐野善作『日本商業教育五十年史』 ( 東京商科大学、大正一四年 ) 一一頁・一六 ~ 七頁。 ④全国農業学校長協会編『日本農業教育史』 ( 農業図書刊行会、昭和一六年 ) 六五頁。 / ⑤同、七三〇頁。 / ⑥同、七 ⑦高山昭夫『日本農業教育史』 ( 農山漁村文化協会、昭和五六年 ) 一〇八頁。 / ⑧同、一〇八頁。 『八工七十五年史』 ( 東京都立八王子工業高校、昭和三七年 ) 二一 ~ 二頁。 旧『明治以降教育制度発達史』第三巻 ( 竜吟社、昭和一四年 ) 一一〇七頁。 圓国民教育奨励会編『教育五十年史』 ( 民友社、大正一一年 ) 『日本近代教育百年史・ 9 産業教育 ( 一 ) 』 ( 国立教育研究所、昭和四八年 ) 前掲・全国農業学校長協会編『日本農業教育史』四〇〇 ~ 四〇一頁。 / 同、四〇一頁。 鬩前掲・高山昭夫『日本農業教育史』一〇八頁。 / 同、一一〇頁。 171

10. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

り低き実業学校、其他各種学校」についても、校名をあげてそれらが「私立学校中殊に盛大なもの」 であると書いている ( 6 ) 。つまり、ここには、帝国大学ー官立専門学校ー早慶ー五大私学ーその他専 門学校ー実業学校・各種学校という序列の存在が、明確に意識され、記述されているのである。 札幌農学校と学士号 私立学校の社会的な評価は、以上のようなものであ「たが、それでは帝国大学以外の官立諸学校 についてはどうだろうか。 すでにみたように、高等学校を専門学校化しようとする構想が早々と挫折し、明治三〇年、京都 に第二の帝国大学が設置されると、第三高等学校の法学部と工学部は廃止になり、また第一から第 五まで、五校の高等学校に附設されていた医学部も、明治三四年に医学専門学校として独立した。 残るは熊本の第五高等学校附設の工学部だけになったが、これも明治三九年に分離されて高等工業 学校となった。これで高等学校は純然たる「大学予科」に変わったことになる。 帝国大学以外の官立の専門教育機関は、この他にもあ「た。まず、特殊な専門教育機関として、 東京に美術、音楽、外国語の三校があり、専門学校令が公布されるとこの三校に医学の五校をあわ せた八校が、専門学校とな「た。しかし官立学校として、これらの学校以上に社会的な重要性をも 「ていたのは、専門学校令と実業学校令 ( 明治三二年 ) の二つの法律に準拠する、官立の実業専門学 校群である。その数は専門学校令施行時の明治三六年で農業二校、工業三校、商業二校にのばり、 その後も着実に校数を増していった。 中学校卒業者を入学させ、三 ~ 四年間の専門教育を与えるこれら官立の専門学校、実業専門学校 が、帝国大学よりもいちだん低く格づけられていたことは、、 しうまでもない。しかし実業専門学校 224